9月9日水曜日、今日はエッセイストクラブの定例会。黒磯駅前のまちなか交流センター「くるる」の和室で月一で開催されるという。
「くるる」は、昨年7月20日にオープンした黒磯地区の再開発事業で作られたコミュニティセンターになる。モダンな設計で、従来の駅前の空間とは相いれない間尺の施設に見えて私には違和感を覚える。駐車場も車間幅が広く、キャンピングカーサイズ。平屋建てで天井は高く、道路からはスケルトンというのだろうガラス張りの壁を通して館内全てが見通せる。超が付くほどにモダンなのだが、だだっ広い空間があるばかりで私には美しさを感じない。私の年代の者、いや私の感性にはフィットしない。今年の夏になりオープンした黒磯図書館「みるる」と同じ空間を有したデザインで、きっと同じ建築家のデザインになるのだろう。「みるる」は、9月1日のオープンを期して2回ほど訪ね、芥川龍之介の図書を探したが、何処にあるかトンと分からず、だだっ広いだけで機能性に疑問を感じた。改めて「くるる」を見て同じ建築デザインであることに気づいた。旧馬頭町に広重美術館がある。幾度も訪ねているが、美しい建造物で無駄がなく機能性も素晴らしく、初めて訪ねた際に「こんな田舎町にどうしてこれほどの物が、」と感じたことを思い出した。聞くところによると有名な建築家の隈研吾氏によるという。私の印象を擁護しこの施設を批評すれば、地域コミュニティのコンセプトは当然にあるのだろうが、デザインがマッチしていない。斬新なだけで美しくない。日本には伝統的な建造物の美の歴史がある。大和時代から奈良、平安に連なる寺社仏閣であり、江戸時代にも日光東照宮等の数えきれない建造物がある。それらの間尺が白銀比になる。よく箱物行政と言われるが、これが未熟な地方行政のなすことなのだろう。
「くるる」は、昨年7月20日にオープンした黒磯地区の再開発事業で作られたコミュニティセンターになる。モダンな設計で、従来の駅前の空間とは相いれない間尺の施設に見えて私には違和感を覚える。駐車場も車間幅が広く、キャンピングカーサイズ。平屋建てで天井は高く、道路からはスケルトンというのだろうガラス張りの壁を通して館内全てが見通せる。超が付くほどにモダンなのだが、だだっ広い空間があるばかりで私には美しさを感じない。私の年代の者、いや私の感性にはフィットしない。今年の夏になりオープンした黒磯図書館「みるる」と同じ空間を有したデザインで、きっと同じ建築家のデザインになるのだろう。「みるる」は、9月1日のオープンを期して2回ほど訪ね、芥川龍之介の図書を探したが、何処にあるかトンと分からず、だだっ広いだけで機能性に疑問を感じた。改めて「くるる」を見て同じ建築デザインであることに気づいた。旧馬頭町に広重美術館がある。幾度も訪ねているが、美しい建造物で無駄がなく機能性も素晴らしく、初めて訪ねた際に「こんな田舎町にどうしてこれほどの物が、」と感じたことを思い出した。聞くところによると有名な建築家の隈研吾氏によるという。私の印象を擁護しこの施設を批評すれば、地域コミュニティのコンセプトは当然にあるのだろうが、デザインがマッチしていない。斬新なだけで美しくない。日本には伝統的な建造物の美の歴史がある。大和時代から奈良、平安に連なる寺社仏閣であり、江戸時代にも日光東照宮等の数えきれない建造物がある。それらの間尺が白銀比になる。よく箱物行政と言われるが、これが未熟な地方行政のなすことなのだろう。
私は、世話役の加地慶子女史から、エッセイストクラブ定例会への参加を誘われていた。先月の8月にも予定していたのだが、予定の数日前に連絡が入り、コロナ禍から会場が使えずに流れた。今回も間際まで開催を心配していたが、中止の連絡はなかった。心弾ませてくるるに訪れた。時間には30分近く早かったが、駐車場には5、6台の車が止まっており、硝子壁を通して幾人かの女性が見えた。
エッセイストクラブは、発足してから15年程が経過するという。当初は、町村合併以前の西那須野町で「自分史」の講座があり、3、40人が受講していたという。講師として、町内に住む小説家の加地慶子女史が招聘され、3回程指導をしたという。その後、その講座自体は1年程で終了したが、受講者の中から、自主的に継続したい希望があり、エッセイストクラブとして発足したという。発足当時は、2、30人だったが、その後、徐々に活動が衰退してゆき、現在は3、4人になっているという。
私が、加地慶子女史と出会ったのは、彼女の発明した商品を私の通販で取扱うことからだったが、製造者のプロフィール紹介で、彼女の文筆経歴を伺い彼女に興味を覚えた。彼女は、ポーラの社員として仕事をする傍ら朝日カルチャーセンターの「小説家講座」に第1回から参加した。講師は駒田信二。彼の下で多くの文人が育ち芥川賞作家や各種入賞作家を生みTVで見かける著名人も何人かいた。彼女も幾つもの受賞歴をもつ生粋の小説家だ。その後に西那須野町の別荘地区に住居を構え横浜と那須の二重生活を送っていた。もう20年近くなるという。
彼女の19年間師事した駒田信二を書いた加地慶子著「駒田信二の遺した言葉-書き続けて死ねばいいんです」と駒田信二が文章心得十章を書いた「私の小説教室」を頂戴した。駒田信二の物書きの姿勢と小説のイロハのテクニックが載っていた。初歩的な内容なのだが、文筆の世界を知らない私には、目から鱗で積年の霧が晴れるような、面白く興味深い内容だった。一番の感想は「小説が左脳で書けるならば、私にも書けそうだ。」というものだった。しかし、同時に右脳的センスは事象を感じる感性になる。事象を写し撮るカメラ、そして、それを言葉に転写する能力なのかと思う。私の右脳的センスは、未知数といえる。私の物書きとしての可能性はその感性次第なのかと思う。
伝統工芸品の通販を起業して、早10年になるが、その間に多くのブログを書いてきた。通販を始める前はごく普通のサラリーマンだった。それはホテル勤務だったが、国内では有名なホテル会社で、そのひとつ伊良湖ビューホテルが1968年のオープン当初、旅行業者の選ぶホテルとして、3年ほど続けて日本一の座を得ていた。遠州灘と鳥羽を臨む伊良湖岬の先端に立ち、客室稼働率が100%を超えるなんて、ホテル旅館経営を知る人には信じられないだろう。私の勤務した那須ビューホテルのスタッフたちも当時を懐かしんではその忙しさを誇らしげに語っていた。客室は満室で、昼の日帰りのタヒチアンショーのレストランが、300人席のテーブルを30分ほどで2回転していたという。アパッチと言いフェリーが伊良湖埠頭に付くのを見て、館内連絡で準備をしていたという。お客様はフェリーの発着時間に合わせて戻って行く。自他ともに日本のホテル旅館を代表するトップランナーだったと思う。オーナーは今でいうカリスマの人だった。箭内源典と言い上背があり体格よく顔は写楽の浮世絵のような厳つい風貌で自分達には雲の上の人だった。鬼の源典と言われていた。当然仏の云々と言われる幹部もいたが、それは廣田専務が担っていた。我々社員は、常に畏敬の念をもって薫陶を受けた。時折ある彼の社員教育の講和では、怖れと話を聞ける喜びの気持ちで臨んだのを思い出す。
私は、仕事人間で家庭を顧みずに務めた。私の得意な分野は企画で随分と企画書を書き販促のチラシを作っていた。30年になる。それも物書きの素養になるのだろう。
今や誰しもが知るブログやTwitterやfacebookのSNSは、通販には欠かせない販促メディアになる。その文章力を磨くのが予てからの課題だった。書きながらも仕入れた販促の知識を使い推敲しながら書いた。ホームページの内容は写真と文章とからになる。資料からのコピーも商品紹介では随分と使うが、そのままでは使えない。助詞や主語、いくつかの内容を加工しなければならない。ブログは、全部で9種類ほどになるが、合計するとこの10年で凡そ1,500編以上にはなるだろう。この間は文章力の学習を兼ねていたことになる。そんな時に加地慶子女史と出会った。ひいらぎ日記加藤次郎は、手記になる。面白い世界が自分の目の前に広がった。
加地慶子女史は、私が車で乗り付けたときには、既に「くるる」に来ていた。いつものお洒落な服装で遠目にも彼女と分かる。ノースリーブでカラフルな織の薄い透けた上布を着ている。年齢はキャリアから想像するが、外見には若く見える。人脈作りが得意で、いろいろな方との繋がりがある。それが彼女の性格でありパワフルさでもある。職業を持ちながら小説を書き、その後小説に専念されたことを聞く。私との関係もその一つになるのだが、通販も落ち着いて、ここ数年の私は、は断捨離を心がけているので、むやみにはネットワークを増やさないようにしている。館内に併設されている喫茶コーナーのカフェ・サークルに黒磯のジャズスナックの女性が、白髪の恰幅のいい連れ合いらしき男性とスナック菓子の納品で来られていた。彼女はパーマにした髪をライトブラウンに染め少し太縁のサングラスを髪にかけている。ふくよかでスタイルもよく、身に着けている白のパンツと白系のブラウスのファッションも似合いそれが雰囲気をつくっていた。私と同世代に思える。宇都宮の菓子をOEMで卸すという。ジャズスナックと聞きその女性にご挨拶した。ジャズには興味がある。学生時代には新宿の有名なジャズ喫茶のDigやDugに通っていた。那須ビューホテル勤務時代には有名なジャズオーケストラの「髙橋達也と東京ユニオン」のコンサートを企画担当していた。8年間続けたが惜しまれながら止めた。ジャズスナックが何処にあるのかを訪ねたが、黒磯公園の近くという。その女性はヴォーカルだが、ピアノの弾き語りをするという。挨拶で私の通販の名刺を見ても、何を売っているかを聞いただけで、伝統工芸品には関心はないようだった。公園に続く裏通りにあるその店には随分昔に一度、訪ねたことを思い出した。加地女史以外にも幾人かの女性陣が、並べられたスナック菓子に群がり、袋の中を見ながら購入していた。食べることと語ることの女性パワーには敵わない。
エッセイストクラブは、発足してから15年程が経過するという。当初は、町村合併以前の西那須野町で「自分史」の講座があり、3、40人が受講していたという。講師として、町内に住む小説家の加地慶子女史が招聘され、3回程指導をしたという。その後、その講座自体は1年程で終了したが、受講者の中から、自主的に継続したい希望があり、エッセイストクラブとして発足したという。発足当時は、2、30人だったが、その後、徐々に活動が衰退してゆき、現在は3、4人になっているという。
私が、加地慶子女史と出会ったのは、彼女の発明した商品を私の通販で取扱うことからだったが、製造者のプロフィール紹介で、彼女の文筆経歴を伺い彼女に興味を覚えた。彼女は、ポーラの社員として仕事をする傍ら朝日カルチャーセンターの「小説家講座」に第1回から参加した。講師は駒田信二。彼の下で多くの文人が育ち芥川賞作家や各種入賞作家を生みTVで見かける著名人も何人かいた。彼女も幾つもの受賞歴をもつ生粋の小説家だ。その後に西那須野町の別荘地区に住居を構え横浜と那須の二重生活を送っていた。もう20年近くなるという。
彼女の19年間師事した駒田信二を書いた加地慶子著「駒田信二の遺した言葉-書き続けて死ねばいいんです」と駒田信二が文章心得十章を書いた「私の小説教室」を頂戴した。駒田信二の物書きの姿勢と小説のイロハのテクニックが載っていた。初歩的な内容なのだが、文筆の世界を知らない私には、目から鱗で積年の霧が晴れるような、面白く興味深い内容だった。一番の感想は「小説が左脳で書けるならば、私にも書けそうだ。」というものだった。しかし、同時に右脳的センスは事象を感じる感性になる。事象を写し撮るカメラ、そして、それを言葉に転写する能力なのかと思う。私の右脳的センスは、未知数といえる。私の物書きとしての可能性はその感性次第なのかと思う。
伝統工芸品の通販を起業して、早10年になるが、その間に多くのブログを書いてきた。通販を始める前はごく普通のサラリーマンだった。それはホテル勤務だったが、国内では有名なホテル会社で、そのひとつ伊良湖ビューホテルが1968年のオープン当初、旅行業者の選ぶホテルとして、3年ほど続けて日本一の座を得ていた。遠州灘と鳥羽を臨む伊良湖岬の先端に立ち、客室稼働率が100%を超えるなんて、ホテル旅館経営を知る人には信じられないだろう。私の勤務した那須ビューホテルのスタッフたちも当時を懐かしんではその忙しさを誇らしげに語っていた。客室は満室で、昼の日帰りのタヒチアンショーのレストランが、300人席のテーブルを30分ほどで2回転していたという。アパッチと言いフェリーが伊良湖埠頭に付くのを見て、館内連絡で準備をしていたという。お客様はフェリーの発着時間に合わせて戻って行く。自他ともに日本のホテル旅館を代表するトップランナーだったと思う。オーナーは今でいうカリスマの人だった。箭内源典と言い上背があり体格よく顔は写楽の浮世絵のような厳つい風貌で自分達には雲の上の人だった。鬼の源典と言われていた。当然仏の云々と言われる幹部もいたが、それは廣田専務が担っていた。我々社員は、常に畏敬の念をもって薫陶を受けた。時折ある彼の社員教育の講和では、怖れと話を聞ける喜びの気持ちで臨んだのを思い出す。
私は、仕事人間で家庭を顧みずに務めた。私の得意な分野は企画で随分と企画書を書き販促のチラシを作っていた。30年になる。それも物書きの素養になるのだろう。
今や誰しもが知るブログやTwitterやfacebookのSNSは、通販には欠かせない販促メディアになる。その文章力を磨くのが予てからの課題だった。書きながらも仕入れた販促の知識を使い推敲しながら書いた。ホームページの内容は写真と文章とからになる。資料からのコピーも商品紹介では随分と使うが、そのままでは使えない。助詞や主語、いくつかの内容を加工しなければならない。ブログは、全部で9種類ほどになるが、合計するとこの10年で凡そ1,500編以上にはなるだろう。この間は文章力の学習を兼ねていたことになる。そんな時に加地慶子女史と出会った。ひいらぎ日記加藤次郎は、手記になる。面白い世界が自分の目の前に広がった。
加地慶子女史は、私が車で乗り付けたときには、既に「くるる」に来ていた。いつものお洒落な服装で遠目にも彼女と分かる。ノースリーブでカラフルな織の薄い透けた上布を着ている。年齢はキャリアから想像するが、外見には若く見える。人脈作りが得意で、いろいろな方との繋がりがある。それが彼女の性格でありパワフルさでもある。職業を持ちながら小説を書き、その後小説に専念されたことを聞く。私との関係もその一つになるのだが、通販も落ち着いて、ここ数年の私は、は断捨離を心がけているので、むやみにはネットワークを増やさないようにしている。館内に併設されている喫茶コーナーのカフェ・サークルに黒磯のジャズスナックの女性が、白髪の恰幅のいい連れ合いらしき男性とスナック菓子の納品で来られていた。彼女はパーマにした髪をライトブラウンに染め少し太縁のサングラスを髪にかけている。ふくよかでスタイルもよく、身に着けている白のパンツと白系のブラウスのファッションも似合いそれが雰囲気をつくっていた。私と同世代に思える。宇都宮の菓子をOEMで卸すという。ジャズスナックと聞きその女性にご挨拶した。ジャズには興味がある。学生時代には新宿の有名なジャズ喫茶のDigやDugに通っていた。那須ビューホテル勤務時代には有名なジャズオーケストラの「髙橋達也と東京ユニオン」のコンサートを企画担当していた。8年間続けたが惜しまれながら止めた。ジャズスナックが何処にあるのかを訪ねたが、黒磯公園の近くという。その女性はヴォーカルだが、ピアノの弾き語りをするという。挨拶で私の通販の名刺を見ても、何を売っているかを聞いただけで、伝統工芸品には関心はないようだった。公園に続く裏通りにあるその店には随分昔に一度、訪ねたことを思い出した。加地女史以外にも幾人かの女性陣が、並べられたスナック菓子に群がり、袋の中を見ながら購入していた。食べることと語ることの女性パワーには敵わない。
その内にエッセイストクラブの会員かと思う男性が、加地女史に声掛けをして、左奥の会場のほうに向かった。細身中背で白髪の物静かな印象の男性で、年齢を聞いていなかったからか私の想像とは違い年配の方だった。スナック菓子にそれ以上は関わることも無く私も加地女史も会場の和室に向かった。途中の白壁の掲示コーナーには、写真展なのだろう美しい風景写真が数十枚展示されていた。桜や渓流、那須高原の乙女の滝などの風景が見られた。何れもが力作だった。黒磯地区にもこれだけの写真を撮れるグループがある。会場には先程の白髪の男性の姿は見られなかった。6個の長脚テーブルに6脚の椅子が置かれている。加地女史に好きな席を促されて、私は末端の席に場所を取り、加地女史は、向かい側の上手のテーブルに席を取った。ほどなく白髪の男性が来て、私の左上手に席を取った。もう一人女性が来る訳だったが、今日は欠席という。加地女史は、「月一の定例会の日に何でお見舞いに行くのよ。」と憤慨しながら話す。聞くところでは、しばらく会員作品が出ずに合評はしていないという。今日は、私の出した「火振り漁」を合評の作品として取扱うという。まず、スタートにあたり合評の注意を私に話してくれた。「作品について、いろいろな意見を言うけれども、作者の人格否定ではないので、気にしないこと。」と。私は合評に参加するのは初めてだが、「合評」と聞いてそのことは理解できた。俳句のTV番組や和歌の書物から、合評のことを知っていた。人から批評されることはまな板の鯉然と切り刻まれるイメージがある。正直批評される怖さを感じるけれども評価を聞きたい気持ちの方が強かった。スタートする際になり、私は準備していた資料を持ってきていないことに気が付いた。「火振り漁」も、新たに見て欲しい「キャバレーチャイナタウン」の印刷物もだ。加地女史からは、「無くても良い」と引き留められたが、「10分もあれば。」と自宅に取りに戻ることにした。生憎と雨が降り始め土砂降りの様相を呈していた。スケルトンの硝子壁を通して、雨が白いカーテンのように降り注ぐのが見える。傘もないので車にたどり着くまでにも随分と濡れてしまった。車内にも資料は見当たらなかった。やはり家に忘れて来たようだ。旧四号線に出ると既に雨水が溢れ道路を川のように流れている。目の前のバイクが深みを避けて水を跳ね飛ばしながら走っている。車底にも雨水が跳ねたてドドッと音が聞こえる。久々のゲリラ豪雨である。町中の埃や塵を全て流してしまうようだ。家に着き一面水たまりとなった庭の頭の出た敷石を飛び跳ねて玄関に駆け込んだ。書斎を覗くとプリンターの上にファイルが置き忘れてあった。資料を見つけたことに安堵して中身を確認し車に戻った。くるるに戻っても雨足は一向に衰えていなかった。かなり濡れてしまったが、仕方ない。
濡れた髪や服を拭き和室の席に戻ると「早かったのね。」と加地女史は驚いていた。壁に時計を探したが見当たらない。大凡10数分位だったと思う。資料を取りに戻り正解だった。資料がなければ、合評も上手くゆかなかっただろう。
白髪の方は長谷川雅氏という。「火振り漁」講評の準備をしてきていた。加地女史からは先月の定例会の際に長谷川氏ともう一人の女性宛に原稿をメールするよう指示された。彼はそれをプリントし持参していた。自分の作品がこのように講評されるのは初めてだが、否が応もなく始まった。まず、良かった点として、「倉庫の屋根の上に星が大きく揺れて瞬いていた。」の表現から、「火振り漁の思い出」に入る表現が、スムースで良かったという。他にもいくつかの文章的なチェックの箇所はあるが、字句の確認をひとつひとつしてくれた。「カーバイト」の言葉は、正確には「カーバイド」と濁ることを指摘された。私は当時を思い出して「カーバイト」の発音としたが、どうだろうかと話された。長谷川氏の記憶にも当時は「カーバイト」だったと言い、その使用でも良いだろうと話す。加地女史の経験には「カーバイト」の記憶はないようだ。子どもの頃は瀬戸内の愛媛県で育ち、父の勤務から全国を転々としていたという。次いで、「雑魚をヤスでついて捕る」で「つく」は、漢字の「突く」が良いという。加地女史がヤスのことを聞き、長谷川氏が手振りでヤスの形を説明していた。ヤスは海で使うモリの小型のもので川魚に使う。同じく「農業事態」の文字が、誤植と指摘した。正確には「農業自体」が正しい。ワープロ変換の間違いだが、納得した。加地女史は、「雑魚」の言葉が、3行にわたり出てくるので、「雑魚」の代わりに具体的な魚の名前を入れるとどうかという。「大きな雑魚の群れ」の表現も具体的に「何10cm」とかの表現がどうかとも。最初何のことか分からなかったが、そう言えば「雑魚」は具体的な魚名ではない。小魚を言うのだが、私の地区では、「鮠」のことを指す。大凡25cmから30cmにもなる大型の川魚である。子どもの頃から使っている言葉だが、改めて魚名ではないと言われるとそうだと思う。同じ表現を重ねて使うことは、良くないことは理解できた。次いで「星が瞬く」が「まばたく」か「またたく」かの読みと意味を確認された。瞬くは、「火が消えそうになり輝く様」を言うという。私は、澄み切った蒼黒い空に星が鮮やかに輝き揺れている状況を表したつもりだったが、「瞬く」の言葉は適切ではないのかも知れない。改めて言葉を使うことの難しさを感じた。長谷川氏は、「若衆」の言葉が好きだという。加地女史から、「若衆」の言葉はどのような人達かを尋ねられた。実際には、その言葉は使っていない。若者を呼ぶときは、屋号と名前で呼ぶ。「上とか下の誰ちゃん」とかである。加地女史は、その若衆を描くと良いという。三島由紀夫は、若衆の言葉が好きだという。特に若衆の肉体が好きで小説の中で若者の姿をページを使い何度も描き出し、背中の筋肉なども事細かに書いているという。また、長谷川氏は「当時は今と違う時が流れていた。」の表現も好きだという。考えずにただ思い浮かんだ言葉で表現したが、そうかと思った。加地女史は他にも「ウナギ」は、漢字の「鰻」が良いという。最後の行の「火振り漁の言葉も死に語となる。」の表現は「死に語」という言葉はなく「死語」が正しく、火振り漁は今もやっている地方もあり「火振り漁の言葉も今の生活では死語となる。」等が正しいだろうという。これでクリアになった。これもまた、言葉が脳裏に浮かぶ儘に書いており反省になる。
総体的な話となり、この「火振り漁」の風景は、森詠の小説を映画にした「那須少年期」に似ているという。長谷川氏は、私は何処の出身かを聞いてきた。この那須町伊王野の生まれで農家育ちだと話したが、何かそんな映画があるのだろう。加地女史の評価はいくつも頂戴した。ひとつは、出だしの「いつも夕食後に孫を見送る。」から始まるのではなく、星の瞬くシーンから入る方が良いという。「小説の書き出しは、重要で引き込まれる表現が、良い。」という。ひとつは、加地女史はスタートするときに書く枚数を決めている。即ち構成を考えることになるが、彼女の場合は、その通りの枚数になるという。「火振り漁」は3枚ほどだが、中身から5枚位に思えていたという。短いけれども鮮やかな内容なので、400字30枚程度の小説募集があるので、これをそのように書いてみたら良いという。ひとつは、小説は思いを書きながら、登場人物などにそれを表現させることになる。具体的には登場人物に行動させることという。一方、若くして亡くなった「悲の器」で第一回文芸賞を受賞した高橋和巳は、思想で語るという。私なりに「テーマ」をもち登場人物の行動を通して、表現することと理解した。当然、構成する作業が伴う。小説は作るものだとは思っていたが、具体的には緻密な構成力が必要となるようだ。ひとつは、発信者は一人だが、受取る人は百人百様だという。これも読者を意識して書くことになる。3人の会話を通して、長谷川氏からは年齢的に近い「男性の理解」を感じたが、加地女史からは、女性としての理解を感じた。「そうか彼女の感性は女性の感性なんだと。」長谷川氏は後に知ったが新潟の田舎の出身と聞く。「火振り漁」の経験的なことは理解しやすいことだろうが、加地女史は、女性でもありそのような田舎の当たり前の風景は違うのかも知れない。
講評もある程度済んだところで休憩となった。加地女史が席を外した間、長谷川氏と雑談となった。私の左隣に席を取る彼を右側から見ることになるが、嘗て私が勤めたホテルの経理の先輩に似ている。実直な彼は営業よりも事務系の方で、顔や髪形や顔の表情も体つきも似ている。私の長谷川氏に対する人柄のイメージも旧同僚の彼に重なるのが可笑しい。長谷川雅氏は、白い太い眉に豊かな白髪が特徴的だ。そして、穏やかに一語一語を拾うように話す。雅という名がペンネームなのか実名なのか気になるところだ。御出身を尋ねると新潟県三条市の生まれ育ちだという。東京に出たが学生時代にこの地では有名な葵地所の井出社長が同学年だったと言う。井出社長は長野県の御出身だというが、我々ホテル業界でも有名な会員制リゾートホテルのホテルエピナールを造られた。長谷川氏は、学業を終えて神奈川の川崎の会社に勤めていたが、井出社長より同期の誼で当初から施設メンテナンスの専門家として招聘されたという。ホテルエピナールは、東日本大震災で高層階にあるレストランが、被害を受けたが、復旧した。4棟の10数階の高層ホテルで那須連峰と高原を眼下に一望出来る。現在も那須のトップホテルとして君臨している。長谷川氏はそれが那須に住むことになった切欠という。年齢は、昭和17年生まれで今年古稀となる私よりも8歳年上になる。現在は、菅間病院のケアサービスに週3日程請われて働いている。彼の穏やかな性格から人気者だという。働くということは人にプラスに働く。「小人閑居して不善をなす。」という。経済的に困らずともに悠々自適で生活するのはそれなりに難しく思う。住まいは、私の住む豊浦中町と目の鼻の先の豊浦南町だという。直ぐ近くに私には心強い物書きの仲間がいたことになる。長谷川氏のプロフィールが、分かるにつれ嬉しくなった。やがて加地女史も戻りエッセイストクラブの会員の田野さんという方の話になった。那須塩原駅前の北弥六に住む昔からの農家の方で林檎などを造られているが、最近は高齢から認知症の話をされて、参加されなくなったという。社会的な奉仕活動もされていた方で地域では有名な方だという。私には北弥六には古くからのテニス仲間が何人かいる。彼等に尋ねると分かると思うが、是非に会ってみたい方だ。次回は私の持ってきた「キャバレーチャイナタウン」を合評の題材に使おうという。また、まな板の鯉になるようだ。
今回の合評を経験して、私の夢が膨らむのを覚えた。よもや手記を書くことになるとは思わずにひいらぎ日記加藤次郎をスタートさせて既に30編近く書いている。そして、いま加地女史や先輩方のアドバイスといえる合評から、物書きのイロハを学ぶことが出来る。子どもの頃から、自分を見せることに関心を持ってはいたが、この年齢で文章を書くことに喜びを見出すとは思いもしなかった。エッセイストクラブの合評会は、私の物書き才能の壁に突き当たるまでかも知れないが、楽しい時間となりそうだ。
和室を借りている時間は2時間。定刻が近づいて長谷川氏が終わりの時間を告げた。次回の定例会の申し込みを今日してゆくという。事務局も兼ねて庶務も得意な方になる。私はお二人にお礼を伝え少し遅れて和室を出たが、長谷川氏が申し込みをしているのが見えた。加地女史は、先程の女性陣と何やら打合せがあるらしく、その方々と話をしている。私は挨拶は済ませていたので、そのままにくるるを後にした。ガラス張りの壁の外はすっかり雨も上がり明るい空間が広がっていた。私の心にも充実した合評会の余韻が広がった。
白髪の方は長谷川雅氏という。「火振り漁」講評の準備をしてきていた。加地女史からは先月の定例会の際に長谷川氏ともう一人の女性宛に原稿をメールするよう指示された。彼はそれをプリントし持参していた。自分の作品がこのように講評されるのは初めてだが、否が応もなく始まった。まず、良かった点として、「倉庫の屋根の上に星が大きく揺れて瞬いていた。」の表現から、「火振り漁の思い出」に入る表現が、スムースで良かったという。他にもいくつかの文章的なチェックの箇所はあるが、字句の確認をひとつひとつしてくれた。「カーバイト」の言葉は、正確には「カーバイド」と濁ることを指摘された。私は当時を思い出して「カーバイト」の発音としたが、どうだろうかと話された。長谷川氏の記憶にも当時は「カーバイト」だったと言い、その使用でも良いだろうと話す。加地女史の経験には「カーバイト」の記憶はないようだ。子どもの頃は瀬戸内の愛媛県で育ち、父の勤務から全国を転々としていたという。次いで、「雑魚をヤスでついて捕る」で「つく」は、漢字の「突く」が良いという。加地女史がヤスのことを聞き、長谷川氏が手振りでヤスの形を説明していた。ヤスは海で使うモリの小型のもので川魚に使う。同じく「農業事態」の文字が、誤植と指摘した。正確には「農業自体」が正しい。ワープロ変換の間違いだが、納得した。加地女史は、「雑魚」の言葉が、3行にわたり出てくるので、「雑魚」の代わりに具体的な魚の名前を入れるとどうかという。「大きな雑魚の群れ」の表現も具体的に「何10cm」とかの表現がどうかとも。最初何のことか分からなかったが、そう言えば「雑魚」は具体的な魚名ではない。小魚を言うのだが、私の地区では、「鮠」のことを指す。大凡25cmから30cmにもなる大型の川魚である。子どもの頃から使っている言葉だが、改めて魚名ではないと言われるとそうだと思う。同じ表現を重ねて使うことは、良くないことは理解できた。次いで「星が瞬く」が「まばたく」か「またたく」かの読みと意味を確認された。瞬くは、「火が消えそうになり輝く様」を言うという。私は、澄み切った蒼黒い空に星が鮮やかに輝き揺れている状況を表したつもりだったが、「瞬く」の言葉は適切ではないのかも知れない。改めて言葉を使うことの難しさを感じた。長谷川氏は、「若衆」の言葉が好きだという。加地女史から、「若衆」の言葉はどのような人達かを尋ねられた。実際には、その言葉は使っていない。若者を呼ぶときは、屋号と名前で呼ぶ。「上とか下の誰ちゃん」とかである。加地女史は、その若衆を描くと良いという。三島由紀夫は、若衆の言葉が好きだという。特に若衆の肉体が好きで小説の中で若者の姿をページを使い何度も描き出し、背中の筋肉なども事細かに書いているという。また、長谷川氏は「当時は今と違う時が流れていた。」の表現も好きだという。考えずにただ思い浮かんだ言葉で表現したが、そうかと思った。加地女史は他にも「ウナギ」は、漢字の「鰻」が良いという。最後の行の「火振り漁の言葉も死に語となる。」の表現は「死に語」という言葉はなく「死語」が正しく、火振り漁は今もやっている地方もあり「火振り漁の言葉も今の生活では死語となる。」等が正しいだろうという。これでクリアになった。これもまた、言葉が脳裏に浮かぶ儘に書いており反省になる。
総体的な話となり、この「火振り漁」の風景は、森詠の小説を映画にした「那須少年期」に似ているという。長谷川氏は、私は何処の出身かを聞いてきた。この那須町伊王野の生まれで農家育ちだと話したが、何かそんな映画があるのだろう。加地女史の評価はいくつも頂戴した。ひとつは、出だしの「いつも夕食後に孫を見送る。」から始まるのではなく、星の瞬くシーンから入る方が良いという。「小説の書き出しは、重要で引き込まれる表現が、良い。」という。ひとつは、加地女史はスタートするときに書く枚数を決めている。即ち構成を考えることになるが、彼女の場合は、その通りの枚数になるという。「火振り漁」は3枚ほどだが、中身から5枚位に思えていたという。短いけれども鮮やかな内容なので、400字30枚程度の小説募集があるので、これをそのように書いてみたら良いという。ひとつは、小説は思いを書きながら、登場人物などにそれを表現させることになる。具体的には登場人物に行動させることという。一方、若くして亡くなった「悲の器」で第一回文芸賞を受賞した高橋和巳は、思想で語るという。私なりに「テーマ」をもち登場人物の行動を通して、表現することと理解した。当然、構成する作業が伴う。小説は作るものだとは思っていたが、具体的には緻密な構成力が必要となるようだ。ひとつは、発信者は一人だが、受取る人は百人百様だという。これも読者を意識して書くことになる。3人の会話を通して、長谷川氏からは年齢的に近い「男性の理解」を感じたが、加地女史からは、女性としての理解を感じた。「そうか彼女の感性は女性の感性なんだと。」長谷川氏は後に知ったが新潟の田舎の出身と聞く。「火振り漁」の経験的なことは理解しやすいことだろうが、加地女史は、女性でもありそのような田舎の当たり前の風景は違うのかも知れない。
講評もある程度済んだところで休憩となった。加地女史が席を外した間、長谷川氏と雑談となった。私の左隣に席を取る彼を右側から見ることになるが、嘗て私が勤めたホテルの経理の先輩に似ている。実直な彼は営業よりも事務系の方で、顔や髪形や顔の表情も体つきも似ている。私の長谷川氏に対する人柄のイメージも旧同僚の彼に重なるのが可笑しい。長谷川雅氏は、白い太い眉に豊かな白髪が特徴的だ。そして、穏やかに一語一語を拾うように話す。雅という名がペンネームなのか実名なのか気になるところだ。御出身を尋ねると新潟県三条市の生まれ育ちだという。東京に出たが学生時代にこの地では有名な葵地所の井出社長が同学年だったと言う。井出社長は長野県の御出身だというが、我々ホテル業界でも有名な会員制リゾートホテルのホテルエピナールを造られた。長谷川氏は、学業を終えて神奈川の川崎の会社に勤めていたが、井出社長より同期の誼で当初から施設メンテナンスの専門家として招聘されたという。ホテルエピナールは、東日本大震災で高層階にあるレストランが、被害を受けたが、復旧した。4棟の10数階の高層ホテルで那須連峰と高原を眼下に一望出来る。現在も那須のトップホテルとして君臨している。長谷川氏はそれが那須に住むことになった切欠という。年齢は、昭和17年生まれで今年古稀となる私よりも8歳年上になる。現在は、菅間病院のケアサービスに週3日程請われて働いている。彼の穏やかな性格から人気者だという。働くということは人にプラスに働く。「小人閑居して不善をなす。」という。経済的に困らずともに悠々自適で生活するのはそれなりに難しく思う。住まいは、私の住む豊浦中町と目の鼻の先の豊浦南町だという。直ぐ近くに私には心強い物書きの仲間がいたことになる。長谷川氏のプロフィールが、分かるにつれ嬉しくなった。やがて加地女史も戻りエッセイストクラブの会員の田野さんという方の話になった。那須塩原駅前の北弥六に住む昔からの農家の方で林檎などを造られているが、最近は高齢から認知症の話をされて、参加されなくなったという。社会的な奉仕活動もされていた方で地域では有名な方だという。私には北弥六には古くからのテニス仲間が何人かいる。彼等に尋ねると分かると思うが、是非に会ってみたい方だ。次回は私の持ってきた「キャバレーチャイナタウン」を合評の題材に使おうという。また、まな板の鯉になるようだ。
今回の合評を経験して、私の夢が膨らむのを覚えた。よもや手記を書くことになるとは思わずにひいらぎ日記加藤次郎をスタートさせて既に30編近く書いている。そして、いま加地女史や先輩方のアドバイスといえる合評から、物書きのイロハを学ぶことが出来る。子どもの頃から、自分を見せることに関心を持ってはいたが、この年齢で文章を書くことに喜びを見出すとは思いもしなかった。エッセイストクラブの合評会は、私の物書き才能の壁に突き当たるまでかも知れないが、楽しい時間となりそうだ。
和室を借りている時間は2時間。定刻が近づいて長谷川氏が終わりの時間を告げた。次回の定例会の申し込みを今日してゆくという。事務局も兼ねて庶務も得意な方になる。私はお二人にお礼を伝え少し遅れて和室を出たが、長谷川氏が申し込みをしているのが見えた。加地女史は、先程の女性陣と何やら打合せがあるらしく、その方々と話をしている。私は挨拶は済ませていたので、そのままにくるるを後にした。ガラス張りの壁の外はすっかり雨も上がり明るい空間が広がっていた。私の心にも充実した合評会の余韻が広がった。
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