2023年11月7日火曜日

ルーツ

暗闇の中、目が覚めて枕元の携帯を見ると4時を少し回ったところだった。最近、朝方に目が覚め、再び寝付く間に子どもの頃の記憶が思い出されるようになった。その頃のことは余りに幼く長い間全く忘れて思い出すことも無かったことだが、どうした訳か記憶の扉が開け放たれたようだ。思い当たるのは、手仕事専科の販促としている歴史街道ブログで子どもの頃を思い出し掲載したことが、原因となっているのかも知れない。

君が代を歌わない、国旗掲揚を行わない不思議

切欠は1カ月前になるだろうか、大田原市役所に那須文化研究会の木村康夫会長を訪ねたことからだ。ここ5、6年になるが、私は近現代史に関心を持っていた。日本は江戸時代、明治維新を経て西洋列強諸国に翻弄されながら、近代化、富国強兵に勤め必死に時代を生きて抜けて来た。隣国の清が西洋列強に蹂躙されるのを見てきた。日本は日英同盟に助けられて、日清日ロの戦いに辛うじて勝利をおさめ、西欧の仲間入りを果たしていた。国際連盟は当時17ヵ国ほどだったが、有色人種の国家は、日本だけだった。中国大陸での日本の台頭に業を煮やしていたアメリカのFDルーズベルトにより、日本は参戦の方向に進まざるを得なかった。彼は恐ろしいほどに親ソビエトであり、蒋介石中国に好意的だった。史実からは、第二次世界大戦のヨーロッパの開戦も彼とチャーチルのイギリス、フランスの仕業になる。日本は、第二次世界大戦の敗北を機に連合諸国に悪の権化のように言われ続けてきた。東京大空襲や広島と長崎の二発の原子爆弾の投下により、一夜にして40数万人を超える民間の老人女子供が虐殺された。当時の国際法においても全くの違法行為である。恐ろしい、人に有るまじき非道なことだが、戦後それを問う声も連合国を非難する声も起こっていない。歴史は力が正義であることを示している。国民は、6年半に及ぶアメリカの占領統治により徹底的に日本の悪行を刷り込まれた。今では明らかに嘘捏造だと分かる史実をつくり東京裁判史観、WGIPによる「自虐史観」といえる洗脳がなされた。時の日本政府はそれを飲まざるを得なかったが、それが未だに自民党政権として続いている。従来の国の骨幹をなしていた人々は「公職追放」により去り、GHQによって解放された戦前の社会主義者たちが、教育機関を中心に「敗戦利得者」として、アメリカのなした嘘の歴史に輪をかけて未だに唱え続けている。東京大学総長の南原茂をはじめ、朝日新聞、労働組合など、そして日本社会党はその筆頭となる。私は、長年なぜ日本が現状のような「君が代」を歌えない、「国旗掲揚」を行わない社会、国家となったかが、不思議でならなかった。高度成長期のサラリーマンで昇進と給料が増えることだけに関心のある自分には、国政や歴史には関心がなかった。それが、中国や韓国、北朝鮮から非難される南京大虐殺事件や従軍慰安婦の真実を学び知るにつれて、私達の漠然と学んできた近現代史が、如何に嘘捏造であるかを知ったのです。古稀を迎える私の使命は、今更ながら真実の近現代史を子どもたちに伝えることだと自覚したからです。真実とは言え大人達に伝えることは至難の業だということは知っています。まずその活動に際して地域に同志を得ようと思い立ちました。それで那須地方で歴史に関心のある方々の中にはそのような歴史家がいるだろうかと思い那須文化研究会代表の木村康夫氏を尋ねたのです。

那須文化研究会

彼は、那須地方の郷土史に関心があり、その研究編纂をライフワークにしている。湯津上村の御出身で大田原高校の1学年後輩になる。那須高校の国語教諭をしていた折に同僚の幾人かの先生方と飲むと教育について、喧々諤々の論争をしていた。彼は、生っちょろくいつも先輩のI氏やK氏に叱られていたという。その二人は私の良く知る人物で、I氏は稲沢部落の私の一級先輩で中学高校と一緒だった。彼の家は、祖父は師範学校を出た有名な先生で御両親も揃って教職者だった。彼が教職に就くのは当たり前だったと思う。H氏は同級生で1学年時に同じクラスだった。田舎者の世間を知らない私と比べて沈着冷静、穏やかでスポーツも学業も秀でた男だった。感情に左右され流される自分と比べて数段大人の印象を持っている。未だに彼のように落ち着いた人物には幼稚な自分は敵わないと思う。彼等の優秀さを知る私には、彼等が木村氏に語る姿が見えるようだ。

郷土史について私の御先祖が越中富山の砺波地方の出身で兄の代で5代目になると話した。砺波では、代々OO藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松は婿で兄弟の一人は氏家の地区に婿に入り、籾と玄米の選別できる唐箕という農具の発明特許を取得した事業家だったと聞きます。我が家にもその農具があり、子ども乍らその凄さに驚いて見ていました。同じく兄弟だった平沢の鶴野氏は、開明的な人だったようです。木村氏の話では、越中富山の人々は、湿地を好んで移住したといいます。彼らは事前の情報から、移住する土地のことを知り、先に入植した人達を頼り移住してきたといいます。琵琶池も湿地になり、那須与一の16人餅つきで有名な福原もそれから湯津上につづく江川沿いには、富山からの浄土真宗の人達が住み着いたといいます。湿地のお米は美味しいからです。私の曾祖母や祖父母は、佐久山藤沢の出身でいずれも敬虔な浄土真宗の門徒で、家には幅1軒ほどの大きく煌びやかな仏壇があり、いつも仏壇に向かい「南無阿見陀仏」を唱えていました。浄土真宗は、親鸞上人を開祖とする仏教で、煌びやかな仏壇と坊主の妻帯を許しています。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。

木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む膳棚には茅野という稲沢部落の入会地があり、毎年春先に村中の人々が総出で茅焼をする。その斜面の焼け跡には一面に黒い灰が残り、暫くすると新しい芽が茅株から芽吹いてきます。また、太く美味しそうな蕨が一面に生えてきます。村の人達は、蕨採りにやってきますが、それでも取り残された蕨が葉を広げていました。茅野の風物詩です。多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを「結い」で行っていました。その後、多くの家が茅屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有山は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。茅の必要で無くなった後には杉が植林されました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ました。我が家は、57坪の茅葺屋根の農家です。南を向いて縁側があり、小さな這い這いの子どもは、縁側から良く落ちていました。下は土でしたので怪我はせずに済みました。土間の台所と囲炉裏、広間と座敷、納戸と4畳の間、茶の間とがあり、仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。屋根の葺き替えは、数日掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。古く腐った茅を取り除き、新しい茅を差し替えて取り付けます。半分位が差し替えられ、屋根の端を刃の付いた道具で切り揃えます。職人の仕事です。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として茅や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。

その後になりますが、彼等教職員の方々の話から、近現代史に関する話は聞けませんでした。日本共産党に与する日教組の組合は栃木県にはないといいます。日本高等学校教職員組合と言う御用組合があって、歴史には触れることなく私の学んだ史実は学んでいないようです。日教組の「自虐史観」ではないが、かといって、鼻から「日本は悪くなかった。」「日本の開戦によりアジアの国々は悉く戦後に独立することが出来た。」「素晴らしい国だった。」という近現代史観には拒否反応を持っているようです。

琵琶池の地

曽祖父は琵琶池の田口の出で、曾祖母は藤沢の高橋の出です。藤沢の高橋家や琵琶池の田口の家は、小学生の3、4年生の頃に祖母に連れられて2、3度尋ねて泊ったことがある。どうして私を連れて行ったのだろうか。兄と妹がいたが、私が一番連れていかれたようだ。自分が婆ちゃん子だったからだろうか。法要か何かの仏事だったと思うが、佐久山の前田のバス停を降りて、30分ほどは歩いただろうか。右に竹藪の林を見て、左手に曲がり更に歩くと高橋の家だった。日当たりの良い高台にある家だった。曾祖母のキンと祖母ヨシは姉妹になる。曾祖母のキンは、初(はつ)の後妻で音松との間に一男一女をもうけたが、幾人かの子どもが生まれていたようだが、幼くして亡くなったと聞く。大叔父は、鉄道省の学校を卒業し東京に出て三共製薬に勤めた優秀な人だった。5人の男の子をもうけ全員大学に進学させた。大叔母は、越堀のに嫁いだ。曾祖母キンは後妻に入ったので、先妻の子兼次郎の嫁に妹のヨシを迎えた。随分と年の離れた姉妹になる。琵琶池の田口の家は高橋の家から向かいの山の陰になる。祖母ヨシが「明日は向山の家に行く。」と話してくれたが、歩いて30、40分はかかったろうか。少し小高いところに南の琵琶池に面して建ち庭も広く大きかった。今思い出しても大きな作りの家だった。当時の琵琶池の田口家は、有名な大百姓だったと思う。庭から右手下に馬車が通れる幅の道路を挟んで琵琶池が大きく広がり、池の端には小さな池が仕切られ葦がしげり真鯉が放たれて、池の縁に鍋釜を洗う小さな桟橋があった。我が家の池にも真鯉がいたが、もっと大きな真鯉が数匹姿を見せては翻りまた潜っていった。当時そこには、16歳位の男性がいて、私と遊んでくれたことが記憶にある。背も高く格好の良いハンサムな青年だったが貰われっ子だと聞いた。バトミントンだったが、博叔父仕込みの自分は結構得意だったが、彼は上手に遊んでくれた。その内に誰かが彼を呼び、楽しい遊びは終わった。祖母と夕食をとり、広い土間の反対側に五右衛門風呂があり、暗い中入った記憶を鮮明に思い出した。そう言えば我が家にも五右衛門風呂があった。五右衛門風呂は、風呂釜の底に敷板を敷くが、これを使うにはコツがいる。初めての人は何に使う板敷なのか分からなく足元に敷くが直ぐに浮いて来てしまい難しい。祖母が何か「お先に頂戴します」と言った様な挨拶をお年寄りのご婦人にしていた。彼女たちは、祖母の親戚の婦人達だった。祖母に守られて自分はそれ程に委縮することもなく過ごしていた。田口の家は天井が高く暗い大きな瓦屋根の家だった印象がある。

膳棚の地

私は栃木県那須郡那須町大字稲沢小字膳棚の生まれ育ちです。膳棚の地は、私が生まれた時には四軒ほどの農家が奥山の深い合川に沿い南側を向いて並び、左右に小高い里山をもち、馬車の通れるほどの道が稲沢と越堀への幹線道路に繋がっていました。右手は茅野といい10丁歩程もあったでしょうか屋根の葺き替えに使う萱を採る共同山です。左手は、なだらかに広がり広葉樹林と松が育ち、一部には杉が植林されていましたが、一番高いところは広葉樹の中に松の木が一本あり、私達は一本松と呼んでいました。よくその一本松に登り遠くを眺めたものです。学校への近道となる山道の途中には炭焼き小屋があり、冬の日には子どもたちで学校帰りに暖を取るためによく寄りました。膳棚の一番の上にあるのが私の生まれた家です。それぞれに「上」「新宅」「兼ねちゃん家」「下」と呼んでいました。家々には屋号と家紋があり、屋根の大棟の端にはその家紋が見られました。今では屋号の形を覚えていませんが、我が家は桔梗の紋です。合川沿いの道路から我が家には太い松に土を載せた小さな土橋を渡り一丁歩程も入ります。小さな堀も家の近くを横切り、茅葺屋根の57坪のそれなりに大きな農家でした。明治18年に建てられたといいます。その前にも何か家はあったのかと思いますが、聞いた記憶には分かりません。庭には庭石と花木が庭園風に植えられて、玄関となる板戸の敷居をまたぐと土間が広がり板敷の上りがあり、囲炉裏がありました。畳茣蓙が敷かれていました。立派な大黒柱があり、右奥には16畳の大広間、その左脇には7畳程の茶の間があり、更に奥には8畳の座敷と仏壇がありました。お客様が来るとそちらに泊まっていました。そして、4畳間と8畳ほどの納戸です。それらの部屋は、大きな黒光りした杉の板戸で仕切られていました。子どもの頃は、曾祖母や祖父母が茶の間に床を延べて一緒に休みました。体の温かい子どもは祖父母には湯たんぽ替わりだったように思います。茶の間には茶色のラジオがあり6歳年上の叔母はいつもラジオから流れるニュースや歌を聴いていたのを思い出します。土間の左手には、台所があり、五右衛門風呂とその奥に大小の竈が4つとさらに奥に黒光りした五斗程の米櫃と水屋がありました。五右衛門風呂の外には、柴木を置く場所があり、風呂が温くなるとその柴木をくべていたのを思い出さします。水屋には水瓶と蓋を乗せたアルミのバケツ二つと水柄杓がおかれ、井戸端からその飲み水を運んでいました。その二つのバケツでお風呂の水も運んでいました。中学生になるような大きな子どもたちの仕事です。叔父や兄は良くそんな話をしていました。天秤棒があり、その棒で上手く運ぶのがコツですが、私がその年の頃には、水道が施設されて数回やった後でやらなく成りました。水道が引かれたのは村のブームで近代的な台所が流行っていた頃です。近所のまだ水道の引かれていない家の娘さんかお嫁さんが、我が家の台所を手伝いしきりに羨ましがっていたことを思い出します。夏には野良着で食べられる一畳ほどの広さの椅子掛けの食卓があり、家族が囲んでいました。食卓の袋戸には残った料理を仕舞っておけ、便利でした。梅雨時には残された料理に黴が生えていたり饐えていたのが日常でした。冷蔵庫はかなり後になってからです。背後には杉と孟宗竹を背負いその奥は緩やかな勾配で広葉樹の山となっていました。東側には真竹が植えられていました。時折に炭焼き師が山を買って炭を焼いていました。山を買うとは、土地を買うのではなく炭になる広葉樹を買うことです。リボンを結んで炭にならない小さな木は残しておきます。奈良や椚の雑木は、4、5本が一株になって生えています。細い1、2本を残して切り取るのです。雑木が年数が経つとまた炭焼きの用の山となって甦るのです。冬になると木ノ葉さらいとして、その山に入りました。下刈りをしながら木ノ葉を稲わらで包み、背負子で持ち帰りました。木ノ葉は苗床や牛馬の敷き木ノ葉として使いました。昼には風の当たらない炭焼き跡の窪地で火を起こし正月の餅を焼いて食べていました。両親や祖母も一緒です。家の右前の茅野との間にはそれほど水源は奥深くはない小さな沢が流れ、大きな胡桃の木が植えられていました。行商の魚屋さんが、自転車の荷台に氷で保冷しながら鯖や鮪の切り売りで来ていましたが、残った粗をつかい、受けで沢蟹を獲っていました。一晩で数十匹は入っていたでしょうか。家の前には浮島のある結構大きな池がありその沢から水を引いていました。肥料舎と雨屋があり、肥料舎では堆肥作りと二階には干し藁を積んでいました。肥料舎の隣には牛と山羊、七面鳥や鶏などを飼ってそれなりの畜産も行っていました。子どもの頃に兄が悪さをして七面鳥をからかい、怒った七面鳥に追いかけられ足で踏まれた話は、叔父叔母の口からよく聞きました。肥料舎の隣には大きな甘柿の木があり、子どもの私には登るのが容易ではなかったように思います。その下側にも池があり、家鴨が遊びホテイアオイの浮き草が時折に綺麗な花を咲かせていました。

富山県人の血

農家としては、田圃2丁歩、畑も8反歩と山林は10丁歩を超えて持つ、旧伊王野村では米100俵を供出できる有数の農家でした。私の生まれた昭和25年頃には、曾祖母キンと祖父母兼次郎、ヨシがおり、両親と子供6人、叔父叔母合せて13、4人の大家族でした。盆暮に親戚の者が帰省すると20人を超える宴となりました。キンの夫の音松は54歳で急逝していますが、琵琶池の田口の出で、兄弟は近在のそれなりの家に婿に入りました。音松はじめ皆優秀な人物だったようです。嫁ぎ先の地域でも一目置かれる人物として名を馳せたと聞きます。氏家に婿入りした方は、実業家で籾殻の選別機で特許を持っていました。同じく、大田原市の平沢に婿入りした方も優秀で地域で代々一目置かれる開明的な農家になっています。我が家の音松も新参者でしたが、この稲沢部落では一目置かれていたようです。ある時我が家で音松の法要が営まれその折に琵琶池の田口出の者達が高橋の家の者と一緒に7,8人で来られましたが、驚きました。皆揃って私の叔父叔母や大叔父の子ども達にそっくりな顔立ちなのです。宴席に並ぶ叔父叔母は「あれまあっ!」と顔を見合わせていました。血は争えないものですね。叔父叔母の従妹や再従兄弟姉妹にあたります。私のご先祖は、越中富山の砺波地方から琵琶池を経て、明治の初めにこの稲沢の膳棚の地に入植しました。父の代で4代目と言います。砺波地方のお寺に家系図があり、父はそのルーツを尋ね、その家が代々八田藤四郎を名乗り、半農半士の足軽だったと調べてきました。この膳棚の地は谷地ッ田という湿地で両郷の浄土真宗のお寺の地所だったと聞きますが、山林の一部は越堀の藤田郵便局長の土地だったようです。長年小作をしていましたが、祖父母の兼次郎、ヨシの代にこつこつと貯めて完済し、現在の土地を持つ有数の農家になりました。那須文化研究会の木村会長の話すには、富山県人たちは、湿地を好んで入植したようだといいます。お米が美味しいのが湿地です。琵琶池や福原の江川沿いの村々も湿地になります。この膳棚の地も紛れもない湿地でした。旧奥州街道近くになる古くから住む稲沢の人々は、高地(台)に住み着き物事の変革は気性的に苦手だったといいます。それに引き換え、富山県人たちは、開明的で起業家だったともいいます。越中富山の人達は敬虔な浄土真宗(一向宗)の門戸です。私の性格からその血が流れているのを感じます。

農家に生まれ子どもの頃から、父や母、祖父母の仕事を見て育ちました。茅葺屋根の背後に山を背負い、孟宗竹や真竹を風除けに植えて、小さな沢が山裾の端を流れており、そこから水を庭の浮島のある池に引き、一寸した和風庭園ですが、いつも冷たい水が「筧(竹の筒)」から、池の受け桶に豊富に流れ落ちていました。我が家に来る人々はその水を手酌で汲みその冷たさと美味しさに声を上げていました。夏には、西瓜やトマトが冷やされていました。私たち子どもは一年を通して毎朝その水で顔を洗っていました。流れる水を手に受けて顔を洗う、シャキッとする瞬間です。竹藪からは、旬には筍が取れて、その美味しさは有名でした。土地が肥えていたのでしょう。背後の山と南を向いた窪地のせいで暴風雨でも災害に会うことはありませんでした。この暮らしの生活方法は、富山人の長い入植からの智恵だと思います。この優れた地のことは越中富山の薬売りの情報からだと思います。彼等は全国に情報網を持っていたようです。私が記憶に残るのは、私は次男坊で母が22歳の時の子ですから、私が5、6歳の頃に思い出す母は、20代後半の若い女性でした。あまり美人とは言えませんが、色白で小柄ながら豊満な女性で学校の勉強も良く出来る賢い女性でした。母の兄になる二十何歳か年上の離れた伯父の文右衛門には、随分と可愛がられたと聞きます。そのせいか良く母を訪ねて遊びに来ていました。姿格好は、農家の嫁でしたから絣や縞の着物を纏いモンペに手拭いを姉さん被りにしていました。私や長女娘や孫が色白なのは母似だからです。いつも何かの農作業をしていましたので、白い顔や胸を火照らせて、手拭いで汗を拭っていました。父と母の二人で朝早くに草刈りに出かけ、春先には馬を使い水田の荒くれ掻きや田植えの準備をしていました。田植えは、村内の人達が結で来られ、隣部落から多くの人達が手伝い人夫で来られていました。農繁期には、昼時や囲炉裏と土間がそんな女衆と男衆でいっぱいになりました。早苗饗の最後には、宴会となりました。興に乗り祖父兼次郎が詩吟を詠じて踊っていたのを思い出します。曾祖母のキンや祖母ヨシの着物は色味こそ年齢に応じて地味でしたが、同じく着物とモンペの格好でした。これが農家の標準着です。二人とも琵琶池と隣部落藤沢の高橋の家の出です。同じく越中富山からの人々だと聞きます。二人ともそろって働き者で、80歳を過ぎても朝早く4時頃から畑に草取りで出かけていました。蚋(ブヨ)に喰われない時間帯だからです。それでも顔中を喰われて瞼も赤く腫れて目が見えない程になっていました。私達は6人兄弟として育ちましたが、兄、私の後には妹が3人と弟がひとり生まれ育ちました。実際は、3男の弟の後に4男の子が宿りましたが、水子になりました。当時であっても6人の子どもは多過ぎたのでしょう。私達はそのことを知りませんでしたが、ある時母が水子供養をしているのを見て知りました。そして、その後に最後の女の子が宿り、泣いて母が父に産むことを迫ったと聞きました。その子は、もうじき60歳近くになりますが、性格や顔立ちは叔父叔母に似て、綺麗な賢い女性になりました。

家の裏には室という洞窟の保冷庫がありました。裏山に面した岩を刳り抜き、間口は戸一枚ですが、奥行き2間半、幅1軒半、高いところで一軒一寸ありました。岩穴なので湿気はありましたが、冬は暖かく夏は冷んやりとして天然の保冷庫でした。岩穴の室の中は、常に20度位に保たれていたものと思います。叔父は昭和6年生まれでしたが、生まれたときから心臓弁膜症で二十歳迄育たないだろうと言われていました。結核を患い、私が物心ついた時には、座敷に寝ていました。淡壺があり時折に越堀から殿生先生が往診に来ていました。叔父は当時20代後半だったのでしょう。黒磯高校を卒業し優秀でしたので、いつも物理や幾何学の分厚い書籍で勉強していました。私は小学校の時に叔父が兄に因数分解を教えているのを見て覚え、中学に入った時には数学はいつも満点でした。中学の成績が良かったのは、叔父の御蔭でしょうか。ある時、私が小学校の時ですが、ひと冬掛けて室で米俵を編んでくれました。当時は一俵60kgですが、米俵で供出していました。秋の収穫時には、米俵が雨屋に並んで、農協の方々が米の等級決めに来ていました。叔父の編んだ米俵は1枚15円で農協に売れると言っていました。そのお金でグローブとキャッチミット、ボールとバットを買ってくれました。私はグローブを選び、兄はキャッチミットです。東京から従従妹達が来て、父や叔父達も一緒にキャッチボールをしたのが楽しい思い出です。室の脇には、自転車小屋と木小屋があり、木小屋には柴木や木ノ葉浚いの束が、積んでありました。柴木はお風呂の薪になります。木ノ葉は牛馬の小屋に藁代りに敷いて堆肥としていました。ある時、室の脇の山裾を広げるために村の人々と越堀の人達が駆り出されてきていました。人夫賃を払って、頼んでいたのかと思います。作業は、鶴嘴とモッコで山を切り崩すものでした。何かの休憩の時に自分が、切出すの岩の上に乗り、ポーズを取ったのを工事の人達の一人が囃していました。「監督のようだ」と。その人はいつも私を可愛がってくれた男性で、一度越堀の彼の家に泊まりに行った記憶があります。

米櫃
朝の暗闇の布団の中で子どもの頃を思い出した。小学校に行っていたのだろうか、多分3、4学年の頃だろうと思う。家には誰もいなくて祖父母も父母も畑に出かけていたのだと思う。家には自分だけがいた。当時は、乞食が物乞いで訪ねてくることがあった。祖母や母が、4寸ほどの薄い小皿にお米を取り乞食の差し出す灰色にくすんだ袋に分けていた。まだ若い確りとした、50歳位の偉丈夫な男性の乞食が訪ねてきた。姿恰好から乞食と思ったのは、やはり着ているものがそのような薄汚れたものだったからだろうか。私は、乞食にはお米をあげるものと思っていたので、そうしようとした。5斗も入る黒光りした米櫃を開けると一升枡がお米の中にあり、自分にはどれ位の量が良いのかわからずにいたが、一升枡に精米を一杯に取り、乞食の方にあげることにした。乞食は何も言わずにそのずた袋一杯になるお米を受取りかえって行きました。私は無事に責任を果たせたことで誇りに思っていましたが、反面それでよいのか分からずにいました。分別のある大人ならば、小皿ひとつで良かったのでしょうが。夕方になり父母が戻って来て乞食とそのお米の話をしました。祖父母もその話を聞いていましたが、誰も私を責めることはしませんでした。父だけが、「乞食は喜んだだろう」と淡々と話していたのを思い出します。その後に乞食が来ることも少なくなって、子どもの頃の思い出として残りました。その後に自分も東京に出て台所がリフォームされ、家の作りも生活も大きく変わりました。土間も無くなり、牛馬のいた家の中の馬小屋の空間も4畳半の部屋二つとなり、兄夫婦の部屋になりました。片方の部屋には、妹が住むようになりました。学生時も時折に戻ることはありましたが、自分の部屋はありませんでした。次に家に戻ることは無く家庭を持ち黒磯市内に所帯を持ちました。

火振り漁
黒磯に所帯を持ち、40数年が過ぎる。その間に4度ほど家を変わった。初めの2度はアパートと市営住宅だったが、3度目には、双子の娘に恵まれていたことから中古の家を購入した。5歳の保育園児だった。60坪の敷地に4部屋と台所風呂などを持つ。そこには、20年ほど済んだ。そして、今の家になる。140坪の広さに大きな12個の庭石と樹木のある庭と15坪の倉庫、40坪の家になる。私達夫婦の終の棲家になるだろうか。今は、初孫に恵まれて、いつも夕食後に孫を見送る。娘が遅くに勤めから戻り、夕食を摂って9時頃に孫と帰るのが日課だった。ある夜、倉庫の屋根の上に星が大きく揺れて瞬いていた。
そういえば天気予報で寒の戻りの話をしていた。天上は、かなり冷えて風が強いのだろう。
鮮やかに瞬く星の輝きから中学生の頃に付いていった地元の男衆の火振り漁を思い出した。
それは、真っ暗な闇の中でカンテラの灯りに照らされた鮮やかな若衆の顔や水面の魚群だった。火振り漁は、暑い夏の風物詩、決まってお盆の頃に行っていた。
お盆は家を出た者が都会から戻り賑やかになる。
今日は火振り漁だというと日中にカンテラの準備をし、松明にする枯れ竹をいくつも束にしていた。
カンテラは足元を照らし移動するに容易だけれども、魚のいる場所では、明るさの強い松明が自由に操れて役に立つ。
日中に束ねた松明用の竹を適所に運んでいた。
その日は二つのグループだった。
出発こそ一緒だったが、それぞれに違う堀をたどって漁をした。松明の灯りも遠くになり見えなくなった。そして、そのまま別れた。
燃料のカーバイトは、シューという音とともに吹き出て、燃えて眩しい青白い閃光と独特の匂いを放つ。
私はカンテラを持つ役を仰せつかり田圃脇の水が満々としている堀の川面を照らすことになる。誰かが小さな声で「いたぞ」と叫んだ。
緊張が走る。淀んだ堀の広い場所に魚影がみえた。大きな雑魚が数十匹も群れて静かにジッとしていた。カンテラに照らされて灯りの中で雑魚の群がゆっくりと移動する。
日中に見る魚は、逃げ足速く人から見えるところに一瞬たりとも留まってはいない。人の気配を感じるとすぐに淵や川岸の垂れ下がった篠笹の繁みの下に隠れてしまい姿を見ることはない。
若衆は、カンテラに照らされた雑魚をヤスで突いて捕る。
どうしてそんなことができるのかと思うほどに器用にあたり前に突いていた。決まって、若衆の中の顔の効く者が、上手かった。
私の兄や弟は魚捕りが得意で上手く突いていたが、私はついぞしたことはなかった。性格の向き不向きだと思うが、魚が可哀そうに思えた。
一度だけの経験だったが、暗い田圃の畦道を歩き、カンテラと松明の灯りに照らされた若衆と魚影の群れが、鮮やかに脳裏に残っている。
当時は今とは違う時が流れていた。
もう半世紀以上も昔のことだ。父や近所の若集が、30代の頃の村の人々との付き合いが日常だったあの頃はもう戻らない。今は、農業事態がなくなり何れの村人も老いて子ども達は勤め人となりそんなこともなくなった。
あの魚がいた堀は、構造改善事業でなくなって久しい。思い出の残る田圃の畦道や堀はなくなり、区画整理された殺風景な水田が広がる。
当時は、鰻や雑魚の川魚がご馳走だった。

叔父のひやし針
先に火振り漁の手記を書いたが、書きながら叔父正男のことを思い出していた。
叔父は、私よりも丁度10歳程年上になる。昭和15年の生まれになる。盆に戻ると決まって、ひやし針掛けに出かけていた。
家の前を流れる合川に大堰がある。
大堰は、誰の代に造ったのだろうか。
江戸時代の終わりの頃に砺波平野から移住し兄の代で5代目になる。
砺波では、藤四郎が代々の名だったと聞く。
祖々母のキンからは誰が作ったと聞いた記憶はないから、初代の丑松なのだろうと思う。
丑松、娘の美(よし)と婿の音松、兼次郎、父實そして、兄新一。
堰は、田圃に水を引くためだが、見た目にも大きな造りで大掛かりな工事だったろうと思う。もっこを担いで村中の人達の手を借り、半年近くも掛かるような。
水量の少ない農閑期の冬にやったのだろうと想像する。
大堰は落差があり、上の川床に大きな石を敷き詰めて堰にし大きく湾曲して1軒半も滝のように下に下がる。
堰の下は、抉れてプールのように淀んでいた。削られないように土手岸も石が積まれていた。向こう岸は、竹笹が生えて下は抉れていた。鯉やハヤの魚影も見られ格好の釣り場になった。夏には、村の子どもたちが毎日のように水浴びに集まった。
その堰から掘に水を引き込む。
堀の傍に遊水池があり葦が群生していた。
そこには、良く軽鴨や五位鷺が来ていた。
堀は、かなり大きく土手は、土が盛られてリヤカーが通れるようになっていた。
子どもの頃に父や母がリヤカーに肥やしを積んで田圃に運ぶのを手伝った記憶がある。
当時は、肥料舎で堆肥を作っていた。それを春になると稲株の残る田圃に運びフォークを使い撒いた。
この堀は、我が家の前を横切っていた。

直径1m程の土管を敷いて土管から出た処で流れを堰き止め洗濯や泥の付いた大根や里芋などの野菜洗いに使っていた。
大切な田圃に水をひく堀であり生活用水の堀でもあった。
先人の知恵だ。
その地は稲沢という部落で、30軒ほどの農村集落だったが、我が家は、富山地方の農家の遣り方を踏襲していた。いろいろな農具も富山地方に伝わるもので、他の農家とは違い独特だった。村人総出で行う屋根の葺き替えや田植えも結いで行い、大切な部落の生活の知恵だったと思う。
田圃は、2丁歩ほどあった。この堀の所々にある小さな堰は、田圃に水を引くために堰き止めたものだ。堰の下は、抉れて小さな淵になって小魚が沢山見られた。
鰻はそこに巣をつくる。
ひやし針は、そこに掛ける。
時折その巣から、鰻が顔を出してじっとしているのが見えた。
また、夏の茹だるような日には、夜に鰻が水を引いた田圃の水面で涼んでいる。
月明かりの下でも容易に捕まえられた。
 叔父は、私よりちょうど10歳年上になる。
 私達兄弟姉妹は、叔父を正男兄ちゃんと懐いていた。
 一番末の叔母と正男叔父は、兄や私と年齢が近く中学校や高校に通う姿を見ていた。
叔母は中学を卒業すると東京の洋装店に縫子として勤めた。
集団就職だ。
頭は良かったが、農村ではまだ女性は進学させなかった。
叔父は高校を卒業し東京に就職した。
今思うに就職してからの叔父は、いくつもの仕事を転々としていたようだ。
 厩舎を持っていた大叔父の縁故で競走馬の輸送運転手だったり、タクシーの運転手だった。
タクシー会社もいくつも変わった。
 少し小柄だが、中学や高校では、喧嘩っ早く祖父母は、いつも心配していたように思う。
 当時農村では高校に進学する家の子は少なかったと思う。叔父は進学し勉強のできは、良かったようだ。
明治生まれの大叔父は、地元の中学校を出て更に東京の鉄道学校に行き優秀だった。
学業を大切にしたのは、祖父の考えだったと思う。
祖々父は実直な人だったと聞くがその兄弟は、どの方も学業に優秀だったようだ。
祖父は、村会議員になり議長も務めた。
私が思いもしなかった大学進学も祖父が薦めてくれた。
 大叔父も祖父も美しい書を書き運動も成績はよかった。
 正男叔父の楷書を見たことがあるが、確りとした書だった。
 DNAだと思う。
 祖母のヨシは、白寿で大往生だったが、正男はそれから数年後に逝った。
 晩年まで祖母は、正男のことを心配していた。
 祖母は、遅れていた正男の結婚にはとても喜んでいた。
結婚式は挙げなかったが、男の子どもに恵まれて安心したと思う。
その後の正男の離婚のことは祖母には伏せた。
お盆と正月には、必ず戻って来た。
 私達には自動車が珍しく自動車で戻る叔父が格好良く眩しかった。
 来ると聞くと楽しみだった。
 数日を過ごして戻るのだが、13日の迎え盆は、家でゆっくりしていた。
大叔父の家族や叔母達も集まり親戚縁者で20人近くになる。
薄暗くなった草道をめいめいに花や提灯等を持ち墓参りとなる。
お墓は萱野にあり、途中畑脇のススキの中でキリギリスや馬追が賑やかに囀り、近づくと一時静かになった。
浴衣を着た妹や東京言葉を真似て話すよそ行きの自分がいた。
女性は、食事の用意をして遅れて行き、その後に宴となった。
親戚の従妹たちも大勢来ていたので、楽しい飲みになる。
戦前東京の子供たちは、10歳位だったが、揃って疎開していた。
彼等は、叔父や叔母達と兄弟姉妹のようにして育った。
正男叔父は、その中では兄貴分なので、従妹を周りに集めて夜遅くまで飲んでいた。
それが、身ひとつで東京に出た人間の楽しみだったのかと思う。
翌日は、街で飲むのではなく田舎の同級生宅に飲みに出かけていた。
飲める口だが、悪い飲み方を見たことはない。
随分と飲んだが最後まで崩れずに紳士だった。
祖父兼次郎は飲むと必ず詠い踊りも披露した。
叔父は、兄や私を大事に扱ってくれた。
貶すことも無く仕事のことや事業のことを聞いてくれた。
父や母にも無体な言葉を聞くことは無かった。
私の知る兼次郎のそして、我が家の家風だと思う。
叔父は、間違ったことが嫌いで喧嘩っ早かったが、偉振ることも無く人の話をよく聞いていた。
そんなことから、男気が強く会社との交渉役に押されたという。
それも職場を転々とした理由のひとつのようだ。
叔父の生き方を見るとその一本気な性格が見えてくる。
夕方に掛けるひやし針だが、捕れた話は殆ど聞かなかった。
ひやし針は、金具屋で求める何号かの鰻用の釣針に凧糸を結わえ捩り50cm程の長さにする。
端を竹に結び土手に刺すようにする。
餌は、太いミミズや泥鰌を使う。
泥鰌のほうが、生きが良くて掛かりが良かった。
私の子供の頃は、その堀もあってひやし針は、随分と捕れた。
掛かったときは、糸が鰻の巣の中に引き込まれ直ぐに分かった。
鰻が、これでもかと凧糸に絡まっていた。
その内に耕地整理がなされて鰻のいる堀や所々の堰が無くなり捕れなくなった。
叔父はそれでも来る度にひやし針を掛けに出かけていた。
その頃は、堀ではなく前の合川にも掛けていた。
私の朝の台所が、心を覗く無心になれる時間のように
きっとひやし針を掛ける時が、叔父の心落ち着く時間だったのかと思う。
仕事のストレスは、誰しもが体験する。
正月や盆に戻り祖父母や従妹達と過ごし、友と語る時間は叔父の宝物だったと思う。
そして、夕方に掛け朝方に挙げに行くひやし針の時間も。
その叔父が逝き10年が経つ。
火振り漁とおなじく、ひやし針も今は聞くことはない。
耕地整理されたコンクリートの堀と何もない広がりの田圃からは、想像だに出来ない。
かつて、ひやし針で鰻が取れたことなど。

孫のこと
黒磯に所帯を持ち40数年になる。二人の娘を持ち、数年前に初孫に恵まれた。男の子で孫がこれほどに可愛いとは思いもよらなかった。土曜日を除くと毎朝我が家に立寄り、夕方には、私が保育園に迎えに行く。2歳と8カ月になる。日毎に言葉を覚え賑やかなことこの上なしだ。私が、婆ちゃん子、爺ちゃん子だったのかと思うが、今更にそれがわかる。藤沢や琵琶池に度々連れて行かれたのもその為だったのだろう。





お母さんは心臓病で亡くなったんだよ。

私の歴史勉強会のグループに藤田信治がいる。グループは近現代史を学ぶ会であるが、彼はつい最近知り合った人物で、熱心な勉強家と思っていた。昭和23年の早生まれで、私の兄と同じ年である。戦後のまだ貧しさの残る頃に生まれた団塊の世代である。知り合ったのは8月初めの頃だから、既に3カ月が過ぎる。彼から連絡があり会う事になった。現在は、SNS全盛の時代である。facebookのお友達申請があり、私の勉強会に参加したいと言う。仲間が増えることは座長の私には大歓迎であった。また、保守系の政党の支持者でもあり、会う事になったのだが、会って彼の特異な風貌と話す内容に少し違和感を覚えた。年齢的にそうなのかと思ったが、非常に律儀である。そして、真面目に日本精神を語り、社会の風潮に警鐘を鳴らそうとしていた。私も同じ思いではあるが、私以上に熱心である。

この県北地区の政治は自民党系がダントツに強い。従来は有名な自民党政治家の基盤であったが、二世になり地元の支持者から離れてしまい、今は、自民党だが別の落下傘議員が地盤を継いでいる。彼は特段魅力的な人物ではないが、小選挙区制と自民党の公認候補ということで既に5期位にはなっているのだろう。近現代史を学ぶと自民党は米国に媚び諂う売国の政党と分かる。それが、農協と通じて保守系の選挙票を獲得している。その環境で米国に対抗する真の保守政党議員を選出しようと言う活動が、彼や私たちの関心事である。パソコンを買換えてZOOMソフトのインストールを教えて欲しいとの事で彼を訪ねた。彼の家を訪ねるのは、3度目だがちょうど昼時の食事時間となり、近くの私の良く知るレストランを訪ねた。いろいろな話をしたが、気心も分かり自分の身の上話をしてくれた。私の知る高校時代の友人の出た僻地の出身だった。2学年一クラスほどの小規模の分校のような小学校だが、そこの出身だと言う。私の同級生の話をするとその家のことは良く知っていた。友人の母親が学校の先生だったと言う。藤田信治はその後に大学に進学したことや結婚を考えた女性もいたこと、長男であったことから家に戻り家督を継いだことなどを話した。牛小屋が家の中にあるような貧しい小さな茅葺屋根の家で当然兼業農家だった。父親は何か商売をしていたようだ。戻った彼は母親から常に家を建てろと急かされていたと言う。大学を出た自慢の息子が羽振り良く家を建てることを考えていたのかと思う。学校の先生になることも一つだったのだろうが、先生の薄給では家など建てられない。当時は不動産ブームで不動産や建築関係の仕事が、華やかだった。それに就職しそれなりに稼ぎ、家もローンで建てたと言う。その後母親との確執から気が滅入るようになり、長年精神病院に厄介になったと言う。15年ほどして、退院することが出来て今があると言う。完全に退院して8年が過ぎる。その話を聴いて、私は回復して社会復帰をしているなら、「その話は誰にもしないように」と念を押して、歴史勉強会のグループに参加するように促した。

歴史の勉強会では、律儀に歴史を語り頭の良いことがわかるが、話す言葉が田舎訛で口調も独特だった。それでも彼はそのような年齢と思われ、徐々に仲間になり溶け込んでいった。私も彼が仲間に馴染み、喜んでいる姿は嬉しかった。9月になり、勉強会の1泊2日の合宿があった。彼は喜んで参加し脚が少し不自由だったが、杖をついて付いてきた。「今まで、一緒に食事をする者もいなかったし、こうやって歴史遺跡の散策も出来て幸せだ」と語ってくれた。カメラが得意で歴史散策の場所場所で写真を撮ってくれた。今も私のフォルダーにその写真が納まっている。

ある時、歴史勉強会の熱心な参加者「佐藤享」に藤田信治から連絡があり、関谷の病院に連れて行くことになったらしい。最初は私に連絡をくれたのだが、私が出られなかったので、懇意となった佐藤享に連絡をしたらしい。藤田と佐藤とは、勉強会の合宿で親しくなっていた。佐藤享は、藤田信治に対する好意から、その病院に案内をしたようだ。

問題は突然に起こった。10月28日に歴史勉強会のイベントがあった。それに佐藤享は、参加する予定だったが、時間に来なかった。確認のために電話をすると「今日は欠席する」と言う。突然のことに驚くと「藤田信治から恐ろしい話を聴いた」と言う。佐藤ともう一人の女性とで藤田信治を誘いその車中で藤田信治から恐ろしい話を聴いたと。彼は斧で母親の頭をかち割り殺したと言う。淡々と冷静に「両親が炬燵で並んで話しており、背後から母親の頭に斧を振り落とした。一度目は母親の頭から外れて肩に当たり、二発目が振り返った頭に当たり母親は死んだ」と言う。その間、冷静にその状況を話し後悔の念も反省もなかったと言う。「彼は完全に狂っている」と。「いつ発狂して人を襲うかも分からない、気持ちが悪くて、一緒にいることが出来ない」と言う。私の全く知らない話に驚いたが、「精神病院に15年間いた」と聞いた話をすると、佐藤は、その非難の矛先を私に向けた。「それを知っていて黙っていたのか」と責める口調に変わった。その時になって、自分が精神病者のことを迂闊に考えていたことに気づいた。嘗ての職場に鬱病から、首つり自殺をした部下がいた。その町は、鬱から自殺をする者が多いことで有名だった。そのことを思い出した。精神病者が凶暴だと言う思いをしなかったことが、私の甘さとなったのかと思う。彼に詫びたが、彼の私に対する非難は止まなかった。

その日の藤田信治に対する私の対応は少しぎこちなかったかと思う。藤田信彦はそれを感じているかと思いながらも平静さを演じていた。どうしたものかと思案しながら過ごした。講演会の終了後にコテージに9人程で集った。反省会だ。藤田信治も参加していた。いつもの彼がいて話題に入っていた。母殺しの話など全く信じられない彼がいた。翌日に彼のことを幾人かの幹部に相談しようと思いながら時間を過ごした。佐藤享が欠席したことから、私がコテージに泊まることにした。日帰りの者3名は9時、10時頃には自宅に戻っただろうか。宴会も盛況に続き夜中2時頃にお開きとなった。それぞれの部屋に各員が休み私は、少し酔いから早めに布団に入った。それでも、2時過ぎの頃には爆睡していた。隣には藤田信治が休んだ。寝首を搔かれても仕方ないと観念してそのまま床に就いた。

翌朝になり、皆が休んでいる中を早起きの私が朝食を作った。時間は、それでも7時頃だったろうか。2時頃まで起きて騒いでいたのだから。コシヒカリの御飯と味噌汁にサラダとベーコンエッグ、納豆、焼サバである。毎回ながら二名の女性陣は寝ていて、調理をしたことはない。確りとした朝御飯に残すかと思っていたが、私が作ったからか遠慮したせいか、綺麗に平らげてくれた。

時間にはチェックアウトし、藤田信治は最寄りの駅まで別の者に送ってもらい、バスで帰宅していった。私は、幹部の者を一人脇に乗せて新幹線駅まで送ることにし、その間に藤田信治の扱いを相談することにした。この問題で相談した者は3名。ひとりは歴史の勉強会とは全く関係のない者で、責任がなく一番相談しやすい者だった。彼は「難しいデリケートな問題だ」として常識的な回答をくれた。「藤田信治の気持ちを汲んで話すことが、大切だ」と言う。幹部の者に話をしたがその時には結論はなく、とりあえず伝えるだけになった。もう一人の鈴木文夫はその日は会社関係のイベントがあり夕方にならないと話が出来ない。その時間まで問題を伝えられなかった。途中コテージに泊まった女性から、電話がかかった。昨夜の出来事を語ってくれた。私たちが就寝した後で恐ろしい音を聞いたと言う。杖で床を幾度も叩き、何度も奇声を聴いたと言う。多分藤田信治だと思う。彼女の言うのには恐ろしい音で何かのトラウマだろうかと言う。彼の母殺しを知っている私は、想像が出来た。「夜中に寝首を掻く」恐ろしい状況を想像した。それを聴いて私の藤田信治に対する考え方が固まりつつあった。幹部の者は家に戻り4時過ぎに連絡が取れ、彼の考えを伝えてくれた。「心配するのは、藤田信治が逆恨みをして座長の私に危害を加えないか」と言うことだった。当然それも想像できる。私だけではなく私の家族に危害が及ぶこともあり得る。私も同じ考えだった。彼の想いには感謝する。鈴木文夫には、夕方になり電話をしたが、その頃には私の気持ちも決まっていた。藤田信治への対応は、歴史の勉強会から退会してもらうが、同じ志を持つ者として個人的には頑張ろうと伝えようと言うものだった。その話し方が重要だが、その点について出来るだけ藤田信治と穏やかに話そうと言うものだった。鈴木文夫も彼の視点から同意してくれた。早速、藤田信治に翌日の午後に会う約束をし鈴木文夫にも一緒に同行してくれることを依頼した。私は鈴木文夫や相談出来た彼らの友情に感謝する。

妻にも相談した。普段は箸の上げ下ろしまで注文を付ける私の妻である。しかし、真摯に相談に乗ってくれた。私の甘さを指摘した。彼女も高校時代には精神異常の友人がおり、散々苦労していた。佐藤享が私に対して黙っていた事で怒りの矛先を私に向けるのも当たり前だと言う。私は再度自分の甘さを思い知った。それでもいろいろと話を聴いてくれた。結論を出すよりも話を聴いてくれたことで妻に感謝したい。時間になり、鈴木文夫宅に伺い、再度話す内容を確認した。私の考えを鈴木文夫に伝えた。母殺しの話を聴いた以上歴史の勉強会の仲間には受け入れられないだろうと言うこと。その意味では退会は避けられない。しかし、日本を憂える思いは同じなのだから、その意味では個人的には関わり会えると思うと。また、鈴木文夫は彼の穏やかな視点から、藤田信治の得意な写真撮影とこれからの時間を楽しんだらよいと話した。私が殆どを話すことにし、何かの時に鈴木文夫が言葉を入れることで段取りが出来た。

約束の時間を少し遅れて藤田信治のアパートに就いた。チャイムを鳴らし「どうぞ」の声で中に入った。いつものように綺麗に掃除がされていて、藤田の好きな藤圭子の演歌が流れていた。彼は、薄幸のそして、自殺した藤圭子に想いを馳せていた。facebookにも幾度か書いている。「今日も藤圭子の唄を聴いている」と。我々は、同じ世代から、藤圭子の話をした。鈴木文夫は「圭子の夢は夜開く」よりももっと明るい歌が好きだと話していた。鈴木の独特の柔らかい話しぶりがその場を和やかな雰囲気にした。一昨日のイベントが盛況だった話や夜のコテージの話などを和やかに話し、暫くして本題に入った。

佐藤享から聞いた藤田信治の身の上話から切り出したが、彼は思っていた以上に感が良く、私が昨夜約束をとった時に既にこのことを感じていたと言う。佐藤享が止めるか自分が止めるかのどちらかだと。藤田信治は、話し始めた。10月27日に突然、佐藤享から電話があり、近くまで来ているので、蕎麦の美味しい道の駅に蕎麦を食べに行こうと言う。自分はデイサービスの予約があったが、断るのも悪いと思い、そちらをキャンセルして同行することにしたと言う。蕎麦も食べ、帰りの車中で身の上話を頻りに聞かれ、話したくないと伝えたがしつこくせがまれてとうとう話してしまったと言う。話を聴くと佐藤享は、「淡々と母殺しを話す藤田信治とは、もう関わりたくない」と。それで佐藤享を通じて知っただろう私の連絡から、また、一昨日の私の態度などから、このことを予知していたと言う。私たちには、佐藤享に話した以上の詳細な身の上話を語ってくれた。ここに藤田信治の人生を記したいと思う。

「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」彼は父の手紙に記されたこの言葉を見て「父の自分に対する気持ちを想い」「どのような思いで小さな山村の集落で暮らしていたのかを思い」涙ぐんでいた。母を斧で殺した時には淡々と事も無く語ったが、父の時には涙が見えた。藤田信治と言うひとりの男の悲しい話と思う。

子どもの頃はいつも父母の喧嘩が絶えず、母親が泣いているのを見ていたと言う。彼の話からは、大人しい父親と見栄っ張りの我の強い母親が語られる。貧しい農家と定職ではないが勤めていた父親の姿が見える。大学に進学した。彼の時代に貧しい家から大学に行くことは無かった。余程勉学に秀でているか、両親にそれだけの子に対する期待がなければ進学はなかったと思うが、彼の言葉に「貧しい中から進学させてくれた」と言う感謝の言葉は聞かれ無かった。頭が良い方とは思うが、どちらだったのだろうか。両親の進学させたいと言う想いだろうと思う。彼は結婚についての話をした。大学の倶楽部だろうか2学年上の女性とプラトニックだが、お付き合いがあり結婚も考えていた。しかし、ある時彼女から手紙が届き今度結婚すると言う。その手紙にはその思いと経過が長々と綴られていて、結婚式に出席して欲しいと言う。彼は彼女に対する恨みは語らなかったが、その時の辛かった気持ちを語った。彼女は母一人子一人で、彼は田舎の長男。一緒になることが出来なかった。大学を出て、東京で勤めることはなく、田舎に戻った。長男だから両親の面倒を見て家を継がなくてはならない。「母親の家を建てて欲しい」と言う言葉が頻繁に話される。彼は、几帳面で営業向きの男ではない。調子よく嘘をついて不動産や家を売ることが出来ない。宅建の免許も取得していたが、営業が不得手だったと言う。当時の金で月額25万円の月収と言うと羽振りが良かったと思う。ローンを組んで家を建て、車のローンやガソリン代、諸々で大変だったと語る。それで当時精神に変調をきたした。変調とは、幻聴が聞こえるようになったと言う。3年ほど職場を休業したと言う。その後再度職場に復帰し、彼の両親と親しく家族ぐるみのお付き合いをしていた家に未婚の女性がおり、お見合いをしたと言う。当時自分には好きな女性がおり、せがまれてお見合いをしたが、途中から用があると言い席を外した。好きな女性と言うのは、彼が別れて辛かったという大学の女性だったのだろうか、その事は確認できない。見合いの後は何の話も無かったので、相手もそれを察してくれたのかと思うと話した。

不動産と建築の会社を辞めて、別の職場に就いた。地元では有名な不動産会社になる。私の高校時代の友人も勤めていたので彼の名を言うと彼を知っていた。40歳代の頃のようだ。精神病院にいた年数が15年、現在退所して8年が過ぎるとすると、母殺しの事件は、53歳の時になる。若い時だったと漠然と思っていたが、違った。ある時から、また、幻聴が聞こえるようになった。一度の幻聴ではないのだろう、幻聴とは幾度も同じ言葉が繰り返し聞こえるようだ。幻聴の天のお告げの言う言葉が、「災いの元は母親だ」と言う。「その母親の頭を斧で勝ち割れなければならない」と。斧など何処にあるのかも分からなかったが、お告げでは納屋の一角に掛かっている。「そうしなければ、ならない」という。行ってみると斧が納屋の端の壁に掛かっていた。そうして、斧を手に取り居間に行くと父親と母親が並んで話していた。両親の年齢は、少なくとも70歳台になるのかと思う。後からだろうか最初の一撃は母の頭をそれて右肩に当たった。次に振り向いた母親の頭に命中した。血が噴き出た話はしなかったがどうだったのだろうか。致命傷とは思うが、語られなかった。直ぐに父親が自分に「逃げるなよ」と話したと言う。そう言われて自分はそこに座っていたと言う。警察が来て、手錠をかけて自分を連れて行ったが、「手錠が手首に食い込んでいないか」と優しく対応してくれたと言う。留置所に入っても「腹がすいてないか」と言いラーメンを取ってくれた。皆優しかったと言う。警察はこれらの状況から、全てを察して、精神異常者の犯行と対応したのかと思う。

彼の話に幻聴に対しての客観的な言葉はない。そして、母親に対する憐憫の情、後悔の念も全く語られない。精神状態は、今もってその当時からの延長にあるのかと思う。常人であれば、決して他人に口外することはないことだが、淡々と母殺しを語れることに恐ろしさを感じる。彼は市内で有名な精神病院に入院した。措置入院と言う。一番最初に対応した医師だけが彼の言うことを理解してくれたと言う。それ以降は自分の気持ちを理解していないと。3年で退所となったと言うが、社会的環境、社会復帰が適わないところから、そのまま入院が延長されたと言う。父親の要請だったと思うと言う。ある時父親から手紙が届いた。そこには「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」とあった。彼はそのくだりになり始めて涙ぐんだ。小さな山村の部落で息子が母殺しの家でどれ程肩身の狭い生活を送っただろうか。その父から「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」という。その事を思うと辛く申し訳ないと思うと語った。初めて彼の言葉に情を見た。殺した母親に対しては、その気持ちは一毛だに見出だせなかったが。彼の幻聴は母親のトラウマからのものだったのだろう。措置入院のまゝの15年は長いが、多分父親はその間に亡くなられたのかと思う。いつ亡くなられたのかは語らなかった。そして、退所して8年が過ぎた。ゲートボールの仲間ができ、写真の趣味も楽しめるようになった。政治的なことに関心を持ち、活動している。小さなアパートだが、年金も精神病患者には割増しとなり、助かっていると言う。

彼との話は、順調に進んだ。彼は佐藤享については、「失望させるからと身の上話はしたくないと、それでも良いかと確認をした」のだが、聞いた途端に彼は、『二度と関わりたくない』と言ったその事を非難していた。鈴木文夫は、「人は理屈ではないから」とその矛先を納める話をしてくれた。彼の穏やかな性格が功を奏した。「病院の先生が自分を理解してくれた」という言葉が示すように「理解することが大切だ」と思う。我々は彼の話す言葉、感情を全く否定せずに受け入れた。藤田信治が私たちの申し出に応じたのもそれが為だったと思う。「歴史の勉強会との関わりは出来ないが、お互いに遺された時間を有意義に使いましょう」、「好きな写真を楽しみましょう」と伝えた。私も写真には少し詳しいので、facebookに乗せた20数枚の写真を見せた。彼はその中の一枚を好きだと言ってくれた。

その後、夜になり彼からは御迷惑をお掛けしたこと、全てのことから一旦離れて考えてみたいと感謝のメールが届いた。佐藤享から、求められた自分が話してはならないことを試されたが、話してしまい失格だと言っていた。何処までも律儀で真面目な性格なのだろうか。一件落着かどうかは分からないが、藤田信治と言う人間の人生を垣間見て、その大きな悲しみに直面したが、人は誰しも悲しみからは避けられないのかと思った。「うはは」、「おほほ」で生きられる人生は良しとするが、人生を生きる意味では、違うのかも知れない。彼に「誰しもがひとつやふたつ、人に語れない悲しみを持っている」と話した。私がそうだからだが、だから、人を責めることなど出来やしないと思う。「母殺しの罪」を背負って生きて来た人生だが、未だその呪縛から逃れられていない。母子のトラウマだが、父親からの「お母さんは心臓病でなくなったんだよ」は、彼の救いの言葉なのかと思う。

2020年10月16日金曜日

命のカウントダウン(笹大輔の闘病記)

私の友人に、笹大輔という者がいます。彼のことを書きたいと思います。この闘病記は、彼がスキルス性胃癌にかかり、癌と闘った記録です。それは、白い巨塔と言える日本の医学界に対峙して、代替療法の漢方やゲルソン療法を実践した記録です。彼は、私よりも2歳ほど若い人物ですが、彼を見ているとまるで自分を見ているように思います。もう、知りあって30年近くが経つでしょうか。とても堅実なそれでいて、冗談のウィットや遊び心をも持つ男です。性格的に緻密さがある反面、常に積極的に考え行動する人間です。それが無鉄砲さと言える一面ですが、その行動力は彼を尊敬する由縁です。趣味も多彩で、スキーや水泳、テニス、そして、絵も描き文章も書き、その多彩な感性は私が憧れるところです。彼は、20代半ばで恋愛結婚し、直ぐに二人の娘に恵まれました。その子ども達は奥さんに似たのか、慎重で学校の勉強もよく出来たと言います。笹は、親から相続するような資産はなく、裕福ではありませんでしたが、二人の娘とも大学に進学させ卒業させることができました。彼は趣味も仕事もそれぞれに極めています。サラリーマンでしたが、上司や部下に恵まれ仕事も上手くゆき、経済的にも順風満帆でした。そんなある時彼は、偶然からスキルス性胃癌を発見しました。65歳の時です。青天の霹靂という言葉がありますが、人生が暗転しました。しかし、懸命に癌と闘い、そして、回復したのです。彼をスキルス性胃癌に命を賭して代替療法で闘った記録として紹介しています。癌から回復しての4年間は、仕事も趣味も心の隅に一抹の不安を抱えながらも楽しんでいました。癌の定期検査の折には祈りながら先生の言葉を聞いていました。しかし、4年後のちょうど今になり手術を行った日に新たな癌が宣告されました。また闘いの火ぶたが切られたのです。私は、笹の闘病の記録を日記形式で書いています。彼の代替療法での癌闘病は、また始まりました。これからも続くようです。

 2020年10月3日土曜日 

再び動き出した時計 

笹は今日で術後4年が経過します。初めの2年間は3カ月ごとにCT検査と血液検査を行っています。経過が順調なところからその後に半年ごとになりましたが、3年目には、国際医療福祉大学病院に検査転院しました。というのは、以前から妻にも言われていましたが、獨協医科大学病院は、自宅から2時間半を要しますが、国際医療福祉大学病院は、自宅から20数分の近さです。それと折よく、MT先生は高知県の病院に転籍することになりました。先生は鳥取県の御出身です。少しでも御出身の郷里に近づくことは、故郷の病院に戻る足掛かりに成るのでしょう。笹は、明るく優しいMT先生の人生が上手くゆくことを願って、感謝のご挨拶をしました。国際医療福祉大学病院の担当医は、中学時代の友人が、胃の全摘出手術を担当した先生を選びました。彼は、私と同じく胃の全摘手術を受けていました。私は、その後転院と同時に内視鏡の検査を行い食道と小腸の接合部を覗いてみましたが、素晴らしい縫合跡でした。笹にとっては、感動でした。

そして、転院から1年程過ぎて、再発の不安を感じながらOT先生からの結果報告を聞きました。OT先生になって、3度目になるでしょうか。今回の結果から、血液検査では異常はなかったけれども、CT検査に肺の画像に異物の影が見えると言います。前回のCT画像と比較しその異物映像を見せてくれました。その結果は癌の兆候のように思われるといいます。OT先生は、この後は肺癌担当のSI先生が担当になるので、そちらで詳しくは話を聞いてくださいと言われました。胃癌診療から、肺癌診療となります。少しの待ち診察室に呼ばれました。SI先生は、若い先生でした。CT画像から、この遺物は8対2で癌か膿瘍(炎症)だといいます。膿瘍の場合発熱などが伴うと言いますが、自分にはそのようなことはありませんでした。現在の状況では、更に検査しなければ分からないと言います。SI先生は、状況を伝えると同時に「切りましょう。」といいます。内視鏡手術ですが、切除の方法は2通りあるといいます。私は、その前に再度検査してその結果を待って判断したいと伝えました。petとCT検査と血液検査を10/7.8に予定しました。他にも肺活量と心電図の検査も行いました。そして、10/10にその結果を聞くことになりました。私はその間肺癌の8対2の確率から、揺れ動きました。その癌でない可能性の2を信じたい気持ちと8の不安とです。

10/10のSI先生の検査結果の判断を不安と微かな望みをもって待ちました。口を開いて出た内容は、「肺癌だという決定的なデータではありませんでした。そして、血液検査でもpetとCT検査でも肺癌とは決められない。」と言います。再検査の結果でも8対2の状況は変わりませんでした。SI先生は、又しても「切る」ことを勧めました。獨協医科大学病院でも、こちらでも「切る」ことを薦めます。外科の先生方は「切る」のが仕事なのです。私にとって彼等は恐ろしい人々です。笹の体感では、肺癌に罹患しているとは思えない。笹はSI先生に提案しました。「1カ月様子を見てみませんか。」と。11月12日が検査日となりました。CT検査と血液検査となります。笹は肺癌治療は切除後に抗癌剤治療が待っていることを知っています。スキルス性胃癌の恐ろしさを知った際も無謀に全摘出さえ拒み続け、温浴療法を半年も続けました。笹は代替療法を信条にしてきました。日本の白い巨塔は、癌の標準治療として「切除」「抗癌剤」「放射線治療」を3種の神器にして来ました。1985年のアメリカの癌学会で抗癌剤の放棄宣言が成されたにも関わらずです。笹は、この度の肺癌の罹患でも代替療法で闘う決意をしています。笹は、スキルス性胃癌のとの闘いで最終的に選んだ切除後の退院の2016年の10/10を術後人生のスタートとしていました。しかし今、新しい癌との闘いのスタートになったのです。2016年からの手記を読み返して、癌に罹患した闘いの当時を思い出しました。笹は、11月12日の2回目の検査までに代替療法で、現在の肺の炎症もしくは癌を改善しようとしています。新たな闘いです。人生は命の時計です。今回、4年後に肺癌の告知を受けて、そのカウントダウンの時計が大きな音を立て耳元で鳴り始めるのを聞きました。

笹は、ゲルソン療法で肺癌と闘う道を選びました。彼の新たな闘いです。ゲルソン療法は、ドイツ人医師マックス・ゲルソン(1881~1959)の治療法で、80年以上にわたり癌や結核など多くの不治の病の患者を救ってきた療法です。俗に「民間療法」と言われます。第二次世界大戦前に不治の病だった結核に対処できた独特の食事療法で、解毒と同時に栄養不足の改善を行うことにより、体内の代謝サイクルの正常化を行います。その結果、体は生命力に満ち溢れ恒常性の保たれた状態、健康を取り戻します。笹は、日本で改良され広まった星野式ゲルソン療法で完治した人々を知っています。ニンジンジュースの作り方を詳細に聞き、スタートしました。次回の検査までの3週間を毎日それを飲用しました。Lサイズのニンジン10本、林檎2個、レモン1個からジューサーで約1Lのニンジンジュースが作れました。癌の愛用者達は、一日1500mlのジュースを3回に分けて飲用します。私は、大変なので1日600mlだけにしました。

2020年11月12日木曜日

癌からの解放

3週間のゲルソン療法が過ぎ、11月12日の検査日が来ました。笹は定刻時間に血液検査とCT検査を行い、SI先生の診察を待ちました。マイクで呼ばれて22番診察室に入り、先生の言葉を聞きました。先生は、「良い結果でした。」と淡々と話し始めました。炎症正常値は、0.0~0.3なのですが、0.20までに下がっていました。あれほど確りと映っていたCT画像の異物は、殆ど消えていました。癌と炎症の8対2と言われていた確率は、2の炎症だったのでしょうか。「切りましょう。」と言っていた口から「良かった。」の言葉が出てきました。「切りましょう。」とは何だったのでしょうか。彼等の感覚なのでしょう。先の先生の薦めに従って切っていたら「炎症でした。」で済ませたのでしょう。笹は、4年前「癌告知」の時に「温浴療法」で闘い、そして又「ゲルソン療法」で闘いました。白い巨塔は、今持って、代替療法を認めていません。統合治療の言葉は無いのでしょう。笹は、癌から解放された喜びに溢れています。あと5年は命のカウントダウンは止まっているでしょう。

癌の告知

2016322日火曜日

5年前のことです。笹は、2016年、2月7日に胃潰瘍になりました。朝の便が黒色で息が上がりやすく、明らかに異常でした。また、大腸のポリープが出血したのかと思いました。ちょうど一年前に黒色の便が出て胃潰瘍を疑い、胃カメラで調べたところ、胃壁からの出血は見つけられず、大腸の内視鏡で調べたらポリープが見つかり、摘出しました。結局は、出血の原因は分かりませんでした。今回も、大腸ポリープかと思い病院にうかがったといいます。「黒色便は、胃潰瘍を疑うのが常識」といわれ、まず、胃カメラで覗きました。内視鏡では、出血の跡があり数か所の潰瘍の爛れが見つかりました。出血跡を焼き、念のために胃粘膜壁を採取しますとのことでした。一週間ほど入院し、これで普通の生活に戻れると安堵していました。24日に、生体検査の結果をうかがい、ピロリ菌の駆除を予定していました。ピロリ菌の話かと思いきや先生から、「生体検査の結果ですが、癌が発見されました。そして、それは未分化型の悪性腫瘍です。」と言われたのです。笹は、それまで頭では、癌はあり得ると思っていましたが、まさか自分がなるとは思っていませんでした。先生の告知に、他人事のように振る舞い、冷静に聞こうとしていたといいます。笹は、健康に気を使い運動も積極的に行い、漠然と80歳、90歳まで生きられると思っていました。突然、命の時計が大きな音を立てて鳴り出しました。カウントダウンの時計です。 

スキルス性胃癌

2016329日火曜日

笹は、担当医からスキルス性胃癌の言葉を聞き、ネットで調べてみました。『スキルス(scirrhous)とは悪性腫瘍にみられる間質が多い癌の一種で、瀰漫(びまん)性に浸潤していくものを指す。硬癌(こうがん)ともいう。語源はギリシャ語のskirrhos(硬い腫瘍)。胃癌、大腸癌や乳癌でこのような形での発育・浸潤がみられることがある。 一塊にならず、正常組織に染み渡るように癌が浸潤するため、病変の表面が正常組織に覆われていたり、病変内に飛び石のように正常組織が残っていることがある。また分化型腺癌と異なり、血管も破壊しながら発育するため、スキルス性胃癌では上部消化管内視鏡で狭帯域光観察(NBI)を用いても病変が茶褐色に描出しにくい(むしろ白色にみえる)。病理学が発展する前、スキルス性胃癌が悪性腫瘍と分かるまでは、一種の胃炎と考えられていたため英語の医学用語では現在もlinitis plastica(形成性胃炎の意)と名付けられている。そして、スキルス性胃癌で亡くなっている有名人には、逸見政孝、成田三樹夫、塩沢とき等の名前がある。』ことが、分かりました。殆ど手遅れの状態で発見され、数カ月で亡くなられているようです。

主治医から、再度生体検査を行いましょうとのことで、3/7に一度目の胃潰瘍の採集壁を中心に採集しました。癌と思われる壁面とそうでないだろうとの周囲の壁面から、都合5か所です。先生も初めてなのでしょうか、「見分けがつかない、分からない分からない」を連発していました。胃壁の内部を浸潤するというように、外見では全く分からないようです。その結果については、3/14に報告を受けることになりました。そして、その日に食道と噴門近くの生体を採集し、同時にCTを撮ることになりました。他の消化器系の臓器に転移をしているかどうかを調べるためとのことでした。そして、「その際にセカンドオピニオンとして、他の病院も紹介してあげます。」とのことでした。「私たち医者は、病状についてはお知らせいたしますが、どの治療の選択をするかは、患者の方の判断になります。」とのことでした。それを聞いて、少し安心をしたようです。

3/18に、特別に主治医の先生が、CTの結果と食道、噴門等への転移があるかどうかの結果を教えてくれました。開口一番「笹さん、ラッキーでした。そちらの採集は陰性でした。同時にCTの結果も陰性でした。リンパ節もまた転移していません。まだ初期の段階といえるでしょう。」とのことでした。スキルス性胃癌は、初期の方では生還している方々を聞きます。笹はラッキーだったのでしょう。その際に、主治医の先生にセカンドオピニオンとして、他の有名な病院を御紹介いただくことをお願いしました。 

友人の勧め

2016329日火曜日

笹が、セカンドオピニオンで推薦をお願いしたのは、県内でも指折りの大学病院でした。それは、笹の幼馴染の友人が、膵臓癌で手術をし2年近くがたち、経過的な治療を受けている病院でした。彼が付き添ってくれて、彼の主治医の先生の診断を受けるために3/22彼と同伴しました。不便なところにあり、最寄りのJR駅から15分ほどタクシーでかかります。さすがに大型病院で、沢山の方々が来院していました。

彼は、その主治医の先生を信頼しており「自分はラッキーだった。」と言っていました。早期の膵臓癌だったことによります。主治医の先生は「私たちは最強のチームです。」と語っていると言います。笹は彼に自分の考えを伝えました。「岩盤浴や免疫力を高める方法で癌と共存する道を選びたいと。」その方法だと全摘出もしないで済むかもしれません。彼は一通り私の考えを聞いてから、「大ちゃん、すっきりと切っちゃいな。切ってから免疫療法をしたら良いよ。切るのが一番だから。」笹の友人知人に話をしたところ、誰一人として自分の考えに賛成の者はいませんでした。「大丈夫だよ、全摘出で元気にやっている人たちがいるよ。」悪気からでないことは、良く分かりましたが、以前から、自分が癌になったら絶対に放射線治療、抗癌剤はやらないことを宣言していました。しかし、親しい友人たち全員から「切れ!」という意見を聞いたときに、気持ちがグラつきました。笹は、ひとりでスキルス性胃癌に立ち向かう心細さを感じていました。

笹は、日本の癌医療のことを聞いていました。切除、放射線、抗がん剤治療を三種の神器にしている日本の医学界、製薬業界、厚労省のこと。笹は「人間は、100人の名医を持つ」のヒポクラテスの言葉から、免疫力のことを知っていました。自分が癌になったら免疫力の力によって、戦うことを誓っていたからです。それが、周囲にそのことを理解してくれる者がいませんでした。 

温浴施設のこと

2016331日木曜日

笹は、5年ほど前から健康食品にかかわっていました。いわゆるネットワークの販売システムを持つ健康食品です。何にでもすぐに傾倒するタイプなのか、学生時代の生物学の知識から、そのネットワークに関心を持ち積極的に活動していました。妻にも健康のために薦め、二人して愛飲していました。しかし、その信念も揺らぐような事態が起こりました。長年、5年の年月を愛飲していた妻が、突然に膠原病かリューマチ風の病気になってしまったからです。そして、今度は自分がスキルス性胃癌です。それまでは「癌になったら、絶対に抗癌剤や放射線治療は受けない。自分はその健康食品を愛飲して治す。」と公言していたから尚更です。改めてその知識の浅はかさを感じました。医食同源といいますが、健康食品が絶対ではないことを知りました。

彼は、その当時に知人の紹介でラジウム鉱石とtera-hertz鉱石による温浴施設を知りました。その社長の人柄とその鉱石の力からそれに関心を持っていました。癌の告知を受けた際に真っ先社長に会うことにしました。3/17です。前回お会いした時と同様に真摯にその温浴施設の効能といくつかの免疫力のプラスになる抗酸化の商品を説明してくれました。私にはラッキーと言えるのでしょう。最新の施設が、自分の自宅から1時間ほどの所にできて開業しているというのです。そこでは、癌の方々が1か月から数週間で改善されているといいます。早速、翌日からそこに伺うことにしました。その施設は、ラジウム鉱石とteraーhertzの温浴施設です。室温を41度位に設定し、90分単位で放射線を浴び体内の免疫力を高める作用を行っています。その間に数リットルの還元水を飲みます。絶えず水素水を体に入れることで、活性酸素を除去することになります。笹は、この方法と食事に賭けることに考えが傾きかけていました。

自分を大学病品に紹介してくれた友人のアドバイスがあります。「まずは、切ってから、免疫療法をやればいいよ。」というものです。しかし、願ってもないことが起こりました。神様に感謝です。というのは、その病院では4月の人事異動時期から実際に手術の予定が立つのが、5月中旬頃というのです。笹には、少なくとも50日間の猶予が出来たことになります。その間を自分が信じる免疫力による抗癌の治療を行うことができるのです。笹は、その時間に賭けることにしました。自分の信念を今まで考えてきたことを、自分の命のために実践することが出来たのです。これこそが、生きがいに繋がるのではないか。 

友人の死

2016331日木曜日

笹には、職場で長年一緒にいた高校の2学年後輩の友人がいました。自分が同じセクションにいた頃には、熱心に寝食を忘れて働く彼から随分と助けられました。マイペースの男でしたが、憎めないところがあり、皆からもOOさんOOさんと頼りにされていました。笹が、定年で会社を辞めた時には、既に家の事情から退職をしており、新しい介護施設を弟と立ち上げていました。もともとが優しい性格のせいか、その施設は順調に推移しており、時折訪ねた折には元気に施設のことや経営のことを話してくれていました。彼は、昔からヘビースモーカーでした。あまり健康的な生活を送ってはいませんでしたが、いつも元気でした。その彼と最後に会ったのは、2年ほど前でした。久し振りに立ち寄ると相変わらず優しく応対してくれて、施設のことを説明してくれていました。しかし、少し体調が悪いようなことも漏らしていました。あまり記憶にはないのですが、何か励まして分かれたように思います。

笹は、この温浴施設に通い始めて1週間位たった頃に、知人の女性が土日の休める介護施設を探していると聞き、願ってもない施設として、彼のことを思い出しました。彼の携帯に日中に幾度か電話をしても繋がりません。諦めて夕方になり、彼の職場に電話をかけましたら、職員スタッフが電話に出ました。「OO理事長は、お出でですか。」といっても、なんか応対がおかしいのです。そのような方は、おられませんというのです。そのスタッフは最近勤めたようで「お会いしたことはないのですが、亡くなられた方でしょうか。」というのです。「えっ!」」と絶句してしまいました。まさか、彼が亡くなるなんて。思いもかけないことでした。時間も夜の8時を回っており、あまり詳しく聞くこともできず、笹は自分の携帯番号を伝えて、弟さんからお電話を頂戴することにしました。翌朝に弟さんから、お電話がありました。話によると、もう2年前になるけれども夏過ぎに体調がおかしいと病院に行き、膵臓癌が見つかったといいます。それから、3ヶ月ほどで亡くなられたということでした。ちょうど、笹が最後にあった直ぐ後の頃になるのでしょう。寡黙な物言わぬ膵臓癌。あっけなく、61歳の若さで亡くなられました。笹の彼に対する想いは特別なものがありました。同じ職場で、一生懸命に仕事をして助けてくれました。幾度も意見の衝突もありましたが、最後は、ついて来てくれました。責任感の強い男でした。その彼がもういない。しかも癌で亡くなったということから、深く考えることになりました。癌は早期に発見することが、一番の治療と言えるのです。現代医療は治療といえるものではありません。一時的な延命治療と言えるものです。QOLという言葉がありますが、現代医療はそれらを蔑にしているように思えるのです。友人の死から、笹は癌と闘う気持ちが、日増しに増してくるのを感じていました。 

温浴施設のHHさんのこと

201644日月曜日

笹は、今日で16日間温浴施設に通っています。これが笹の重要な日課、仕事になりました。車で往復2時間をかけ、正味4時間~6時間の温浴療法を行っています。そこで、毎日会う方々がいますが、その中に70歳代の御夫婦が、おられました。口が重く殆ど御自分のことを語られないのですが、温浴施設オーナーの方の御親戚の方なので、オーナーからお話を伺いました。御主人は73歳になられる方ですが、昨年の暮れに癌が見つかり、お医者様から3ヶ月の余命と言われたといいます。大腸癌が末期で、他には肺と肝臓、リンパ節に転移していたといいます。そして、大腸癌のところにリンパ節が絡んでおり、手術が出来なかったといいます。治療法は、抗癌剤しかないということでした。御家族会議で、余命が3ヶ月なら抗癌剤で苦しい思いをさせないことにしようと決めたといいます。本人には詳細を隠し「先生は治ると言っていた。」と嘘をつきました。温浴施設のオーナーは28歳のときに子宮癌を、35歳のときに大腸癌となり、36歳の小腸癌の時には、3ヶ月の命と宣告されたといいます。朝起きるのに3時間ほどかかり、這うようにして起きたといいます。しかし、抗癌剤はやらずに還元水で命を拾った方でした。癌の生死の苦労をされた方ですので、その方の言葉は重みがあります。笹の温浴施設に賭ける決意の大きな助けとなっています。

ちょうど、そんな折に温浴施設の工事が11月から始まり、工事中でも温浴施設だけは、12月から使用できるようになっていました。御家族やオーナーから勧められ、12月から約1カ月ほど、毎日1時間温浴施設に入ったといいます。そして、沢山の還元水を飲用し休憩時に水素ガスを吸引しました。1227日の暮れに病院で検査を行ったところ、転移していた肺と肝臓とリンパ節の癌が、消えていたといいます。わずか1ヶ月で、そのようなことが起こるのでしょうか。それからもそれを励みに毎日1時間の温浴療法をおこない続け、末期の大腸癌が死滅(石灰化)しリンパ節も問題なくなり、約10cm四方の癌だったようですが、正月明けに切除できたといいます。体重も40kgで目も落ち込み、がりがりだった体もいまでは50kg代に戻ったといいます。現在は人工肛門ですが、少し体力が戻ったら大腸から肛門に繋ぐ手術を行うということでした。この病院は、県内でも一二の有名な病院です。

笹は、この4/8には、3/31に行った生体検査の結果を主治医の先生から聴く予定でいます。毎日、1時間の温浴療法で1カ月で成果が出るのなら、毎日46時間をかけている自分にも何らかの改善の結果が出るだろう、出て欲しいと願っています。笹自身のスキルス性胃癌にも効果があるのかは分かりません。未知の世界です。考えてみれば、人生は何一つ決められた道があるわけではありません。思い込んでいるだけです。先のことは全てが未知です。それならば、光明をめざして信念で生きるだけです。 

温浴施設のHさんご夫妻のこと

201647日木曜日

今日は、笹が温浴施設に伺うとオーナーが、開口一番「笹さん、聞いてくれる。」と話をしてくれました。「凄い話だから。」と。近くの街から来ているHさんご夫妻のことだといいます。御夫婦ともに癌にかかっており、奥様は胃癌を摘出されて抗癌剤治療を行っているのですが、こちらの温浴治療をうけて随分と体調が戻ったといいます。オーナーの話では、旦那さんが膵臓癌でそれが末期のために手術も出来ない状態だといいます。また、周囲の肝臓とリンパ節に転移していて、それらのことから、余命は殆どない状態だった所で、この温浴施設に通い始めたといいます。1月~3月に掛けて、通っていたといいますが、初めの1ヶ月は順調に通うことが出来て、体調も随分と良かったようですが、その後にインフルエンザを患い、体調が悪くなり大変だったといいます。体が弱っているからでしょうか、少しのダメージでも影響を受けるのでしょう。2月~3月は、週に幾日かの来館だったといいます。それが、今日そのHさんご夫妻が、来られての話では、ご主人の転移していた癌が、綺麗に消えたというのです。県内で一二の病院の先生が、頻りに首をひねって「どうしたんだろう?」このようなことは、起こりえないんだけれども。」膵臓癌も浸潤が止まり「これならば、東京の著名な大学病院で摘出の手術が出来るかもしれない。」と言ったというのです。温浴施設は、ラジウム鉱石とテラヘルツ鉱石の岩盤浴です。温度を41℃44℃に保ち、その岩盤の上で、約1時間放射線とテラヘルツ線を浴びて20分の休憩を行い、通常は2回~3回ほど繰り返します。体力のない方は1回~2回で終了です。そのような内容でもそれだけの効果を齎すのです。そのような話を聞いて笹は勇気づけられました。笹の岩盤浴は賞味5時間です。長く放射線を浴びることが、癌の抑制にはいいと考えて、また、体力が問題なければ大丈夫だとも聞いていました。その考えが大きな事故となりました。

 

笹の過ち

201647日木曜日

笹は、今日でもう19日間、この温浴施設に通っています。初めの2日間は入浴のマニュアルに基づいて、30分に10分の休憩で3回程、そして次にもう3回の入浴です。都合3時間の入浴です。ところが、知りあった方々から体力のある方は1時間30分ぐらい続けて入り、それから、30分ほど休憩していると聞いたのです。HHさんのお話から、毎日1時間の入浴で1ヶ月で転移の癌が消えるのなら、自分は5時間入ればその効果は、もっと早く出るだろうと考えたのです。しかも、4/8には3/31の生体検査の結果が出るというのだから、入浴に励もうと考えたのです。ところが、4/6にその事故は起こりました。笹は少し貧血気味の体質でした。その笹が2回目の入浴から、出てきた時に事故は起こりました。笹は貧血で倒れたのです。笹は今でも当時の記憶が定かではありません。笹は翌朝自宅で目を覚ましました。何があったのかが分かりません。妻の話では、温浴施設から夜の7時頃に出てきて倒れたといいます。その日の記憶が飛んでいて、その日の予定や自分が何故ここにいるのかが分からずにチンプンカンプンなことをオーナーに話していたといいます。取り返しのつかないことになってはいけないと、オーナーが自宅まで車で送ってこられ、床に休んだといいます。ところどころは、記憶はあるようでしたが、記憶に残らずにその日のことから、今朝までのことは全く忘れていました。オーナーや妻の話から、自分の状況が分かりました。ただ、記憶にはないことでした。温浴施設から7時頃に休憩に出てきて、倒れたといいます。その際に、目じりを切ったようで、バンドエイドが貼られていました。「何故自分がいるのか。」「自分は癌なんですか。」とか、帰りの車中でも妻に10分おきに電話をかけて、同じことを繰り返していたといいます。話を聞いて、かつて笹の父がバイクの事故で記憶をなくした時と、同じような状態だったのかと思いました。

笹は、翌日近くの脳神経外科に行くことにしました。診察をしてからCTを撮りました。異常はなかったようですが、「倒れた時に頭を強く打ち、そのショックから、一時的な記憶喪失状態になったのでしょう。」ということでした。オーナーは、縁故者に医者が多くいることから、脳に腫瘍がある方は、そのような事を口走るので、それを心配していて、「必ず病院に行きなさい。」と言ってくれていました。笹は、腫瘍の可能性を先生に聞きましたが、「CTからはその兆候はありません。」ということでした。「車の運転は大丈夫でしょう。」とのことで、妻は安心してくれました。「温浴施設は、数日は休んだ方が良いでしょう。」との勧めから、数日は休むことにしました。笹は、直ぐにのめり込む性格から、今回の温浴療法もたくさん浴びた方が、治療効果があるとの思い込みから、毎日、5時間の入浴をノルマにしていました。それが、知らず知らずに体力を消耗させていたのでしょう。かつて、サウナが、好きで通った経験がありますが、精々2時間と冷水でした。5時間もの入浴と還元水で解毒をするのは、笹の体力には無理があったのでしょう。次からは、34時間程度の入浴とそして、休憩を増やすことにしました。未知のことは、このような過ちを犯すのでしょう。しかし、4/8の検査結果は、どうなのかが気になるところです。他の方々の1カ月分の放射線療法を行ったことになります。


温浴施設のTさんのこと

2016411日月曜日

笹は、温浴施設で倒れてから、初めて温浴施設に行きました。4日間ほど、休みました。オーナーや友人から、倒れた原因をいろいろと言われました。今思うと脱水症状だったと思います。脱水症状は、意識朦朧となるといいます。還元水を補給はしていましたが、塩分を摂取することもしていませんでした。そして、温浴施設内で仕事関係の本を読みふけっていました。オーナーから「温浴施設内は、リラックスしなければいけないのに、一番良くないことだ。」と叱られました。

ひさびさに伺うと関西からきているTさんにお会いしました。すごく元気な方ですが、癌の症状を聴くと大変な癌を経験しているようには思えない、とても気丈夫な方だと思えます。6年ほど前に乳癌が見つかり、大阪の有名な病院で摘出したといいます。その後、再発がないように時折検査をしていたといいますが、2年後に脳と子宮に癌が見つかったといいます。ペットによる検査でした。その後に正月を挟んで、MRIで再検査しましょうということになっていたのですが、その間に以前より知っていたこちらの温浴施設に来て、ミネラル水と水素ガス、そして、温浴療法で、治療を行ったといいますが、戻りMRIで調べた結果、その転移していた癌が消えていたといいます。主治医の先生の話では、検査結果が、異なることもありますということでした。また、その後に4年ほど経過して、食が通りにくくなったといいます。いろいろな検査でも癌の再発の結果には繋がらずに1年ほどが、経過しました。そんな時に再度、大阪の病院にゆきCTで調べたところ乳癌が食道の周囲に5cmほど、絡み付いて発症していて、それが、食が通らなくなった原因と分かりました。摘出することも出来ずに余命6ヶ月と宣告されたといいます。

Tさんは、こちらの温浴施設で治そうと思ったといいます。こちらに来てから、食道が広がり、食も進むようになりました。現代医療の最先端よりも体験的なこちらの温浴施設で、治そうと考えています。薬事法等のしばりから、厚労省の認めない治療はその効能を謳うことが出来ません。Tさんは、癌と共存関係でも人間らしい生活が出来ればいいと考えています。「流動食で食道からチューブで食をとるよりも人間らしい死を選んだほうが、良いじゃないですか。」と考えています。笹はその考え方に共感を覚えています。現代日本の医療は、切除、抗癌剤、放射線治療の3つの治療法に加えて、第4の治療法として、免疫療法があります。笹は、はるかに力のある治療法として、人間が本来持つ免疫力を高める処方があると考えています。笹は、Tさんに「必ず治りますよ。私も信じています。」と気持ちを伝えました。それは、自分自身への励ましの言葉でもありました。

 

友人を温浴施設に伴う

2016414日木曜日

昨日、笹に大学病院を紹介してくれた彼から電話がありました。笹が、通っている温浴施設に行きたいというのです。彼は、初期(ステージⅢ)の膵臓癌だったようで、膵臓の尾のところの癌だったことから、摘出も容易にでき、現在は4週間の抗癌剤と2週間の休みのクルーで抗癌剤治療を行っています。手術を行って2年半が経過しています。再発を防ぐために行っている抗癌剤治療ですが、計算するとこれからも4年近くを抗癌剤にお世話になるようだと言っていました。彼は、根っからのスポーツマンで、男義の強い人間です。数パーセントしか生存率がない膵臓癌にかかり、人生観が随分と変わったといいます。最近は、こどもの頃の夢を見るといいます。幼馴染の友達が出てきて、昔のことを夢で思い出すようです。笹は、スキルス性の癌だと言っても、まだ体の不調を感じてはいません。その点では気が軽いのかもしれません。温浴施設まで片道で約1時間かかります。その往復の間いろいろと話をしました。彼の不安な気持ちを聞いて、彼の外見と気持ちが、異なることを感じました。彼も人の子です。笹と彼とは、幼馴染です。彼は、スポーツ万能の餓鬼大将で、笹は、大人しく内向的な子でした。学年では、成績が良かったせいか、誰からも苛めれることなく、特に彼からは、一目おかれていました。タイプは違うのですが、どこか通じるものがありました。昔流行ったマンガにデビルマンがありますが、笹は、その漫画の主人公と友人の関係の印象を持っていました。特に二人は、いざという時に意気投合してきました。200人ほどの中学の同級会の幹事を二人で毎年行っています。何らかの深い縁なのでしょう。

温浴施設に着いてからの彼は、いつもの本領発揮で、オーナーと直ぐに親しくなりました。ザックバランの彼は、誰とでも親しくなります。サウナの好きな彼は、この温浴施設が気にいりました。普通の遠赤外線の低温サウナは、精々入れても1時間です。しかし、この温浴施設は、休憩をはさんで、何時間でも入っていられます。しかも汗の発汗量が半端ではなく、そして、すがすがしい汗をかきます。彼は、盛んに「気持ちがいい。気にいった。」と話していました。笹は、この温浴施設に通い始めてからは、眠りが深くなり、さわやかに眠りに付くことが出来るようになり、眼覚めも爽やかになりました。笹は、彼を伴ったことを良かったと思いました。彼は、5年で7%の生存率の癌にかかり、不安な気持ちでいます。笹もスキルス性胃癌という、モンスターに魅入られました。二人の運命は神頼みですが、どこまで悪運が強いのか、神のみぞ知るです。彼は、道中「スキルス性胃癌は、早期なことがラッキーなんだから、バッサリと切りな。」と何度も言っていました。4/1819が、笹の検査入院です。笹の選択は三択です。ひとつは、癌が小さくなっており消えていること。そして、切らないで、最終的に完治することです。もう一つは、癌の進捗度がステージⅠ、Ⅱの場合で、もう少し温浴療法を継続することで切らずに済む道です。最後のひとつは、セオリー通りに予定日で手術を行い、胃を全摘出することです。笹の運命の日が、数日後に迫りました。笹は、残りの3日を確りと温浴施設に通う予定でいます。切らずに済む結果が出ていることを願って。

 

大学病院の検査結果

2016419日火曜日

笹は、友人から紹介されたセカンドオピニオンの大学病院にお世話になっています。すでに2回ほど伺っているのですが、一度目は3/22です。最初に癌を見つけてくれた病院の資料を持参した時です。見つけてくれたのは優れた先生でしたが、他の病院を暗に勧めてくれました。友人の勧めた大学病院を選びました。そして、3/31に放射線内視鏡の検査と9か所の生体検査を行いました。そして、今回4/18が追加のバリウム検査と内視鏡の検査です。笹は、主治医の先生に自分が受けている岩盤浴等の統合治療を話していましたので、主治医の先生もその結果が分かるかもしれないと思っていました。3/31の放射線内視鏡と生体検査の結果を併せて、大学病院のチームの判断結果を伺う日になります。

内視鏡検査は、数人の先生方が揃っていろいろな所見を述べながらの検査となりました。先生方の放つ会話から、笹の癌の状態を知ることもできました。アーリイ(early)とか、1bとかの言葉から、初期であることを思いました。また「良くこの段階で見つけたね。」とも言っていました。笹も内視鏡の画像を見ながらですので、以前の内視鏡検査時との変化も感じました。カメラが違うのか、以前よりも胃壁が荒れているような印象を受けました。笹は、進行しているのかもと不安に思いました。バリウム検査は、鼻からチュウブでバリウムを胃に送り、レントゲンで状況を見ながらのエックス線写真撮影でした。町のバリウム検査と違って大変な作業です。綺麗な画像を撮ろうとしていました。いくつかの採血もあり、全てが終わったのは、17時近くになりました。検査入院でしたので、ベットにホッとして横たわりました。全ての検査結果から、主治医先生と「チームで総合的な判断を話し合い、その結果をお伝えします。」と話してくれました。「どのような結果が出るのか。」不安の想いが、笹の脳裏に幾度も繰り返し襲ってきました。

20時を過ぎたころに、主治医先生が部屋に訪ねてきました。近くの事務室に案内されて、検査結果を伺いました。進達度(病変の深さ)は、粘膜下層まで及んでいます。それをT1bというのだそうです。胃壁は5層からなっているので、浸潤はその1bの所なので、初期の粘膜層で済んでいるようです。胃壁の小弯(くびれ側)に病変が広まっていて、食道近くの上部まで及んでいます。大弯には、見られないとのことでした。そして、以前の病院で聞いていた未分化型ですが、これは、印鑑細胞癌というようです。これは、広がりやすい癌ですが、他にも中分化組織型もあると言っていました。主治医の先生は、盛んに”顔つきが悪い”と言っていました。この言葉は、聴いたことがあります。癌に顔つきがあるとは、面白いと思っていましたが、顔つきが悪くても大人しい癌もあるし、良くても悪い癌があると聞いていました。この度のバリウム検査の結果も知りたかったのですが、あまりにも初期であることから、分からなかったといいます。スキルス性胃癌は、成長すると硬くなるので、バリウムで浸潤の広がりが分るといいます。残念ながら、今回は目で見るだけの経験上の判断となったようです。笹は、ネットで調べたステージの進捗度を聞きました。それは、3つの総合判断になると教えてくれました。TNMです。Tは、進達度です。胃壁の5層のどこまで及んでいるかです。それは、1bでした。次は、Nですが、これは、リンパ節への浸潤です。CT等で調べることができますが、それは現在のところ及んでいないとのことでした。Mは、metastasis   の訳でしょうか、遠隔転移といいます。他臓器への転移です。これは、陰性です。これらのことから、ステージと教えてくれました。「ステージは、普通95%の生存率になります。悪性の癌ですので、転移しないうちに一刻も早く切除することを勧めます。」と癌の進捗状況と手術の必要性を教えてくれました。「僕らチームとしては、手術を強く勧めます。」「しかし、最終的な判断は、笹さん御本人の意思ですので、最大限に尊重します。」「どのような判断をされようと最後まで、サポートします。」手術は、全摘出になり、食道と小腸を繋ぐことになり、3週間の入院で済むようです。「胃がなくなることから、食生活は変わりますが、腹腔鏡手術で行うので、人体のダメージは少なくて済むので、体力的には数か月で戻るでしょう。」とのことでした。最後に先生に確認で伺いました。「もし、この後に進行し転移したらどのような治療法になるのでしょうか。」と。それでは、抗癌剤治療になりますとのことでした。岩盤浴の治癒している、余命数カ月の方々の癌は、末期癌であり、アカデミックな医療が見放した方々です。笹は、初期の癌です。転移していたら、岩盤浴をおのずと選んだでしょう。

笹は、これらのことを伺い、先生に感謝しました。主治医先生は、30代の若い方ですが、良心的な素晴らしい方でした。と同時に3択であった結論が難しくなったことを知りました。岩盤浴の成果が、明確にわからなかったことによります。残るは、「予定通り手術か」、「1か月ほど手術を待っていただくか」になります。岩盤浴のオーナーには、「手術をしたほうが良いのではないか。」と勧められました。それほどにスキルス性胃癌は、恐ろしいのかと思います。先生もこのままですと進行は、数か月で死にいたることもあるといいます。ステージが早い段階でもリンパ腺や血管から、転移の可能性は少ないながらもあります。アカデミックな日本の医学界で育つ彼らは、当然の回答です。免疫力のアップによる治療法を医学界は、そして厚労省、製薬会社は、認めていません。標準治療としては、切除と抗癌剤と放射線治療の3つしかありません。笹は、妻や娘に結果報告をしました。妻は、温浴施設の結果から、「検査時でまだ12日間しか経ていない時だから、1か月から2カ月でないと分からないでしょう。」と言っていました。娘は、早期癌だということで、安心しているようです。

今朝ほど、教授回診がありました。TVドラマで見るような若い先生方を従えての回診です。笹の病状のことを主治医の先生が、説明をされていました。その中で岩盤浴のことを話したのですが、教授は、「岩盤浴で治そうとする方は、初めて聞きました。」「手かざしで治す方とかもありましたがね。」と仰っていました。「岩盤浴で治ったら私たちは干上がってしまいます。でも、御本人のご希望でなされたら良いでしょう。」と話されました。以前の病院でも癌を見つけてくれた先生も同じことを言っていました。「免疫力アップの療法で治るなら、その治療法が、広がっているでしょう。」と。アカデミックな病院の先生方のスタンスなのでしょう。

 

病棟での会話

2016419日火曜日

教授回診がすんで、隣のベットの方々(男性)の話を聞かずともなく聞いていました。昭和20年と18年の生まれといいます。20年の方は胃癌で、抗癌剤治療を行っていました。18年生まれの方は、1か月に一度の入院を、すでに36回ほど行ったといいます。手術が出来なくて、抗癌剤治療の他には、治療方法はないといいます。子供たちも寄り付かないで、妻だけが、見舞いに来ているといいます。「悪いことしていないのになぜこんな病気をもらったのか。」と嘆いていました。笹は、自分が行っている温浴岩盤浴のことを話したい想いになりましたが、止めました。普通の方々には、理解されることはないでしょう。

笹は、今回の癌を患ったことから、「日本癌列島」という言葉を使いました。自分も含めてですが、癌を患う方々が、周りに満ち溢れています。55歳を過ぎたら、二人に一人は癌だといいます。なぜ、日本のような高度医療国家が、癌を撲滅することが出来ないのでしょうか。厚労省を頂点とする製薬業界、医学界のトライアングルを感じています。今回癌に侵された笹にもアカデミックな医科大学の先生方の言葉は、重たく感じました。しかも真摯に自分に対応してくれる若い先生の言葉です。しかし、ヒポクラテスの生体恒常性(自然治癒力)のことを語ることは少なく、殆ど知識としては持っていないように思います。癌が、発生する生活(食・衣食住の空間)等を語ることを聞きません。漢方や免疫力による治療法からは、人体を温めることが大切なことを聞きます。笹は、今朝の教授回診から、アカデミックな医学界が、巨大な組織となっていることをまさに感じました。白い巨塔です。優秀な若い先生方がその枠組みの中で成長してゆきます。

笹の決断

2016419日火曜日

笹は、大学病院の病棟で、信頼できる若い先生からの説明を幾度も反芻して理解しようとしていました。彼らチームの先生方の結論として、強く手術を勧めていること。しかし、アカデミックな医学者の言葉が、自分の信じる「人の持つ免疫力を活かすこととは、大きく異なる。」ことを理解していました。幼馴染の彼や周囲の人たちは、その医学の力を信じています。笹も妻もそれらの考え方に懐疑的でした。切除は、あり得ると思っていますが、抗癌剤、放射線治療は、その効果もQOLの観点からもどうなのかと疑いを持って見ていました。しかし、殆どの人々は疑うことを知らずに従っています。今朝の隣のベットの方々のようにです。何年も抗癌剤治療を続けています。それらを思うにつけ、笹には「温浴施設の治療が、その人間の持つ免疫力を証明している。」ように思えるのです。

笹は、家に戻り妻へ大学病院の若い主治医先生の説明を行いました。ステージⅠという初期の癌であること。今切除すれば、95%の成功の可能性があること。放置すれば、進行度が早いスキルス性癌は、ステージであってもリンパ節や他臓器への転移の可能性もあること。しかし、胃全摘出であっても腹腔鏡手術であれば、ダメージも少なく数カ月で社会復帰が出来ること、等々と詳細に伝えました。初期であることがラッキーだということも。そして、最後に笹本人の考えを伝えました。「1ヶ月の猶予をもらい温浴治療の経過を見たい。自分の信じる温浴施設で癌を治したい」と伝えました。笹は、その温浴施設で末期癌と宣告された方々と毎日のように会っています。一緒に数時間を過ごしています。その方々の肝臓や肺やリンパ節への転移が真っ先に治癒し、余命宣告された癌も石灰化し切除することが出来ているのです。しかも僅か1ヶ月程の間にです。初期である笹の癌が、いくら顔つきがわるい癌であっても「必ず治る」と思えるのです。笹は、そう決めるとますます、温浴施設で治る自分を感じていました。

笹の気持ちは決まりました。妻や娘が、そして、親しい友人も理解を示してくれたからです。娘を一度その温浴施設に連れてゆきました。その温浴施設を体験して、その力を信じているようです。笹には、身近な者の理解が必要でした。ひとりで癌と闘うには、辛いものがあります。明日には、大学病院の主治医の先生に1ヶ月の猶予とその経過の進行度合いのチェックをお願いすることにしました。先生の説明では「温浴施設の効果をはかるには、内視鏡とCTでの他臓器、リンパ節への転移を調べる方法でしょう。」ということでした。それもお願いするつもりでした。

 

笹の決意

2016421日木曜日

笹は、妻との話し合いの結果を大学病院の先生に電話で伝えました。温浴施設に向かう車中からでした。ちょうど、手術前で時間がなく、こちらの想いを伝えきることはできませんでしたが、「先生方チームの強い手術のご提案を感謝しながらも、手術はキャンセルします。」と伝えました。先生もある程度は予想していたようです。最後に「今後のことについて、また電話をしましょう。」ということで終わりました。少なくとも1ヶ月~2ヶ月の後には、癌の進捗検査をお願いすることになります。「温浴療法で、どこまで治癒しているか。」です。

笹は、親しい友人たちにも自分の決意を伝えました。「予定の手術をキャンセルし、温浴療法で治すこと。」をです。それぞれが、家族との話合いの結果だからと意思を尊重してくれました。「気の済むまで、やって見たら良いよ。」そんな言葉を返してくれました。一番伝えにくかったのは、大学病院を勧めてくれた彼でした。病院のステージⅠの検査結果を伝えた時も「入院病棟が分かったら教えてくれよ。」と言っていた程です。彼は、黙って聞いていました。笹は、彼の心中が良く分かりました。手術は、笹自身が決めることです。彼が、残念な思いでいることが、手に取るように分かりました。

笹は、これまでに25日間、温浴療法に通っていました。「自分の力で治す。」と腹を決め「これから数か月をかけて、温浴療法で治すぞ!」の強い想いでいました。決意と同時に新たな闘う力が、湧いてくるのを感じました。大学病院の選択肢のなかに代替医療は、ないと云えるでしょう。笹の知る幾人かの先生は、温浴療法の施設を訪れています。大学病院の乳腺科の先生ですが、切らずに済ますことが課題となっているからでしょう。しかし、教授回診で教授が「岩盤浴で治ったら、私たちは、干上がってしまいますよ。」と話されたように、温浴療法は、アカデミックな病院では、あり得ない治療です。ある知人から聞いた医者の話では「スキルス性胃癌のステージⅠのエビデンスは、学会でも殆ど例がない。」といいます。それほどに見つけるのが難しいといいます。「良く見つかったね、ラッキーだよ。」と仰っていたといいます。

笹は、その稀なラッキーな人間です。笹は「これからの2ヶ月で、自分の癌を無くそう。」と決意しました。温浴療法を3/18にスタートしてから、3カ月です。そこでは、余命数カ月の人々が、12ヶ月で治癒の結果を出しているからです。そして、自分の温浴施設での治療方法を克明に記録することにしました。何時間の入浴で、還元水はどの程度飲料して、体重の推移、云々ということです。笹の治癒する事例・記録が、大学病院の若き優秀な先生方の目前の奇跡・事実として、認知されることで、代替医療が、現代医学のなかに確立されることを考えました。たった一つの事例では、アカデミックな医学会には、通用しないかもしれません。厚労省と医学界、製薬業界の組織を守る思惑に特異例として潰されてしまうかもしれません。しかし、それが、笹が65歳という節目の年齢で癌になった理由のようにも何故か、感じていました。

 

温浴施設の驚きの結果

2016423日土曜日

温浴施設に通うことは、笹の日課です。今では、往復2時間と温浴施設での治療が、4時間の6時間を費やしています。笹は、仕事になったといいます。温浴施設で過ごす時間は、気持ちの良い極楽の時間です。土日は、仕事の都合から、朝8時~13時までの施設利用となります。一度、長時間入りすぎて脱水症状で倒れてからは、30×3回のクルー、各15分の小休憩も入れての2時間となりますが、それを2回繰り返すことが体力的にも良く、一番に気に入っています。今日は、いつものメンバーで午前中を過ごしていました。73歳のHHご夫妻、そして、MYさんと笹です。お互いに静かにそして、時折話をしながら静かに温浴を楽しんでいました。HHご夫妻は、いつも1時間ちょっとで終了します。そして、マッサージと水素ガスを吸引して、正味2時間ほどで帰られます。余命3カ月から、今では、すべて転移癌も結腸癌も消えてしまい、健康になりました。僅か数カ月間のことです。

笹が、施設内にひとりになった時に休憩室が、何やら急に騒がしくなりました。何事かと心配していましたら、オーナーとMYさんが、温浴施設に入ってきました。電話は、笹が、初めてこの温浴施設に来た時にお会いした関西から来ていたTさんのことでした。Tさんは、別の個所にある温浴施設で、昨年の10月末~の数か月とこの3月~治療に励んでいました。時折、この施設にも来られて滞在していました。彼女は、ノートの初めで詳しくご紹介いしていますが、余命半年と言われ、死亡保険を適用してもらい、その保険金で施設治療に励んでいました。関西の有名な病院の抗癌剤治療を断って来ました。当初は、喉に広がった癌で、食事も喉を通らずに病院に駆け込んだといいます。オーナーから「良くなっているかどうかを心配しているよりも検査を受けた方が良いですよ。」ということで、乳癌では、県下でも一番の病院に昨日から今日まで、検査入院をしていたと聞いていました。その結果を電話で受けたようです。

MYは、感動から泣いていました。結果は、驚くべきものでした。数ケ月前までは、うどん1本ほども喉を通らずに余命数か月と言われていた彼女の癌が、すべて消えていたというのです。全国でも有数の乳癌の権威である先生の言うことには、どこにも癌は、見られないというのです。乳腺にも、嘗て転移していた脳と子宮にも、そして、今回致命傷となっていた食道に纏わりついていた癌もです。それらが、跡形もなく消えていたというのです。その後もTさんからオーナーに、幾度も電話がかかってきたといいます。嬉しさから、その気持が抑えきれなかったのでしょう。初めて笹と話した時、彼女は開き直っていました。かつては、大きな塊を食べることも出来なかった食道も、少しずつは広がっていました。でも、治るという確信までは、至っていなかったように思います。それが、この検査で癌が皆無となったのです。その嬉しさは、人生で一番の神様からのプレゼントになったものと思います。

笹は、オーナーから電話で聞きました。「一番の効果は、温浴施設と還元水の解毒だと思う。」と。そして、この温浴施設での温かい励ましの環境だと。たくさんの治療効果「余命幾月かの人々が治っている。」という希望です。温浴施設は、何にでも効果があるようです。膠原病やリューマチ、糖尿病、鬱、そして、癌(末期癌)、・・・・。まだ、数カ月の施設ですが、100名程の方々が、利用しています。そして、確実に結果を出しています。オーナーから、次は、笹とMYさんの番だよと言われました。笹は、治すことをストレスにしてはいけないと思いながらも、治る自分を想像していました。

 

MYの不安

2016425日月曜日

笹が、いつも出会う温浴施設の仲間にMYさんがいます。御家族の愛情を一身に受けて育ったことが一目でわかる、素直で気持ちの優しい女性です。笹よりもちょうど一回りほど若いでしょうか。彼女は、昨年の町の検診で、たまたま依頼をした癌検診を受けて、分かったといいます。その他の検診は、受けずに唯一受けた胆嚢の検診でした。ラッキーだったといいます。胆石として、見ていたのですが、胆管癌と分かり、摘出しました。そして、CTからは、肝臓とリンパ節に転移しいるのが、分かったといいます。それらは、摘出できずに、抗癌剤治療になっています。抗癌剤を毎週ごとに点滴で受けており、受けてから数日は、苦しいようです。

彼女は、先にご紹介した73歳のHHさんご夫妻の姪になりますが、伯父さんからこの温浴施設をご紹介されて、通いはじめました。その時に初めて、伯父さんが、余命3カ月だったこと、そして、現在では、奇跡的に回復していることを知りました。笹よりも、約1ヶ月ほど前から通っていることになります。彼女は、この温浴施設に通うようになってからは、抗癌剤の副作用が、軽くなっているように感じています。しかし、抗癌剤が、副作用として、免疫力を低下させることを聴いているのですが、抗癌剤をやめることが出来ません。この温浴施設と還元水だけにすることに、不安を感じています。病院の先生方の確信のある言葉は、重たいのです。彼女にプレッシャーを掛けないよう、それとなく抗癌剤の副作用のことや温浴施設の免疫力効果について、話して上げています。徐々に理解をしてきています。次の5/13CT検査を受けるまでの間は、少し抗癌剤を休むので、その結果を待って、暫く投与を休むことを提案したいと話してくれました。その結果が少しでも良くなれば、抗癌剤投与を休むことが出来ると考えています。それは、彼女の成長です。

温浴施設のオーナーは、抗癌剤を止めた方が良いと考えていますが、彼女へのプレッシャーにしたくないと言っています。笹も同様です。彼女の次の検査で、少しでも経過が、良い方向に推移していることを願っています。

 

温浴施設のYSさん

2016425日月曜日

笹が、温浴施設に通い始めて会った女性にYSさんがいます。彼女は、キャリアウーマンです。保険の外交が、性に合っているのでしょうか。もう仕事をしなくても良い年齢であるのに、毎日のように仕事の合間を縫っては、温浴施設に通っています。彼女の話では、膠原病だといいます。膠原病は、何種類かがあり、リューマチとは、似ているけれども違うといいます。

彼女は、昨年の秋に突然、症状が現れたといいます。体中が痛く、手の指が曲がってしまい、動き始めるまでに大変な想いをしていたといいます。先生から、痛み止めの薬は頂いているが、ステロイド系の薬は、副作用があるので、飲んでいないと言っていました。昨年の秋には、まだ、この温浴施設は出来ていませんでした。本社の温浴施設にオーナーと二人で、時には、別々に1時間半ほどをかけて、通ったといいます。その結果は、見違えるほどに回復したといいます。オーストリアにあるバドガシュタインの低線量放射線は、膠原病やリューマチに効果があることが、知られています。ホルミシス療法と言いますが、そのバドガシュタインの鉱石が、この温浴施設に使われています。そして、テラヘルツの鉱石です。

笹は、一度倒れてからは、夜遅い時間帯は、避けるようになりました。夕ご飯までには、戻ることにしています。時間帯が異なることから、最近は会っていませんが、仕事柄遅くに来ては、温浴施設を利用しているようです。

 

温浴施設への見学者

2016428日木曜日

笹は、温浴施設に通うことが毎日の日課です。ちょうど2ヶ月前に癌の宣告を受け、そして、セカンドオピニオンで選んだ有名な大学病院の検査結果を踏まえて、この温浴施設で治癒する道を選びました。癌を知ってからは、病院の先生方の強く勧める「直ぐにでも全摘出の手術」をするか、もう少し自分の信じる「免疫力を強化することで全摘出を免れるか」の2択で、逡巡していました。笹は、「全摘出を免れたい。」の気持ちもありましたが、ロジャー・ウィリアムズの「生体恒常性(自然治癒力)」を学んでいたことから、現代医学(日本)の癌に対する標準治療に疑問を持っていました。切る、抗癌剤、放射線治療です。幸いにも、笹の癌は、悪性ではありましたが、ステージⅠと言われました。そして、真近で体験した「温浴施設の奇跡的な治癒」の事例から、もう暫くこの温浴療法を続ける決断をしました。

つい先日、大学病院の担当医(MT先生)に次の検査日について、電話をしました。先生は、お忙しくて、なかなか繋がりませんでしたが、いく度かの電話で、お話することが出来ました。検査方法は、内視鏡検査(放射線)とCTになるといいます。その電話では、自分の行っている温浴療法の信憑性を知って頂くためにいくつかの治癒の事例をお話しました。その大学病院で乳腺科のセンター長をしているWK先生も知る関西から来ているTさんの治癒の例です。Tさんは、当時別の病院にいたWK先生に喉に食べ物が詰まって、緊急で治療を受けたことがあるからです。「余命半年の宣告、死亡保険金を受け取り温浴施設でホスピス的な治療を行っていたが、つい先日の検査結果で、完治していたこと。」です。WK先生も検査をされた先生も有名な方です。他にも直腸癌の余命3カ月のHHさんの治癒のことです。MT先生は、驚きながらも静かにお話を聞いてくれました。そして、「私たちは、そのような(施設での)治療の経験を持たないですね。」そして、「笹さんが、それを信じて受けたい。」気持も分かります。」と正直に話されました。笹のスケジュールを伝えました。6月に2回目の検査になります。

笹が、温浴施設の玄関を入ると温浴施設会社のAK社長、施設のオーナー、そして、熟年の男性二人が、向かい合って話していました。AK社長が、盛んに話をし、オーナーが時折施設利用者の体験的な話をしているようでした。どうやら、この施設の奇跡的な治癒の事例から、見学に来られたようです。統合治療では有名なM先生の紹介だといいます。おひとりは、昨年の秋に腎臓に癌が見つかり、放射線治療と抗癌剤治療を勧められたが、断り、サプリメントで、治療をしているといいます。今では、癌は、1/2まで縮小していると言っていました。もう一人の方は、姪御さんが、乳癌で手術をしたが、最近、リンパ節に転移していたことが、分かったことから、この施設に滞在させたいと来られていました。暫くして、笹の入っている温浴室に入ってきました。笹にいくつか質問をしましたが、男性の姪御さんへの気持ちが、言葉に分かりました。笹は、「ここに来たら必ず治りますよ。」と応えました。簡単に「自分は、初期のスキルス性胃癌だということ、大学病院のすすめる全摘出を断り、ここで治すつもりだ。」と。そして、「治りますよ。」と。笹は、「理由のない確信が大切だ。」ということを知っていました。

笹は、「日本癌列島」という言葉を使います。55歳を過ぎると二人にひとりが、癌と言われています。癌は、事例からいえば怖い病気ですが、これほどまでに治らないのは、日本の医学界に大きな問題が、あるからに思えます。それは、厚労省を頂点とする医学界と製薬業界の関係です。日本の国民の医療費は、40兆円と言われています。巨大産業です。しかし、生産性がない「身体の修復費用」です。新しい物を生産する費用なら、大きく国民総生産を高めるでしょうが、「国民の体の治療費」で、国家は、確実に衰退します。日本国民は、盲目に思えます。「家族にひとりでも病人がいれば、大変だ(破綻する)。」とは、良く聞く言葉です。年金問題や高齢化や福祉に目がゆきますが、それは、国家に体力があればこそ可能です。盲目です。新しい価値を生み出す国力が、それらを可能にするからです。笹には、国家が大きな病巣を持っているように思えます。「癌を治せない巨大組織」です。笹は、自分が癌にかかったことから、「癌は、確実に治癒する」ことを世に知らしめたい想いを強くしました。

 

幼馴染の集まり

201653日火曜日

笹には、小学校時代の同級生の集いがあり、時間が取れるときに参加していました。GWには、都会から田舎に戻ってくる者もあって、いつも集合がかかります。別荘のように使っている友人の家が会場です。笹は、午前中に温浴施設で治療をし、午後は夕方までに仕事を片付けてから参加しました。

笹が着いた時にはすでに出来上っている者もあり、宴の賑やかさは落ち着いていましたが、新たに電話をかけ、後から入れ替わりに来る者もいます。いつものように元気な彼が仕切っています。彼は、笹に大学病院を紹介してくれた「彼」です。「彼」は頑なに現代医療を信じており、抗癌剤治療を続けています。他の幾人かの者も「今は、医学は進んでいるのだから、大ちゃんは切ればいいんだ。」と同調しています。それでも笹が「温浴療法で治ると信じている。」ことを伝えると、「最終的な判断は、自分だけれど、温浴療法に固執するあまり、切る時期の判断を誤らないように。」と心配してくれました。また、ある友は笹の元気な明るい顔を見て「心配したけど、元気そうなので良かった。」と声かけてくれました。笹は、無理に明るく振舞っているわけではなく、体調が良く自然と元気に振舞っていました。確実に温浴療法の効果を感じています。「彼」がfacebookの同級生に電話をしてくれました。中学1年時の同じクラスでした。笹の「温浴療法で癌を治す。」という選択を支えている妻と家族のことを称賛していました。女性だからこそ分かるのでしょう。笹も今回のことでは、家族の支援が大きな支えであることを感じています。友人たちの励ましは、大きな力になります。笹は、今日は多くの幼馴染や友の励ましに力を貰いました。そして、嬉しさと同時に「必ず治す。」という決意を新たにしました。

「彼」には笹の決意をいくども伝えています。宴の中で、「彼」は真面目に訊いてきました。「大ちゃんは、今の温浴施設で治ると思っているんだ。」と。笹は、余命数カ月の人達の完治の話を例に出し「99%治ると信じているよ。」と答えました。それを聞いて「彼」は、自分は抗癌剤が、体に良くないことを知っていると話しました。ある有名な「果実ジュースを今も飲んでいるのか。」とも聴いてきました。笹は、それらの果実ジュースは、栄養療法であるが、即効性は難しいこと。今の温浴療法が、即効性と成果では断トツであることを伝えました。そして、「彼」には「抗癌剤を止めて、温浴療法にした方が良いと思っている。」ことを伝えました。「温浴療法は免疫力を高めるから、すべての健康に良いこと。」そして「抗癌剤は、癌を遣っつけるけれども、免疫力を低下させること。」を伝えました。

宴のおわりに全員と握手をして別れました。「6月の検査では、完治しているから。」と話しました。笹と「彼」は小学校、中学校の同級会の幹事です。笹の胃癌が完治しないことには、企画出来ません。同級生たちは、やいのやいのと催促して来ているようです。笹は6月には完治して、秋には企画することになります。今日は楽しい宴でした。友から沢山のエネルギーを貰いました。感謝です。明日は朝からの温浴療法が待っています。

 

医療の倫理

201653日火曜日

笹は、日課となる温浴施設に毎日通っています。家を出る間際にwebciteの御注文が入り、また来る途中でも電話から注文が入り、予定よりも遅れてしまいました。本業の仕事なので大切にしなければならない。

笹は忙しく車を駐車場に付けると、オーナーのTAさんが「笹さん、聴いてくれる!」と開口一番、嬉しい顔で近寄ってきた。話を聞くと先日関西からのTさんの癌が完治していたことが、検査で分かったばかりだが、その病院のNT先生から、Tさんを通じて連絡があったという。その国内でも三本の指に入る凄い先生から「これからは、その病院の癌患者さんをこの温浴施設に寄こす。」というのです。乳癌の治療関係は、QOLの関係から統合治療が進んでいると聞くが、この温浴施設の奇跡の功績を認めたことになる。笹は、TAさんの嬉しい自信に満ちた良い顔を見て嬉しくなった。

笹は、健康食品と出会ったことで「人の持つ免疫力」の機能とヒポクラテスの医療を知ることができた。同時に現代医療がドイツ医療の影響を受けており、それは第二次世界大戦時中の医療方法であるということも。人の健康を守ることは、本来どういうことなのか。現代医療の切除や高血圧や糖尿病の薬による対処療法は、治療方法の一部であり全てではない。しかし、日本の医学界は、それがさも王道であるかのようにしている。笹の主治医は「自分たちは、温浴療法のような治療の方法をしらない。」と素直に述べている。彼らは「切開・抗癌剤・放射線」を標準治療としている。そして、それらは多額の医療費を必要とする。しかし、高額医療として国家が負担する。かつて、ベトナム戦争で使われたマスタードガス(枯葉剤)は、抗癌剤として生まれ変わったことは、有名な話である。生物を殺す毒薬である。しかし、1985年のアメリカ議会のアメリカ合衆国国立癌研究所(NCI)のデビィダ所長の報告で「抗癌剤は、癌を救う夢の薬ではなかった。ただ、やたらに人を苦しめるだけで、なんら効果のあるものではない。」と、「アンチ・ドラッグ・ジーン(反抗ガン剤遺伝子、反薬剤遺伝子)」 について述べている。それから、世界の癌治療は、抗癌剤治療から、統合治療・代替療法に流れを変えている。それから30年近くが経過しても、抗癌剤治療を標準治療としているのは、日本だけである。抗癌剤は数gで数億円という金額になる。湯水のごとくに使われる医療福祉の名の国家予算。それに群がる製薬業界、その上に君臨しているのが、国家予算を牛耳る厚労省という構図になっている。少ない紙面では、その問題点を述べきることは出来ないが、先の笹のノートでは、これらの組織を「国家に巣くう巨大な組織」「国家の病巣」と述べている。民間企業であっても一度生まれた組織は、組織維持を機能としてもつ。必要か不要かではなく、維持することを組織の目的化としてしまう。年間40兆円もの医療費は、これらを維持することが彼らの本分となってしまう。笹には、その半分で十分国民の健康は保てると思える。ひとの本来持つ「免疫力」を高める治療である。それは、現代人が栄養不足から生活習慣病に陥り、その結果が死亡原因の70%近くにまで及ぶ。アメリカナイズされた生活が、食生活がその元凶である。笹は、それを健康の視点から「ひとの本来持つ免疫力」を見直すことを提言したいと考えている。

笹は、今回のNT先生の「温浴施設」の結果を認める考えに感動を覚えた。医の倫理は、死んでいないことを覚えたからである。大学病院を筆頭に日本のアカデミックな医学界は、統合治療を認めていない。彼らに「もしあなたが癌になったら、抗癌剤を使用しますか。」と訊ねてみるがいい。99%の先生が「抗癌剤は、使わない。」と答えると聞きいている。その彼らが、標準治療として抗癌剤を勧めている。羊のような優しい声で。しかし、彼らは羊の皮を被った狼である。いや、狼以上の何者かである。そこに「医の倫理」を見ることはできない。

笹は、自分がスキルス性胃癌になったことから、周囲の人々が、口々に切開し全摘出を当たり前のように勧めるのを聞いた。笹の自信「免疫力の強化で、治癒する」という考えを覆すかのような包囲網である。アカデミックな大学病院の先生であり友人であり、頼れるものは自分だけであることを知った。笹は、現代医療の暗闇の中にいる盲目の人々を説得することは、難しいことを知った。説得は治癒という結果しかないこと、自分の治療方法の完遂しかないことを悟った。笹は、6月の検査を楽しみにしている。それが、笹の次の計画のスタートになる。完治(治癒)してからである。

 

温浴施設に思う

201659日月曜日

笹は、本当に真面目にこの温浴施設に通っています。今日で、43日続くことになります。「我ながら、良く通う。」と思いながら、どうしてこうも奇跡的な成果が出るのかを考えていました。

温浴施設は、床温度を52度にしています。室内温度を40度に設定し、湿度も40%50%位にしています。入浴している人数によって、湿度は変わりやすく、湿度が高いと汗が、噴き出て、滴り落ちてきます。HHさんの結腸癌の治癒と関西からのTさんの治癒の例を目の当たりにしています。ともに現代医療が、投げ出した「余命数カ月」からの奇跡の生還です。しかも数カ月の入浴の成果です。温浴施設は正確には、陶板温浴施設と言いますが、バドガシュタイン鉱石の陶板とテラヘルツ鉱石の陶板を交互に敷き詰めています。25cm角の陶板が交互に6枚ずつです。その陶板が52度に熱せられており、その上にタオル布を敷いて、横たわり電磁波と低線量の放射線を浴びるわけです。疲れない程度の時間と言いますが、笹は、一度脱水症で倒れてから、30分入浴し15分休憩の繰り返しで、6回入浴することにしています。都合3時間の入浴と1時間の休憩になります。入浴中は水素水(還元水)を約45㍑の小刻みに飲んでいます。また15分の休憩時間は、高濃度の水素ガスを吸っています。これが、笹の治療法です。奇跡の生還をされたお二人は、もっと短い時間で温浴療法を行っていたようです。

笹は、スキルス性胃癌の宣告を受けています。そして、その治癒が日課です。オーナーのTAさんの話では、スキルス性胃癌は手強いと言います。彼女は、かつて還元水でスキルス性胃癌を治した経験を持つからです。しかし、治ったのは初期だった方だけで、殆どの方は余命が長くはなったけれども、亡くなられたといいます。笹が、入浴をスタートしてから、調度3週間頃でしょうか、尿の臭いが強い異臭となりました。毎回ではないのですが、また、温浴施設での発汗の匂いが、臭くなったと聞かされました。「解毒が、やっと始まったね。」と聞かされました。肺がんやリンパ節の転移は、容易に改善されていると聞きますが、笹のスキルス性胃癌は、改善されるかどうかは、何とも言えず分からないと言った方が、良いようです。

笹は、陶板温浴療法の効果は、52度の熱い陶板浴とテラヘルツ鉱石の電磁波によると考えています。テラヘルツ鉱石の電磁波は、光のように直進し1秒間に1兆回振動します。そして、皮下10cm程まで透過するといい、その電磁波のあたる細胞を48度まで熱するといいます。癌はどのような癌でも42.5度の熱で死滅するといいます。また、人体の体温は36.5度を平熱としますが、1度でも2度でも高くなることで、癌は弱まると聞きます。もう一つの効果は、水素水(還元水)の力です。水素水が、今やブームとなっており、スーパーの棚に並ぶ時代です。水素水は水の分子を最小のクラスターにし、細胞内まで浸透する作用をもっています。水素は、活性酸素を除去しますが、血液を通して体中の全ての細胞に浸透します。癌細胞にもその浸透力が及び、癌の出す活性酸素を除去し、癌の活動を更に抑制する働きがあるといいます。テラヘルツ鉱石の高温の作用と水素水の解毒が、最強のコンビとなっているように考えています。笹はこのような状態で、3時間毎日入っています。このような事を考えながら、お腹が熱せされてスキルス性胃癌が、悲鳴を上げているのを聴いていました。「きっと45度位にはなっているぞ!」と細く笑んでいました。また、少しずつですが、還元水を飲みながら、心地好い温かさに心が解放されるのを覚えていました。

笹は、この13日に次の検査日を決めるために大学病院に伺います。その際に、主治医のMT先生には、スキルス性胃癌の完治が、分かる検査にしてもらうことを考えています。検査日が取れるのが、6月中旬の頃になると思っていますが、調度80日位の温浴療法になるでしょうか。そのようにしたのは、十分に治療を行い次の検査で、完治に持って行きたいからです。まだ1ヶ月ちょっと先ですが、それまでは入念に温浴を続け、体調の変化(改善される変化)を記録したいと思っています。それは、次のステップの準備期間でもあります。笹は癌に羅患したことで貴重な経験をしました。計り知れない経験です。癌に感謝しています。そして、神の計らいに感謝をしています。笹は、そうでなければ、健康であっても心は未熟なままで寿命(死)を迎えたと思っています。

 

初めてのHさんのこと

2016511日水曜日

笹は、平日は決まって午後から温浴治療をしています。今日は、他に誰もいなく静かに横たわっていました。静かなそして気持ち良い温もりに至福のひと時を楽しんでいました。昨日は、笹の友人が、 笹があまりにも几帳面に入浴治療していることから「デレ〜と時を忘れ、仕事も病も忘れて…無理かな〜(^_-)    」と気遣ってくれました。が、 今の笹にはここに居る時が、何もかも忘れて極楽浄土のように思えています。癌に出会って時の使い方が貴重になり、そして楽しむことを覚えたように思っています。

笹が、休憩で温浴からでると笹よりも少しばかり年配のご婦人がふたり、オーナーのHAさんとYSさんから、説明を受けていました。どうやら初めて来られたようです。その後に温浴施設に入ってこられました。時を置いて何とはなく話しかけて、お二人のことが分かりました。笹は、気さくに自分のスキルス性胃癌の経緯と大学病院の医師が勧める全摘出を断り 治癒を目的に毎日通っていること、3カ月で治すつもりでいることを話しました。一人の女性は、身内が全員癌で亡くなっていることから、癌予防として来るつもりだと話してくれました。明るい女性で前向きな印象を受けました。かつて、子宮筋腫で医師から切ることを勧められたけれども、ある有名な鍼灸師の治療を受けて、完治したと言っていました。「東洋医学は、免疫力を高めることで治癒することができますね。」と言い、笹の考えを支持してくれました。もう一人の女性Hさんは、乳癌である病院に通っているけれども、主治医の先生は切ることを主張しており、自分は、なんとか切らないですむ方法を探していると言っていました。笹の聴くところでは、乳癌は切ると必ず転移し、その後は悪化して行くと聞いています。Hさんは「医師は、無責任だ。」と言っていました。笹は、関西からのTさんの治癒の話や、温浴療法がどのような効果があるのかを話して「ここに来たことが、ラッキーですよ。」「余命数カ月の方々が、次々と治癒しています。」と話しました。それは、笹自身への励ましでもあります。

笹は、近しい友人に初めは、全摘出を勧められていました。しかし、この温浴施設の治癒の例や笹が、繰り返す温浴施設の免疫力アップの話から、最近では切ることを勧めなくなりました。笹の幼馴染の集まりでも、全員が「切れば、95%の治癒」と聴いて、全摘出を勧めていました。日本の医学界は、西洋医学として発展してきました。一方の東洋医学と言われる漢方や鍼灸や整体などは、基準が分かり難いところから、あまりアカデミックな学問としては、顧みられていないように思えます。今日の子宮筋腫の治癒の話を聞いて、東洋医学は奥が深いことを知りました。しかし、何れにせよ、人を啓蒙することには時間がかかります。100%とも思える現代医学の常識が、そうではないことを知らしめることは、身近な人々から始めることになるでしょう。笹は「人の持つ自然治癒力が、当たり前に語られること。」その日が来るのを夢見ています。


検査日の予約 

2016513日金曜日

笹は、今日医科大学病院へスキルス性胃癌の検査予約のために伺いました。医科大学病院では、今まで検査だけで何の治療も行っていません。笹の求める検査は、笹の行っている温浴療法の治療結果を知るためです。主治医のMT先生は、すでに検査日を押さえていてくれました。笹のスケジュールから、519日に内視鏡検査と血液検査、そして、20日はCT検査を行うことになりました。先生の話では、病院のスキルス性胃癌の検査は、「内視鏡等では、癌の増大があるか」という確認、「CTでは、リンパ節が腫れているか、肝臓、肺その他に転移しているかをみること」になるといいます。笹の希望する癌が治癒しているかどうかを確実に判断するには、限界があると言います。それだけスキルス性胃癌は、未分化型であること粘膜下層に浸潤して行くことから、内視鏡の視覚による確認は、出来ないようです。血液検査でも検出されないこともあり、確実ではないといいます。笹は、不思議な想いでいました。大学病院の考え方に、治癒の概念は無いからです。初期の場合でも全摘出が、当たり前となり、その後には転移を防ぐために抗癌剤投与が、治療となる。これが現代医学の粋を集めた医科大学の癌の治療方法ということに、不思議な感覚を覚えました。治療とは本来治すことであり、摘出が治療とは思えないからです。癌が出来た背景には、食の栄養バランスの欠如があります。それらの食生活や生活習慣に対する啓蒙は、聞かれずに摘出し、抗癌剤、放射線治療で、終始しているからです。

笹は、温浴治療を行ってから519日前日までで、54日となります。当初は、3カ月が経過してからと考えていましたが、検査では治癒の結果が分からないなら、少しでも早く温浴療法の効果が分かった方が、良いように思えたからです。生体検査で、どの程度の範囲で癌が見つかるか、それとも無くなっているのかが楽しみです。内視鏡から、すでにいくども見ている胃壁が、柔らかくきれいになっていれば、効果があったと判断できると思っています。その結果を待って、その後の温浴治療の内容を検討しようと考えています。

笹の幼馴染の「彼」は、半年ごとに行っているpet検査で、病院に来ていました。笹のことを気付かって、いろいろと話してくれました。「彼」は、膵臓癌の摘出から、2年半が経過しています。膵臓癌は、5年間で60%の再発率と言います。初期であったことと部分適出が容易な部位にあったことから、ラッキーだったといいます。「彼」は、笹が免疫力アップによる自然治癒力による治療を信念としているように「現代医療の摘出と抗癌剤」を受け入れています。271人の癌専門医の「あなたやあなたの身内が癌になったら、抗癌剤を使いますか。」というアンケートで、270人が、「使わない。」という今では、誰でもが知るエピソードがあります。彼ら専門医は、抗癌剤が患者を苦しめるだけで、一時的に延命はするけれども、何等治癒に役立たないことを知っているからです。笹は、「彼」にその話をしたことはありません。抗癌剤を信じている彼にその話は、酷いと思っているからです。「彼」の信頼する先生方が、そのような想いでいることを知らせることは、決してプラスではないと考えています。笹は、「彼」を説得するには「自分の治癒」しかないと確信していました。

 

温浴療法54日目の検査

2016520日金曜日

今日は、待望の医科大学病院の検査の日です。笹が、”待望”というのには、理由があります。笹が、スキルス性胃癌の告知を受け、失意の中で望みを託した「温浴療法」ですが、その結果が今日の検査で分かるからです。昨日で54日の温浴療法を行ったことになります。その間に1週間ほど休んだ日もあるので、日数的には、調度2ヶ月が経過したことになります。その間は徐々に失意から歓びに、そして、治癒が確信に変わってゆきました。その結果が今日分かります。

今日の内視鏡の検査は、同じ消化器科のH先生が担当しました。H先生の説明では、内視鏡で見るだけの検査のようです。MT先生と確認した内容と異なります。笹は、温浴療法の治癒の成果を調べる方法を相談していました。その結果が内視鏡での生体検査とCTだったからです。内視鏡で見るだけでは、外観からの様子になり、スキルス性胃癌の治癒は明確には分かりません。笹は、手短に温浴療法の成果を知りたいこと、MT先生との打合せ内容を伝え、生体検査をお願いしました。H先生は、了解してくれました。

笹は、内視鏡の胃カメラは、今回で4回目となります。ずいぶんと慣れました。カメラの管を飲み込むコツも掴んで、先生から褒められるほどです。笹の胃癌は上部になります。先生方の言うジャンクションの少し上から噴門に懸けてです。今回見る癌の姿が、変わっていました。今まで見ていた胃壁は、ピンクで若干白く襞がなく張っていましたが、今日見た胃壁は、干からびたように萎えていました。そして、インディゴを掛けても弾かずにそのまま着色しました。H先生と話をしましたが、前回の写真とは、様相が違っていました。明らかに前回とは、異なり正常な胃壁のように見えます。生体も3カ所から採取しました。生体検査跡から赤い鮮血が滲んでいました。笹は、胃壁の様相から、治癒を確信しました。54日間の温浴療法が、稔ったのです。生体から癌の反応がなければ、治癒ということになるのですが、それが判明するのは、5/27です。しかし、笹は治癒を確信しました。スキルス性胃癌は、少なくとも縮小していると言えます。笹は、頭の中で温浴療法を思い出していました。59度という熱い陶板に腹ばいになり、テラヘルツ鉱石陶板に腹部を当てています。胃袋がぐつぐつと煮え滾っているのを感じるほどにです。汗が、額や体から噴出して滴り落ちていました。「どうだ!」と癌にむかい叫んでいました。笹は、静かにゆっくりと充実感が溢れてくるのを感じていました。

笹は、幼馴染の「彼」と小学校時代の同級会の幹事をしています。その打合せが、田舎で夕方にありました。「彼」を車に乗せ、その会場に向かいました。その車中で、今日の検査の話になり、笹は詳しく内視鏡検査の話をしました。「正式に分かるのは、5/27だけれども、治癒していると思う。」と。「彼」は、喜んで聴いてくれていました。笹は、「彼」の信じる抗癌剤のことは、触れずに温浴施設に通っているMYさんの結果も話しました。彼女は、胆管癌と肝臓、リンパ節への転移の癌です。最近のCT検査で、癌が、縮小したことが分かりました。笹は、「彼」が、温浴療法に通ってくれることを願っています。今行っている「彼」の抗癌剤治療は、何ら益はなく、体力を損なうだけと思っているからです。「彼」を説得するには、笹自身の治癒しかないと肝に銘じています。あとは、5/27の結果を待つだけです。

 

温浴54日の結果

2016527日金曜日

今日は、笹にとって待望の温浴療法の結果が分かる日です。54日が経過し、5/19日の内視鏡検査とその後の状況から、笹は、完治を確信していました。予定通りに大学医科病院の外科に受付し、順番の来るのを待っていました。それまでの間、仕事関係の本を読み、自分は、今日から癌患者からはおさらばだと思い、そのように振舞っていました。

自分の番となり、MT先生からお話を伺いました。結果は完治ではありませんでした。病理胃壁からの3個の生体検査は、1個は何も無く、2個から癌が見つかりました。複数のタイプの物のようです。未分化のものと印鑑型の二通りが見つかりました。MT先生は、最初に「私たちは、癌が良くなった経過を調べる方法がないのです。」と話されて、諦めた顔で、「まだ、温浴療法を続けるのですか。」と尋ねました。笹は、報告書から病理検査の結果を、細かく訪ねるとMT先生は、「自分は、外科なので、その表現は、どういう意味かは、分かりません。説明書をお渡ししましょう。」と仰られました。笹は、大きな大学病院では、専門化が進みそのようなものかと思いました。「採血検査の結果からは、マーカーは、ありませんでした。」と仰られました。笹は、前回の検査時の写真とCT、そして、生体検査、血液検査から、判断を伺いたかったのですが、改善されているという言葉は、聞かれませんでした。笹は、まだ、温浴療法を続けることと2ヶ月後に同じ検査を予約して、退出しました。次回は、728日・29日です。それから1週間後に検査結果を伺う予定にしました。

笹は、いつもの「彼」に電話報告をしました。「彼」は、客観的に話をまとめてくれました。「改善は、されているけれども、先生方の意見は、全摘出だ。」ということ。笹は、温浴療法を継続するけれども、その経過によっては、全摘出を判断しなければならないこともあること。笹は、2ヶ月(54日)で完治と思っていました。というのは、温浴施設の他の方々の転移や癌が、皆1ヶ月の温浴療法で、完治していたからです。笹は、妻や友人たちに検査結果と今後の考えを電話で伝えていました。話しながら、自分自身の考えをまとめていました。1.スキルス性胃癌は容易ではないこと。2.前回の内視鏡の状況と今回の検査結果から、完治はしなかったけれども、改善は着実にされていること。3.CTから、他臓器やリンパ節への転移は無いこと。4.半年~1年で根治しない場合は、全摘出も考えざるを得ないこと。笹は「僅か2カ月で完治は、甘い。」と思い知りました。そんなに世の中上手くはゆかないようです。暫くは、スキルス性胃癌を一病息災と受け容れ、闘わなければならないこと。全力で闘うためには、代替医療のことを更に深く知り実践する必要があること。これも神様の望む結果と受け止めました。笹は改めて仕切り直しました。

笹は、夕食後に、病理検査の結果報告書をじっくりと見ていました。血液検査の「CRP」「CA19-9」「CEA」「CBC」の値は、癌の活動を示すものではありませんでした。俗に言う、マーカーはゼロのようです。MT先生が「血液検査の結果は、良かったですね。」の話も裏付けられました。笹は、退職後に始めた仕事も順調に行き、今日は、企画会社からの大口のご注文が、決定になったばかりでした。趣味も友人や環境に恵まれて十分に楽しんでいました。今日の癌の完治の結果で、順風満帆との思いでいましたが、早計だったようです。笹は、この度の癌に羅患したことで、謙虚に「感謝」「奉仕」「感動」の大切さと歓びを知り、少しはまともな人間になれそうだと感謝していました。その感謝が、まだ足りなかったようです。笹は、明日からまたこの手強い癌に感謝し、闘病生活を受け容れようと決めました。笹は、癌に名前を付けることにしました。スキルス性胃癌だから、「癌のスーさん」です。闘病にかける毎日の6時間は、痛いですが、これも人生にはありでしょう。「癌のスーさん」といつまでお付き合いになるかは、分かりません。1年は、見るようでしょうか。一日の貴重な時間を活かし、3つの仕事「本来の仕事」「趣味」「闘病」に感謝しつつ、確りと楽しむことを決めました。

 

結果から1日・・・笹の迷い。

2016529日日曜日

笹は、大学病院の結果から、2ヶ月先の検査の予約をしてきました。その意味は温浴療法の継続を意味します。MT先生の「温浴療法を続けるのですね。」の言葉がそうです。笹は、当初の検査結果から、切除せずに治癒の可能性のある温浴療法を選びました。そこには、最終的に治癒できない時は、切除を選べば良いという切り札がありました。ステージのスキルス性胃癌は、学会でも例がないという程にラッキーです。それが、どのようにラッキーなのか、温浴で治癒できる可能性のラッキーなのか、全摘出ではあるが、切除で95%の成功というラッキーなのか。笹は、自分はラッキーだと思っていました。早期であることと温浴療法という切除以外の治癒の可能性があることに。

翌日には、いつものように温浴施設にゆきました。休憩時間に温浴施設のTAさんから、話がありました。彼女の甥は、都内の有名な病院の消化器科のドクターです。叔母も同様に駅伝で有名な大学病院のドクターでした。彼女が、小腸癌で余命3カ月の宣告を受けた際に抗癌剤は、受けないことを勧めてくれた叔母の話は聞いています。笹の癌の発見から、大学病院での経過を甥のドクターに相談したようです。1.スキルス性胃癌が、温浴療法で2ヶ月で治癒するなんてありえない。その温浴施設で1ヶ月程度で治癒した他の癌とは違う。少なくとも半年は、覚悟しなければならない。2.検査詳細情報を見なければ、詳しく所見を述べることは出来ないが、自分としても切除をすすめる。そして、オーナーのTAさんは「温浴療法で治すことを決めたなら、もっと死ぬ気で、頑張らないとだめだ。」と言いました。

笹は、頭を冷やす必要があります。54日の結果から、温浴療法の継続と切除の2択が、目の前にあります。温浴療法の継続には、①3/31の検査と4/16の検査時と比較して、今回5/19は、目視的には、改善が見られる。明らかにスキルス性胃癌の粘膜の原発巣が、縮小している。血液検査の結果では癌の活動は見られない陰性である。③3か所の生体検査では、1カ所はなしで、2カ所からしか見られなかった。笹自身の体調は全く健康である。

即切除の判断には、①スキルス性胃癌は進行や転移が早く、時間との戦い。②今切れば、95%の成功。病院には、スキルス性胃癌からの治癒の例はない。温浴療法の治癒は、未知数である。快方に向かっても完治(根治)でなければ、いつまでも転移を恐れながら治癒を続けなければならない。その時には手遅れになる。

笹の迷いは、何によるのか、自問していました。①全摘出をしたくないこと。全摘出は、生活も変わります。好きな趣味から半年程度は、離れることになります。②大学病院の軍門に下ることを認めたくない。今まで厚労省の標準治療、特に抗癌剤治療に対して批判的でいました。その大きな力に呑みこまれたくない。他には何があるだろうか。思い浮かびません。笹は、全摘出でなく治癒できる選択をしたいけれども、余りにリスクが大きすぎます。温浴療法の選択も後2ヶ月だけになるでしょう。それ以降はありません。余程の改善・完治と言える程の改善がなければ、切ることになります。笹は、自分の気持ちが理解できていません。

 

笹の決意

2016530日月曜日

笹は、大学病院から戻って、置かれた状況を考えていました。考えれば考える程に迷いが、大きくなりました。夜になり、次の朝に考えることにして、止めることにしました。翌日、温浴施設のTAさんや友人に自分の考えを聴いてもらいました。そのような事を繰り返しているうちに笹は、確信にも似た思いに至りました。

それは、自分の温浴療法に治るという確信を持つことでした。根拠は自分の勘です。自分の生命力に対する信頼です。大学病院に代表される消化器科の先生方は、スキルス性胃癌が、治癒する事象を経験したことがありません。切除、化学療法、放射線治療の標準治療以外の治療を行ったことは、ないからです。彼らは、可笑しな話ですが「自分たちは、切ることを強く勧めます。」と声を揃えて言います。笹のステージⅠの発見は、学会でも例がない程に画期的なことです。それでも治療方法は、全摘出だけしかありません。手術の経験しかない先生方に治癒の経過を判別することはもとより無理なのです。笹は、自分の目を信じました。MT先生は画像や経過の資料を見ても、何も語りませんでした。それが、彼ら日本医学界の限界です。2ヶ月が経過して、癌の様相が小さくなったこと、血液検査の結果は、癌の活動が皆無だったこと、原発巣からの生体検査の結果は、3個の内1つに何も見られなかったこと。前回は、原発巣の生体9個全部に検出されていました。そして、最後に自分自身の健康感です。笹は、HAさんからも「自信を持つこと、迷わないこと。」を言われました。以前に迷いから解放された「神様に自分の命を預けること」に再度思い至りました。あと2ヶ月間、精一杯に癌と闘うこと、そして、その先も闘い続け根治することを決意しました。

笹は、温浴施設から戻る車中から、幼馴染の「彼」に電話をかけました。自分の想いを伝えて置きたかったからです。検査結果に対する自分の考え、先生方の治癒に対する方針など、同じ考えでした。そして、笹の温浴療法の継続に理解を示してくれました。しかし、最後に「経過が思わしくない時には、切ることも忘れないように。」と話しました。それは「手遅れになって、死ぬなよ。」という言葉です。

もう一人、笹の隣人で20数年前に胃癌の治療で2/3の摘出をした友人がいます。彼にも同様に癌の治療の経過と温浴療法の継続を伝えました。彼は、温浴療法で治癒するとは、信じていなかったようです。ただ、思い残すことがないように「気の済むようにやったら良いよ。」と言ってくれていました。彼に癌が小さくなっていることを伝えると「本当に!」と驚いたようでした。そして、「それなら続けなよ!」と喜んでくれました。

思えば、2ヶ月の温浴療法で、スキルス性胃癌が治癒すること、改善することは、奇跡です。笹は、楽観的に治癒(完治)しているかもしれないと思っていたがために、完治でない結果に落胆しました。しかし、改善するだけでも凄いことなのかもしれません。笹は、確りと温浴療法を続け、生きることに歓びを持つ決意をしました。人は、誰しもがいつかは、死に至ります。それが、病気なのか事故なのか、そして、寿命をまっとうしてなのか。誰しもが死を免れることはありません。

代替療法とは?

2016614日火曜日

笹は、温浴療法に通うことが、日課になっています。今日で、何日になるだろうか、暦を見ると延べ76日、月日でいえば、3カ月が過ぎようとしています。笹は、自分のスキルス性胃癌の治療から、現代医学の粋を集めた医科大学の治療に疑問を持つようになりました。病院経営のためには、標準治療から逃れられないシステムになっており、他の治療方法を探すことが、異端になっている現状です。彼らの治療は恐ろしい程に単純です。癌のステージから、初期であることが唯一の治癒の道であり、ステージの進んだ癌は対処方法がありません。化学療法と言われる抗癌剤に頼らざるを得ませんが、しかし、抗癌剤は、増癌剤と言われる程に治癒の効果はありません。そして、生活習慣病で3割を超える方々が、癌で亡くなります。

しかし、代替療法と言われる治療方法にも、大きな問題があります。エビデンスとしてのデータを持っていないことです。食事療法や、温熱療法、漢方、鍼灸、・・・・。笹の通っている陶板温浴療法は、ホルミシス療法といいます。ラジウム鉱石とテラ鉱石の効果によります。しかし、明確に時間と治癒の関係が分かりません。ある程度の経験から、90分の温浴と休憩を1サイクルとして行っています。こちらの温浴施設は、昨年の12月からスタートし、すでに40人近い方の改善をしています。余命数カ月の癌患者や糖尿病、リューマチ、膠原病、鬱病などです。凄すぎる程の結果です。しかし、医学的なデータとしては、認められないでしょうか。地元の有名な乳腺科の病院のNT先生が、余命数カ月から完治した女性の事象から研究したいと、その陶板温浴施設を病院内に一基作られました。賢明な方です。笹は、代替医療はもっともっと大きな効果をもたらす治療方法と考えています。そして、その医療方法を選びました。あと数カ月で、治癒することを願っていますし、確信とも言える気持ちで治癒すると思っています。つい最近は、凄い解毒の異臭が、体中から出ていました。1週間ほども続いたでしょうか。今は、異臭も少し減っていますが、その時の異臭が、スキルス性胃癌の断末魔だったように思っています。7/28292回目の検査では、その異臭が何だったかが分かるでしょうか。

笹は、この度の自分の胃癌から、代替療法の著書を数冊読むことができました。東洋にも西洋にも実に沢山の健康のための療法があることが分かります。そして、それらの共通の考え方は、体内の気のバランスを保つことです。そのバランスをもたらすための治療として、呼吸法や食事療法、機能性成分を持つ食物の摂取や精神のあり方などを唱えています。それらが自然(自己)治癒力を増すことに繋がるからです。日本の現代医療は、かたわ(片端)です。まるで「癌」のようです。異常増殖をして止むことがありません。そこに流れるのは、血液ではなく医療保険システムの”お金”です。その流れをつかさどっているのは、厚労省です。笹は、今回の経験から、厚労省を頂点としている製薬業界、医学界の「医のトライアングル」をまざまざと見ました。政治もそれに関わっているのでしょうか。厚労族といわれる議員もいるのでしょう。国家に巣くう病巣、負の40兆円産業です。私たちに出来ることは、何でしょうか。笹は「知ること」が、スタートだと考えています。愚かな国民であることから、脱却することです。日本の医療は、病巣ともいえる医のトライアングルから、正常な医のトライアングルに治癒すべきです。それを齎すのは、国民の知識であり、知恵でしかありません。この単純な問題を知ることです。

 

笹の余命

2016411日月曜日

笹は、この度の経験から、自分の生命(いのち)を見つめることになりました。笹は、振り返ると今までに2度ほど生死の瀬戸際を経験しています。一度は、能天気に救われたようです。24才の出来事でした。2年近くを海外の旅に出ていた時ですが、レバノンのベイルートにいた時です。その当時は、まだヨーロッパから中近東を通って、インドまで抜けることが出来ました。毎晩のように大砲の音が、ゴラン高原から聞こえて来ました。日中も通りを歩いているとパンパンという拳銃の発砲する音が近くで聞こえ、慌てて非難するような日常でした。そんな時にゲリラに戦闘地区で捕まったのです。言葉が通じなく、自分が旅行者だと言っても通じません。目隠しをしてジープに載せられ、どこか知らないアジトに連れてゆかれました。幸いなことに英語を話せる方がいて、解放されました。いつ殺されても仕方のない状況でした。今のようなISではありません。笹を捕まえたアラブ人が、謝ってくれました。少し心が通いあったように感じていました。

もう一つは、家庭を持ちこどもの整体の為に毎週のように、妻の実家近くにある整体師に通っていました。こどもは、順調に回復していました。そんな折に九死に一生の経験をしました。妻は、車での長道中が好きではなく、車を止めると不機嫌になります。それが嫌で、眠い目をこすりながら運転していました。ザザザーというタイヤの音にハッと気がつくと中央分離帯の溝を走るのが見えました。咄嗟にハンドルを左に切りました。妻とこどもたちは、後部座席で、何事もなかったように寝ていました。九死に一生をえました。翌日には、親子4人の事故が、新聞紙面にあったかもしれません。笹は、今思い出しても、冷や汗が出るといいます。

そして、今度はスキルス性胃癌です。現時点では、早期の発見で今切れば、殆ど大丈夫でしょうといいます。これにも件(くだり)があります。顎関節症の痛みでその病院の歯科に見てもらいました。痛み止めの薬をもらい1週間ほど、服用しました。1週間ほど過ぎてもなかなか治まりませんでしたが、その内に原因の分からない嘔吐に見舞われました。胃の中が空っぽになる程に、夜半まで3度ほど吐きました。そして、胃潰瘍の発症です。この度の胃癌を見つけてくれた消化器科の先生の話では、「その、痛み止めの薬が、胃潰瘍の引き金になったのでしょう。」とのことでした。「普通はその薬が胃を荒らすので、胃を護る薬も一緒に服用するのですが。」というのです。単独で処方したことで、潰瘍の発症に繋がったようです。しかし、そのことで胃潰瘍になり、念のための生体検査で、スキルス性胃癌が見つかりました。通常、スキルス性胃癌は見つかりません。この度の内視鏡検査で見ても綺麗なピンクの胃壁が、見えるだけです。先生は、頻りにどこが癌かわからないと語っていました。それほどに初期では分からないようです。分かった時には遅いのでしょう。

笹は、神を信じています。特定の神ではないようですが、活かされていると感じています。これまでの数々の経験から、神の存在を信じているようです。この度のスキルス性胃癌も神の計らいと考えています。自分の命の顛末は神にまかせ、これからの人生を生きようと考えています。笹は、益々自分の持つ免疫力による抗癌の力に任せようと思うようになりました。

 

生あることの幸せ

2016725日月曜日

もうすぐ、第2回目の検査日が近づいてきました。今週になります。7/2829です。そして、8/5にその結果がわかります。温浴施設のTAさんは「もう治っているように思う。」と言ってくれます。「顔色も良いし、元気だし、凄い解毒の匂いもあったけど、それが今は無くなって来たし、何より毎週趣味のスポーツに励んでいられる程元気だし。」と。笹は、検査日が近づくにつれ、不安が募ってきました。普段はオーナーのTKさんの言うように「完治」したかなと思っているのですが、いざ、近づくと一抹の不安が過ぎります。第一回目の検査では、体感から120%の完治を確信していました。しかし、経過は良好でしたが、完治ではありませんでした。40%位でしょうか。ちょうど、スキルス性胃癌が縮小し始まった頃に思います。その結果から笹は、とても落ちこみました。しかし、オーナーや有名な医師の言葉で勇気づけられ、今の温浴という治療に励むことができました。「スキルス性胃癌は、そんな数カ月で完治するような生易しい癌ではない。」「半年や一年掛けて治す癌ですよ。」と。

最近笹は、温浴施設の人々を見るにつけ、自分の生きていることに焦点が合うようになりました。それは「生きていることの喜び」です。笹の温浴に通って数カ月の間に御客様(特に癌の方)が増えました。今では、癌の完治の方が、40名に届こうとしています。温浴施設が出来てから、約半年の間にです。笹の温浴の時間は、オーナーが「必ず完治させる!」の想いから、優先的に時間をあけてくれます。しかし、一週間を切ると予約が取れないほどに混んできました。癌の方々はいろいろな方がおられますが、癌は「死の病」です。悲惨です。笹は、オーナーが言うように元気です。健常者と全く変わりません。違うといえば、毎日温浴にかかる6時間が、仕事だということだけです。その意味では、生活は変わりましたが、それほど、死を意識していませんでした。しかし、それらの方々を見ていると「生きていることが、貴重」だと思わずにはいられません。

「生きていることの喜び」。笹は、「スローライフ」という言葉も「生の歓び」も言葉では解っています。しかし、真の理解はしていなかったように思います。2月に癌が発見されて、それが悪性の癌とわかり、大きなショックを受けました。生き方(の考え)が変わりました。「感謝・奉仕・歓び」の言葉を知りました。それで救われました。しかし、それが時がたち、治ると確信できるようになると薄らいで来ました。それが、沢山の癌の方々を見ることで、再び自分の「生」に焦点が合わされるようになりました。癌になる前は、漠然と80歳、90歳まで生きると思っていましたが、その「生」が分からない自分の今にです。笹は、今を生きていることに幸せを感じています。観る目がかわりました。これが、神様のくれた宝物かも知れないと思いました。富も財産もこの今ある生には、敵いません。笹は、かつてホテル教育で盛んに言っていました。「あるアラブの王様が、数十億円をあなたにあげましょう。その代わりにあなたの命をください。」と、「あなたは、命をあげますか。」「NO!でしょう。」「あなたの生命は、それいじょうの価値があるのですよ。」と。貧乏人も浮浪者も富める者も命の時間は同じです。限りある命です。笹は、限りある命という自分の宝物に言葉ではなく、身を持って知りました。

 

生あることの幸せ(Ⅱ)

2016726日火曜日

笹は、昨日「生あることの幸せ」を投稿しました。もう一つ思い当たることがありました。それは、いつも幹事をしている有志での同級会でのことです。今回は、春先に集まった同級生仲間との飲み会で「小学校の同級会をやろうよ。」という声からでした。笹はホテル勤務から、団体の扱いは慣れています。早速、馴染みのホテルに声かけをして仮予約を取り、スケジュールを作りました。それから小学校の幹事役になる幼馴染7人に声かけをして、集まり決めたものです。

その同級会では、おおよそ30人ほどが集いました。65歳になる節目の年でもあり、普段は参加しない女性陣も参加して、賑やかな同級会になりました。50年ぶりの者も何人かおりました。しかし、今回参加できた者の中には、かつての明るさが見られなかった者もおり、気にかかりました。また、ひさしぶりに会って、その穏やかな明るい微笑みから、幸せな生活を送っているのだなと思う者もありました。遠方から参加したものもあり、口々に同級会を開催したことへの感謝の言葉をかけてくれて、解散となりました。この年齢になると住所のわからない者が、5人ほどありました。実家も代が変わりどこにいるかが摑めないようです。また、物故者も7人ほどおりました。殆どが事故や病気等で亡くなられていました。参加されなかった者の中には、成人病から闘病生活を送っていたり、精神的に病んでいる者も幾人かありました。人生は厳しいものだと感じずにはおられませんでした。

誰かれとなく話す言葉は「今回の同級会に参加できた者は幸せだね。」でした。笹もそう感じました。幼馴染が集い語ると、一言を交わしただけでかつての子供時代に戻ります。「OOちゃんの世界」です。楽しい宴も過ぎて「この後は、5年後にまた集まろう。」と言い別れました。別れ際に交わす声かけや握手は、胸に迫るものがありました。果たして、5年後には、またこうやって会えるるだろうか。親しい友人との声かけは特にそうです。「生あることの幸せ」を考えました。ひとは、いつかは必ず死を迎えます。そして、長生きすることは願うところですが「幸せで生きて逝きたい。」が願いです。「幸せは、心が決めること。」ですが、貧しく病気に病むという生活は、悲惨な老後に思えます。ある程度の経済力があり、健康であることが望むところです。命の病から「死」を目前にして、一分一秒が貴重と思える生もあります。笹は、今回集った幼馴染の顔から、幸せな老後を見ていました。残念ながら、参加できなかった友にも、幸せであって欲しいと心から願いました。


笹の落胆・二度目の検査結果

2016911日日曜日

笹は、1カ月もの間気持ちが揺らいでいました。笹は、7/28.292度目の検査の際に主治医のMT先生から、今後の検査は他の病院で行ってくださいと申し渡されました。その大学病院では、温浴治療を行い、検査の為にだけの患者はいらないということでした。当初、数か月温浴治療で経過を見て、ダメなら手術を受けることに理解を示し「どのような選択をされても全面的にサポートします。」と言ってくれた若い主治医の先生は、大学病院の方針に従わざるを得なかったのでしょう。それでも、その日の検査結果は、8/19に分かることになりました。

8/19笹は、検査結果を聞きに伺いました。その結果は芳しいものではありませんでした。血液検査(マーカー)は、まったく癌の活動を示してはいませんでした。CT検査も転移は認めていませんでしたが、4か所の生体検査が、すべて陽性でした。前回は、1/3は、陰性でしたので、治癒が認められたと判断したからです。しかし、今回は際立つような温浴治療の効果は、認められませんでした。笹は迷いました。自分の計画が大きく音を立てて崩れるのがわかりました。2回目の検査では、温浴療法から4か月が過ぎたことになります。笹は120%の治癒を確信していました。しかし、耳元で「スキルス胃癌は、そんなに甘いものじゃない!」という大きな声が響きました。温浴オーナーのTAさんの従妹が、こちらの大学病院の卒業生で、有名な都内病院の消化器系のドクターとして、活躍しています。その方が1度目の検査結果を聞いて、オーナーを叱ったといいます。「直ぐにでも手術をさせなさい!」と。彼はスキルス性胃癌の怖さを、身近に見て知っていたのでしょう。笹はその本当の怖さを知りませんでした。温浴療法で末期患者が治癒しているという声に、引き寄せられてしまいました。それは、笹の希望の声も交じっていたかもしれません。

笹は主治医の先生の検査結果から、ふたつの選択肢を思いました。今回の検査結果は、思わない訳ではありませんでしたが、想定外でした。選択は温浴療法を続けるか、手術を受けるかです。「その際にどうしたら良いか」と。先生は、端から笹が転院することしか頭にはなかったようです。「転院先が決まったら電話を下さい。」と。先生は、笹が手術を受けるとは、思ってもいなかったのでしょう。

大学病院の帰り道、笹は迷いました。治癒の道が音を立てて崩れた今、どうしたらよいのか。切除・手術の道を選ばざるを得ません。そのことを受容れるのに数時間を要しました。笹はそのことを妻に報告しました。「手術をお願いしようと思う。」「詳しくは戻ってから話をするから。」と。車中から、大学病院の主治医の先生に電話をかけました。回診中で、折り返し電話をお願いして戻りました。妻との話も手術を受けることになりました。妻は、温浴療法は民間療法だから、大学病院の話を信頼しなければダメだ。」と。笹は自分の甘さを身に染みて知りました。

 

心の暗雲・再び振出しに戻る

2016911日日曜日

笹は、主治医の先生に電話で言付けることができました。「手術を受けたい。」と。そして、翌週に予約が取れて、妻と出かけました。先生は、笹の手術の依頼に迷惑そうに見えました。「こちらの病院で手術を受けたいのか。」「手術が上手くいくかどうかも分からないこと。」「手術で開いた結果が、悪くてそのまま戻してしまうこともあること。」「今度は、間際で手術を止めることがないこと。」「それでも良ければ、上(上層部)に掛け合ってあげましょう。」「それでも手術を受け付けるかどうかは、分からないこと。」さんざんに脅かされました。その結果を来週に話しますので、再度来院してくださいとのことでした。

笹は、今度はひとりで出かけました。というのは、前回は1時の予約でしたが、2時間も遅れたからです。病院は、手術を受け付けてくれました。笹は、先生に感謝の言葉を言おうと思っていたのですが、その結果から、謂いそびれてしまいました。若い主治医の先生が、骨を折ってくれた結果だと思っていました。手術の入院は9/28。手術日は10/3です。経過が順調であれば2週間。いろいろの不具合の場合には、10月一杯の可能性もあること。笹はそれまで手術をやってもらえなければ、振出しに戻ってしまうことから、いろいろ思いをめぐらせていました。手術の日程が決まり、安堵したのを感じました。

しかし、今度は後悔の念が出てきました。「どうして、スキルスがこわい癌だということが、分からなかったのか。」「95%の成功率と言われたときにやっていれば、・・・・。」「どの程度進行しているのか。」「転移していたらどうしよう。」「・・・・。」反対に、「自分は、治ると思っていたんだ。」「半年間、それに掛けたんだから仕方ない。」「やるだけはやったんだから、悔いはない!」そんな肯定と後悔の念が、交錯して現れます。

9/9.10は、手術前の現在の癌の進行度合いを知る検査がありました。9/9内視鏡のエコー検査(放射線検査)です。そして、9/10はバリウムの検査でした。エコー検査は、麻酔をかけられていたために何も覚えていません。寝覚めが悪く、食べることも運転する気にもなれずに途中幾度か休みながら戻りました。全摘出後の生活を思いやりました。バリウム検査では、画像を見ることができました。何やら胃の形状がわかるので、スキルスの進行が見えるのかどうかを判断しようと覗いてみましたが、素人には分かりません。しかし、心配だけが募ります。「あれは、スキルスの形じゃないか。」とか。笹は、忘れていた不安が、心に広がるのを感じました。その日の残りの時間は、暗雲が心を占めていました。笹は再び自分の心が、弱いことを思い知りました。攻めと守りでは、今度は守りになるでしょうか。「心の管理術」が重要です。今朝目覚めてからはそんなことを思いました。

 

手術の前夜

2016925日日曜日

笹は手術の日程が決まってから、いろいろな仕事の整理や入院までの間、温浴の継続とで忙しく時間を過ごしていました。その間も気持ちが逡巡していました。年齢からか、それほど切羽詰っているわけではないのですが、生き方に気持ちが籠もるようになったようです。

かつて、20代の折の海外旅行から戻った頃は、目つきが鋭くなっていました。それだけ緊張していたからと思っていましたが、そのころの目つきに戻った気がします。当時は、55kgの体重でした。今ではスリムではあっても67kgになります。人は、誰しもが寿命を持ち必ず死を迎えます。この度の自然災害で一瞬のうちに土石流に流されて、何の準備もなくこの世を去られた方のことを思えば、少しでも心の準備ができることは、幸いかと思えています。笹には仕事があります。神様のくれた仕事です。趣味の延長でしたが、6年を経過して大きな規模になり、まだまだ、成長の途上にあります。友人たちは、体の回復が第一だから、手術中は仕事は休みなさいと言います。数か月の時間は、その後の1020年の時間の一寸だよと。それでも仕事の好きな笹は、出来るならとパソコンをベットに持ち込もうと考えているようです。しかし、幸いなことにそのパソコンの仕事も身内の者に託すことが出来そうです。そのようなことが、幸いなのでしょう。老いを迎えた今、誰しもも残された時は、過ぎてゆきます。笹は、その中で納得のゆく時を過ごしたいと思っているようです。手術日まで後残すところ一週間です。


笹の悔しさ!

2016927日火曜日

笹は手術を受け入れて、そして、大学病院での手術日が決まり40日となります。その間にいろいろな思いが去来しました。ひとつは手術の不安です。友人は「大丈夫だよ。私の知る人に全摘出の人がいるけれども、随分経っても元気でいるから。」と皆勇気づけてくれます。もうひとつは、術後の体力の衰えです。先日、良く知る人に会いましたが、彼は全摘出の手術を受けていました。声から彼と分かりましたが、見るからに痩せてしまい、一瞬彼とは分からないほどでした。かつての風貌が、消え失せていました。笹は、趣味のスポーツがありますが、痩せ細った体では体力が持つかどうかが心配です。10kg位は痩せるでしょうか。確りと栄養価のあるものを、少量でも摂ることが必要です。最後のひとつは現代医学に対する思いです。

現代医学に対する思いは、悔しさです。笹は癌だけではなく、生活習慣病といわれる癌、血管の病、糖尿病などについて、勉強する機会がありました。そこには、厚労省を頂点とする医学界、製薬業界のトライアングルを見ることができます。現在40兆円もの医療費用が、費やされています。その中には、医療保険や国庫からの公的医療費用と自費医療費が含まれています。日本は高度に成熟した経済社会です。自給自足で生活できる社会ではありません。すべてが貨幣価値で測られ、貨幣なしには生活の出来ない社会です。善悪だけでは評価の出来ない社会です。全てが複雑に絡み合っており、一か所だけから紐解くことなど出来ない社会です。笹は先のトライアングルを、現代社会に根ずく病巣と呼んでいました。

笹のスキルス性胃癌は、現代医療では治すことのできない病と宣告されています。いかに早く見つけ切るかが正しい処置です。笹の手術をする大学病院では、その温浴療法などの代替療法の治癒例を持ちません。笹は約6カ月もの間温浴治療に通いました。毎日です。毎日6時間をそのために費やしました。治癒するため治すためにです。しかし、4カ月経過した段階での検査からは、治癒・改善の症状を見ることができませんでした。また、どの程度の進行かも知ることができませんでした。挙句の果てに「他の病院で検査してくれ」と言います。アメリカや西欧の代替医療の実績を知るにつけて、如何に日本の医療が遅れているかが分かります。笹の手術をする大学病院は、県下でも有数の病院です。それでも代替医療や統合治療については、理解を持ちません。そして、温浴療法や食事療法など、諸外国では当たり前の療法が、理解されずにいます。笹は自分の癌が6カ月もの間進行せずにいたことに、治癒の可能性を感じています。しかし、その温浴療法や食事療法などの事象からのデータを、入手することが出来ませんでした。日本の代替医療は継子なのです。そちらもまた脆弱です。力をもつ大学病院が、統合治療の道を持っているならば、ステージⅠの笹の胃癌は、容易に治癒できるだろうと思います。その道がないことが、悔しさに繋がります。

 

大学病院への入院

2016930日金曜日

笹は、温浴療法の治癒の道を諦め、大学病院の手術の方法を選択しました。病院は大安の日を選んで、入院日と手術日を決めていました。9/28(検査)入院と10/3の手術日です。家族に付き添われて、大学病院に足を運びました。以前の通院は一人で行っていましたが、戻るときの運転は無理なので、今度は家族と一緒になります。担当の看護師から、いろいろと病気のこと、家族関係のことを聞かれました。細かな性格までヒアリングをされましたが、それだけ万全を期しての手術なのかと思いました。手術はチームで行います。40代前後の若い先生方が行います。人生経験はともかくも、その道のスペシャリストです。昨夜は麻酔担当の女医さんから、手術時の麻酔方法の詳細説明を受けました。聡明な印象を受けましたが、安心のできる応対でした。主治医のMT先生からは、家族も一緒の手術説明の日時を打合せしましたが、ずいぶんと頼もしくなりました。半年前には、まだ若く心許ない印象を受けましたが、それからの経験は大きいのでしょう。まだ、腹腔鏡か開腹手術かとは決まってはいません。希望は腹腔鏡手術であることを伝えました。「開腹手術のほうが良いと思いますが、チームで検討して、10/1の説明時にお伝えします。」と言われました。笹もその点は分かっているのですが、趣味のスポーツからは、ダメージが全然違うので、腹腔鏡手術が出来るならと願っています。

笹は入院してからは、まな板の鯉よろしく観念したようです。沢山の看護師や補助の方々の仕事に対する誠実さと熱意をみていると、安心感をおぼえました。もちろん、先生方の応対についてもです。笹は現代医療の実態から、厚労省を頂点とする医学界と製薬業界のトライアングルを、日本経済の負の病巣と見ていました。しかし、それに従事している人々にはその意識は毛頭ないように思います。それを動かしている厚労省の人々は、その組織から離脱することは出来ないでしょう。身の保全が伴います。今朝の新聞に築地市場移転先の豊洲市場地下空洞について、誰が決定したのかが分らないようです。何十億円とかかる費用回避の決定者が分らないことが、あり得るのでしょうか。誰かの責任を隠しているとしか思えません。日本は村社会の論理で動いています。場の雰囲気で、お上(政策決定者)の御意向に沿うように物事が決定されます。豊洲もお上の意向に沿うように決定されたのでしょう。そして問題が発覚すると、現場の誰かが詰め腹を切らされます。日本の医療は、あと少しで方向転換がなされるでしょう。日本の行政は、決定権を持つ施政者に責任意識がなく、自分たちの組織に都合よく決定されます。ステイクホルダーといいます。利害がないものに決定権がある。現場の声は届きません。笹はかつて第三セクターにかかわったことがありました。そこでは、村民と行政府の長とが、お手盛りの政治を行っていました。お互いに村費であれば被害がないからです。それは村の論理です。それと同じことが国単位で行われています。国民は無関心、担当者や影のフィクサーが、ほくそ笑みながら施政を行います。直接の被害がない限り、誰も荒立てることはしません。

入院している方々は、ほとんどが笹以上の高齢の方々でした。笹の病棟は癌病棟です。日本経済の一面を見るようです。今や40兆円を超える国民の医療費です。それらの問題意識なく行政を行っている政治家と厚労省、そして、医学界と製薬業界です。世界の薬の3割を消費する日本国。日本人は薬なくしては生きられないのです。信じられますか。いくら太平楽で長いものには巻かれろの日本人でも、目覚める時でしょう。高齢者が3割に届こうとして、笹のように生活習慣病には、二人にひとりの状況です。日本経済はつるべ落としのように、凋落の道を辿ろうとしています。医療は不可欠のものです。しかし、医療は壊れた体の修復です。国庫からは、より生産性の高い分野への投資が必要です。日本の高齢化は、大きな問題です。湯水のように流れている厚労省の保険医療制度を見直すことです。国民が医療について、自費で自力で健康を取り戻す意識をもつことです。国庫は、それらの支援をすることであって、丸抱えの政治を止めることです。小さな政府が、国民の意識改革が求められます。自治意識が民主主義の根本です。民主主義を理解できない民の中央集権国家は、容易に国民を操ることができる国家となります。笹はそのようなことを感じていました。

 

手術の説明

2016102日日曜日

昨日、笹は家族と一緒に主治医の先生から、手術内容の説明を受けました。ひとつは、詳細な手術内容、もうひとつは、その手術のリスクです。笹ではなく彼の妻や娘に分かりやすい内容で、説明をしてくれました。病名は胃癌であること。胃癌にも顔つきがあり、すこぶる悪い顔つきであること。スキルス性胃癌といい、一か所の癌ではなく、胃内に広く広がっていること、粘膜下層に広がっているためにどの程度広がっているかは、肉眼では分からないこと。そして、進行や転移が早いことなどでした。 

スキルス性胃癌は、ステージによって粘膜に広がっている段階(ステージ0)、粘膜下層に到達している段階(ステージ1)、笹が当初見つかった時はステージ1と言われました。そして、その下層の筋(肉)層に広がっている段階から、漿膜下層、漿膜の5層になっています。7月末の検査では、どの層まで浸潤しているかは分からないと言っています。粘膜下層にも細かな血管やリンパ管が走っており、そちらから転移の可能性がありますとのことでした。血液検査の腫瘍マーカーでは、数値は陰性でした。他臓器への遠隔転移についても同様にCT検査でも陰性でしたが、感知できない小さな場合があり、転移がないとは言い切れないとのことでした。笹の最初の検査のステージ1の段階では、術後の治癒率は95%だと言えますが、現段階では分からないといいます。ステージ2では90%とのことでした。

笹は、腹腔鏡による手術を希望していましたが、現段階ではどのステージかが分らないので、開腹手術を薦めますとのことでした。開腹して肉眼で見ないことには、どの程度の進行度か、転移があるかも分からないのです。肉眼で転移が認められた際には、開腹しただけで切除せずに戻す処置になると言いました。スキルスはそれほどに強力・悪性だということです。スキルス性胃癌は、切除で対応が出来ますが、他臓器への転移では、処置が出来ないということです。化学療法(抗癌剤)は、効果がないといいます。癌を退縮することはあっても、治すものではないからです。笹は温浴治療にかけましたが、効果がなかった場合には、切除と思っていました。友人からもその切り時の判断が遅れないようにとも、言われていました。それから、5か月以上が過ぎています。毎日通ったといいながらも、不安な気持ちが過ります。

今回の手術は、一般的に胃全摘出手術に行われている「ルーワイ法」で行います。食道と胃の間、幽門と十二指腸の間を切ます。そして胃を全摘出するのですが、次に十二指腸と小腸との間を切ります。そして、食道と小腸を繋ぐことになります。切り取った十二指腸は、胆嚢と膵臓からの消化管が繋がっているので、胃側をふさぎ、小腸がわを小腸の壁へ繋ぐことになります。この方法での手術時間は、普通4-5時間かかるけれども臓器の癒着や胃の周囲の脂肪の量によって、長くなることがあるといいます。

これで説明は終わりかと思っていましたら、これで半分だといいます。次は、リスクについて話しますと言います。リスクはいくつかの合併症についてでした。ひとつは、思いがけない出血です。万が一血管を傷つけてしまう場合があり、出血から輸血を必要とする場合があるといいます。輸血による障害の可能性です。ひとつは、適合不全、縫合不全だといいます。その確率は約10%あるといいます。「適合不全か縫合不全かどうかは、術後5日目に造影剤を飲み、レントゲンの映像から判断するといいます。その間は、飲食はできません。高カロリーの輸剤を点滴で投与するといいます。縫合が上手くいっていない場合には、絶食状態が、2か月3ヶ月と続く場合があるといいます。ひとつは膵液漏です。それは、リンパ腺を取り除くときに、膵臓を傷つけてしまう可能性があり、膵液は消化液ですので、蛋白質を溶かす作用があります。その場合には、出血や膿がたまるといいます。いずれも医師の熟練度によるのでしょうが、手術リスクの可能性です。ひどい場合には、再度開腹手術を行うといいます。それ以外には、腸閉塞や肺炎、肺や脳、心臓に血栓が出来ることです。4-5時間の長時間の状態で血栓ができるとそれによる障害の可能性があるということです。

笹は、これらの説明を聞いて、幾つかの質問をしました。手術の失敗の可能性です。1%と言いました。100人の手術で1人の失敗(死亡)の確率です。医療はひとの仕事です。常に失敗の可能性を秘めています。もうひとつは、現在の癌のステージについてです。笹が治癒をかけた温浴療法は、どのステージかは開けてみなければ、分からないということでした。主治医の先生は、この度の入院時でも、開口一番に「手術をやりますか。」の質問をしていました。大学病院では、治癒の状況を知る検査方法が、整備されていません。その結果が分らないままに笹自身の判断から、手術の決心をしています。彼らの目でも先の7月末の検査でも進行は見られなかったのではないかと疑心になります。笹は治癒の可能性を断念しての手術です。笹は検体の提出を申し出ていましたが、6カ月もの間、かけた温浴療法がどのような効果があったかを知りたいし、大学病院側にもイビデンスとして、残して欲しいと思っています。笹は、いまでもあと数年経てば、統合医学治療がこの大学病院でも普及するだろうことを確信をしています。その力によって、笹のステージ1のスキルス胃癌は治癒できるだろうと。

 

手術とその後

2016109日日曜日

今日は10/9日曜日。笹のいる病棟は本館7階南棟です。病院内はなんとなく静かです。連休のために外来がないし、そのために職員配置も少ないからでしょうか。昨日は術後5日目でしたが、縫合結果のレントゲン撮影がありました。縫合不全、適合不全の恐れはなかったようです。その後に飲水出来るようになりまた。恐る恐るでしたが、水が体内に流れて行くのを感じます。これで、手術に関しては、全てのリスクが遠ざかりました。腸閉塞、縫合不全、感染症・・・・・。後は体力をつけて、回復に努めるだけです。10/3の手術は、1230分からオンコールということでした。電話で呼ばれた時といった意味でしょう。病室で待つこと20分。115分に来てくれと電話が入りました。2階の手術室まで歩いてゆきます。ガランとして体育館の倉庫のような印象です。主治医のMT先生ともう一人が待っていました。大きな部屋がいくつかに分かれていて、奥まったところに手術台があり、照明灯がその上に天上から吊るされています。麻酔担当の先生がにこやかに声掛けしてくれました。他にも幾人かの先生方がいました。チームです。緊張感からなのか、慣れて緊張がないのか分かりませんが、和気藹々と作業を進めています。直ぐに俯せになり背中に麻酔をし、次に仰向けになり麻酔ガスを吸引しました。恐怖心も何も感じる暇がありません。直ぐに意識が遠ざかりました。

笹が目が覚ましたは、20時を回っていました。手術は順調で転移はなかったといいます。転移していれば直ぐに開腹を中止し、埋め戻すと言っていましたので、外観上は問題がなかったようです。摘出した検体は、その後しっかりと病理検査をするでしょうから、それが、確実な結果になるでしょう。胃漿膜には無数のリンパ腺膜が張り付いています。脂肪の膜のようですが、一番はそちらに転移していないことが重要でしたが、他の膵臓や胆嚢の周りも転移の問題がなかったようです。病室のベットの上で意識は戻りましたが、かなり消耗しているのを感じました。家族、娘と妻の二人は、一日がかりの仕事でした。疲れたでしょう。笹の意識が戻ったことを確認すると病室を後にしました。後で聞くと夜道には慣れてなかったこともあり、道に迷ったといいます。帰宅は11時を回っていたようです。

夜から4日の朝までは、うつらうつらしていました。寝ていたような随分と寝たと思っても、時間は進んでいませんでした。それからは、毎日が点滴と採血、レントゲンなど、看護師さんが、目まぐるしく動いています。新人さんもいれば、ベテランの方が入り混じって勤務しています。完全看護というのは、すばらしい医療です。この大学病院の職員は看護師だけで、1000人を超えるといいます。日本では希望すれば、誰しもが受けることが出来る皆保険医療制度によります。その恩恵を受けながら、笹は交々のことを思いました。その素晴らしさとその組織の持つ負の部分とです。

笹は、日に日に回復するようになりました。腸閉塞は、屁がでればOKです。オナラの無いことが心配でしたが、3日目の7日には出ました。手術後は、腸が全く動く気配がなくヤキモキしてすごしました。先生からは、自力歩行訓練が、腸の動きを促すよといわれて、随分と熱心にやりました。お腹の痛みも薄れてきて、自分でベットでの寝起きが出来るようになり、大小便も自力で行っています。パソコンも途中からは、操作できるようになりました。娘に託した仕事も全てを任せることは、無理がありました。数日間ならと思っていましたが、その通りでした。笹の仕事は神様のくれたものですが、感謝と同時にこれからの時間を割こうと思っています。神様のくれた仕事ですから当然です。

 

笹の記念日10/10

20161010日月曜日

笹は、不安と期待の気持ちで、朝食を待ちました。今朝から、点滴ではなく食事に変わります。重湯100g、味噌汁、牛乳です。初めての食事にしては、量が多いように思われ、果たして食べ切れるかどうかが、心配な程でした。事前に栄養指導を受けていましたので、ゆっくりと時間をかけて、食べること、食べてからは、そのまま背を立てて30分ぐらいは、静かにしていることを教わっていました。

胃の消化が出来ないので、口で消化をする必要があります。ゆっくりと唾液の分泌を意識して噛み、ゆっくりと少量ずつ飲み込みました。美味しかったし、健常者の時は、味わうことなく食べていたので、今日のこの感覚がこれから生きる「食」の原点になるのかと思いました。10/10は笹の新しい人生がスタートする記念日です。

笹は今朝の回診で先生から、いろいろと訊ねられました。食事を完食したこと、問題がなかったこと等をお話ししました。笹の表情がすでに病人からビジネスモードに戻っていたからかも知れません。思いがけなく、今週末の退院でもいいようなお話になりました。土曜日は、病院が休日なので、会計は別になるとしても今週末といいます。あと一週間です。あまり急なので、先生にお任せいたしますと答えておきましたが、月曜日(10/17)が良いようです。

 

病棟のひと模様

2016109日日曜日

笹は、9/28の入院から、11日が過ぎます。1度病室を移りましたが、その間にも時折病室患者の入れ替わりがありました。その中には、笹よりも若干若い方も居られましたが、ほとんどが、10歳以上はご高齢の中期高齢者の方々です。ご家族との会話や看護師さんへの声掛けから、お人柄やご家族の人間模様が窺われます。その会話から、そして人生の年月を感じさせる思いやりの言葉を聴くと、良い人生を送られてきたんだなあと思います。そうとばかりではありません。荒々しい言葉を投げつけている男性もいます。奥さんに対してでしょうか。もう奥さんは慣れっこになっているようです。また、顔立ちの整ったご高齢の御婦人ですが、その方の娘さんへでしょうか、付き添いの看護師さんに我儘放題のことばを言い放っていました。綺麗なお嬢さんは、無表情で付き添っていました。そのご婦人は、本来は美しく老いることが出来たのでしょうが、とても幸せには映りませんでした。笹は、これから先自分にどれほど時間が残されているのかは分かりませんが、恥ずかしくない時間を過ごしたいと感じていました。

笹は、今回の命にかかわる病が、自分の人生を見直す機会になりました。良く言われることですが「人生を見直す契機となる癌は、その意味ではプラス効果がある。」といいます。笹の場合も待ったなしでやって来ました。笹は九死に一生を得たようです。これを契機にこれからの時間を大切な家族や友人知人と、充実した時間を過ごしたいと思っています。その意味では、人生の折り返し点を随分前に過ぎてはいましたが、波風を受けながらもそれでも「順風満帆で生きてきて、奢れる自分にこのままではいけない。」とやっと気付くことが出来たようです。今回の命の病・スキルス性胃癌は、神様の思し召しなのかと感じています。

 

病棟のひと模様(老老介護)

20161012日水曜日

10/12。笹の術後も9日を迎えました。笹の回復は順調のようで、今朝から3分粥5回食になりました。胃全摘出ですので食べることに慄いていますが、全て食べ切ることが出来ました。回復が早いようです。歩行練習の間に待合室でTVを見ようと行きましたら、同室のEMさんが、ご家族と携帯でお話をされていました。毎日リハビリに精を出されています。悪性の進行癌だといいます。胆管癌と肝臓癌で、肝臓癌は開腹はしたけれども場所が悪く摘出できなかったといいます。この後の治療は、抗癌剤になるようなことを言っていました。笹の思うには、彼の癌は末期になるでしょう。笹よりもちょうど10歳年上ですが、御主人の癌手術の1カ月前に奥様が脳溢血となり、左半分が麻痺して車椅子の生活なのだそうです。心労からかもしれません。彼はこの後一時退院する予定なのですが、高齢手術のせいか、足腰が弱ってしまい自力で歩くことが出来ません。 しきりに看護師さんに「リハビリで治るかな?」「歩けるようになるかな?」と聞いています。退院後にお二人で車椅子の生活になったら、どうしようかと思っているのでしょう。

笹は、毎日病室で彼の電話を聞くとはなしに聞いています。いつも奥様に優しい声掛けをしています。「大丈夫だよ、お母さん。」の言葉が、いつも聞こえてきます。お嬢さんが同居されていて、会社に出勤されている間は、ヘルパーさんが対応しているといいます。娘さんとお母さんの間のちょっとしたこともご主人が、調整の気遣いをしているのが、分かります。彼の優しい声掛けに目頭が熱くなります。奥様も御主人を頼りにされています。笹は別れ際に彼の手を握り、気持ちを伝えました。「大丈夫ですよ!」「リハビリで歩けるようになりますよ。」気休めの言葉は、失礼です。彼の癌は良くなることは、期待できません。少しでも進行を遅らせて、ご夫婦の安穏な時間が持てることを望むだけです。

また、隣のベットにはご高齢の男性が入院されていて、同年齢の奥さんが週に23度お見舞に来られます。病状は分かりませんが、かなり悪いようです。そちらの御夫妻もお互いへの思いやりの気持ちが、滲み出ています。御主人は奥様が御年だから、あまり来させたくない、面倒を掛けたくないようです。奥様は御主人の健康を気遣って、あれこれと面倒を見ています。御主人をOOOちゃんと呼んでいます。農家ではないようなので、長年サラリーマンをされてきた御夫妻かもしれません。

老老介護とは、 高齢者の介護を高齢者が行うことです。主に65歳以上の高齢のご夫婦、親子、兄弟などがそれぞれ介護者・被介護者となるケースを指す。超高齢社会を迎えた日本では、核家族化が進行していることもあり、老老介護を行う世帯が年々増加している。利用料金の高さや他人を家に入れたくないなどの理由から、高齢者がヘルパーなどの介護サービスをあえて利用しない場合も多い。介護疲れによる非介護者の鬱病や病気などが後を絶たず、深刻な社会問題となっている。 笹は言葉として、また社会事件として老老介護の方の問題を知っています。しかし笹自分もその年齢の入口におり、周囲にはこのような御家族が多いことに大きな危機感を感じます。年間40兆円もの医療費もそのひとつですが、国民が自分の問題として直視することが大切に思えています。

 

退院

20161014日金曜日

笹は、明日15日(土曜日)が、退院の日取りになりました。これでも1日遅らせての退院です。回復の経過が順調なことが、良かったようです。

今日は、殆どゆっくりと過ごしました。体力付けの廊下の歩行練習と、5分粥の完食とに気を使っていました。昨日、少し食後に気持ちが悪くなったことが、理由です。食後30分が前期ダンピング症候群といい、食後1時間半頃になるのが、後期ダンピング症候群というのだそうです。笹の場合は、前期ダンピング症候群に該当します。今まで、食事は余りよく噛みもせずに胃袋に飲み込んでいましたが、これからはそうはゆきません。しっかりと噛んで租借したものを、ゆっくりと飲み込むことになります。行き先は小腸です。従来は、そんな心配もなく食べていました。その胃がないわけですから、冷や汗が出たり気持ちが悪くなるのは、当然のように思います。食後は体を起して、30分は静かにしているようです。1-2ヶ月は、注意するようだといいます。その後は体(小腸)が慣れてくるので、平気になるようです。

笹は、明日からの生活に想いを馳せていました。ここ病院内は、一日寝ていられる環境です。冷暖房完備、完全看護の看護師さんがついていました。明日からは、女房の作る食事に、室内も朝夕寒暖の差があり、コンスタントに仕事がある通常の生活が待っています。何もせずに過ごすことはあり得ません。しっかりと笹自身が、生活の主役になることになります。幸い笹は料理を作ることが得意でもあり、大好きです。こちらで提供されている病院食ぐらいは、お手のものです。今までは仕事の忙しさと毎日6時間の温浴への通院で、食事を作る時間がありませんでしたが、これからは温浴がない分、食事を作る時間があります。女房の苦手な料理と掃除に精を出せそうです。そのほうが体力作りになるように思っています。仕事もこの度の娘へ依頼したことから、もう少し効率的に対応が出来そうです。そのようなことから、自宅療養は即ち主夫になることのようです。

次回の通院は、2週間後になります。10/28(金)です。その際に今回全摘出した胃の組織と周囲のリンパ腺等の病理検査結果が、分かる予定です。転移などの何事もないことを願っていますが、分かりません。人生はそう上手く運ぶとも思えないからです。努力は精一杯行いました。この検査結果から温浴療法に賭けた結果がどうかが分かります。いずれにせよ、明日が退院です。多くの人々に感謝しつつ、そして回復に期待を持って、更に九死に一生を得て、これから先の数年、5年、10年を健康でいられることを願い、自宅に戻ります。残された人生の新たな夢を持ってです。

 

帰宅(養生)

20161024日月曜日

笹は、10/15(土曜日)が退院です。土曜日は外来が無いので静かな朝になります。5分粥の食事も済み、荷物整理もほとんど済んでしまい、手持ち無沙汰にして回診を待っていました。9時頃に主治医のMT先生が、来られました。経過が順調なせいか、にこやかに外来日を伝えてくれました。10/28(金)の1130分です。採血と腸のレントゲン撮影、そして病理検査の結果報告になります。お礼を言い帰り仕度に入りました。ちょうどその頃に家族が来ました。荷物を持ち看護師の詰所脇でまち、書類を頂戴しました。腕の認証バーコードを外されると何故か開放感を味わいました。囚人の気持ちが分かるようです。

これで、3週間(17日間)の入院生活ともお別れです。全てが順調だったせいか、このようなことなら、もっと早くに手術を受けるんだったと思うほどでした。しかしそうではありませんでした。娘の軽自動車の後部座席に乗込み、自宅に向かったのですが、車の振動がきついのです。運転が雑なのか軽だからなのか、30分も走ると気持ちが悪くなり休まずにはいられませんでした。自宅までは、通常では2時間弱の距離ですが、これは大変だと観念しました。病院での歩行訓練は序の口でした。自宅に着くまでに3回ほど休みました。コンビニで買った簡単な食事を摂り、昼にはファミリーレストランで、娘たちのメニューから分けてもらい食べました。カレーとハンバーグとスープを少量でしたが、家族は呆れていました。笹はそれ以降も食べることが、回復になると思い、極力食べることにしました。順調に食べることが出来、犬との散歩もできて、順調に回復していました。お腹の傷の違和感も薄れてきていました。

笹は退院して今日で9日になります。順調に回復しているように感じていましたが、ここ数日の出来事で、これは半端じゃないと思い知らされました。笹は5回食を実行していますが、二日程前の2回目の食のときに、胃のあたりが痛くなり、それが20秒毎に襲ってきました。唸るほどの痛さです。初めての経験です。食道と小腸が縫合されていますが、ちょうどそのあたりです。詰まってしまったかと何かおかしなことになったのではないかと、思いを巡らせましたが見当が付きません。横になって苦しんでいましたが、全く良くならないため、布団に入り、医科大学の緊急外来に連絡を取りました。症状を伝えて処方を伺いましたが、便通があることから、それほどの異常事態ではないようです。もし、もっと酷くなる様でしたら、もう一度ご連絡くださいとのことでした。それから暫く苦しみました。腸が音を立てて活発に動いているのが分かります。ゲップが出たくなると痛くなります。それが周期的に起きて、ゲップが出ると治まりました。そのうちに戻したくなり、幾度か戻すと自然と楽になりました。

結果から思うに前日に食べた牛蒡が原因だったようです。小腸の中で消化が悪くガスが溜まり、それが逃げ場がなく小腸を圧迫していたようです。笹は退院後は、食べることも体力の回復も順調でした。友人から聞いていた食事の大変さは、笹の場合は該当しないのかと思っていました。そして出来るだけ沢山食べて体力を付けようとも思っていたほどです。その苦しみ以来、食事に消化の良いものをと考えるようになり、食べ過ぎないことに気を使うようになりました。お腹の傷は随分と回復しているようです。布団に伏せる時も痛みはなくなりました。笹が気にしているのは、1~2カ月もすれば慣れるよといわれる食事の慣れ(小腸の慣れ)です。食べ過ぎて同じような苦しみは味わいたくないし、かと言って食べなければ、食に慣れることが出来ないからです。現在の笹は恐々の状況です。

 

最後の投稿(外来診察)

20161029日土曜日

笹大輔の投稿も一段落になります。昨日10/28(金)笹は妻を伴って大学病院に外来診察で伺いました。退院してからは初めてです。目的は病理検査の結果と、血液検査、胃腸のレントゲン撮影です。

主治医のMT先生と2週間ぶりにお会いしました。相変わらず若々しく清々しい印象で、応対してくれました。彼のどこがいいのか、妻は好印象を持っています。まずひとつの病理検査の結果は、全く問題がなかったといいます。粘膜の未分化の癌は、ステージのままで進行はしていなかったといいます。妻が温浴療法の効果を尋ねますと「効果はなかったようですね!」と返答されていました。笹は何も言いませんでしたが、見解の相違です。スキルス性胃癌を半年もの間、何の治療もせずにいて進行がなかったことが、奇跡だと思うのですが。胃とともに切除したリンパ腺等からの癌の細胞は、発見されなかったといいます。もうひとつ、血液検査の腫瘍マーカーも陰性でした。癌の進行を示す数字はありませんでした。最後にレントゲン結果も問題はなかったようです。次回は3か月後に血液検査とCTで他臓器への転移の有無を調べましょうと伝えられました。

笹は食の問題はありますが、その後体重減等もなく、順調に回復しています。1日を5回食と聞いていましたが、食べられません。3回食でちょうどのようです。笹はその結果から、間食で体にいいものを摂ればいいかと考えています。この後に体重が減るようでしたら、食事内容を検討しようと思っています。また、先生は妻が心配している笹の運動も、遣りすぎなければ、自己管理で良いですよと回答していました。妻は食事のことや運動のことを心配しがちですが、大学病院の若い先生には、分からないはずです。彼らは食事や栄養学の専門的な知識を持ちません。病院の術後の栄養講習も受けましたが、彼女たちはカロリー計算等の知識を持っていますが、それ以外の生理学的な栄養の知識は、持っていないようです。食品の持つ機能性成分や医食同源の知識は、栄養学のカリキュラムにはないのだろうと思います。

笹大輔の罹病から、温浴施設での治療、そして諦めからの手術、退院、養生の投稿をこれで最後にします。笹大輔は温浴療法、即ち、代替医学の胃癌治療を実践したかったのですが、学問的には今だ道半ばでした。温浴治療も大学病院もそれらの学問的な知識を持っていれば、笹のステージⅠのスキルス性胃癌は、容易に治療できたものと思われます。

笹の友人、知人は、笹の外来検査の結果を聞いて喜んでくれました。ステージⅠでの手術は、術後5年では95%の治癒率だからです。膵臓癌の「彼」も喜んでくれました。彼の癌は再発したら、手術は出来ないといいます。笹大輔のスキルス性胃癌もそうです。他臓器の転移後は、化学療法(抗癌剤)も効きません。その意味では癌になった生活習慣を改めて、癌になりにくい生活を送る必要があります。笹は決めています。再発しないための生活習慣、リズム、ストレスレスの生活、そして食です。それでも再発したら、温浴施設のラジウム鉱石とテラヘルツ鉱石のベッドを購入して、他の仲間(癌患者)とシェアをしようと。週に12度の温浴療法で10人ほどのシェアが可能です。そんな日が、来ないことを願っています。

術後の笹は、遣りたいことが山ほどあるようです。65歳を過ぎて結果オーライの人生かも知れません。幸せは心が決めるもの。笹の人生は両親や神様から溢れるほどの幸せを貰いながら、そうと思わずに生きて来たのです。果して残された時間を幸せで満喫できるでしょうか。まだまだ、笹の人生はこれからです。癌から学んだ「感謝」と「奉仕」と「反省」の気持ちは、大丈夫でしょうか。人生の生きる意義を死を目前にして学んだはずです。