暗闇の中、目が覚めて枕元の携帯を見ると4時を少し回ったところだった。最近、朝方に目が覚め、再び寝付く間に子どもの頃の記憶が思い出されるようになった。その頃のことは余りに幼く長い間全く忘れて思い出すことも無かったことだが、どうした訳か記憶の扉が開け放たれたようだ。思い当たるのは、手仕事専科の販促としている歴史街道ブログで子どもの頃を思い出し掲載したことが、原因となっているのかも知れない。
君が代を歌わない、国旗掲揚を行わない不思議
切欠は1カ月前になるだろうか、大田原市役所に那須文化研究会の木村康夫会長を訪ねたことからだ。ここ5、6年になるが、私は近現代史に関心を持っていた。日本は江戸時代、明治維新を経て西洋列強諸国に翻弄されながら、近代化、富国強兵に勤め必死に時代を生きて抜けて来た。隣国の清が西洋列強に蹂躙されるのを見てきた。日本は日英同盟に助けられて、日清日ロの戦いに辛うじて勝利をおさめ、西欧の仲間入りを果たしていた。国際連盟は当時17ヵ国ほどだったが、有色人種の国家は、日本だけだった。中国大陸での日本の台頭に業を煮やしていたアメリカのFDルーズベルトにより、日本は参戦の方向に進まざるを得なかった。彼は恐ろしいほどに親ソビエトであり、蒋介石中国に好意的だった。史実からは、第二次世界大戦のヨーロッパの開戦も彼とチャーチルのイギリス、フランスの仕業になる。日本は、第二次世界大戦の敗北を機に連合諸国に悪の権化のように言われ続けてきた。東京大空襲や広島と長崎の二発の原子爆弾の投下により、一夜にして40数万人を超える民間の老人女子供が虐殺された。当時の国際法においても全くの違法行為である。恐ろしい、人に有るまじき非道なことだが、戦後それを問う声も連合国を非難する声も起こっていない。歴史は力が正義であることを示している。国民は、6年半に及ぶアメリカの占領統治により徹底的に日本の悪行を刷り込まれた。今では明らかに嘘捏造だと分かる史実をつくり東京裁判史観、WGIPによる「自虐史観」といえる洗脳がなされた。時の日本政府はそれを飲まざるを得なかったが、それが未だに自民党政権として続いている。従来の国の骨幹をなしていた人々は「公職追放」により去り、GHQによって解放された戦前の社会主義者たちが、教育機関を中心に「敗戦利得者」として、アメリカのなした嘘の歴史に輪をかけて未だに唱え続けている。東京大学総長の南原茂をはじめ、朝日新聞、労働組合など、そして日本社会党はその筆頭となる。私は、長年なぜ日本が現状のような「君が代」を歌えない、「国旗掲揚」を行わない社会、国家となったかが、不思議でならなかった。高度成長期のサラリーマンで昇進と給料が増えることだけに関心のある自分には、国政や歴史には関心がなかった。それが、中国や韓国、北朝鮮から非難される南京大虐殺事件や従軍慰安婦の真実を学び知るにつれて、私達の漠然と学んできた近現代史が、如何に嘘捏造であるかを知ったのです。古稀を迎える私の使命は、今更ながら真実の近現代史を子どもたちに伝えることだと自覚したからです。真実とは言え大人達に伝えることは至難の業だということは知っています。まずその活動に際して地域に同志を得ようと思い立ちました。それで那須地方で歴史に関心のある方々の中にはそのような歴史家がいるだろうかと思い那須文化研究会代表の木村康夫氏を尋ねたのです。
那須文化研究会
彼は、那須地方の郷土史に関心があり、その研究編纂をライフワークにしている。湯津上村の御出身で大田原高校の1学年後輩になる。那須高校の国語教諭をしていた折に同僚の幾人かの先生方と飲むと教育について、喧々諤々の論争をしていた。彼は、生っちょろくいつも先輩のI氏やK氏に叱られていたという。その二人は私の良く知る人物で、I氏は稲沢部落の私の一級先輩で中学高校と一緒だった。彼の家は、祖父は師範学校を出た有名な先生で御両親も揃って教職者だった。彼が教職に就くのは当たり前だったと思う。H氏は同級生で1学年時に同じクラスだった。田舎者の世間を知らない私と比べて沈着冷静、穏やかでスポーツも学業も秀でた男だった。感情に左右され流される自分と比べて数段大人の印象を持っている。未だに彼のように落ち着いた人物には幼稚な自分は敵わないと思う。彼等の優秀さを知る私には、彼等が木村氏に語る姿が見えるようだ。
郷土史について私の御先祖が越中富山の砺波地方の出身で兄の代で5代目になると話した。砺波では、代々OO藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松は婿で兄弟の一人は氏家の地区に婿に入り、籾と玄米の選別できる唐箕という農具の発明特許を取得した事業家だったと聞きます。我が家にもその農具があり、子ども乍らその凄さに驚いて見ていました。同じく兄弟だった平沢の鶴野氏は、開明的な人だったようです。木村氏の話では、越中富山の人々は、湿地を好んで移住したといいます。彼らは事前の情報から、移住する土地のことを知り、先に入植した人達を頼り移住してきたといいます。琵琶池も湿地になり、那須与一の16人餅つきで有名な福原もそれから湯津上につづく江川沿いには、富山からの浄土真宗の人達が住み着いたといいます。湿地のお米は美味しいからです。私の曾祖母や祖父母は、佐久山藤沢の出身でいずれも敬虔な浄土真宗の門徒で、家には幅1軒ほどの大きく煌びやかな仏壇があり、いつも仏壇に向かい「南無阿見陀仏」を唱えていました。浄土真宗は、親鸞上人を開祖とする仏教で、煌びやかな仏壇と坊主の妻帯を許しています。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。
木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む膳棚には茅野という稲沢部落の入会地があり、毎年春先に村中の人々が総出で茅焼をする。その斜面の焼け跡には一面に黒い灰が残り、暫くすると新しい芽が茅株から芽吹いてきます。また、太く美味しそうな蕨が一面に生えてきます。村の人達は、蕨採りにやってきますが、それでも取り残された蕨が葉を広げていました。茅野の風物詩です。多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを「結い」で行っていました。その後、多くの家が茅屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有山は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。茅の必要で無くなった後には杉が植林されました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ました。我が家は、57坪の茅葺屋根の農家です。南を向いて縁側があり、小さな這い這いの子どもは、縁側から良く落ちていました。下は土でしたので怪我はせずに済みました。土間の台所と囲炉裏、広間と座敷、納戸と4畳の間、茶の間とがあり、仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。屋根の葺き替えは、数日掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。古く腐った茅を取り除き、新しい茅を差し替えて取り付けます。半分位が差し替えられ、屋根の端を刃の付いた道具で切り揃えます。職人の仕事です。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として茅や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。
その後になりますが、彼等教職員の方々の話から、近現代史に関する話は聞けませんでした。日本共産党に与する日教組の組合は栃木県にはないといいます。日本高等学校教職員組合と言う御用組合があって、歴史には触れることなく私の学んだ史実は学んでいないようです。日教組の「自虐史観」ではないが、かといって、鼻から「日本は悪くなかった。」「日本の開戦によりアジアの国々は悉く戦後に独立することが出来た。」「素晴らしい国だった。」という近現代史観には拒否反応を持っているようです。
琵琶池の地
曽祖父は琵琶池の田口の出で、曾祖母は藤沢の高橋の出です。藤沢の高橋家や琵琶池の田口の家は、小学生の3、4年生の頃に祖母に連れられて2、3度尋ねて泊ったことがある。どうして私を連れて行ったのだろうか。兄と妹がいたが、私が一番連れていかれたようだ。自分が婆ちゃん子だったからだろうか。法要か何かの仏事だったと思うが、佐久山の前田のバス停を降りて、30分ほどは歩いただろうか。右に竹藪の林を見て、左手に曲がり更に歩くと高橋の家だった。日当たりの良い高台にある家だった。曾祖母のキンと祖母ヨシは姉妹になる。曾祖母のキンは、初(はつ)の後妻で音松との間に一男一女をもうけたが、幾人かの子どもが生まれていたようだが、幼くして亡くなったと聞く。大叔父は、鉄道省の学校を卒業し東京に出て三共製薬に勤めた優秀な人だった。5人の男の子をもうけ全員大学に進学させた。大叔母は、越堀のに嫁いだ。曾祖母キンは後妻に入ったので、先妻の子兼次郎の嫁に妹のヨシを迎えた。随分と年の離れた姉妹になる。琵琶池の田口の家は高橋の家から向かいの山の陰になる。祖母ヨシが「明日は向山の家に行く。」と話してくれたが、歩いて30、40分はかかったろうか。少し小高いところに南の琵琶池に面して建ち庭も広く大きかった。今思い出しても大きな作りの家だった。当時の琵琶池の田口家は、有名な大百姓だったと思う。庭から右手下に馬車が通れる幅の道路を挟んで琵琶池が大きく広がり、池の端には小さな池が仕切られ葦がしげり真鯉が放たれて、池の縁に鍋釜を洗う小さな桟橋があった。我が家の池にも真鯉がいたが、もっと大きな真鯉が数匹姿を見せては翻りまた潜っていった。当時そこには、16歳位の男性がいて、私と遊んでくれたことが記憶にある。背も高く格好の良いハンサムな青年だったが貰われっ子だと聞いた。バトミントンだったが、博叔父仕込みの自分は結構得意だったが、彼は上手に遊んでくれた。その内に誰かが彼を呼び、楽しい遊びは終わった。祖母と夕食をとり、広い土間の反対側に五右衛門風呂があり、暗い中入った記憶を鮮明に思い出した。そう言えば我が家にも五右衛門風呂があった。五右衛門風呂は、風呂釜の底に敷板を敷くが、これを使うにはコツがいる。初めての人は何に使う板敷なのか分からなく足元に敷くが直ぐに浮いて来てしまい難しい。祖母が何か「お先に頂戴します」と言った様な挨拶をお年寄りのご婦人にしていた。彼女たちは、祖母の親戚の婦人達だった。祖母に守られて自分はそれ程に委縮することもなく過ごしていた。田口の家は天井が高く暗い大きな瓦屋根の家だった印象がある。
膳棚の地
私は栃木県那須郡那須町大字稲沢小字膳棚の生まれ育ちです。膳棚の地は、私が生まれた時には四軒ほどの農家が奥山の深い合川に沿い南側を向いて並び、左右に小高い里山をもち、馬車の通れるほどの道が稲沢と越堀への幹線道路に繋がっていました。右手は茅野といい10丁歩程もあったでしょうか屋根の葺き替えに使う萱を採る共同山です。左手は、なだらかに広がり広葉樹林と松が育ち、一部には杉が植林されていましたが、一番高いところは広葉樹の中に松の木が一本あり、私達は一本松と呼んでいました。よくその一本松に登り遠くを眺めたものです。学校への近道となる山道の途中には炭焼き小屋があり、冬の日には子どもたちで学校帰りに暖を取るためによく寄りました。膳棚の一番の上にあるのが私の生まれた家です。それぞれに「上」「新宅」「兼ねちゃん家」「下」と呼んでいました。家々には屋号と家紋があり、屋根の大棟の端にはその家紋が見られました。今では屋号の形を覚えていませんが、我が家は桔梗の紋です。合川沿いの道路から我が家には太い松に土を載せた小さな土橋を渡り一丁歩程も入ります。小さな堀も家の近くを横切り、茅葺屋根の57坪のそれなりに大きな農家でした。明治18年に建てられたといいます。その前にも何か家はあったのかと思いますが、聞いた記憶には分かりません。庭には庭石と花木が庭園風に植えられて、玄関となる板戸の敷居をまたぐと土間が広がり板敷の上りがあり、囲炉裏がありました。畳茣蓙が敷かれていました。立派な大黒柱があり、右奥には16畳の大広間、その左脇には7畳程の茶の間があり、更に奥には8畳の座敷と仏壇がありました。お客様が来るとそちらに泊まっていました。そして、4畳間と8畳ほどの納戸です。それらの部屋は、大きな黒光りした杉の板戸で仕切られていました。子どもの頃は、曾祖母や祖父母が茶の間に床を延べて一緒に休みました。体の温かい子どもは祖父母には湯たんぽ替わりだったように思います。茶の間には茶色のラジオがあり6歳年上の叔母はいつもラジオから流れるニュースや歌を聴いていたのを思い出します。土間の左手には、台所があり、五右衛門風呂とその奥に大小の竈が4つとさらに奥に黒光りした五斗程の米櫃と水屋がありました。五右衛門風呂の外には、柴木を置く場所があり、風呂が温くなるとその柴木をくべていたのを思い出さします。水屋には水瓶と蓋を乗せたアルミのバケツ二つと水柄杓がおかれ、井戸端からその飲み水を運んでいました。その二つのバケツでお風呂の水も運んでいました。中学生になるような大きな子どもたちの仕事です。叔父や兄は良くそんな話をしていました。天秤棒があり、その棒で上手く運ぶのがコツですが、私がその年の頃には、水道が施設されて数回やった後でやらなく成りました。水道が引かれたのは村のブームで近代的な台所が流行っていた頃です。近所のまだ水道の引かれていない家の娘さんかお嫁さんが、我が家の台所を手伝いしきりに羨ましがっていたことを思い出します。夏には野良着で食べられる一畳ほどの広さの椅子掛けの食卓があり、家族が囲んでいました。食卓の袋戸には残った料理を仕舞っておけ、便利でした。梅雨時には残された料理に黴が生えていたり饐えていたのが日常でした。冷蔵庫はかなり後になってからです。背後には杉と孟宗竹を背負いその奥は緩やかな勾配で広葉樹の山となっていました。東側には真竹が植えられていました。時折に炭焼き師が山を買って炭を焼いていました。山を買うとは、土地を買うのではなく炭になる広葉樹を買うことです。リボンを結んで炭にならない小さな木は残しておきます。奈良や椚の雑木は、4、5本が一株になって生えています。細い1、2本を残して切り取るのです。雑木が年数が経つとまた炭焼きの用の山となって甦るのです。冬になると木ノ葉さらいとして、その山に入りました。下刈りをしながら木ノ葉を稲わらで包み、背負子で持ち帰りました。木ノ葉は苗床や牛馬の敷き木ノ葉として使いました。昼には風の当たらない炭焼き跡の窪地で火を起こし正月の餅を焼いて食べていました。両親や祖母も一緒です。家の右前の茅野との間にはそれほど水源は奥深くはない小さな沢が流れ、大きな胡桃の木が植えられていました。行商の魚屋さんが、自転車の荷台に氷で保冷しながら鯖や鮪の切り売りで来ていましたが、残った粗をつかい、受けで沢蟹を獲っていました。一晩で数十匹は入っていたでしょうか。家の前には浮島のある結構大きな池がありその沢から水を引いていました。肥料舎と雨屋があり、肥料舎では堆肥作りと二階には干し藁を積んでいました。肥料舎の隣には牛と山羊、七面鳥や鶏などを飼ってそれなりの畜産も行っていました。子どもの頃に兄が悪さをして七面鳥をからかい、怒った七面鳥に追いかけられ足で踏まれた話は、叔父叔母の口からよく聞きました。肥料舎の隣には大きな甘柿の木があり、子どもの私には登るのが容易ではなかったように思います。その下側にも池があり、家鴨が遊びホテイアオイの浮き草が時折に綺麗な花を咲かせていました。
富山県人の血
農家としては、田圃2丁歩、畑も8反歩と山林は10丁歩を超えて持つ、旧伊王野村では米100俵を供出できる有数の農家でした。私の生まれた昭和25年頃には、曾祖母キンと祖父母兼次郎、ヨシがおり、両親と子供6人、叔父叔母合せて13、4人の大家族でした。盆暮に親戚の者が帰省すると20人を超える宴となりました。キンの夫の音松は54歳で急逝していますが、琵琶池の田口の出で、兄弟は近在のそれなりの家に婿に入りました。音松はじめ皆優秀な人物だったようです。嫁ぎ先の地域でも一目置かれる人物として名を馳せたと聞きます。氏家に婿入りした方は、実業家で籾殻の選別機で特許を持っていました。同じく、大田原市の平沢に婿入りした方も優秀で地域で代々一目置かれる開明的な農家になっています。我が家の音松も新参者でしたが、この稲沢部落では一目置かれていたようです。ある時我が家で音松の法要が営まれその折に琵琶池の田口出の者達が高橋の家の者と一緒に7,8人で来られましたが、驚きました。皆揃って私の叔父叔母や大叔父の子ども達にそっくりな顔立ちなのです。宴席に並ぶ叔父叔母は「あれまあっ!」と顔を見合わせていました。血は争えないものですね。叔父叔母の従妹や再従兄弟姉妹にあたります。私のご先祖は、越中富山の砺波地方から琵琶池を経て、明治の初めにこの稲沢の膳棚の地に入植しました。父の代で4代目と言います。砺波地方のお寺に家系図があり、父はそのルーツを尋ね、その家が代々八田藤四郎を名乗り、半農半士の足軽だったと調べてきました。この膳棚の地は谷地ッ田という湿地で両郷の浄土真宗のお寺の地所だったと聞きますが、山林の一部は越堀の藤田郵便局長の土地だったようです。長年小作をしていましたが、祖父母の兼次郎、ヨシの代にこつこつと貯めて完済し、現在の土地を持つ有数の農家になりました。那須文化研究会の木村会長の話すには、富山県人たちは、湿地を好んで入植したようだといいます。お米が美味しいのが湿地です。琵琶池や福原の江川沿いの村々も湿地になります。この膳棚の地も紛れもない湿地でした。旧奥州街道近くになる古くから住む稲沢の人々は、高地(台)に住み着き物事の変革は気性的に苦手だったといいます。それに引き換え、富山県人たちは、開明的で起業家だったともいいます。越中富山の人達は敬虔な浄土真宗(一向宗)の門戸です。私の性格からその血が流れているのを感じます。
農家に生まれ子どもの頃から、父や母、祖父母の仕事を見て育ちました。茅葺屋根の背後に山を背負い、孟宗竹や真竹を風除けに植えて、小さな沢が山裾の端を流れており、そこから水を庭の浮島のある池に引き、一寸した和風庭園ですが、いつも冷たい水が「筧(竹の筒)」から、池の受け桶に豊富に流れ落ちていました。我が家に来る人々はその水を手酌で汲みその冷たさと美味しさに声を上げていました。夏には、西瓜やトマトが冷やされていました。私たち子どもは一年を通して毎朝その水で顔を洗っていました。流れる水を手に受けて顔を洗う、シャキッとする瞬間です。竹藪からは、旬には筍が取れて、その美味しさは有名でした。土地が肥えていたのでしょう。背後の山と南を向いた窪地のせいで暴風雨でも災害に会うことはありませんでした。この暮らしの生活方法は、富山人の長い入植からの智恵だと思います。この優れた地のことは越中富山の薬売りの情報からだと思います。彼等は全国に情報網を持っていたようです。私が記憶に残るのは、私は次男坊で母が22歳の時の子ですから、私が5、6歳の頃に思い出す母は、20代後半の若い女性でした。あまり美人とは言えませんが、色白で小柄ながら豊満な女性で学校の勉強も良く出来る賢い女性でした。母の兄になる二十何歳か年上の離れた伯父の文右衛門には、随分と可愛がられたと聞きます。そのせいか良く母を訪ねて遊びに来ていました。姿格好は、農家の嫁でしたから絣や縞の着物を纏いモンペに手拭いを姉さん被りにしていました。私や長女娘や孫が色白なのは母似だからです。いつも何かの農作業をしていましたので、白い顔や胸を火照らせて、手拭いで汗を拭っていました。父と母の二人で朝早くに草刈りに出かけ、春先には馬を使い水田の荒くれ掻きや田植えの準備をしていました。田植えは、村内の人達が結で来られ、隣部落から多くの人達が手伝い人夫で来られていました。農繁期には、昼時や囲炉裏と土間がそんな女衆と男衆でいっぱいになりました。早苗饗の最後には、宴会となりました。興に乗り祖父兼次郎が詩吟を詠じて踊っていたのを思い出します。曾祖母のキンや祖母ヨシの着物は色味こそ年齢に応じて地味でしたが、同じく着物とモンペの格好でした。これが農家の標準着です。二人とも琵琶池と隣部落藤沢の高橋の家の出です。同じく越中富山からの人々だと聞きます。二人ともそろって働き者で、80歳を過ぎても朝早く4時頃から畑に草取りで出かけていました。蚋(ブヨ)に喰われない時間帯だからです。それでも顔中を喰われて瞼も赤く腫れて目が見えない程になっていました。私達は6人兄弟として育ちましたが、兄、私の後には妹が3人と弟がひとり生まれ育ちました。実際は、3男の弟の後に4男の子が宿りましたが、水子になりました。当時であっても6人の子どもは多過ぎたのでしょう。私達はそのことを知りませんでしたが、ある時母が水子供養をしているのを見て知りました。そして、その後に最後の女の子が宿り、泣いて母が父に産むことを迫ったと聞きました。その子は、もうじき60歳近くになりますが、性格や顔立ちは叔父叔母に似て、綺麗な賢い女性になりました。
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