私の歴史勉強会のグループに藤田信治がいる。グループは近現代史を学ぶ会であるが、彼はつい最近知り合った人物で、熱心な勉強家と思っていた。昭和23年の早生まれで、私の兄と同じ年である。戦後のまだ貧しさの残る頃に生まれた団塊の世代である。知り合ったのは8月初めの頃だから、既に3カ月が過ぎる。彼から連絡があり会う事になった。現在は、SNS全盛の時代である。facebookのお友達申請があり、私の勉強会に参加したいと言う。仲間が増えることは座長の私には大歓迎であった。また、保守系の政党の支持者でもあり、会う事になったのだが、会って彼の特異な風貌と話す内容に少し違和感を覚えた。年齢的にそうなのかと思ったが、非常に律儀である。そして、真面目に日本精神を語り、社会の風潮に警鐘を鳴らそうとしていた。私も同じ思いではあるが、私以上に熱心である。
この県北地区の政治は自民党系がダントツに強い。従来は有名な自民党政治家の基盤であったが、二世になり地元の支持者から離れてしまい、今は、自民党だが別の落下傘議員が地盤を継いでいる。彼は特段魅力的な人物ではないが、小選挙区制と自民党の公認候補ということで既に5期位にはなっているのだろう。近現代史を学ぶと自民党は米国に媚び諂う売国の政党と分かる。それが、農協と通じて保守系の選挙票を獲得している。その環境で米国に対抗する真の保守政党議員を選出しようと言う活動が、彼や私たちの関心事である。パソコンを買換えてZOOMソフトのインストールを教えて欲しいとの事で彼を訪ねた。彼の家を訪ねるのは、3度目だがちょうど昼時の食事時間となり、近くの私の良く知るレストランを訪ねた。いろいろな話をしたが、気心も分かり自分の身の上話をしてくれた。私の知る高校時代の友人の出た僻地の出身だった。2学年一クラスほどの小規模の分校のような小学校だが、そこの出身だと言う。私の同級生の話をするとその家のことは良く知っていた。友人の母親が学校の先生だったと言う。藤田信治はその後に大学に進学したことや結婚を考えた女性もいたこと、長男であったことから家に戻り家督を継いだことなどを話した。牛小屋が家の中にあるような貧しい小さな茅葺屋根の家で当然兼業農家だった。父親は何か商売をしていたようだ。戻った彼は母親から常に家を建てろと急かされていたと言う。大学を出た自慢の息子が羽振り良く家を建てることを考えていたのかと思う。学校の先生になることも一つだったのだろうが、先生の薄給では家など建てられない。当時は不動産ブームで不動産や建築関係の仕事が、華やかだった。それに就職しそれなりに稼ぎ、家もローンで建てたと言う。その後母親との確執から気が滅入るようになり、長年精神病院に厄介になったと言う。15年ほどして、退院することが出来て今があると言う。完全に退院して8年が過ぎる。その話を聴いて、私は回復して社会復帰をしているなら、「その話は誰にもしないように」と念を押して、歴史勉強会のグループに参加するように促した。
歴史の勉強会では、律儀に歴史を語り頭の良いことがわかるが、話す言葉が田舎訛で口調も独特だった。それでも彼はそのような年齢と思われ、徐々に仲間になり溶け込んでいった。私も彼が仲間に馴染み、喜んでいる姿は嬉しかった。9月になり、勉強会の1泊2日の合宿があった。彼は喜んで参加し脚が少し不自由だったが、杖をついて付いてきた。「今まで、一緒に食事をする者もいなかったし、こうやって歴史遺跡の散策も出来て幸せだ」と語ってくれた。カメラが得意で歴史散策の場所場所で写真を撮ってくれた。今も私のフォルダーにその写真が納まっている。
ある時、歴史勉強会の熱心な参加者「佐藤享」に藤田信治から連絡があり、関谷の病院に連れて行くことになったらしい。最初は私に連絡をくれたのだが、私が出られなかったので、懇意となった佐藤享に連絡をしたらしい。藤田と佐藤とは、勉強会の合宿で親しくなっていた。佐藤享は、藤田信治に対する好意から、その病院に案内をしたようだ。
問題は突然に起こった。10月28日に歴史勉強会のイベントがあった。それに佐藤享は、参加する予定だったが、時間に来なかった。確認のために電話をすると「今日は欠席する」と言う。突然のことに驚くと「藤田信治から恐ろしい話を聴いた」と言う。佐藤ともう一人の女性とで藤田信治を誘いその車中で藤田信治から恐ろしい話を聴いたと。彼は斧で母親の頭をかち割り殺したと言う。淡々と冷静に「両親が炬燵で並んで話しており、背後から母親の頭に斧を振り落とした。一度目は母親の頭から外れて肩に当たり、二発目が振り返った頭に当たり母親は死んだ」と言う。その間、冷静にその状況を話し後悔の念も反省もなかったと言う。「彼は完全に狂っている」と。「いつ発狂して人を襲うかも分からない、気持ちが悪くて、一緒にいることが出来ない」と言う。私の全く知らない話に驚いたが、「精神病院に15年間いた」と聞いた話をすると、佐藤は、その非難の矛先を私に向けた。「それを知っていて黙っていたのか」と責める口調に変わった。その時になって、自分が精神病者のことを迂闊に考えていたことに気づいた。嘗ての職場に鬱病から、首つり自殺をした部下がいた。その町は、鬱から自殺をする者が多いことで有名だった。そのことを思い出した。精神病者が凶暴だと言う思いをしなかったことが、私の甘さとなったのかと思う。彼に詫びたが、彼の私に対する非難は止まなかった。
その日の藤田信治に対する私の対応は少しぎこちなかったかと思う。藤田信彦はそれを感じているかと思いながらも平静さを演じていた。どうしたものかと思案しながら過ごした。講演会の終了後にコテージに9人程で集った。反省会だ。藤田信治も参加していた。いつもの彼がいて話題に入っていた。母殺しの話など全く信じられない彼がいた。翌日に彼のことを幾人かの幹部に相談しようと思いながら時間を過ごした。佐藤享が欠席したことから、私がコテージに泊まることにした。日帰りの者3名は9時、10時頃には自宅に戻っただろうか。宴会も盛況に続き夜中2時頃にお開きとなった。それぞれの部屋に各員が休み私は、少し酔いから早めに布団に入った。それでも、2時過ぎの頃には爆睡していた。隣には藤田信治が休んだ。寝首を搔かれても仕方ないと観念してそのまま床に就いた。
翌朝になり、皆が休んでいる中を早起きの私が朝食を作った。時間は、それでも7時頃だったろうか。2時頃まで起きて騒いでいたのだから。コシヒカリの御飯と味噌汁にサラダとベーコンエッグ、納豆、焼サバである。毎回ながら二名の女性陣は寝ていて、調理をしたことはない。確りとした朝御飯に残すかと思っていたが、私が作ったからか遠慮したせいか、綺麗に平らげてくれた。
時間にはチェックアウトし、藤田信治は最寄りの駅まで別の者に送ってもらい、バスで帰宅していった。私は、幹部の者を一人脇に乗せて新幹線駅まで送ることにし、その間に藤田信治の扱いを相談することにした。この問題で相談した者は3名。ひとりは歴史の勉強会とは全く関係のない者で、責任がなく一番相談しやすい者だった。彼は「難しいデリケートな問題だ」として常識的な回答をくれた。「藤田信治の気持ちを汲んで話すことが、大切だ」と言う。幹部の者に話をしたがその時には結論はなく、とりあえず伝えるだけになった。もう一人の鈴木文夫はその日は会社関係のイベントがあり夕方にならないと話が出来ない。その時間まで問題を伝えられなかった。途中コテージに泊まった女性から、電話がかかった。昨夜の出来事を語ってくれた。私たちが就寝した後で恐ろしい音を聞いたと言う。杖で床を幾度も叩き、何度も奇声を聴いたと言う。多分藤田信治だと思う。彼女の言うのには恐ろしい音で何かのトラウマだろうかと言う。彼の母殺しを知っている私は、想像が出来た。「夜中に寝首を掻く」恐ろしい状況を想像した。それを聴いて私の藤田信治に対する考え方が固まりつつあった。幹部の者は家に戻り4時過ぎに連絡が取れ、彼の考えを伝えてくれた。「心配するのは、藤田信治が逆恨みをして座長の私に危害を加えないか」と言うことだった。当然それも想像できる。私だけではなく私の家族に危害が及ぶこともあり得る。私も同じ考えだった。彼の想いには感謝する。鈴木文夫には、夕方になり電話をしたが、その頃には私の気持ちも決まっていた。藤田信治への対応は、歴史の勉強会から退会してもらうが、同じ志を持つ者として個人的には頑張ろうと伝えようと言うものだった。その話し方が重要だが、その点について出来るだけ藤田信治と穏やかに話そうと言うものだった。鈴木文夫も彼の視点から同意してくれた。早速、藤田信治に翌日の午後に会う約束をし鈴木文夫にも一緒に同行してくれることを依頼した。私は鈴木文夫や相談出来た彼らの友情に感謝する。
妻にも相談した。普段は箸の上げ下ろしまで注文を付ける私の妻である。しかし、真摯に相談に乗ってくれた。私の甘さを指摘した。彼女も高校時代には精神異常の友人がおり、散々苦労していた。佐藤享が私に対して黙っていた事で怒りの矛先を私に向けるのも当たり前だと言う。私は再度自分の甘さを思い知った。それでもいろいろと話を聴いてくれた。結論を出すよりも話を聴いてくれたことで妻に感謝したい。時間になり、鈴木文夫宅に伺い、再度話す内容を確認した。私の考えを鈴木文夫に伝えた。母殺しの話を聴いた以上歴史の勉強会の仲間には受け入れられないだろうと言うこと。その意味では退会は避けられない。しかし、日本を憂える思いは同じなのだから、その意味では個人的には関わり会えると思うと。また、鈴木文夫は彼の穏やかな視点から、藤田信治の得意な写真撮影とこれからの時間を楽しんだらよいと話した。私が殆どを話すことにし、何かの時に鈴木文夫が言葉を入れることで段取りが出来た。
約束の時間を少し遅れて藤田信治のアパートに就いた。チャイムを鳴らし「どうぞ」の声で中に入った。いつものように綺麗に掃除がされていて、藤田の好きな藤圭子の演歌が流れていた。彼は、薄幸のそして、自殺した藤圭子に想いを馳せていた。facebookにも幾度か書いている。「今日も藤圭子の唄を聴いている」と。我々は、同じ世代から、藤圭子の話をした。鈴木文夫は「圭子の夢は夜開く」よりももっと明るい歌が好きだと話していた。鈴木の独特の柔らかい話しぶりがその場を和やかな雰囲気にした。一昨日のイベントが盛況だった話や夜のコテージの話などを和やかに話し、暫くして本題に入った。
佐藤享から聞いた藤田信治の身の上話から切り出したが、彼は思っていた以上に感が良く、私が昨夜約束をとった時に既にこのことを感じていたと言う。佐藤享が止めるか自分が止めるかのどちらかだと。藤田信治は、話し始めた。10月27日に突然、佐藤享から電話があり、近くまで来ているので、蕎麦の美味しい道の駅に蕎麦を食べに行こうと言う。自分はデイサービスの予約があったが、断るのも悪いと思い、そちらをキャンセルして同行することにしたと言う。蕎麦も食べ、帰りの車中で身の上話を頻りに聞かれ、話したくないと伝えたがしつこくせがまれてとうとう話してしまったと言う。話を聴くと佐藤享は、「淡々と母殺しを話す藤田信治とは、もう関わりたくない」と。それで佐藤享を通じて知っただろう私の連絡から、また、一昨日の私の態度などから、このことを予知していたと言う。私たちには、佐藤享に話した以上の詳細な身の上話を語ってくれた。ここに藤田信治の人生を記したいと思う。
「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」彼は父の手紙に記されたこの言葉を見て「父の自分に対する気持ちを想い」「どのような思いで小さな山村の集落で暮らしていたのかを思い」涙ぐんでいた。母を斧で殺した時には淡々と事も無く語ったが、父の時には涙が見えた。藤田信治と言うひとりの男の悲しい話と思う。
子どもの頃はいつも父母の喧嘩が絶えず、母親が泣いているのを見ていたと言う。彼の話からは、大人しい父親と見栄っ張りの我の強い母親が語られる。貧しい農家と定職ではないが勤めていた父親の姿が見える。大学に進学した。彼の時代に貧しい家から大学に行くことは無かった。余程勉学に秀でているか、両親にそれだけの子に対する期待がなければ進学はなかったと思うが、彼の言葉に「貧しい中から進学させてくれた」と言う感謝の言葉は聞かれ無かった。頭が良い方とは思うが、どちらだったのだろうか。両親の進学させたいと言う想いだろうと思う。彼は結婚についての話をした。大学の倶楽部だろうか2学年上の女性とプラトニックだが、お付き合いがあり結婚も考えていた。しかし、ある時彼女から手紙が届き今度結婚すると言う。その手紙にはその思いと経過が長々と綴られていて、結婚式に出席して欲しいと言う。彼は彼女に対する恨みは語らなかったが、その時の辛かった気持ちを語った。彼女は母一人子一人で、彼は田舎の長男。一緒になることが出来なかった。大学を出て、東京で勤めることはなく、田舎に戻った。長男だから両親の面倒を見て家を継がなくてはならない。「母親の家を建てて欲しい」と言う言葉が頻繁に話される。彼は、几帳面で営業向きの男ではない。調子よく嘘をついて不動産や家を売ることが出来ない。宅建の免許も取得していたが、営業が不得手だったと言う。当時の金で月額25万円の月収と言うと羽振りが良かったと思う。ローンを組んで家を建て、車のローンやガソリン代、諸々で大変だったと語る。それで当時精神に変調をきたした。変調とは、幻聴が聞こえるようになったと言う。3年ほど職場を休業したと言う。その後再度職場に復帰し、彼の両親と親しく家族ぐるみのお付き合いをしていた家に未婚の女性がおり、お見合いをしたと言う。当時自分には好きな女性がおり、せがまれてお見合いをしたが、途中から用があると言い席を外した。好きな女性と言うのは、彼が別れて辛かったという大学の女性だったのだろうか、その事は確認できない。見合いの後は何の話も無かったので、相手もそれを察してくれたのかと思うと話した。
不動産と建築の会社を辞めて、別の職場に就いた。地元では有名な不動産会社になる。私の高校時代の友人も勤めていたので彼の名を言うと彼を知っていた。40歳代の頃のようだ。精神病院にいた年数が15年、現在退所して8年が過ぎるとすると、母殺しの事件は、53歳の時になる。若い時だったと漠然と思っていたが、違った。ある時から、また、幻聴が聞こえるようになった。一度の幻聴ではないのだろう、幻聴とは幾度も同じ言葉が繰り返し聞こえるようだ。幻聴の天のお告げの言う言葉が、「災いの元は母親だ」と言う。「その母親の頭を斧で勝ち割れなければならない」と。斧など何処にあるのかも分からなかったが、お告げでは納屋の一角に掛かっている。「そうしなければ、ならない」という。行ってみると斧が納屋の端の壁に掛かっていた。そうして、斧を手に取り居間に行くと父親と母親が並んで話していた。両親の年齢は、少なくとも70歳台になるのかと思う。後からだろうか最初の一撃は母の頭をそれて右肩に当たった。次に振り向いた母親の頭に命中した。血が噴き出た話はしなかったがどうだったのだろうか。致命傷とは思うが、語られなかった。直ぐに父親が自分に「逃げるなよ」と話したと言う。そう言われて自分はそこに座っていたと言う。警察が来て、手錠をかけて自分を連れて行ったが、「手錠が手首に食い込んでいないか」と優しく対応してくれたと言う。留置所に入っても「腹がすいてないか」と言いラーメンを取ってくれた。皆優しかったと言う。警察はこれらの状況から、全てを察して、精神異常者の犯行と対応したのかと思う。
彼の話に幻聴に対しての客観的な言葉はない。そして、母親に対する憐憫の情、後悔の念も全く語られない。精神状態は、今もってその当時からの延長にあるのかと思う。常人であれば、決して他人に口外することはないことだが、淡々と母殺しを語れることに恐ろしさを感じる。彼は市内で有名な精神病院に入院した。措置入院と言う。一番最初に対応した医師だけが彼の言うことを理解してくれたと言う。それ以降は自分の気持ちを理解していないと。3年で退所となったと言うが、社会的環境、社会復帰が適わないところから、そのまま入院が延長されたと言う。父親の要請だったと思うと言う。ある時父親から手紙が届いた。そこには「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」とあった。彼はそのくだりになり始めて涙ぐんだ。小さな山村の部落で息子が母殺しの家でどれ程肩身の狭い生活を送っただろうか。その父から「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」という。その事を思うと辛く申し訳ないと思うと語った。初めて彼の言葉に情を見た。殺した母親に対しては、その気持ちは一毛だに見出だせなかったが。彼の幻聴は母親のトラウマからのものだったのだろう。措置入院のまゝの15年は長いが、多分父親はその間に亡くなられたのかと思う。いつ亡くなられたのかは語らなかった。そして、退所して8年が過ぎた。ゲートボールの仲間ができ、写真の趣味も楽しめるようになった。政治的なことに関心を持ち、活動している。小さなアパートだが、年金も精神病患者には割増しとなり、助かっていると言う。
彼との話は、順調に進んだ。彼は佐藤享については、「失望させるからと身の上話はしたくないと、それでも良いかと確認をした」のだが、聞いた途端に彼は、『二度と関わりたくない』と言ったその事を非難していた。鈴木文夫は、「人は理屈ではないから」とその矛先を納める話をしてくれた。彼の穏やかな性格が功を奏した。「病院の先生が自分を理解してくれた」という言葉が示すように「理解することが大切だ」と思う。我々は彼の話す言葉、感情を全く否定せずに受け入れた。藤田信治が私たちの申し出に応じたのもそれが為だったと思う。「歴史の勉強会との関わりは出来ないが、お互いに遺された時間を有意義に使いましょう」、「好きな写真を楽しみましょう」と伝えた。私も写真には少し詳しいので、facebookに乗せた20数枚の写真を見せた。彼はその中の一枚を好きだと言ってくれた。
その後、夜になり彼からは御迷惑をお掛けしたこと、全てのことから一旦離れて考えてみたいと感謝のメールが届いた。佐藤享から、求められた自分が話してはならないことを試されたが、話してしまい失格だと言っていた。何処までも律儀で真面目な性格なのだろうか。一件落着かどうかは分からないが、藤田信治と言う人間の人生を垣間見て、その大きな悲しみに直面したが、人は誰しも悲しみからは避けられないのかと思った。「うはは」、「おほほ」で生きられる人生は良しとするが、人生を生きる意味では、違うのかも知れない。彼に「誰しもがひとつやふたつ、人に語れない悲しみを持っている」と話した。私がそうだからだが、だから、人を責めることなど出来やしないと思う。「母殺しの罪」を背負って生きて来た人生だが、未だその呪縛から逃れられていない。母子のトラウマだが、父親からの「お母さんは心臓病でなくなったんだよ」は、彼の救いの言葉なのかと思う。
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