2023年11月7日火曜日

ルーツ

暗闇の中、目が覚めて枕元の携帯を見ると4時を少し回ったところだった。最近、朝方に目が覚め、再び寝付く間に子どもの頃の記憶が思い出されるようになった。その頃のことは余りに幼く長い間全く忘れて思い出すことも無かったことだが、どうした訳か記憶の扉が開け放たれたようだ。思い当たるのは、手仕事専科の販促としている歴史街道ブログで子どもの頃を思い出し掲載したことが、原因となっているのかも知れない。

君が代を歌わない、国旗掲揚を行わない不思議

切欠は1カ月前になるだろうか、大田原市役所に那須文化研究会の木村康夫会長を訪ねたことからだ。ここ5、6年になるが、私は近現代史に関心を持っていた。日本は江戸時代、明治維新を経て西洋列強諸国に翻弄されながら、近代化、富国強兵に勤め必死に時代を生きて抜けて来た。隣国の清が西洋列強に蹂躙されるのを見てきた。日本は日英同盟に助けられて、日清日ロの戦いに辛うじて勝利をおさめ、西欧の仲間入りを果たしていた。国際連盟は当時17ヵ国ほどだったが、有色人種の国家は、日本だけだった。中国大陸での日本の台頭に業を煮やしていたアメリカのFDルーズベルトにより、日本は参戦の方向に進まざるを得なかった。彼は恐ろしいほどに親ソビエトであり、蒋介石中国に好意的だった。史実からは、第二次世界大戦のヨーロッパの開戦も彼とチャーチルのイギリス、フランスの仕業になる。日本は、第二次世界大戦の敗北を機に連合諸国に悪の権化のように言われ続けてきた。東京大空襲や広島と長崎の二発の原子爆弾の投下により、一夜にして40数万人を超える民間の老人女子供が虐殺された。当時の国際法においても全くの違法行為である。恐ろしい、人に有るまじき非道なことだが、戦後それを問う声も連合国を非難する声も起こっていない。歴史は力が正義であることを示している。国民は、6年半に及ぶアメリカの占領統治により徹底的に日本の悪行を刷り込まれた。今では明らかに嘘捏造だと分かる史実をつくり東京裁判史観、WGIPによる「自虐史観」といえる洗脳がなされた。時の日本政府はそれを飲まざるを得なかったが、それが未だに自民党政権として続いている。従来の国の骨幹をなしていた人々は「公職追放」により去り、GHQによって解放された戦前の社会主義者たちが、教育機関を中心に「敗戦利得者」として、アメリカのなした嘘の歴史に輪をかけて未だに唱え続けている。東京大学総長の南原茂をはじめ、朝日新聞、労働組合など、そして日本社会党はその筆頭となる。私は、長年なぜ日本が現状のような「君が代」を歌えない、「国旗掲揚」を行わない社会、国家となったかが、不思議でならなかった。高度成長期のサラリーマンで昇進と給料が増えることだけに関心のある自分には、国政や歴史には関心がなかった。それが、中国や韓国、北朝鮮から非難される南京大虐殺事件や従軍慰安婦の真実を学び知るにつれて、私達の漠然と学んできた近現代史が、如何に嘘捏造であるかを知ったのです。古稀を迎える私の使命は、今更ながら真実の近現代史を子どもたちに伝えることだと自覚したからです。真実とは言え大人達に伝えることは至難の業だということは知っています。まずその活動に際して地域に同志を得ようと思い立ちました。それで那須地方で歴史に関心のある方々の中にはそのような歴史家がいるだろうかと思い那須文化研究会代表の木村康夫氏を尋ねたのです。

那須文化研究会

彼は、那須地方の郷土史に関心があり、その研究編纂をライフワークにしている。湯津上村の御出身で大田原高校の1学年後輩になる。那須高校の国語教諭をしていた折に同僚の幾人かの先生方と飲むと教育について、喧々諤々の論争をしていた。彼は、生っちょろくいつも先輩のI氏やK氏に叱られていたという。その二人は私の良く知る人物で、I氏は稲沢部落の私の一級先輩で中学高校と一緒だった。彼の家は、祖父は師範学校を出た有名な先生で御両親も揃って教職者だった。彼が教職に就くのは当たり前だったと思う。H氏は同級生で1学年時に同じクラスだった。田舎者の世間を知らない私と比べて沈着冷静、穏やかでスポーツも学業も秀でた男だった。感情に左右され流される自分と比べて数段大人の印象を持っている。未だに彼のように落ち着いた人物には幼稚な自分は敵わないと思う。彼等の優秀さを知る私には、彼等が木村氏に語る姿が見えるようだ。

郷土史について私の御先祖が越中富山の砺波地方の出身で兄の代で5代目になると話した。砺波では、代々OO藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松は婿で兄弟の一人は氏家の地区に婿に入り、籾と玄米の選別できる唐箕という農具の発明特許を取得した事業家だったと聞きます。我が家にもその農具があり、子ども乍らその凄さに驚いて見ていました。同じく兄弟だった平沢の鶴野氏は、開明的な人だったようです。木村氏の話では、越中富山の人々は、湿地を好んで移住したといいます。彼らは事前の情報から、移住する土地のことを知り、先に入植した人達を頼り移住してきたといいます。琵琶池も湿地になり、那須与一の16人餅つきで有名な福原もそれから湯津上につづく江川沿いには、富山からの浄土真宗の人達が住み着いたといいます。湿地のお米は美味しいからです。私の曾祖母や祖父母は、佐久山藤沢の出身でいずれも敬虔な浄土真宗の門徒で、家には幅1軒ほどの大きく煌びやかな仏壇があり、いつも仏壇に向かい「南無阿見陀仏」を唱えていました。浄土真宗は、親鸞上人を開祖とする仏教で、煌びやかな仏壇と坊主の妻帯を許しています。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。

木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む膳棚には茅野という稲沢部落の入会地があり、毎年春先に村中の人々が総出で茅焼をする。その斜面の焼け跡には一面に黒い灰が残り、暫くすると新しい芽が茅株から芽吹いてきます。また、太く美味しそうな蕨が一面に生えてきます。村の人達は、蕨採りにやってきますが、それでも取り残された蕨が葉を広げていました。茅野の風物詩です。多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを「結い」で行っていました。その後、多くの家が茅屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有山は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。茅の必要で無くなった後には杉が植林されました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ました。我が家は、57坪の茅葺屋根の農家です。南を向いて縁側があり、小さな這い這いの子どもは、縁側から良く落ちていました。下は土でしたので怪我はせずに済みました。土間の台所と囲炉裏、広間と座敷、納戸と4畳の間、茶の間とがあり、仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。屋根の葺き替えは、数日掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。古く腐った茅を取り除き、新しい茅を差し替えて取り付けます。半分位が差し替えられ、屋根の端を刃の付いた道具で切り揃えます。職人の仕事です。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として茅や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。

その後になりますが、彼等教職員の方々の話から、近現代史に関する話は聞けませんでした。日本共産党に与する日教組の組合は栃木県にはないといいます。日本高等学校教職員組合と言う御用組合があって、歴史には触れることなく私の学んだ史実は学んでいないようです。日教組の「自虐史観」ではないが、かといって、鼻から「日本は悪くなかった。」「日本の開戦によりアジアの国々は悉く戦後に独立することが出来た。」「素晴らしい国だった。」という近現代史観には拒否反応を持っているようです。

琵琶池の地

曽祖父は琵琶池の田口の出で、曾祖母は藤沢の高橋の出です。藤沢の高橋家や琵琶池の田口の家は、小学生の3、4年生の頃に祖母に連れられて2、3度尋ねて泊ったことがある。どうして私を連れて行ったのだろうか。兄と妹がいたが、私が一番連れていかれたようだ。自分が婆ちゃん子だったからだろうか。法要か何かの仏事だったと思うが、佐久山の前田のバス停を降りて、30分ほどは歩いただろうか。右に竹藪の林を見て、左手に曲がり更に歩くと高橋の家だった。日当たりの良い高台にある家だった。曾祖母のキンと祖母ヨシは姉妹になる。曾祖母のキンは、初(はつ)の後妻で音松との間に一男一女をもうけたが、幾人かの子どもが生まれていたようだが、幼くして亡くなったと聞く。大叔父は、鉄道省の学校を卒業し東京に出て三共製薬に勤めた優秀な人だった。5人の男の子をもうけ全員大学に進学させた。大叔母は、越堀のに嫁いだ。曾祖母キンは後妻に入ったので、先妻の子兼次郎の嫁に妹のヨシを迎えた。随分と年の離れた姉妹になる。琵琶池の田口の家は高橋の家から向かいの山の陰になる。祖母ヨシが「明日は向山の家に行く。」と話してくれたが、歩いて30、40分はかかったろうか。少し小高いところに南の琵琶池に面して建ち庭も広く大きかった。今思い出しても大きな作りの家だった。当時の琵琶池の田口家は、有名な大百姓だったと思う。庭から右手下に馬車が通れる幅の道路を挟んで琵琶池が大きく広がり、池の端には小さな池が仕切られ葦がしげり真鯉が放たれて、池の縁に鍋釜を洗う小さな桟橋があった。我が家の池にも真鯉がいたが、もっと大きな真鯉が数匹姿を見せては翻りまた潜っていった。当時そこには、16歳位の男性がいて、私と遊んでくれたことが記憶にある。背も高く格好の良いハンサムな青年だったが貰われっ子だと聞いた。バトミントンだったが、博叔父仕込みの自分は結構得意だったが、彼は上手に遊んでくれた。その内に誰かが彼を呼び、楽しい遊びは終わった。祖母と夕食をとり、広い土間の反対側に五右衛門風呂があり、暗い中入った記憶を鮮明に思い出した。そう言えば我が家にも五右衛門風呂があった。五右衛門風呂は、風呂釜の底に敷板を敷くが、これを使うにはコツがいる。初めての人は何に使う板敷なのか分からなく足元に敷くが直ぐに浮いて来てしまい難しい。祖母が何か「お先に頂戴します」と言った様な挨拶をお年寄りのご婦人にしていた。彼女たちは、祖母の親戚の婦人達だった。祖母に守られて自分はそれ程に委縮することもなく過ごしていた。田口の家は天井が高く暗い大きな瓦屋根の家だった印象がある。

膳棚の地

私は栃木県那須郡那須町大字稲沢小字膳棚の生まれ育ちです。膳棚の地は、私が生まれた時には四軒ほどの農家が奥山の深い合川に沿い南側を向いて並び、左右に小高い里山をもち、馬車の通れるほどの道が稲沢と越堀への幹線道路に繋がっていました。右手は茅野といい10丁歩程もあったでしょうか屋根の葺き替えに使う萱を採る共同山です。左手は、なだらかに広がり広葉樹林と松が育ち、一部には杉が植林されていましたが、一番高いところは広葉樹の中に松の木が一本あり、私達は一本松と呼んでいました。よくその一本松に登り遠くを眺めたものです。学校への近道となる山道の途中には炭焼き小屋があり、冬の日には子どもたちで学校帰りに暖を取るためによく寄りました。膳棚の一番の上にあるのが私の生まれた家です。それぞれに「上」「新宅」「兼ねちゃん家」「下」と呼んでいました。家々には屋号と家紋があり、屋根の大棟の端にはその家紋が見られました。今では屋号の形を覚えていませんが、我が家は桔梗の紋です。合川沿いの道路から我が家には太い松に土を載せた小さな土橋を渡り一丁歩程も入ります。小さな堀も家の近くを横切り、茅葺屋根の57坪のそれなりに大きな農家でした。明治18年に建てられたといいます。その前にも何か家はあったのかと思いますが、聞いた記憶には分かりません。庭には庭石と花木が庭園風に植えられて、玄関となる板戸の敷居をまたぐと土間が広がり板敷の上りがあり、囲炉裏がありました。畳茣蓙が敷かれていました。立派な大黒柱があり、右奥には16畳の大広間、その左脇には7畳程の茶の間があり、更に奥には8畳の座敷と仏壇がありました。お客様が来るとそちらに泊まっていました。そして、4畳間と8畳ほどの納戸です。それらの部屋は、大きな黒光りした杉の板戸で仕切られていました。子どもの頃は、曾祖母や祖父母が茶の間に床を延べて一緒に休みました。体の温かい子どもは祖父母には湯たんぽ替わりだったように思います。茶の間には茶色のラジオがあり6歳年上の叔母はいつもラジオから流れるニュースや歌を聴いていたのを思い出します。土間の左手には、台所があり、五右衛門風呂とその奥に大小の竈が4つとさらに奥に黒光りした五斗程の米櫃と水屋がありました。五右衛門風呂の外には、柴木を置く場所があり、風呂が温くなるとその柴木をくべていたのを思い出さします。水屋には水瓶と蓋を乗せたアルミのバケツ二つと水柄杓がおかれ、井戸端からその飲み水を運んでいました。その二つのバケツでお風呂の水も運んでいました。中学生になるような大きな子どもたちの仕事です。叔父や兄は良くそんな話をしていました。天秤棒があり、その棒で上手く運ぶのがコツですが、私がその年の頃には、水道が施設されて数回やった後でやらなく成りました。水道が引かれたのは村のブームで近代的な台所が流行っていた頃です。近所のまだ水道の引かれていない家の娘さんかお嫁さんが、我が家の台所を手伝いしきりに羨ましがっていたことを思い出します。夏には野良着で食べられる一畳ほどの広さの椅子掛けの食卓があり、家族が囲んでいました。食卓の袋戸には残った料理を仕舞っておけ、便利でした。梅雨時には残された料理に黴が生えていたり饐えていたのが日常でした。冷蔵庫はかなり後になってからです。背後には杉と孟宗竹を背負いその奥は緩やかな勾配で広葉樹の山となっていました。東側には真竹が植えられていました。時折に炭焼き師が山を買って炭を焼いていました。山を買うとは、土地を買うのではなく炭になる広葉樹を買うことです。リボンを結んで炭にならない小さな木は残しておきます。奈良や椚の雑木は、4、5本が一株になって生えています。細い1、2本を残して切り取るのです。雑木が年数が経つとまた炭焼きの用の山となって甦るのです。冬になると木ノ葉さらいとして、その山に入りました。下刈りをしながら木ノ葉を稲わらで包み、背負子で持ち帰りました。木ノ葉は苗床や牛馬の敷き木ノ葉として使いました。昼には風の当たらない炭焼き跡の窪地で火を起こし正月の餅を焼いて食べていました。両親や祖母も一緒です。家の右前の茅野との間にはそれほど水源は奥深くはない小さな沢が流れ、大きな胡桃の木が植えられていました。行商の魚屋さんが、自転車の荷台に氷で保冷しながら鯖や鮪の切り売りで来ていましたが、残った粗をつかい、受けで沢蟹を獲っていました。一晩で数十匹は入っていたでしょうか。家の前には浮島のある結構大きな池がありその沢から水を引いていました。肥料舎と雨屋があり、肥料舎では堆肥作りと二階には干し藁を積んでいました。肥料舎の隣には牛と山羊、七面鳥や鶏などを飼ってそれなりの畜産も行っていました。子どもの頃に兄が悪さをして七面鳥をからかい、怒った七面鳥に追いかけられ足で踏まれた話は、叔父叔母の口からよく聞きました。肥料舎の隣には大きな甘柿の木があり、子どもの私には登るのが容易ではなかったように思います。その下側にも池があり、家鴨が遊びホテイアオイの浮き草が時折に綺麗な花を咲かせていました。

富山県人の血

農家としては、田圃2丁歩、畑も8反歩と山林は10丁歩を超えて持つ、旧伊王野村では米100俵を供出できる有数の農家でした。私の生まれた昭和25年頃には、曾祖母キンと祖父母兼次郎、ヨシがおり、両親と子供6人、叔父叔母合せて13、4人の大家族でした。盆暮に親戚の者が帰省すると20人を超える宴となりました。キンの夫の音松は54歳で急逝していますが、琵琶池の田口の出で、兄弟は近在のそれなりの家に婿に入りました。音松はじめ皆優秀な人物だったようです。嫁ぎ先の地域でも一目置かれる人物として名を馳せたと聞きます。氏家に婿入りした方は、実業家で籾殻の選別機で特許を持っていました。同じく、大田原市の平沢に婿入りした方も優秀で地域で代々一目置かれる開明的な農家になっています。我が家の音松も新参者でしたが、この稲沢部落では一目置かれていたようです。ある時我が家で音松の法要が営まれその折に琵琶池の田口出の者達が高橋の家の者と一緒に7,8人で来られましたが、驚きました。皆揃って私の叔父叔母や大叔父の子ども達にそっくりな顔立ちなのです。宴席に並ぶ叔父叔母は「あれまあっ!」と顔を見合わせていました。血は争えないものですね。叔父叔母の従妹や再従兄弟姉妹にあたります。私のご先祖は、越中富山の砺波地方から琵琶池を経て、明治の初めにこの稲沢の膳棚の地に入植しました。父の代で4代目と言います。砺波地方のお寺に家系図があり、父はそのルーツを尋ね、その家が代々八田藤四郎を名乗り、半農半士の足軽だったと調べてきました。この膳棚の地は谷地ッ田という湿地で両郷の浄土真宗のお寺の地所だったと聞きますが、山林の一部は越堀の藤田郵便局長の土地だったようです。長年小作をしていましたが、祖父母の兼次郎、ヨシの代にこつこつと貯めて完済し、現在の土地を持つ有数の農家になりました。那須文化研究会の木村会長の話すには、富山県人たちは、湿地を好んで入植したようだといいます。お米が美味しいのが湿地です。琵琶池や福原の江川沿いの村々も湿地になります。この膳棚の地も紛れもない湿地でした。旧奥州街道近くになる古くから住む稲沢の人々は、高地(台)に住み着き物事の変革は気性的に苦手だったといいます。それに引き換え、富山県人たちは、開明的で起業家だったともいいます。越中富山の人達は敬虔な浄土真宗(一向宗)の門戸です。私の性格からその血が流れているのを感じます。

農家に生まれ子どもの頃から、父や母、祖父母の仕事を見て育ちました。茅葺屋根の背後に山を背負い、孟宗竹や真竹を風除けに植えて、小さな沢が山裾の端を流れており、そこから水を庭の浮島のある池に引き、一寸した和風庭園ですが、いつも冷たい水が「筧(竹の筒)」から、池の受け桶に豊富に流れ落ちていました。我が家に来る人々はその水を手酌で汲みその冷たさと美味しさに声を上げていました。夏には、西瓜やトマトが冷やされていました。私たち子どもは一年を通して毎朝その水で顔を洗っていました。流れる水を手に受けて顔を洗う、シャキッとする瞬間です。竹藪からは、旬には筍が取れて、その美味しさは有名でした。土地が肥えていたのでしょう。背後の山と南を向いた窪地のせいで暴風雨でも災害に会うことはありませんでした。この暮らしの生活方法は、富山人の長い入植からの智恵だと思います。この優れた地のことは越中富山の薬売りの情報からだと思います。彼等は全国に情報網を持っていたようです。私が記憶に残るのは、私は次男坊で母が22歳の時の子ですから、私が5、6歳の頃に思い出す母は、20代後半の若い女性でした。あまり美人とは言えませんが、色白で小柄ながら豊満な女性で学校の勉強も良く出来る賢い女性でした。母の兄になる二十何歳か年上の離れた伯父の文右衛門には、随分と可愛がられたと聞きます。そのせいか良く母を訪ねて遊びに来ていました。姿格好は、農家の嫁でしたから絣や縞の着物を纏いモンペに手拭いを姉さん被りにしていました。私や長女娘や孫が色白なのは母似だからです。いつも何かの農作業をしていましたので、白い顔や胸を火照らせて、手拭いで汗を拭っていました。父と母の二人で朝早くに草刈りに出かけ、春先には馬を使い水田の荒くれ掻きや田植えの準備をしていました。田植えは、村内の人達が結で来られ、隣部落から多くの人達が手伝い人夫で来られていました。農繁期には、昼時や囲炉裏と土間がそんな女衆と男衆でいっぱいになりました。早苗饗の最後には、宴会となりました。興に乗り祖父兼次郎が詩吟を詠じて踊っていたのを思い出します。曾祖母のキンや祖母ヨシの着物は色味こそ年齢に応じて地味でしたが、同じく着物とモンペの格好でした。これが農家の標準着です。二人とも琵琶池と隣部落藤沢の高橋の家の出です。同じく越中富山からの人々だと聞きます。二人ともそろって働き者で、80歳を過ぎても朝早く4時頃から畑に草取りで出かけていました。蚋(ブヨ)に喰われない時間帯だからです。それでも顔中を喰われて瞼も赤く腫れて目が見えない程になっていました。私達は6人兄弟として育ちましたが、兄、私の後には妹が3人と弟がひとり生まれ育ちました。実際は、3男の弟の後に4男の子が宿りましたが、水子になりました。当時であっても6人の子どもは多過ぎたのでしょう。私達はそのことを知りませんでしたが、ある時母が水子供養をしているのを見て知りました。そして、その後に最後の女の子が宿り、泣いて母が父に産むことを迫ったと聞きました。その子は、もうじき60歳近くになりますが、性格や顔立ちは叔父叔母に似て、綺麗な賢い女性になりました。

家の裏には室という洞窟の保冷庫がありました。裏山に面した岩を刳り抜き、間口は戸一枚ですが、奥行き2間半、幅1軒半、高いところで一軒一寸ありました。岩穴なので湿気はありましたが、冬は暖かく夏は冷んやりとして天然の保冷庫でした。岩穴の室の中は、常に20度位に保たれていたものと思います。叔父は昭和6年生まれでしたが、生まれたときから心臓弁膜症で二十歳迄育たないだろうと言われていました。結核を患い、私が物心ついた時には、座敷に寝ていました。淡壺があり時折に越堀から殿生先生が往診に来ていました。叔父は当時20代後半だったのでしょう。黒磯高校を卒業し優秀でしたので、いつも物理や幾何学の分厚い書籍で勉強していました。私は小学校の時に叔父が兄に因数分解を教えているのを見て覚え、中学に入った時には数学はいつも満点でした。中学の成績が良かったのは、叔父の御蔭でしょうか。ある時、私が小学校の時ですが、ひと冬掛けて室で米俵を編んでくれました。当時は一俵60kgですが、米俵で供出していました。秋の収穫時には、米俵が雨屋に並んで、農協の方々が米の等級決めに来ていました。叔父の編んだ米俵は1枚15円で農協に売れると言っていました。そのお金でグローブとキャッチミット、ボールとバットを買ってくれました。私はグローブを選び、兄はキャッチミットです。東京から従従妹達が来て、父や叔父達も一緒にキャッチボールをしたのが楽しい思い出です。室の脇には、自転車小屋と木小屋があり、木小屋には柴木や木ノ葉浚いの束が、積んでありました。柴木はお風呂の薪になります。木ノ葉は牛馬の小屋に藁代りに敷いて堆肥としていました。ある時、室の脇の山裾を広げるために村の人々と越堀の人達が駆り出されてきていました。人夫賃を払って、頼んでいたのかと思います。作業は、鶴嘴とモッコで山を切り崩すものでした。何かの休憩の時に自分が、切出すの岩の上に乗り、ポーズを取ったのを工事の人達の一人が囃していました。「監督のようだ」と。その人はいつも私を可愛がってくれた男性で、一度越堀の彼の家に泊まりに行った記憶があります。

米櫃
朝の暗闇の布団の中で子どもの頃を思い出した。小学校に行っていたのだろうか、多分3、4学年の頃だろうと思う。家には誰もいなくて祖父母も父母も畑に出かけていたのだと思う。家には自分だけがいた。当時は、乞食が物乞いで訪ねてくることがあった。祖母や母が、4寸ほどの薄い小皿にお米を取り乞食の差し出す灰色にくすんだ袋に分けていた。まだ若い確りとした、50歳位の偉丈夫な男性の乞食が訪ねてきた。姿恰好から乞食と思ったのは、やはり着ているものがそのような薄汚れたものだったからだろうか。私は、乞食にはお米をあげるものと思っていたので、そうしようとした。5斗も入る黒光りした米櫃を開けると一升枡がお米の中にあり、自分にはどれ位の量が良いのかわからずにいたが、一升枡に精米を一杯に取り、乞食の方にあげることにした。乞食は何も言わずにそのずた袋一杯になるお米を受取りかえって行きました。私は無事に責任を果たせたことで誇りに思っていましたが、反面それでよいのか分からずにいました。分別のある大人ならば、小皿ひとつで良かったのでしょうが。夕方になり父母が戻って来て乞食とそのお米の話をしました。祖父母もその話を聞いていましたが、誰も私を責めることはしませんでした。父だけが、「乞食は喜んだだろう」と淡々と話していたのを思い出します。その後に乞食が来ることも少なくなって、子どもの頃の思い出として残りました。その後に自分も東京に出て台所がリフォームされ、家の作りも生活も大きく変わりました。土間も無くなり、牛馬のいた家の中の馬小屋の空間も4畳半の部屋二つとなり、兄夫婦の部屋になりました。片方の部屋には、妹が住むようになりました。学生時も時折に戻ることはありましたが、自分の部屋はありませんでした。次に家に戻ることは無く家庭を持ち黒磯市内に所帯を持ちました。

火振り漁
黒磯に所帯を持ち、40数年が過ぎる。その間に4度ほど家を変わった。初めの2度はアパートと市営住宅だったが、3度目には、双子の娘に恵まれていたことから中古の家を購入した。5歳の保育園児だった。60坪の敷地に4部屋と台所風呂などを持つ。そこには、20年ほど済んだ。そして、今の家になる。140坪の広さに大きな12個の庭石と樹木のある庭と15坪の倉庫、40坪の家になる。私達夫婦の終の棲家になるだろうか。今は、初孫に恵まれて、いつも夕食後に孫を見送る。娘が遅くに勤めから戻り、夕食を摂って9時頃に孫と帰るのが日課だった。ある夜、倉庫の屋根の上に星が大きく揺れて瞬いていた。
そういえば天気予報で寒の戻りの話をしていた。天上は、かなり冷えて風が強いのだろう。
鮮やかに瞬く星の輝きから中学生の頃に付いていった地元の男衆の火振り漁を思い出した。
それは、真っ暗な闇の中でカンテラの灯りに照らされた鮮やかな若衆の顔や水面の魚群だった。火振り漁は、暑い夏の風物詩、決まってお盆の頃に行っていた。
お盆は家を出た者が都会から戻り賑やかになる。
今日は火振り漁だというと日中にカンテラの準備をし、松明にする枯れ竹をいくつも束にしていた。
カンテラは足元を照らし移動するに容易だけれども、魚のいる場所では、明るさの強い松明が自由に操れて役に立つ。
日中に束ねた松明用の竹を適所に運んでいた。
その日は二つのグループだった。
出発こそ一緒だったが、それぞれに違う堀をたどって漁をした。松明の灯りも遠くになり見えなくなった。そして、そのまま別れた。
燃料のカーバイトは、シューという音とともに吹き出て、燃えて眩しい青白い閃光と独特の匂いを放つ。
私はカンテラを持つ役を仰せつかり田圃脇の水が満々としている堀の川面を照らすことになる。誰かが小さな声で「いたぞ」と叫んだ。
緊張が走る。淀んだ堀の広い場所に魚影がみえた。大きな雑魚が数十匹も群れて静かにジッとしていた。カンテラに照らされて灯りの中で雑魚の群がゆっくりと移動する。
日中に見る魚は、逃げ足速く人から見えるところに一瞬たりとも留まってはいない。人の気配を感じるとすぐに淵や川岸の垂れ下がった篠笹の繁みの下に隠れてしまい姿を見ることはない。
若衆は、カンテラに照らされた雑魚をヤスで突いて捕る。
どうしてそんなことができるのかと思うほどに器用にあたり前に突いていた。決まって、若衆の中の顔の効く者が、上手かった。
私の兄や弟は魚捕りが得意で上手く突いていたが、私はついぞしたことはなかった。性格の向き不向きだと思うが、魚が可哀そうに思えた。
一度だけの経験だったが、暗い田圃の畦道を歩き、カンテラと松明の灯りに照らされた若衆と魚影の群れが、鮮やかに脳裏に残っている。
当時は今とは違う時が流れていた。
もう半世紀以上も昔のことだ。父や近所の若集が、30代の頃の村の人々との付き合いが日常だったあの頃はもう戻らない。今は、農業事態がなくなり何れの村人も老いて子ども達は勤め人となりそんなこともなくなった。
あの魚がいた堀は、構造改善事業でなくなって久しい。思い出の残る田圃の畦道や堀はなくなり、区画整理された殺風景な水田が広がる。
当時は、鰻や雑魚の川魚がご馳走だった。

叔父のひやし針
先に火振り漁の手記を書いたが、書きながら叔父正男のことを思い出していた。
叔父は、私よりも丁度10歳程年上になる。昭和15年の生まれになる。盆に戻ると決まって、ひやし針掛けに出かけていた。
家の前を流れる合川に大堰がある。
大堰は、誰の代に造ったのだろうか。
江戸時代の終わりの頃に砺波平野から移住し兄の代で5代目になる。
砺波では、藤四郎が代々の名だったと聞く。
祖々母のキンからは誰が作ったと聞いた記憶はないから、初代の丑松なのだろうと思う。
丑松、娘の美(よし)と婿の音松、兼次郎、父實そして、兄新一。
堰は、田圃に水を引くためだが、見た目にも大きな造りで大掛かりな工事だったろうと思う。もっこを担いで村中の人達の手を借り、半年近くも掛かるような。
水量の少ない農閑期の冬にやったのだろうと想像する。
大堰は落差があり、上の川床に大きな石を敷き詰めて堰にし大きく湾曲して1軒半も滝のように下に下がる。
堰の下は、抉れてプールのように淀んでいた。削られないように土手岸も石が積まれていた。向こう岸は、竹笹が生えて下は抉れていた。鯉やハヤの魚影も見られ格好の釣り場になった。夏には、村の子どもたちが毎日のように水浴びに集まった。
その堰から掘に水を引き込む。
堀の傍に遊水池があり葦が群生していた。
そこには、良く軽鴨や五位鷺が来ていた。
堀は、かなり大きく土手は、土が盛られてリヤカーが通れるようになっていた。
子どもの頃に父や母がリヤカーに肥やしを積んで田圃に運ぶのを手伝った記憶がある。
当時は、肥料舎で堆肥を作っていた。それを春になると稲株の残る田圃に運びフォークを使い撒いた。
この堀は、我が家の前を横切っていた。

直径1m程の土管を敷いて土管から出た処で流れを堰き止め洗濯や泥の付いた大根や里芋などの野菜洗いに使っていた。
大切な田圃に水をひく堀であり生活用水の堀でもあった。
先人の知恵だ。
その地は稲沢という部落で、30軒ほどの農村集落だったが、我が家は、富山地方の農家の遣り方を踏襲していた。いろいろな農具も富山地方に伝わるもので、他の農家とは違い独特だった。村人総出で行う屋根の葺き替えや田植えも結いで行い、大切な部落の生活の知恵だったと思う。
田圃は、2丁歩ほどあった。この堀の所々にある小さな堰は、田圃に水を引くために堰き止めたものだ。堰の下は、抉れて小さな淵になって小魚が沢山見られた。
鰻はそこに巣をつくる。
ひやし針は、そこに掛ける。
時折その巣から、鰻が顔を出してじっとしているのが見えた。
また、夏の茹だるような日には、夜に鰻が水を引いた田圃の水面で涼んでいる。
月明かりの下でも容易に捕まえられた。
 叔父は、私よりちょうど10歳年上になる。
 私達兄弟姉妹は、叔父を正男兄ちゃんと懐いていた。
 一番末の叔母と正男叔父は、兄や私と年齢が近く中学校や高校に通う姿を見ていた。
叔母は中学を卒業すると東京の洋装店に縫子として勤めた。
集団就職だ。
頭は良かったが、農村ではまだ女性は進学させなかった。
叔父は高校を卒業し東京に就職した。
今思うに就職してからの叔父は、いくつもの仕事を転々としていたようだ。
 厩舎を持っていた大叔父の縁故で競走馬の輸送運転手だったり、タクシーの運転手だった。
タクシー会社もいくつも変わった。
 少し小柄だが、中学や高校では、喧嘩っ早く祖父母は、いつも心配していたように思う。
 当時農村では高校に進学する家の子は少なかったと思う。叔父は進学し勉強のできは、良かったようだ。
明治生まれの大叔父は、地元の中学校を出て更に東京の鉄道学校に行き優秀だった。
学業を大切にしたのは、祖父の考えだったと思う。
祖々父は実直な人だったと聞くがその兄弟は、どの方も学業に優秀だったようだ。
祖父は、村会議員になり議長も務めた。
私が思いもしなかった大学進学も祖父が薦めてくれた。
 大叔父も祖父も美しい書を書き運動も成績はよかった。
 正男叔父の楷書を見たことがあるが、確りとした書だった。
 DNAだと思う。
 祖母のヨシは、白寿で大往生だったが、正男はそれから数年後に逝った。
 晩年まで祖母は、正男のことを心配していた。
 祖母は、遅れていた正男の結婚にはとても喜んでいた。
結婚式は挙げなかったが、男の子どもに恵まれて安心したと思う。
その後の正男の離婚のことは祖母には伏せた。
お盆と正月には、必ず戻って来た。
 私達には自動車が珍しく自動車で戻る叔父が格好良く眩しかった。
 来ると聞くと楽しみだった。
 数日を過ごして戻るのだが、13日の迎え盆は、家でゆっくりしていた。
大叔父の家族や叔母達も集まり親戚縁者で20人近くになる。
薄暗くなった草道をめいめいに花や提灯等を持ち墓参りとなる。
お墓は萱野にあり、途中畑脇のススキの中でキリギリスや馬追が賑やかに囀り、近づくと一時静かになった。
浴衣を着た妹や東京言葉を真似て話すよそ行きの自分がいた。
女性は、食事の用意をして遅れて行き、その後に宴となった。
親戚の従妹たちも大勢来ていたので、楽しい飲みになる。
戦前東京の子供たちは、10歳位だったが、揃って疎開していた。
彼等は、叔父や叔母達と兄弟姉妹のようにして育った。
正男叔父は、その中では兄貴分なので、従妹を周りに集めて夜遅くまで飲んでいた。
それが、身ひとつで東京に出た人間の楽しみだったのかと思う。
翌日は、街で飲むのではなく田舎の同級生宅に飲みに出かけていた。
飲める口だが、悪い飲み方を見たことはない。
随分と飲んだが最後まで崩れずに紳士だった。
祖父兼次郎は飲むと必ず詠い踊りも披露した。
叔父は、兄や私を大事に扱ってくれた。
貶すことも無く仕事のことや事業のことを聞いてくれた。
父や母にも無体な言葉を聞くことは無かった。
私の知る兼次郎のそして、我が家の家風だと思う。
叔父は、間違ったことが嫌いで喧嘩っ早かったが、偉振ることも無く人の話をよく聞いていた。
そんなことから、男気が強く会社との交渉役に押されたという。
それも職場を転々とした理由のひとつのようだ。
叔父の生き方を見るとその一本気な性格が見えてくる。
夕方に掛けるひやし針だが、捕れた話は殆ど聞かなかった。
ひやし針は、金具屋で求める何号かの鰻用の釣針に凧糸を結わえ捩り50cm程の長さにする。
端を竹に結び土手に刺すようにする。
餌は、太いミミズや泥鰌を使う。
泥鰌のほうが、生きが良くて掛かりが良かった。
私の子供の頃は、その堀もあってひやし針は、随分と捕れた。
掛かったときは、糸が鰻の巣の中に引き込まれ直ぐに分かった。
鰻が、これでもかと凧糸に絡まっていた。
その内に耕地整理がなされて鰻のいる堀や所々の堰が無くなり捕れなくなった。
叔父はそれでも来る度にひやし針を掛けに出かけていた。
その頃は、堀ではなく前の合川にも掛けていた。
私の朝の台所が、心を覗く無心になれる時間のように
きっとひやし針を掛ける時が、叔父の心落ち着く時間だったのかと思う。
仕事のストレスは、誰しもが体験する。
正月や盆に戻り祖父母や従妹達と過ごし、友と語る時間は叔父の宝物だったと思う。
そして、夕方に掛け朝方に挙げに行くひやし針の時間も。
その叔父が逝き10年が経つ。
火振り漁とおなじく、ひやし針も今は聞くことはない。
耕地整理されたコンクリートの堀と何もない広がりの田圃からは、想像だに出来ない。
かつて、ひやし針で鰻が取れたことなど。

孫のこと
黒磯に所帯を持ち40数年になる。二人の娘を持ち、数年前に初孫に恵まれた。男の子で孫がこれほどに可愛いとは思いもよらなかった。土曜日を除くと毎朝我が家に立寄り、夕方には、私が保育園に迎えに行く。2歳と8カ月になる。日毎に言葉を覚え賑やかなことこの上なしだ。私が、婆ちゃん子、爺ちゃん子だったのかと思うが、今更にそれがわかる。藤沢や琵琶池に度々連れて行かれたのもその為だったのだろう。





お母さんは心臓病で亡くなったんだよ。

私の歴史勉強会のグループに藤田信治がいる。グループは近現代史を学ぶ会であるが、彼はつい最近知り合った人物で、熱心な勉強家と思っていた。昭和23年の早生まれで、私の兄と同じ年である。戦後のまだ貧しさの残る頃に生まれた団塊の世代である。知り合ったのは8月初めの頃だから、既に3カ月が過ぎる。彼から連絡があり会う事になった。現在は、SNS全盛の時代である。facebookのお友達申請があり、私の勉強会に参加したいと言う。仲間が増えることは座長の私には大歓迎であった。また、保守系の政党の支持者でもあり、会う事になったのだが、会って彼の特異な風貌と話す内容に少し違和感を覚えた。年齢的にそうなのかと思ったが、非常に律儀である。そして、真面目に日本精神を語り、社会の風潮に警鐘を鳴らそうとしていた。私も同じ思いではあるが、私以上に熱心である。

この県北地区の政治は自民党系がダントツに強い。従来は有名な自民党政治家の基盤であったが、二世になり地元の支持者から離れてしまい、今は、自民党だが別の落下傘議員が地盤を継いでいる。彼は特段魅力的な人物ではないが、小選挙区制と自民党の公認候補ということで既に5期位にはなっているのだろう。近現代史を学ぶと自民党は米国に媚び諂う売国の政党と分かる。それが、農協と通じて保守系の選挙票を獲得している。その環境で米国に対抗する真の保守政党議員を選出しようと言う活動が、彼や私たちの関心事である。パソコンを買換えてZOOMソフトのインストールを教えて欲しいとの事で彼を訪ねた。彼の家を訪ねるのは、3度目だがちょうど昼時の食事時間となり、近くの私の良く知るレストランを訪ねた。いろいろな話をしたが、気心も分かり自分の身の上話をしてくれた。私の知る高校時代の友人の出た僻地の出身だった。2学年一クラスほどの小規模の分校のような小学校だが、そこの出身だと言う。私の同級生の話をするとその家のことは良く知っていた。友人の母親が学校の先生だったと言う。藤田信治はその後に大学に進学したことや結婚を考えた女性もいたこと、長男であったことから家に戻り家督を継いだことなどを話した。牛小屋が家の中にあるような貧しい小さな茅葺屋根の家で当然兼業農家だった。父親は何か商売をしていたようだ。戻った彼は母親から常に家を建てろと急かされていたと言う。大学を出た自慢の息子が羽振り良く家を建てることを考えていたのかと思う。学校の先生になることも一つだったのだろうが、先生の薄給では家など建てられない。当時は不動産ブームで不動産や建築関係の仕事が、華やかだった。それに就職しそれなりに稼ぎ、家もローンで建てたと言う。その後母親との確執から気が滅入るようになり、長年精神病院に厄介になったと言う。15年ほどして、退院することが出来て今があると言う。完全に退院して8年が過ぎる。その話を聴いて、私は回復して社会復帰をしているなら、「その話は誰にもしないように」と念を押して、歴史勉強会のグループに参加するように促した。

歴史の勉強会では、律儀に歴史を語り頭の良いことがわかるが、話す言葉が田舎訛で口調も独特だった。それでも彼はそのような年齢と思われ、徐々に仲間になり溶け込んでいった。私も彼が仲間に馴染み、喜んでいる姿は嬉しかった。9月になり、勉強会の1泊2日の合宿があった。彼は喜んで参加し脚が少し不自由だったが、杖をついて付いてきた。「今まで、一緒に食事をする者もいなかったし、こうやって歴史遺跡の散策も出来て幸せだ」と語ってくれた。カメラが得意で歴史散策の場所場所で写真を撮ってくれた。今も私のフォルダーにその写真が納まっている。

ある時、歴史勉強会の熱心な参加者「佐藤享」に藤田信治から連絡があり、関谷の病院に連れて行くことになったらしい。最初は私に連絡をくれたのだが、私が出られなかったので、懇意となった佐藤享に連絡をしたらしい。藤田と佐藤とは、勉強会の合宿で親しくなっていた。佐藤享は、藤田信治に対する好意から、その病院に案内をしたようだ。

問題は突然に起こった。10月28日に歴史勉強会のイベントがあった。それに佐藤享は、参加する予定だったが、時間に来なかった。確認のために電話をすると「今日は欠席する」と言う。突然のことに驚くと「藤田信治から恐ろしい話を聴いた」と言う。佐藤ともう一人の女性とで藤田信治を誘いその車中で藤田信治から恐ろしい話を聴いたと。彼は斧で母親の頭をかち割り殺したと言う。淡々と冷静に「両親が炬燵で並んで話しており、背後から母親の頭に斧を振り落とした。一度目は母親の頭から外れて肩に当たり、二発目が振り返った頭に当たり母親は死んだ」と言う。その間、冷静にその状況を話し後悔の念も反省もなかったと言う。「彼は完全に狂っている」と。「いつ発狂して人を襲うかも分からない、気持ちが悪くて、一緒にいることが出来ない」と言う。私の全く知らない話に驚いたが、「精神病院に15年間いた」と聞いた話をすると、佐藤は、その非難の矛先を私に向けた。「それを知っていて黙っていたのか」と責める口調に変わった。その時になって、自分が精神病者のことを迂闊に考えていたことに気づいた。嘗ての職場に鬱病から、首つり自殺をした部下がいた。その町は、鬱から自殺をする者が多いことで有名だった。そのことを思い出した。精神病者が凶暴だと言う思いをしなかったことが、私の甘さとなったのかと思う。彼に詫びたが、彼の私に対する非難は止まなかった。

その日の藤田信治に対する私の対応は少しぎこちなかったかと思う。藤田信彦はそれを感じているかと思いながらも平静さを演じていた。どうしたものかと思案しながら過ごした。講演会の終了後にコテージに9人程で集った。反省会だ。藤田信治も参加していた。いつもの彼がいて話題に入っていた。母殺しの話など全く信じられない彼がいた。翌日に彼のことを幾人かの幹部に相談しようと思いながら時間を過ごした。佐藤享が欠席したことから、私がコテージに泊まることにした。日帰りの者3名は9時、10時頃には自宅に戻っただろうか。宴会も盛況に続き夜中2時頃にお開きとなった。それぞれの部屋に各員が休み私は、少し酔いから早めに布団に入った。それでも、2時過ぎの頃には爆睡していた。隣には藤田信治が休んだ。寝首を搔かれても仕方ないと観念してそのまま床に就いた。

翌朝になり、皆が休んでいる中を早起きの私が朝食を作った。時間は、それでも7時頃だったろうか。2時頃まで起きて騒いでいたのだから。コシヒカリの御飯と味噌汁にサラダとベーコンエッグ、納豆、焼サバである。毎回ながら二名の女性陣は寝ていて、調理をしたことはない。確りとした朝御飯に残すかと思っていたが、私が作ったからか遠慮したせいか、綺麗に平らげてくれた。

時間にはチェックアウトし、藤田信治は最寄りの駅まで別の者に送ってもらい、バスで帰宅していった。私は、幹部の者を一人脇に乗せて新幹線駅まで送ることにし、その間に藤田信治の扱いを相談することにした。この問題で相談した者は3名。ひとりは歴史の勉強会とは全く関係のない者で、責任がなく一番相談しやすい者だった。彼は「難しいデリケートな問題だ」として常識的な回答をくれた。「藤田信治の気持ちを汲んで話すことが、大切だ」と言う。幹部の者に話をしたがその時には結論はなく、とりあえず伝えるだけになった。もう一人の鈴木文夫はその日は会社関係のイベントがあり夕方にならないと話が出来ない。その時間まで問題を伝えられなかった。途中コテージに泊まった女性から、電話がかかった。昨夜の出来事を語ってくれた。私たちが就寝した後で恐ろしい音を聞いたと言う。杖で床を幾度も叩き、何度も奇声を聴いたと言う。多分藤田信治だと思う。彼女の言うのには恐ろしい音で何かのトラウマだろうかと言う。彼の母殺しを知っている私は、想像が出来た。「夜中に寝首を掻く」恐ろしい状況を想像した。それを聴いて私の藤田信治に対する考え方が固まりつつあった。幹部の者は家に戻り4時過ぎに連絡が取れ、彼の考えを伝えてくれた。「心配するのは、藤田信治が逆恨みをして座長の私に危害を加えないか」と言うことだった。当然それも想像できる。私だけではなく私の家族に危害が及ぶこともあり得る。私も同じ考えだった。彼の想いには感謝する。鈴木文夫には、夕方になり電話をしたが、その頃には私の気持ちも決まっていた。藤田信治への対応は、歴史の勉強会から退会してもらうが、同じ志を持つ者として個人的には頑張ろうと伝えようと言うものだった。その話し方が重要だが、その点について出来るだけ藤田信治と穏やかに話そうと言うものだった。鈴木文夫も彼の視点から同意してくれた。早速、藤田信治に翌日の午後に会う約束をし鈴木文夫にも一緒に同行してくれることを依頼した。私は鈴木文夫や相談出来た彼らの友情に感謝する。

妻にも相談した。普段は箸の上げ下ろしまで注文を付ける私の妻である。しかし、真摯に相談に乗ってくれた。私の甘さを指摘した。彼女も高校時代には精神異常の友人がおり、散々苦労していた。佐藤享が私に対して黙っていた事で怒りの矛先を私に向けるのも当たり前だと言う。私は再度自分の甘さを思い知った。それでもいろいろと話を聴いてくれた。結論を出すよりも話を聴いてくれたことで妻に感謝したい。時間になり、鈴木文夫宅に伺い、再度話す内容を確認した。私の考えを鈴木文夫に伝えた。母殺しの話を聴いた以上歴史の勉強会の仲間には受け入れられないだろうと言うこと。その意味では退会は避けられない。しかし、日本を憂える思いは同じなのだから、その意味では個人的には関わり会えると思うと。また、鈴木文夫は彼の穏やかな視点から、藤田信治の得意な写真撮影とこれからの時間を楽しんだらよいと話した。私が殆どを話すことにし、何かの時に鈴木文夫が言葉を入れることで段取りが出来た。

約束の時間を少し遅れて藤田信治のアパートに就いた。チャイムを鳴らし「どうぞ」の声で中に入った。いつものように綺麗に掃除がされていて、藤田の好きな藤圭子の演歌が流れていた。彼は、薄幸のそして、自殺した藤圭子に想いを馳せていた。facebookにも幾度か書いている。「今日も藤圭子の唄を聴いている」と。我々は、同じ世代から、藤圭子の話をした。鈴木文夫は「圭子の夢は夜開く」よりももっと明るい歌が好きだと話していた。鈴木の独特の柔らかい話しぶりがその場を和やかな雰囲気にした。一昨日のイベントが盛況だった話や夜のコテージの話などを和やかに話し、暫くして本題に入った。

佐藤享から聞いた藤田信治の身の上話から切り出したが、彼は思っていた以上に感が良く、私が昨夜約束をとった時に既にこのことを感じていたと言う。佐藤享が止めるか自分が止めるかのどちらかだと。藤田信治は、話し始めた。10月27日に突然、佐藤享から電話があり、近くまで来ているので、蕎麦の美味しい道の駅に蕎麦を食べに行こうと言う。自分はデイサービスの予約があったが、断るのも悪いと思い、そちらをキャンセルして同行することにしたと言う。蕎麦も食べ、帰りの車中で身の上話を頻りに聞かれ、話したくないと伝えたがしつこくせがまれてとうとう話してしまったと言う。話を聴くと佐藤享は、「淡々と母殺しを話す藤田信治とは、もう関わりたくない」と。それで佐藤享を通じて知っただろう私の連絡から、また、一昨日の私の態度などから、このことを予知していたと言う。私たちには、佐藤享に話した以上の詳細な身の上話を語ってくれた。ここに藤田信治の人生を記したいと思う。

「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」彼は父の手紙に記されたこの言葉を見て「父の自分に対する気持ちを想い」「どのような思いで小さな山村の集落で暮らしていたのかを思い」涙ぐんでいた。母を斧で殺した時には淡々と事も無く語ったが、父の時には涙が見えた。藤田信治と言うひとりの男の悲しい話と思う。

子どもの頃はいつも父母の喧嘩が絶えず、母親が泣いているのを見ていたと言う。彼の話からは、大人しい父親と見栄っ張りの我の強い母親が語られる。貧しい農家と定職ではないが勤めていた父親の姿が見える。大学に進学した。彼の時代に貧しい家から大学に行くことは無かった。余程勉学に秀でているか、両親にそれだけの子に対する期待がなければ進学はなかったと思うが、彼の言葉に「貧しい中から進学させてくれた」と言う感謝の言葉は聞かれ無かった。頭が良い方とは思うが、どちらだったのだろうか。両親の進学させたいと言う想いだろうと思う。彼は結婚についての話をした。大学の倶楽部だろうか2学年上の女性とプラトニックだが、お付き合いがあり結婚も考えていた。しかし、ある時彼女から手紙が届き今度結婚すると言う。その手紙にはその思いと経過が長々と綴られていて、結婚式に出席して欲しいと言う。彼は彼女に対する恨みは語らなかったが、その時の辛かった気持ちを語った。彼女は母一人子一人で、彼は田舎の長男。一緒になることが出来なかった。大学を出て、東京で勤めることはなく、田舎に戻った。長男だから両親の面倒を見て家を継がなくてはならない。「母親の家を建てて欲しい」と言う言葉が頻繁に話される。彼は、几帳面で営業向きの男ではない。調子よく嘘をついて不動産や家を売ることが出来ない。宅建の免許も取得していたが、営業が不得手だったと言う。当時の金で月額25万円の月収と言うと羽振りが良かったと思う。ローンを組んで家を建て、車のローンやガソリン代、諸々で大変だったと語る。それで当時精神に変調をきたした。変調とは、幻聴が聞こえるようになったと言う。3年ほど職場を休業したと言う。その後再度職場に復帰し、彼の両親と親しく家族ぐるみのお付き合いをしていた家に未婚の女性がおり、お見合いをしたと言う。当時自分には好きな女性がおり、せがまれてお見合いをしたが、途中から用があると言い席を外した。好きな女性と言うのは、彼が別れて辛かったという大学の女性だったのだろうか、その事は確認できない。見合いの後は何の話も無かったので、相手もそれを察してくれたのかと思うと話した。

不動産と建築の会社を辞めて、別の職場に就いた。地元では有名な不動産会社になる。私の高校時代の友人も勤めていたので彼の名を言うと彼を知っていた。40歳代の頃のようだ。精神病院にいた年数が15年、現在退所して8年が過ぎるとすると、母殺しの事件は、53歳の時になる。若い時だったと漠然と思っていたが、違った。ある時から、また、幻聴が聞こえるようになった。一度の幻聴ではないのだろう、幻聴とは幾度も同じ言葉が繰り返し聞こえるようだ。幻聴の天のお告げの言う言葉が、「災いの元は母親だ」と言う。「その母親の頭を斧で勝ち割れなければならない」と。斧など何処にあるのかも分からなかったが、お告げでは納屋の一角に掛かっている。「そうしなければ、ならない」という。行ってみると斧が納屋の端の壁に掛かっていた。そうして、斧を手に取り居間に行くと父親と母親が並んで話していた。両親の年齢は、少なくとも70歳台になるのかと思う。後からだろうか最初の一撃は母の頭をそれて右肩に当たった。次に振り向いた母親の頭に命中した。血が噴き出た話はしなかったがどうだったのだろうか。致命傷とは思うが、語られなかった。直ぐに父親が自分に「逃げるなよ」と話したと言う。そう言われて自分はそこに座っていたと言う。警察が来て、手錠をかけて自分を連れて行ったが、「手錠が手首に食い込んでいないか」と優しく対応してくれたと言う。留置所に入っても「腹がすいてないか」と言いラーメンを取ってくれた。皆優しかったと言う。警察はこれらの状況から、全てを察して、精神異常者の犯行と対応したのかと思う。

彼の話に幻聴に対しての客観的な言葉はない。そして、母親に対する憐憫の情、後悔の念も全く語られない。精神状態は、今もってその当時からの延長にあるのかと思う。常人であれば、決して他人に口外することはないことだが、淡々と母殺しを語れることに恐ろしさを感じる。彼は市内で有名な精神病院に入院した。措置入院と言う。一番最初に対応した医師だけが彼の言うことを理解してくれたと言う。それ以降は自分の気持ちを理解していないと。3年で退所となったと言うが、社会的環境、社会復帰が適わないところから、そのまま入院が延長されたと言う。父親の要請だったと思うと言う。ある時父親から手紙が届いた。そこには「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」とあった。彼はそのくだりになり始めて涙ぐんだ。小さな山村の部落で息子が母殺しの家でどれ程肩身の狭い生活を送っただろうか。その父から「お母さんは心臓病で亡くなったんだよ」という。その事を思うと辛く申し訳ないと思うと語った。初めて彼の言葉に情を見た。殺した母親に対しては、その気持ちは一毛だに見出だせなかったが。彼の幻聴は母親のトラウマからのものだったのだろう。措置入院のまゝの15年は長いが、多分父親はその間に亡くなられたのかと思う。いつ亡くなられたのかは語らなかった。そして、退所して8年が過ぎた。ゲートボールの仲間ができ、写真の趣味も楽しめるようになった。政治的なことに関心を持ち、活動している。小さなアパートだが、年金も精神病患者には割増しとなり、助かっていると言う。

彼との話は、順調に進んだ。彼は佐藤享については、「失望させるからと身の上話はしたくないと、それでも良いかと確認をした」のだが、聞いた途端に彼は、『二度と関わりたくない』と言ったその事を非難していた。鈴木文夫は、「人は理屈ではないから」とその矛先を納める話をしてくれた。彼の穏やかな性格が功を奏した。「病院の先生が自分を理解してくれた」という言葉が示すように「理解することが大切だ」と思う。我々は彼の話す言葉、感情を全く否定せずに受け入れた。藤田信治が私たちの申し出に応じたのもそれが為だったと思う。「歴史の勉強会との関わりは出来ないが、お互いに遺された時間を有意義に使いましょう」、「好きな写真を楽しみましょう」と伝えた。私も写真には少し詳しいので、facebookに乗せた20数枚の写真を見せた。彼はその中の一枚を好きだと言ってくれた。

その後、夜になり彼からは御迷惑をお掛けしたこと、全てのことから一旦離れて考えてみたいと感謝のメールが届いた。佐藤享から、求められた自分が話してはならないことを試されたが、話してしまい失格だと言っていた。何処までも律儀で真面目な性格なのだろうか。一件落着かどうかは分からないが、藤田信治と言う人間の人生を垣間見て、その大きな悲しみに直面したが、人は誰しも悲しみからは避けられないのかと思った。「うはは」、「おほほ」で生きられる人生は良しとするが、人生を生きる意味では、違うのかも知れない。彼に「誰しもがひとつやふたつ、人に語れない悲しみを持っている」と話した。私がそうだからだが、だから、人を責めることなど出来やしないと思う。「母殺しの罪」を背負って生きて来た人生だが、未だその呪縛から逃れられていない。母子のトラウマだが、父親からの「お母さんは心臓病でなくなったんだよ」は、彼の救いの言葉なのかと思う。