今日は練習日だった。昼の弁当を買おうと思ってスーパーに向かっていた。ペアに電話連絡をした。「いつもの時間に行けるよ」と。「メールを見た?」の返答に「未だだよ」と答えた。
スーパーに着いてLINEを開くと、「頭痛が又なりそうで病院に行きMRI撮ったら、頸椎が酷いことになっていて、ダンスは出来なくなりました。」とあった。以前にも頭痛がして、戻したと言っていたが、それが頸椎圧迫によるという。「本当にすみませんが、先生も私もびっくり」とあった。要は、ダンスで頸椎を痛め、これ以上はダンスは出来ないと言う。
驚いて、携帯から電話をかけた。いつもお世話になっている先生から、頸椎が骨粗鬆症で神経を痛めている。これ以上ダンスを続けると神経を痛めて、動けなくなると言う。以前にも首筋にコリがあり、マッサージを私に頼んでいた。ダンスのtangoでは、ネックフリック(首振り)があり、首を酷使する。長年ダンスをやっている女性は、殆どが首を痛めている。男女ともだが、膝、そして女性がネック(頸椎)を痛めている。
彼女は、50代にフラダンスをはじめ今では東北で有名なダンスグループのインストラクターをやり、その中の生徒会長と言う。フラダンスと社交ダンスの二足の草鞋を履いている。
彼女との出会いはいつからだろうか。もう弐十年ほど前になる。その頃は自分はダンスを始めたばかりで、まだ初心者の域だった。学生時代にパーティ用に急遽習い、公民館ダンスを覚えた。当時はジルバとマンボ、ブルースの3種目だった。その後40代になり1年程ダンス教室に通った。その程度だったが、ホテルの企画でダンス集客があり、アテンダントが必要になり再開したのだ。
私は、ホテル会社から出向しており、出向先の営業部長をしていた。彼女はそこの取引先の営業レディだった。黒のビジネススーツを着て調理部に出入りをしていた。食肉関係の卸業者だった。瞬く間に注文をっとっていった。「女を武器にしているのだろう」との話も聞こえて来た。
自分は営業担当で宿泊や日帰りのお客様を集客していた。施設には、広さが、100名程がダンスのできる村営の施設が隣接してあった。昼食付の日帰りダンスプランを作り福島県内のダンスサークルや教室に営業をかけていた。春秋の季節にはパーティの多い時には百名を超えるほどのダンスサークルが来た。幾台もの送迎バスを使う。ダンス教室の営業では、温泉の招待券をプレゼントにした。その都合で教室やサークルのダンスパーティに参加していた。
福島県の有名な先生のパーティに彼女がいた。「ワルツ大会」がありペアが参加する。即席のペアを創り参加する者もいた。彼女が私に「参加しよう」と声をかけて来た。取引業者の彼女がダンスを踊るとは知らなかったが、「簡単なステップで何もするな」と私に命令し参加した。10数組ぐらいの参加者がいたが、私たちは4位に入った。エッ!驚いた。競技ダンスも何も知らない自分には、今になり思えば、奥深いダンスの入り口にいたと知った。
その後は彼女と会うことも無かった。その後3年程でその施設への出向契約が切れ、離れた。還暦を前に出向元の会社も退職した。勤続30年。
離れて如何しようかと思いを巡らせたが、数ヶ月で通販会社を起業した。伝統工芸品と伝統食品の通信販売、取引工房は栃木県内や青森県、福島県が多く、その後もwebで探し工房が増えていった。取引工房が福島県内に幾つもあり、月に1、2度滝根町や会津地方を訪ねていた。ある時彼女の参加しているサークルのパーティが磐梯熱海の清陵山ホテルであり、自分も参加した。サークルへの入会を打診された。彼女はメンバーの男性を探していて、私は声掛けにすぐに応じた。彼女は、「一匹OK!」で釣り上げたことになる。彼女の営業力の片鱗である。
そのサークルには、月に2、3度参加した。福島県内の伝統工芸品の工房を訪ねて、その流れでサークルの練習に参加した。そのサークルは本当に公民館レベルで上手な方はいなかった。ダンス教室に通いそれなりに上手になっていた自分は、彼女と釣り合うレベルだったので、少しは親密になった。そのようなことも2年程度続けたろうか。随分とダンス旅行やパーティなどを楽しんだ。懐かしい思い出がある。しかし、ある時に卒業と言った感じで退会した。
当時、自分は日光の練習場に週2回通っていた。通販の仕事も順調に行き収入も良かったので、個人レッスンを受けていた。暫くして、彼女と郡山で有名なダンス練習場に通うようになった。私はサークルを退会していたので、練習場が必要だった。そして、彼女とも月に1、2度のペースで練習した。ある時、彼女から「競技ダンスに参加しないか」と話があった。以前のサークル仲間の男性の一人が、競技ダンスを始めていた。私もよく知る男性だが、彼に感化されたようだ。彼女の「自分なら」の競争心が芽を出したのかと思う。
私は以前から、「競技ダンスはやらない」と決めていた。競技ダンスは、本格的に個人レッスンを受けて練習しなければ勝てないからだ。それでも一度だけのつもりで、彼女の要請に応えようと思い、燕尾服を如何しようかと相談した。丁度良く、練習場のA級の方が、着られなくなったモーニングがあり、売ってもよいと言う。35万円程で新調したものだという。見ると良いものだった。お借りして試着した。鏡に映る自分の姿に思いのほか気に入った。ズボンの寸を少し詰め、袖も若干詰めて併せた。練習場で踊る自分の姿を見て嬉しくなった。アラビアのロレンスのピターオトールが、民族衣装を着て悦に入っているシーンを思い出す。
初めての競技は、Ð級からスタートした。1種目だが、エントリー組数も少なく、優勝した。一生懸命に踊ったが、驚きで言葉がない。Ð級でももう一種目があり、そちらも出場すれば、優勝したのかと思う。それでも次の大会では、決勝に残ったものの5位だった。C級にアップは出来なかった。当然優勝するものと思っていたので、驚いた。反省してタンゴの左腕とかいろいろと踊りこみ備えた。そして、次の大会で優勝してC級にアップした。茨城のひたちなか市の会場が相性が良かった。2種目に参加し、片方は優勝、片方も2位だったように思う。
次は、C級の大会になる。2回ほどは、好ましい結果ではなかったが、ある時に「フロアクラフト」即ちフロアの動き方をレッスン動画から学んだ。アピールのできる動き方、即ち審査員の評価を得るためのアラインメント(動きの方向性)になる。彼女とはいつもイケイケの精神状態で踊った。お互いに勝気の性格があっていたのかと思う。面白いのは、上手く踊れたと思ったときは結果が悪く、心配しながら一生懸命に踊った時が結果が良かった。上手くいった時は集中力が甘く意識が散漫になり、心配して踊る時は集中して意識が届くからと思う。私たちは勝負強いと言われる。1点差で予選を通過し、決勝で最下位の1/2を獲得していた。1回目の1/2はひたちなか市の大会、もう一つは川俣町だったように思う。一生懸命に踊ったが、その都度心配しながらに結果を待ったら、決勝に残っていた。そしてその結果は、クリアしたのだ。競技を初めて僅か10か月でB級にアップできた。しかし、B級ではなかなか勝てなかった。それでもある時にはまぐれかどうか分からないが、準決勝となり、B級維持をパスできた。その後は、コロナが蔓延し2年ほどは競技会が中止となった。
その後に開催されたが、暫くはマスクをして踊ることになった。何とかB級を維持してこられた。日々の練習は練習場の上手な方々から、教えてもらい、またレッスン動画から学び余りお金をかけずに過ごした。それでも週に2回の練習日を設定し、練習所に通い始めて、10年近くが経つ。
ある時に練習所の仲間から、ジャパンカップに参加できる話を聞いた。毎年3月1日、2日頃に開催される。いろいろと調べて参加することにした。この顛末は別に譲りますが、思い出深い参加になりました。全日本のプロとアマチュアのトップのダンスに感動したことだけを記します。
今年になり、競技会は2回ほど参加した。3月と4月でした。一度目はなかなか勝てませんでしたが、二度目は準決勝にアップでき、降格をパス出来ました。一度目は前日の練習でケンカをしてその気持ちを引きずりとても勝てる精神状態では無かった。そして、三度目もケンカをして、心が萎えていました。ダンスに対する取り組み方、考え方に問題がある。彼女は負けん気が強く、私からの「彼女の非」の指摘を認めないのです。男女の違い、男性は頭で、女性は子宮で考える。彼女は私の簡単な説明のイロハの理屈が分からない、驚くほどに立体感が分からない。それ程に運動神経が良いわけではない。B級の決勝に届くためには、男女ともに踊る力が必要となる。ダンスは男性の力が九割と言われる。私の踊る力次第だが、彼女はそれを指摘する。「あなたが踊れれば、良いのよ」と。要は私の力が劣るからだ。私は猫背で背中が作れないのだ。私が良くなればクリアできるだろうが、彼女の動きが私を引っ張ってしまう。背中が作れないのに彼女が更にリーダーの動きの邪魔をする。お互いに我の張り合いなのかと思う。最近では、子どものような彼女の性格に参っていた。10年近くも練習所に通うことに嫌だったことなど、一度もなかったが、そのような思いが脳裏をかすめた。
突然の終わり。彼女からのメール、そして電話から、思いもかけない「二人のダンスが終る」ことを聴いた。練習にならないので、ジャ今日の練習は止めようとなった。しかし、「もう踊れないのか」という自分のショックから彼女の落ち込みを思った。このままに放って置けない。何か元気づけられるものを持って行こうと思った。なかなか思いつかなかったが、「盛り花」が良いと思い、生花店を訪ねた。店主とは長年のお付き合いでいつもニコニコとしている若者だったが、既に65歳という。お互いに年を取ったものだと思うが、彼の話に驚いた。数年前に心臓弁膜症で移植手術を行い3カ月も入院をしていたという。もう少し放置していたら、死んでいると言われたという。人生とはわからないものだ。私も2度の癌手術でお腹を裂いている。悪性の癌だが幸いに発見が早く完治した。お店には、既にいくつかの盛花が作られてあり、「元気づけるなら向日葵が良い」という。
向日葵の花を持ち訪ねた。彼女から病院の先生の話を聞き、頸椎の危険性を知った。「踊れなくなる」が、防ぎようのない言葉となって刺さる。彼女には社交ダンスよりも大切なフラダンスがある。そちらさえも踊れなくなったら、一大事になる。治療は「手術」しかないという。整体などの治療は危険だという。殆ど治療法がない。
6月1日に次の試合を申し込んでいたが、止めることにした。この後の人生を思うと仕方ない。無理をして動けなくなったらと思うと仕方ないと思う。その後フラの練習を行い、様子を見た。少し痺れがあるという。ダンス練習所の一人は長年頸椎を痛めて首に突起がでている。それでも注意しながら踊っている。だから、他の人とは踊らないのだという。しかし、このままに二人のダンスを止めるのは悲しすぎる。私も彼女もそのような思いをしている。
おそるおそるだが、6月1日の競技会に参加することにした。既に参加料は、支払っている。無理をせず踊らずにフロアに立つだけでも良いの気持ちでいる。その間、自分はシャドウだけの練習をすることにした。練習サークルがあり、近くの公民館で週に幾日も日、火、木、土曜日の練習会を設定している。殆ど参加することは無かったのだが、シャドウには丁度良い。ひとりシャドウの練習をしながら、悲しくてならない。最近はケンカをするたびに嫌になっていたが、いざ踊れなくなるとこれ程に悲しいとは。彼女からのメールに、幾度か「すみません」の言葉がある。我が強くいつも私に譲らすにケンカしていたことに反省の気持ちがあるのかと思う。
今日は競技会前の練習を予定した。実際に踊ったが、彼女の首に違和感があり、踊れない。幾度かルーティンを繰り返したが、変わらなかった。6月1日の競技会は諦めることにした。彼女と今後のことについて話した。頸椎の損傷は1、2か月たてば落ち着くだろうと思う。それまでの時間は生活を見直す時間にしよう。今まであまりに忙しすぎた。プラスに考えよう。来年もB級で踊ることが出来るのだから、ゆっくりとそれまでに備えよう。自分が、その間にA級に挑戦できるほどにレベルアップしようと。決心がつき事務局にキャンセルの連絡をした。一つの課題をクリアできた。
老いは仕方ない。それに応じた生き方をしようと思う。
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