2025年5月19日月曜日

静のこと

 私は今年75歳になる。77歳は喜寿の祝いだが、その年には中学校の同級会を行うことにしている。まだその年齢まで生きていたいという思いから、幹事役を志願して、仰せつかった。

正月明けに75歳での小学校の同級会は丁度良いだろうと思い、企画することにした。同級会はいつも自分が言い出しっぺになる。1月の29日に中心となる幹事役6人を集めて打ち合わせた。男性3人と女性3人だが、話も弾み結構上手くゆくだろうと思った。小学校の同級会はコロナ前2020年に企画したが、生憎コロナが全盛となり、遠方からの参加者も心配していて、やむなく中止にした。その時の資料を使うことが出来た。

次回の集まりを4月7日にした。

ところが、今回はそうではなかった。その日には女性陣三人のうち、二人が欠席した。思いもよらなかったが、ひとりは連れ合いが亡くなったばかりで、同級会にでて騒ぐ気持ちにはなれないとのこと。もう一人は同じく連れ合いが病気で、一泊で参加することが出来ないという。二人とも相談し参加しない以上、幹事役は無理と思ったのだろう。

宿泊施設はいつも利用している北区保養所だが、かつて務めていたホテルグループの施設なので、スタッフも40年来のつきあいである。すでに詳細を打ち合わせ済みで、宿泊日の確定、宿泊単価、ドリンク代、部屋数を決めた。出欠はがきの返信期日を5月20日に定めた。試算は22名の参加者と過程して、会費を決めた。ひとり1万3千円。往復はがきや写真撮影、諸々を決めてその日は終了した。その時は、まだ参加者の人数を楽観していた。上手くゆけば、30名程度は集まるかなと思っていた。消息が取れていて仕事をしている者は20数人がいる。しかし、重病で参加できるかどうかが懸念される者が結構いる。多分駄目だろうと思っていた。

そのうちの一人、薄井正勝の家を訪ねた。彼は心筋梗塞であまり調子が良くないと聞いていた。話すとステントを入れて、改善しているが無理は出来ないという。しかし、最近になり転んでしまい、足の付け根を痛めてしまい何もできなくなったという。仕方なく毎日テレビを見て過ごしているという。農家なので田圃の稲作は依頼しているという。迎えに来てくれれば、参加できるような話になり、じゃ迎えに来るよと話した。これで、参加者が一人確定したと思った。

同じ部落には深沢知志がいて、住所も電話番号も記録されているので、連絡はとれると思っていた。 政勝の二軒隣になるが、政勝に聞くと家には誰もいなくなり、知志と兄がいるが、兄が時折に来て家のことを見ているという。雨戸が閉まっていて、住んでいる気配はなかった。知志は来ることはないという。知志に電話をして、幾度目かに繋がり短い話が出来た。仕事をしており、6月16日は、仕事が入っていて駄目だという。エッと思ったが、まだ先なので、調整して参加できないかと言葉をかけた。2か月先の話だからと思うが。facebookに深沢知志の名の人物がいる。金毘羅参りの装束の後ろ姿だが、間違いなく彼と思うが、そのような写真を使うことに違和感を覚えた。子供か奥さんか、身内の誰かが亡くなったのかと想像した。その意味で喜んで同級会には出る気持ちではないのだろうと思う。60歳の時の同級会では、いろいろと話が出来たので、ある程度は彼のことを知っている心算でいた。マツダの営業マンで、結構営業力があると聞いていた。往復はがきの彼からの返信はまだない。

自分が気になっている人物に稲沢市太郎と後藤静がいる。二人とも住所は分かっているのだが、部屋番号が分からない。市太郎は直接彼の住む団地を訪ねることにした。電話番号があったのだが、繋がらない。多分、取り外して携帯にしているのかと思う。直接彼の住む団地を訪ねた。団地の郵便受けを覗いて名前があれば、分かるだろうと思い彼の名を探した。稲沢の名があった。312号室。チャイムを鳴らすと少ししてドアが開いた。髭面の顔が覗いたが、市太郎の面影を思い浮かべたが、少し違うようにも見える。「市ッチャンかい」と聞き、「ハッタシゲル」だよと伝えた。笑顔がこぼれて、中に入れてくれた。

数年前に奥さんが亡くなったことを聞いていた。奥さんは美人だが、15歳くらい年上だったと思う。同じ団地に住んでいたので、時折に見かけていた。一度離婚したというが、又よりを戻したと聞いていた。一人住まいの団地だが、3部屋にバストイレ、キッチン付き。奇麗になってはいたが、隙間のない程に荷物が溢れていた。話をするのに彼の寝室を案内され、ベットに座り、彼はキャンプ用のいすに座った。缶コーヒーを出してくれ、いろいろと話した。

30代に胃癌になり部分切除をしていることと、最近になり大腸がんが見つかり、ポリープを取り再発はしていないというが、また、市民検診で要検の連絡があり、近いうちに検査に行くという。自分も2度の癌の経過を話した。すでに胃癌は9年近くが経過し、大腸癌は1年近くが経つ。彼とは子どもの頃の思い出もあるが、成人してからはそれほどの付き合いはなかった。75歳で最後の同級会ということで、参加してほしい旨を伝たえ、「迎えに来るよ」と言い「迎えに来るなら」と言い、「宜しく頼む」と了解して分かれた。

後藤静は、浅草の三ノ輪の近くの住所で連絡が取れていたが、前回の時にハガキが住所不明で戻ってきた。アパートで棟番号が分からないので、4月29日に上京する予定があったので、その時に尋ねることにした。事前に静の住所をGoogleで検索すると下町の工場が出てきた。会社名があり、この裏手が住まいかにみえるが、よくわからない。当日上野から地下鉄日比谷線で三ノ輪駅で降りた。3区画ぐらいでその住所になる。角に交番があり、念のために住所を確認した。Googleでみた工場前に来たが、アパートではないようだ。幾度か確認したが分からず、区画手前のお店の旦那さんがいたので、尋ねたら、静のような年配の人物が毎日通っていると話した。同級会で彼を探していることを話した。GWで工場は休みなので、休日明けでないと会えないだろうとのこと。工場の電話番号を控えて戻ってきた。

GWが明けて、工場に電話をかけた。話すと事務所の方だろうか、「後藤静はかなり以前に退職」していた。同僚などに話をしても彼との連絡は取れないとのこと。定年まで勤めていたのかと思うが、連絡先も分からないとは、彼の生きてきた人生が思われる。小学校、中学校の彼を思い出す。決して成績が良いわけではないが、自転車で通学し同じ小学校なので、それくらいの付き合いになる。中学校を卒業した後は、どうだったのか分からない。多分、そのままに集団就職のように都会に出ていったのかと思う。多分、その後にどのような人生があったのかは、分からない。中学校卒業後は、どうだったのかは誰からも聞かない。

今回の小学校の同級会は、あまりにも参加者が少ない。人は自分の経験から考える。それ程小学校の同級生が懐かしいわけではないが、何人かが同級会をやりたいの声を聴き、段取りをした。しかし、多くの者たちは、そう思っていなかった。人生に魅力を感じていないのかと思う。その意味では自分は少し他の者とは異なっているのだろう。

この年齢になり、どうしようもない社会問題に関わっている。近現代史を学び、その不合理に怒りを覚えている。しかし、同世代の者にはそのように感じ考える者は、皆無である。人は生まれながらにして如何生きるかは決まっている。そのように感じている。


  

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