2025年5月30日金曜日

突然の終わり

 今日は練習日だった。昼の弁当を買おうと思ってスーパーに向かっていた。ペアに電話連絡をした。「いつもの時間に行けるよ」と。「メールを見た?」の返答に「未だだよ」と答えた。

スーパーに着いてLINEを開くと、「頭痛が又なりそうで病院に行きMRI撮ったら、頸椎が酷いことになっていて、ダンスは出来なくなりました。」とあった。以前にも頭痛がして、戻したと言っていたが、それが頸椎圧迫によるという。「本当にすみませんが、先生も私もびっくり」とあった。要は、ダンスで頸椎を痛め、これ以上はダンスは出来ないと言う。

驚いて、携帯から電話をかけた。いつもお世話になっている先生から、頸椎が骨粗鬆症で神経を痛めている。これ以上ダンスを続けると神経を痛めて、動けなくなると言う。以前にも首筋にコリがあり、マッサージを私に頼んでいた。ダンスのtangoでは、ネックフリック(首振り)があり、首を酷使する。長年ダンスをやっている女性は、殆どが首を痛めている。男女ともだが、膝、そして女性がネック(頸椎)を痛めている。

彼女は、50代にフラダンスをはじめ今では東北で有名なダンスグループのインストラクターをやり、その中の生徒会長と言う。フラダンスと社交ダンスの二足の草鞋を履いている。

彼女との出会いはいつからだろうか。もう弐十年ほど前になる。その頃は自分はダンスを始めたばかりで、まだ初心者の域だった。学生時代にパーティ用に急遽習い、公民館ダンスを覚えた。当時はジルバとマンボ、ブルースの3種目だった。その後40代になり1年程ダンス教室に通った。その程度だったが、ホテルの企画でダンス集客があり、アテンダントが必要になり再開したのだ。

私は、ホテル会社から出向しており、出向先の営業部長をしていた。彼女はそこの取引先の営業レディだった。黒のビジネススーツを着て調理部に出入りをしていた。食肉関係の卸業者だった。瞬く間に注文をっとっていった。「女を武器にしているのだろう」との話も聞こえて来た。

自分は営業担当で宿泊や日帰りのお客様を集客していた。施設には、広さが、100名程がダンスのできる村営の施設が隣接してあった。昼食付の日帰りダンスプランを作り福島県内のダンスサークルや教室に営業をかけていた。春秋の季節にはパーティの多い時には百名を超えるほどのダンスサークルが来た。幾台もの送迎バスを使う。ダンス教室の営業では、温泉の招待券をプレゼントにした。その都合で教室やサークルのダンスパーティに参加していた。

福島県の有名な先生のパーティに彼女がいた。「ワルツ大会」がありペアが参加する。即席のペアを創り参加する者もいた。彼女が私に「参加しよう」と声をかけて来た。取引業者の彼女がダンスを踊るとは知らなかったが、「簡単なステップで何もするな」と私に命令し参加した。10数組ぐらいの参加者がいたが、私たちは4位に入った。エッ!驚いた。競技ダンスも何も知らない自分には、今になり思えば、奥深いダンスの入り口にいたと知った。

その後は彼女と会うことも無かった。その後3年程でその施設への出向契約が切れ、離れた。還暦を前に出向元の会社も退職した。勤続30年。

離れて如何しようかと思いを巡らせたが、数ヶ月で通販会社を起業した。伝統工芸品と伝統食品の通信販売、取引工房は栃木県内や青森県、福島県が多く、その後もwebで探し工房が増えていった。取引工房が福島県内に幾つもあり、月に1、2度滝根町や会津地方を訪ねていた。ある時彼女の参加しているサークルのパーティが磐梯熱海の清陵山ホテルであり、自分も参加した。サークルへの入会を打診された。彼女はメンバーの男性を探していて、私は声掛けにすぐに応じた。彼女は、「一匹OK!」で釣り上げたことになる。彼女の営業力の片鱗である。

そのサークルには、月に2、3度参加した。福島県内の伝統工芸品の工房を訪ねて、その流れでサークルの練習に参加した。そのサークルは本当に公民館レベルで上手な方はいなかった。ダンス教室に通いそれなりに上手になっていた自分は、彼女と釣り合うレベルだったので、少しは親密になった。そのようなことも2年程度続けたろうか。随分とダンス旅行やパーティなどを楽しんだ。懐かしい思い出がある。しかし、ある時に卒業と言った感じで退会した。

当時、自分は日光の練習場に週2回通っていた。通販の仕事も順調に行き収入も良かったので、個人レッスンを受けていた。暫くして、彼女と郡山で有名なダンス練習場に通うようになった。私はサークルを退会していたので、練習場が必要だった。そして、彼女とも月に1、2度のペースで練習した。ある時、彼女から「競技ダンスに参加しないか」と話があった。以前のサークル仲間の男性の一人が、競技ダンスを始めていた。私もよく知る男性だが、彼に感化されたようだ。彼女の「自分なら」の競争心が芽を出したのかと思う。

私は以前から、「競技ダンスはやらない」と決めていた。競技ダンスは、本格的に個人レッスンを受けて練習しなければ勝てないからだ。それでも一度だけのつもりで、彼女の要請に応えようと思い、燕尾服を如何しようかと相談した。丁度良く、練習場のA級の方が、着られなくなったモーニングがあり、売ってもよいと言う。35万円程で新調したものだという。見ると良いものだった。お借りして試着した。鏡に映る自分の姿に思いのほか気に入った。ズボンの寸を少し詰め、袖も若干詰めて併せた。練習場で踊る自分の姿を見て嬉しくなった。アラビアのロレンスのピターオトールが、民族衣装を着て悦に入っているシーンを思い出す。

初めての競技は、Ð級からスタートした。1種目だが、エントリー組数も少なく、優勝した。一生懸命に踊ったが、驚きで言葉がない。Ð級でももう一種目があり、そちらも出場すれば、優勝したのかと思う。それでも次の大会では、決勝に残ったものの5位だった。C級にアップは出来なかった。当然優勝するものと思っていたので、驚いた。反省してタンゴの左腕とかいろいろと踊りこみ備えた。そして、次の大会で優勝してC級にアップした。茨城のひたちなか市の会場が相性が良かった。2種目に参加し、片方は優勝、片方も2位だったように思う。

次は、C級の大会になる。2回ほどは、好ましい結果ではなかったが、ある時に「フロアクラフト」即ちフロアの動き方をレッスン動画から学んだ。アピールのできる動き方、即ち審査員の評価を得るためのアラインメント(動きの方向性)になる。彼女とはいつもイケイケの精神状態で踊った。お互いに勝気の性格があっていたのかと思う。面白いのは、上手く踊れたと思ったときは結果が悪く、心配しながら一生懸命に踊った時が結果が良かった。上手くいった時は集中力が甘く意識が散漫になり、心配して踊る時は集中して意識が届くからと思う。私たちは勝負強いと言われる。1点差で予選を通過し、決勝で最下位の1/2を獲得していた。1回目の1/2はひたちなか市の大会、もう一つは川俣町だったように思う。一生懸命に踊ったが、その都度心配しながらに結果を待ったら、決勝に残っていた。そしてその結果は、クリアしたのだ。競技を初めて僅か10か月でB級にアップできた。しかし、B級ではなかなか勝てなかった。それでもある時にはまぐれかどうか分からないが、準決勝となり、B級維持をパスできた。その後は、コロナが蔓延し2年ほどは競技会が中止となった。

その後に開催されたが、暫くはマスクをして踊ることになった。何とかB級を維持してこられた。日々の練習は練習場の上手な方々から、教えてもらい、またレッスン動画から学び余りお金をかけずに過ごした。それでも週に2回の練習日を設定し、練習所に通い始めて、10年近くが経つ。

ある時に練習所の仲間から、ジャパンカップに参加できる話を聞いた。毎年3月1日、2日頃に開催される。いろいろと調べて参加することにした。この顛末は別に譲りますが、思い出深い参加になりました。全日本のプロとアマチュアのトップのダンスに感動したことだけを記します。

今年になり、競技会は2回ほど参加した。3月と4月でした。一度目はなかなか勝てませんでしたが、二度目は準決勝にアップでき、降格をパス出来ました。一度目は前日の練習でケンカをしてその気持ちを引きずりとても勝てる精神状態では無かった。そして、三度目もケンカをして、心が萎えていました。ダンスに対する取り組み方、考え方に問題がある。彼女は負けん気が強く、私からの「彼女の非」の指摘を認めないのです。男女の違い、男性は頭で、女性は子宮で考える。彼女は私の簡単な説明のイロハの理屈が分からない、驚くほどに立体感が分からない。それ程に運動神経が良いわけではない。B級の決勝に届くためには、男女ともに踊る力が必要となる。ダンスは男性の力が九割と言われる。私の踊る力次第だが、彼女はそれを指摘する。「あなたが踊れれば、良いのよ」と。要は私の力が劣るからだ。私は猫背で背中が作れないのだ。私が良くなればクリアできるだろうが、彼女の動きが私を引っ張ってしまう。背中が作れないのに彼女が更にリーダーの動きの邪魔をする。お互いに我の張り合いなのかと思う。最近では、子どものような彼女の性格に参っていた。10年近くも練習所に通うことに嫌だったことなど、一度もなかったが、そのような思いが脳裏をかすめた。

突然の終わり。彼女からのメール、そして電話から、思いもかけない「二人のダンスが終る」ことを聴いた。練習にならないので、ジャ今日の練習は止めようとなった。しかし、「もう踊れないのか」という自分のショックから彼女の落ち込みを思った。このままに放って置けない。何か元気づけられるものを持って行こうと思った。なかなか思いつかなかったが、「盛り花」が良いと思い、生花店を訪ねた。店主とは長年のお付き合いでいつもニコニコとしている若者だったが、既に65歳という。お互いに年を取ったものだと思うが、彼の話に驚いた。数年前に心臓弁膜症で移植手術を行い3カ月も入院をしていたという。もう少し放置していたら、死んでいると言われたという。人生とはわからないものだ。私も2度の癌手術でお腹を裂いている。悪性の癌だが幸いに発見が早く完治した。お店には、既にいくつかの盛花が作られてあり、「元気づけるなら向日葵が良い」という。

向日葵の花を持ち訪ねた。彼女から病院の先生の話を聞き、頸椎の危険性を知った。「踊れなくなる」が、防ぎようのない言葉となって刺さる。彼女には社交ダンスよりも大切なフラダンスがある。そちらさえも踊れなくなったら、一大事になる。治療は「手術」しかないという。整体などの治療は危険だという。殆ど治療法がない。

6月1日に次の試合を申し込んでいたが、止めることにした。この後の人生を思うと仕方ない。無理をして動けなくなったらと思うと仕方ないと思う。その後フラの練習を行い、様子を見た。少し痺れがあるという。ダンス練習所の一人は長年頸椎を痛めて首に突起がでている。それでも注意しながら踊っている。だから、他の人とは踊らないのだという。しかし、このままに二人のダンスを止めるのは悲しすぎる。私も彼女もそのような思いをしている。

おそるおそるだが、6月1日の競技会に参加することにした。既に参加料は、支払っている。無理をせず踊らずにフロアに立つだけでも良いの気持ちでいる。その間、自分はシャドウだけの練習をすることにした。練習サークルがあり、近くの公民館で週に幾日も日、火、木、土曜日の練習会を設定している。殆ど参加することは無かったのだが、シャドウには丁度良い。ひとりシャドウの練習をしながら、悲しくてならない。最近はケンカをするたびに嫌になっていたが、いざ踊れなくなるとこれ程に悲しいとは。彼女からのメールに、幾度か「すみません」の言葉がある。我が強くいつも私に譲らすにケンカしていたことに反省の気持ちがあるのかと思う。

今日は競技会前の練習を予定した。実際に踊ったが、彼女の首に違和感があり、踊れない。幾度かルーティンを繰り返したが、変わらなかった。6月1日の競技会は諦めることにした。彼女と今後のことについて話した。頸椎の損傷は1、2か月たてば落ち着くだろうと思う。それまでの時間は生活を見直す時間にしよう。今まであまりに忙しすぎた。プラスに考えよう。来年もB級で踊ることが出来るのだから、ゆっくりとそれまでに備えよう。自分が、その間にA級に挑戦できるほどにレベルアップしようと。決心がつき事務局にキャンセルの連絡をした。一つの課題をクリアできた。

老いは仕方ない。それに応じた生き方をしようと思う。



2025年5月19日月曜日

静のこと

 私は今年75歳になる。77歳は喜寿の祝いだが、その年には中学校の同級会を行うことにしている。まだその年齢まで生きていたいという思いから、幹事役を志願して、仰せつかった。

正月明けに75歳での小学校の同級会は丁度良いだろうと思い、企画することにした。同級会はいつも自分が言い出しっぺになる。1月の29日に中心となる幹事役6人を集めて打ち合わせた。男性3人と女性3人だが、話も弾み結構上手くゆくだろうと思った。小学校の同級会はコロナ前2020年に企画したが、生憎コロナが全盛となり、遠方からの参加者も心配していて、やむなく中止にした。その時の資料を使うことが出来た。

次回の集まりを4月7日にした。

ところが、今回はそうではなかった。その日には女性陣三人のうち、二人が欠席した。思いもよらなかったが、ひとりは連れ合いが亡くなったばかりで、同級会にでて騒ぐ気持ちにはなれないとのこと。もう一人は同じく連れ合いが病気で、一泊で参加することが出来ないという。二人とも相談し参加しない以上、幹事役は無理と思ったのだろう。

宿泊施設はいつも利用している北区保養所だが、かつて務めていたホテルグループの施設なので、スタッフも40年来のつきあいである。すでに詳細を打ち合わせ済みで、宿泊日の確定、宿泊単価、ドリンク代、部屋数を決めた。出欠はがきの返信期日を5月20日に定めた。試算は22名の参加者と過程して、会費を決めた。ひとり1万3千円。往復はがきや写真撮影、諸々を決めてその日は終了した。その時は、まだ参加者の人数を楽観していた。上手くゆけば、30名程度は集まるかなと思っていた。消息が取れていて仕事をしている者は20数人がいる。しかし、重病で参加できるかどうかが懸念される者が結構いる。多分駄目だろうと思っていた。

そのうちの一人、薄井正勝の家を訪ねた。彼は心筋梗塞であまり調子が良くないと聞いていた。話すとステントを入れて、改善しているが無理は出来ないという。しかし、最近になり転んでしまい、足の付け根を痛めてしまい何もできなくなったという。仕方なく毎日テレビを見て過ごしているという。農家なので田圃の稲作は依頼しているという。迎えに来てくれれば、参加できるような話になり、じゃ迎えに来るよと話した。これで、参加者が一人確定したと思った。

同じ部落には深沢知志がいて、住所も電話番号も記録されているので、連絡はとれると思っていた。 政勝の二軒隣になるが、政勝に聞くと家には誰もいなくなり、知志と兄がいるが、兄が時折に来て家のことを見ているという。雨戸が閉まっていて、住んでいる気配はなかった。知志は来ることはないという。知志に電話をして、幾度目かに繋がり短い話が出来た。仕事をしており、6月16日は、仕事が入っていて駄目だという。エッと思ったが、まだ先なので、調整して参加できないかと言葉をかけた。2か月先の話だからと思うが。facebookに深沢知志の名の人物がいる。金毘羅参りの装束の後ろ姿だが、間違いなく彼と思うが、そのような写真を使うことに違和感を覚えた。子供か奥さんか、身内の誰かが亡くなったのかと想像した。その意味で喜んで同級会には出る気持ちではないのだろうと思う。60歳の時の同級会では、いろいろと話が出来たので、ある程度は彼のことを知っている心算でいた。マツダの営業マンで、結構営業力があると聞いていた。往復はがきの彼からの返信はまだない。

自分が気になっている人物に稲沢市太郎と後藤静がいる。二人とも住所は分かっているのだが、部屋番号が分からない。市太郎は直接彼の住む団地を訪ねることにした。電話番号があったのだが、繋がらない。多分、取り外して携帯にしているのかと思う。直接彼の住む団地を訪ねた。団地の郵便受けを覗いて名前があれば、分かるだろうと思い彼の名を探した。稲沢の名があった。312号室。チャイムを鳴らすと少ししてドアが開いた。髭面の顔が覗いたが、市太郎の面影を思い浮かべたが、少し違うようにも見える。「市ッチャンかい」と聞き、「ハッタシゲル」だよと伝えた。笑顔がこぼれて、中に入れてくれた。

数年前に奥さんが亡くなったことを聞いていた。奥さんは美人だが、15歳くらい年上だったと思う。同じ団地に住んでいたので、時折に見かけていた。一度離婚したというが、又よりを戻したと聞いていた。一人住まいの団地だが、3部屋にバストイレ、キッチン付き。奇麗になってはいたが、隙間のない程に荷物が溢れていた。話をするのに彼の寝室を案内され、ベットに座り、彼はキャンプ用のいすに座った。缶コーヒーを出してくれ、いろいろと話した。

30代に胃癌になり部分切除をしていることと、最近になり大腸がんが見つかり、ポリープを取り再発はしていないというが、また、市民検診で要検の連絡があり、近いうちに検査に行くという。自分も2度の癌の経過を話した。すでに胃癌は9年近くが経過し、大腸癌は1年近くが経つ。彼とは子どもの頃の思い出もあるが、成人してからはそれほどの付き合いはなかった。75歳で最後の同級会ということで、参加してほしい旨を伝たえ、「迎えに来るよ」と言い「迎えに来るなら」と言い、「宜しく頼む」と了解して分かれた。

後藤静は、浅草の三ノ輪の近くの住所で連絡が取れていたが、前回の時にハガキが住所不明で戻ってきた。アパートで棟番号が分からないので、4月29日に上京する予定があったので、その時に尋ねることにした。事前に静の住所をGoogleで検索すると下町の工場が出てきた。会社名があり、この裏手が住まいかにみえるが、よくわからない。当日上野から地下鉄日比谷線で三ノ輪駅で降りた。3区画ぐらいでその住所になる。角に交番があり、念のために住所を確認した。Googleでみた工場前に来たが、アパートではないようだ。幾度か確認したが分からず、区画手前のお店の旦那さんがいたので、尋ねたら、静のような年配の人物が毎日通っていると話した。同級会で彼を探していることを話した。GWで工場は休みなので、休日明けでないと会えないだろうとのこと。工場の電話番号を控えて戻ってきた。

GWが明けて、工場に電話をかけた。話すと事務所の方だろうか、「後藤静はかなり以前に退職」していた。同僚などに話をしても彼との連絡は取れないとのこと。定年まで勤めていたのかと思うが、連絡先も分からないとは、彼の生きてきた人生が思われる。小学校、中学校の彼を思い出す。決して成績が良いわけではないが、自転車で通学し同じ小学校なので、それくらいの付き合いになる。中学校を卒業した後は、どうだったのか分からない。多分、そのままに集団就職のように都会に出ていったのかと思う。多分、その後にどのような人生があったのかは、分からない。中学校卒業後は、どうだったのかは誰からも聞かない。

今回の小学校の同級会は、あまりにも参加者が少ない。人は自分の経験から考える。それ程小学校の同級生が懐かしいわけではないが、何人かが同級会をやりたいの声を聴き、段取りをした。しかし、多くの者たちは、そう思っていなかった。人生に魅力を感じていないのかと思う。その意味では自分は少し他の者とは異なっているのだろう。

この年齢になり、どうしようもない社会問題に関わっている。近現代史を学び、その不合理に怒りを覚えている。しかし、同世代の者にはそのように感じ考える者は、皆無である。人は生まれながらにして如何生きるかは決まっている。そのように感じている。


  

2025年3月2日日曜日

老い

 笹大輔は、2度の癌手術を経験している。

スキルス性胃癌と大腸癌である。

一度目のスキルス性胃癌の告知は初めての経験から精神的なショックは大きく、その顛末は「命のカウントダウン(笹大輔の闘病記)」に書いた。それはすでに9年前のことだが、実は昨年6月にも大腸癌の手術を行った。以前から良性のポリープがあり、採らなければと思っていたのだが、胃癌摘出後の定期的な血液検査とCT検査をしているので、問題ないかと思っていた。再発を気に留めながらも放置していた。ある時大腸部分に痛みを感じて町病院で見てもらったところ、今思うとシコリによる便秘だったのだと思うが、大腸癌の疑いがあると言われた。

一度目の検査をした結果、大腸癌だが内視鏡でとれるかもしれないとのことで再検査をした。前回の胃癌摘出の影響があり、無難な開腹手術を勧められた。縦長く25cmにもなる開腹手術を二度もするのかと気落ちしたが、仕方ない。担当医の勧めに従った。患者は出鱈目な医者だと心では思っていても、先生の所見に抵抗は出来ない。笹は2度の検査やその対応を見て、以前に受けた獨協大学病院の対応と比較して、かなりいい加減な担当医の姿に、嫌気がさした。セカンドオピニオンとして、病院を変えた。病院の担当医は憤慨していたと思うが、信頼できない思いから仕方ないと思う。

さて、笹大輔は趣味で社交ダンスを行っている。55歳の時にパーティダンスを学びたく、近くのダンス練習所に週二回の頻度で通い、スッカリ上手くなったつもりでいた。実はダンスレベルでは下手でとんでもなかったのだが、ダンス練習所(教室)は、商売であり下手でも関係なくお上手を言い、持ち上げてその気にさせて、商売が成り立っている。今思うと笹は上手に乗せられていたのだが、気づかずにいた。ある時にダンス練習所の毎年行うホテルの周年パーティでプロのデモンストレーションを見て感動した。その美しさを見てもう少し上手くなりたいと思うようになった。それは則ち個人レッスンを意味する。40分の練習で5千円ほどかかるもので、競技ダンスをやる人達が毎週に受けている。それを笹は受けることにした。それからすでに10年がたつ。笹の行っていた仕事が順調だったことが、経済的に功を制した。

今では競技ダンスを行うようになり、パートナーも見つかり、アマチュアながらJDSF(日本スポーツダンス連盟)のスタンダードB級の資格を持っている。B級になってから、コロナ下では、競技会は開催されなかったこともあり、随分と時間が経つ。長年下手ながらもダンス練習を続けていたことから、10ヶ月でB級になった。本格的なダンスのイロハを習ったことはなく、ダンスのテクニックを何も知らずにB級になってしまった感がある。6年も前に先生に教わったことに今になって合点が行く。当時はそのテクニックに納得がゆかず理解できなかった。それが、今になって分かるようになったのだ。不思議な気持ちがする。

ここからが本題に入る。最近の笹は、物忘れが激しい。良い例が携帯電話である。出掛けになると必ずどこにある、探し回る。ちょっとした前の記憶が飛んでいるのである。それが進んだと言えるのが、認知症である。60歳の還暦になった時に自動車の自爆事故が幾度も起こりそれまでの自分の感覚が壊れたのを知った。自動車保険の免責が無くなり、割引率が無くなってしまった。それが少し落ち着いて今は、75歳の後期高齢者になろうとしている。

2025年スーパージャパンカップダンスが、幕張メッセで開催され、それに参加することにした。参加種目は、スーパーシニア・ボールルームと言う。アマチュアが一番参加しやすい競技だが、どうせ見に行くなら参加した方が良いとのことで、ペアとの思い出のダンス歴にしようと参加を決めた。素晴らしい大会に流石にプロというのは、また、日本のトップの競技者たちは、これ程に技量が異なり高いのかと驚いた。東北県勢のナンバーワンが、からっきし通用しないのだ。二日間も見ていてこれ程に中身がある競技会を見られることに極上の贅沢を思った。しかし、その反面とんでもないことが起こっていた。1日目の午後もひと段落したことから、近くのレストランに行くことにした。時間にして3時から4時の1時間であるが、こぎん刺しの財布入れポーチと携帯電話をバラで左手に持ち、出かけたのだが、イベント会場に戻ってみて携帯電話がないことに気が付いた。エッと何度も探したが、見当たらない。その1時間の自分の行動を振り返ってみるのだが、ボンヤリとしていて、思い出せないのである。レストランとトイレ、デイリーヤマザキに寄ったのだが。

良く、認知症の人が、忘れないように冷蔵庫やいろんなところにやるべきことを書いて貼り付けると聞くが、ちょっと前の記憶が思い出せないのである。これが、ボケ(呆け)であると確信した。ペアからは散々に小言を言われた。「ダンスに通販のビジネス、歴史塾(近現代史の歴史勉強会)の3つを掛け持ちし、殆どどうしようもない状態にあるのではないの。」家のこと、娘夫婦のこと、勿論先の述べた3つのことが上手くゆかずに家庭も問題を抱えている。「二進も三進もゆかない状態で、何を他人事の歴史塾を行っているのか」と。「75歳を過ぎたら人のことなど構わずに終活に入りなさい」と。

流石にこのことは、笹には堪えた。携帯電話は、22万円もするもので、4年かかり返済する金額物、それが紛失した。その後になり、それを受け取った者が携帯を開いて見ていることが分かり、戻らないだろうと確信するに至った。幸い翌日になり、最寄りの交番に紛失届を行った。また、携帯電話のキャリアのサポートセンターに連絡を取り、携帯電話を止めてもらい、紛失届の保険に入っていたところから、明日には、同型の機種が届く段取りが出来た。不幸中の幸いである。この度のボケ(呆け)が、明らかになったことで、良い経験をしたと思っている。

「老い」は必ずある。あるいは来る。いろいろな食や生活様式から、それを遅らせることは出来るかもしれないが、それを避けることは出来ない。私はそれを認め受け容れようと思う。明日から「老い」を認め、生活しようと思う。