2020年5月31日日曜日

浅草

昨日のテレビ番組で浅草を取り上げていた。
浅草に所縁のあるタレントが、浅草の名のある老舗やかつての風物を紹介していた。
今は、浅草のシンボルともいえる雷門の大提灯が、修理のために外されている。仲見世や雷おこしの店に思い出がある。まだ浅草の場所も知らない頃に、山中湖のテニス合宿の後で、一緒だった三ノ輪の友人宅をもう一人の友と訪ねたことがある。映画俳優でも通用するようなスマートで日本人離れした彼は、老舗の帽子工場の御曹司だった。その時に紹介されたのが、雷おこしのお店だった。そこの二階の食堂で彼が美味しいとお薦めのかつ丼を頂戴した。私には、その光景も彼らの顔も懐かしい。
浅草に住んだのは学生の時で、2年間休学して行った海外旅行から戻ってからである。
休学する前は、江東区の扇橋の団地に住んでいた。日本社会党の浅沼稲次郎は、誰しもが知っていると思うが、彼が長年住んでいた団地が隣の棟だった。私の12、3歳程歳の離れた従妹夫婦が長年住んでおり、その同じ棟に母の京都の叔母の棲んでいた空き部屋であり、そこに1年住みました。母は、いつも山科の叔母さんと言い、とても可愛がられていたことを話していた。
便が悪く錦糸町駅から30分ほど歩いた。小さなふるい改札口が印象的で、出ると直ぐに交差点を渡り、速足で歩いた。30分は、結構な距離になり、家に着くころには、汗がにじんでいた。時折、錦糸町ではなく両国に出ることもあった。時間的には少し遠く、駅へ続く道はなく、遠回りになりジグザグに歩いた。
旅先で日本に戻ったら浅草に住もうと考えていた。
浅草は、江戸時代の情緒を残し伝統行事の祭や大正昭和初期の歓楽街だった街だ。
海外旅行の旅先で出会う人達は、彼等の知っていることを尋ねてくるが、殆ど日本のことは知らなかった。私達は、中学や高校である程度の世界の知識を学ぶので、まして旅行に行くにあたっては、旅先の知識を持っている。彼らの話す日本は、自分が理解している日本とギャップがあった。
ヨーロッパの街では、必ず博物館や美術館を訪ねた。
決まって東洋のコーナーがあり、中国の文物と並んで、日本の浮世絵や書が一角を占めていた。江戸元禄時代や庶民の生活も紹介されていた。
それは、日本を外から見る機会になり、ふだん知らない日本の歴史と文化に触れることになり、驚いた。それらから、日本の伝統文化に関心を持った。
浅草は、それらの文化を色濃く残していると思われた。
それまで浅草を訪ねたことは一二度あるが、殆ど知らなかった。
浅草の通り沿いにある不動産会社で安アパートを探し希望に沿う物件を見つけた。事務所の小さな窓に物件のチラシが一面に貼ってある、それらしい不動産会社。
確か1カ月6,500円で、2カ月の敷金で銀座線田原町駅を出てすぐ後ろだった。家賃が安いことと、地下鉄の駅が近いことが魅力だった。
金龍寺というお寺の3階建てのアパート。
見るからに古い木造建で、3階に物干し台があり、トイレと洗面所が共同だった。
1階入口から直ぐに階段を上がり2階に3室だけあり、一番奥の左がそうだった。
部屋には、ガスこん炉がひとつに石のシンクがあり蛇口がひとつだった。まな板を使うスペースは殆どなく、これが浅草らしいアパートと思われて、自分は満足した。
4畳半一間で一間の窓が南と西に向いてあった。
西陽が当たり、夏には、汗が噴き出るように暑くなる。その窓の下には、お寺のお墓が広がっていた。小さく区画され、お墓と塔婆がいくつも並んでいた。お花が活けてあり、供物が並んでいた。
1階は、町工場になっており、古くからの栃木県馬頭町出身のご家族が住んでいた。
時折に挨拶を交わすぐらいだったが、田舎出らしい素朴な人柄のご家族だったように思う。最初のご挨拶でご夫婦の優しい笑顔と言葉が印象に残っている。
浅草に住み始めたのは秋の頃だった。
アルバイトは、旅行前に勤めていた築地場外の魚の切売の店辻孝だった。
大学は、都合8年間在籍していた。8年間と紹介すると誰しもが驚くが、最初の4年間は、農学部の農芸化学科だった。
校舎は、多摩川を渡ってすぐの生田にあり、私は応用微生物を専攻していた。そこは、田舎出身の私には、緑が多くちょうど良かったのかも知れない。歩いて、20分ほどの所に下宿し学生生活を楽しんだ。下宿と言っても、食事は付かずに自炊が出来る内容だった。倹約化の自分は、外食ではなく自炊をした。テニス同好会に籍を置き、殆ど毎日のように京王線の明大前駅にある和泉校舎の練習に通った。そして、卒業後は、学士入学で政治経済学部の経済課に編入した。お茶の水にある本校舎になる。
ピーターパン症候群という言葉があるが、自分は将にそれで、就職する気がなかった。
何の仕事についたら良いかが分からなかった。
それで安易な2年間の学士入学を選んだ。しかし、編入と同時に1年間の海外旅行を計画した。1年後に休学し海外旅行にでた。
五木寛之の「海を見ていたジョニー」や「1日5ドルの海外旅行」のペーパーバックに影響を受けた。バックパッカーのひとり旅を予定した。
1年後の5月に横浜の埠頭から旅に出た。
旅に出るまでの顛末は、前稿の「キャバレーチャイナタウン」に記した。
無事にヨーロッパへの世界旅行を実現できたが、1年休学の予定が、2年間になってしまった。
旅先で戻る飛行機の費用が足りなくなり、働かざるを得なかったからだ。
旅先の情報でスイスには、日本人の学生にも斡旋してくれる職安があると聞いた。
当時スイスでは、日本人の学生は働くことができ、職安で仕事を紹介してくれた。その職場は、アウトバーン近くのビジネスホテルで、ホテルリンデと言った。リンデとは、菩提樹の意である。
3か月を働いた。
2年間の海外旅行では、写真も随分と撮り日記もつけ、ノートは三冊になった。
一時ヨーロッパでは、趣味のスケッチを描いた。
旅先のポーランドで買い求めたスケッチ帳だが、三冊になった。
2年間の旅は、こうして見ると膨大な時間だ。 
それから、もう1年を履修した。
アルバイトの築地場外の切売り店辻孝は、始発の地下鉄で通った。
そして、午後は明るい内に戻った。
その内に八王子の市場に築地から2屯トラックで魚を運んだ。
その頃になると夕方に寝て、朝3時起きになった。
トラックで築地と八王子間を行き来し、終わるとそのままトラックで浅草のアパートに戻った。
その内に日本橋に勤めていた妻が仕事の帰りに寄るようになり、やがて同居するようになった。
同棲だが、同居すると直ぐに結婚を決め入籍した。
母は私には勿体ない嫁だと喜んでいた。
埼玉の花園IC近くの大きな農家の末っ子娘で学生時はドイツ文学を専攻していた。扇橋の従妹ご夫婦に仲人を頼み、妻の実家のご挨拶に伺った。
その年の秋に結婚式を挙げた。
妻は、2年間の旅行中にベニスで出会った。
ベニスから、少し離れたところにベネティアングラスで有名なムラーノ島があり、そこのユースホステルに宿泊することにした。ベニスから水上バスで埠頭に付くと、日本人が4人位屯していた。その中に妻は居た。
ヨーロッパに入り数カ月した頃だった。
ひとり旅で白の大きなトランクを一つ持ち、アフガンコートに手編みの青と白、茶の横縞のセーターを着ていた。かなり疲れた印象だった。荷物を持ってあげて、ピサの斜塔を一緒に旅した。疲れていたからだろうか、数週間を一緒に旅をした。
その後滞在先のデュッセルドルフに戻って行った。ドイツ文学が専攻だったことから、寮に住み憧れの街だったようだ。一度私の働いているスイスのホテルに尋ねてきた。
それは、インターラーケンにあった。
支配人婦人が喜び顔で日本人の女性が会いに来たと声かけてくれた。
驚いて出迎えるとそこには笑顔の彼女がベニスで出会った同じアフガンコートに手編みのセーター姿でいた。支配人夫人は、私に一緒に過ごす時間をくれた。
一緒にその村の道を散歩した。牧草畑にラッパ水仙が至る所に咲き誇り、こじんまりとした家が、散在していた。
彼女は、午後の時間をゆっくりと過ごし戻っていった。
支配人ご夫妻に3人の調理人、フロントには、妙齢の女性スタッフのいるホテルだった。
皆気持ちの良い地元の人たちだった。
その後妻は、ドイツから一足先に日本に戻ったが、私は、更に1年をヨーロッパから、イスタンブールを経て、中近東をゆっくり廻りアフガニスタン、インド、タイ、香港を経て、日本に戻った。
私は日本に戻り少し経ち妻と再会した。
私は、新学期が始まるまでの間、実家の家にいた。
祖父兼次郎が、仕事場にいる私に、若い娘が私に会いに来たと喜んで伝えた。
古い築90年の造りの家に彼女は待っていた。 何を話したか、思い出せないが、きっと、大学に戻りどうこうするの話をしたのかと思う。
浅草に出た私の生活は、二人で始まった。
二人の生活は、かぐや姫の神田川の世界だった。
アパートからは、通りを挟んで銭湯があり、二人で通った。小さな交差点を渡ると商店街があり、小さな商店が賑やかに左右に並んでいた。渡って銭湯は少し先にあった。私は、烏の行水なので、先に出て妻を待つことが多かった。
4畳半一間のアパートでの生活は、ほんとうに何もない歌のようだった。
妻が料理したが、生田の大学4年間の自炊生活の私も料理した。料理は、限られていたが、野菜炒め、カレー、スパゲッティが、得意だった。
買い出しは、スーパー三平だった。
数年前まで三平は人気のレストランだった。そのレストランは、テニス同好会の何かの催しの折に利用した記憶がある。女子達の話題に上った人気のレストランだったように思う。
私が住みついた時は、スーパー三平になっていた。
国際劇場は、まだ営業していた。
チケット売り場には受付の女性がいたが、私の生活ではレビューの立看板を覗き見するぐらいで、観賞することはなかった。
浅草の歓楽街の時代を象徴する国劇は、暫くして惜しまれながら閉鎖した。
それから田舎に戻り、数年後に那須のホテル会社に勤めた。その会社が国劇を買取り跡地にホテルを建てた。当時でも浅草の地に28階建てホテルは、イケイケバンバンの話題のホテルになった。ホテルをバックに浅草浅草寺のポスターを書面や銀座線の吊り広告や各駅に見かけた。
私と浅草の因縁だろう。 
ある時の夏祭りでは、二人で浴衣で参加した。私は、母の仕立てた白地に黒い模様が柄となった浴衣に黒の角帯と桐下駄を履いた。妻は、紺色に椿柄の浴衣だった。
仁丹堂の建物の向いの雷門通りが歩行者天国となり、大きな長い輪になり踊っていた。妻は、その時はすでにお腹に子を持ちあまり乗り気ではなかった。
妻は参加しなかったが、私はその踊りに加わり東京音頭を見様見真似で踊った。
直に外れて、近くの喫茶店で抹茶アイスクリームを食べたことを覚えている。
時折仲見世にゆき浅草寺に遊んだ。
一緒に食事する機会は少なかったが格好の散策路だった。 
大学に戻ってからは、勤め先を築地場外からアパートのすぐ裏になる喫茶店に替えた。
喫茶店は、純喫茶寿。
早番と遅番の時間があったが、駿河台の大学の授業にあわせて変則で勤めることができた。
卒論もなんとか提出でき卒業することができた。
田原町駅の目の前で、サラリーマンの立寄り場所で客足の多い店だった。
そこでは、フロアとカウンターとを見た。
喫茶メニューは、そこで覚えた。
プリンやスパゲッティ、サンドイッチ、ドリップ式のコーヒー落としなどだが、その後のホテル就職の呼び水だったのかも知れない。
接客業の前哨戦だった。 
私達は、そこで双子の娘に恵まれた。
大学卒業の3月初めに産み月になる。
ゼミの仲間たちは、双子の娘用にベビーチェアを贈ってくれた。
お腹が大きくなると悪阻(つわり)から、調理は殆ど私がしたが、妻はあまり食べられずに大変だったと思う。予定日よりも数日速く産気づき、夕方から翌朝迄かかったが安産だった。
病院の看護婦さんの指示に従い、陣痛の間隔が短くなってからで、タクシーを拾い病院に入ったのは夕方だった。
男が居てもどうしようもない。
生まれるのはまだまだ先の翌朝になると聞いて、数時間を付き添っていたが、アパートに戻った。
途中、浅草寺に母子の安全をお願いした。
もう遅い時間で11時を回り、境内には人っ子一人いなかった。
風の強い日で背中から吹いた。
父親になる不安と決意を胸に仲見世を一人歩いてアパートに戻った。
次の朝病院に行くと「女のお子さんですよ。」と看護婦さんから聞いた。
二卵性双生児。
安産で、妻のホッとした顔が緩み、微笑みが菩薩のようで印象的だった。
大役を果たした喜びで輝いていた。
名前は、妻がつけたが、良い名だったと思う。
生まれるとすぐに妻の母が介護に来てくれた。
1カ月近くはいたろうか。
4畳半に3人で寝た。
後で義母の語るには、何もない四畳半一間の小さな部屋に小さな台所と押入れがあるだけで、大きな農家に生活する義母には笑い話になったようだ。
それは、妻の姉達から聞いた。
私は、アルバイトがあり日中は不在だった。
長女は未熟児で生まれ、手元には1カ月近く遅れて来た。
二人とも押し入れに上下で寝かせていた記憶がある。
東京に住む小学校時代の同級生が数人でお見舞いに来てくれ、それを見て笑っていた。
ひと段落した頃に田舎に引っ越した。 
浅草での思い出は、尽きない。
ちょうど1年一寸の期間だったが、青春の一頁と言えるだろう。
妻と生活し子どもに恵まれたが、大学とアルバイトで将来の夢を持つではなく過ごした。
アルバイト程度の仕事で貧しかったことから、派手な思い出はないが、それが私達夫婦の過ごした時間だ。
妻と懐かしく語ることはないが、今の生活と比べると何という時間を過ごしたのかと思う。
後に長女が東京に勤めてから、浅草の行きつけの居酒屋で飲み、国劇跡の自社ホテルに泊まった。
その頃に娘は、私の勤めた築地の脇に立つビルに勤めていた。その当時は、運河になっていたところで、埋め立てて大きなビルが建っていた。
仕事に揉まれ一丁前になった娘の話を聞いて、嬉しく思った。
浅草も築地も私の思い出の地だ。
那須のホテルに勤めて30年が過ぎたが、その間に幾度も本社の浅草に尋ねた。
浅草は、自分には縁ある地になる。
喜びも悲しみも無尽に詰まった街だ。

2020年5月30日土曜日

美田

 
「美田」という言葉には、悲しい響きがある。
この言葉は、大学の農業経済ゼミの大木先生から聞いた。
埼玉県のその名は忘れたが町村合併前の村に住み、「明治大学の教授では、僕が唯一村住まいだ。」と得意げに話していた。
その先生から、「美田」の言葉を聞いた。
素晴らしい「美田」が、農業政策により失われてゆく話をされた。
それからは美しい田圃をみると先生の「美田」の言葉を思い出した。 
私の住む家の近くに7、8丁歩はあるだろうか、10数枚ほどの水田がある。
大型機械を使い代々の米作農家だ。
大きな敷地に家を構え、大きな石塀を回していた。
家の裏は、鬱蒼とした大きな欅と杉が囲み、那須連山からの吹き下ろしを防いでいた。
私の知る米農家は、春先に肥やしを撒いて耕し荒くれ掻きをして苗を植える。
しかし、その家は、化成肥料だけで有機肥料の肥しを使わない。
荒くれ掻きも田植えも1、2週間で終わってしまう。
途中の田の草取りも除草剤を撒くことでおこない、秋には、コンバインで稲刈りが数日で終わる。
私の知るかつての農業ではなかった。
これが、近代農業なのだろうか。
私の知るこの「美田」は、私が今の家に引っ越してきてからずーと見てきた。
年により、生育も異なり台風により倒れたり、稲穂のつき方も違っていた。
近くを通るたびに稲の育ちや雑草、そして夏の穂先の花芽の付きかたが気になった。
テレビで米作況指数がでるとこの田圃の稲穂を見比べた。
今年で20年を超えるだろうか。
その間、農作業でその老夫婦の姿以外に若い人達を見たことはない。
息子を見たことはなく、その家の嫁と思われる女性の犬を連れた散歩姿位だろうか。
私が、今の家に引っ越して来た当時元気だった老夫婦は、今では随分と歳老いた。 
今年は、少し景色が変わった。
コロナウィルス禍で賑わっていたので、あまり気にしなかったのだが。
GWの前にはいつも農作業が始まるのだが、田圃の中に篠竹が2本2mほど離れて立ち、ピンクの紐が結ばれていた。
道路脇の田圃の2、3枚だが、どうしたのだろうか。
妻から、20軒ほどの団地ができる話を聞いた。
昨年、近くのやはり大きな田圃が、突然に建売団地に変わったのを見て驚いた。
そう言えば、数年前に他にも大規模の建売団地の開発を見た。
都市計画の住宅地区なのだろう。
長年続けた農業も後継者がなく、そして相続と同時に相続税で農業を止めざるを得ない。
それが、都市計画区域だ。
あちらこちらに立つ真新しいアパートは少し経つと空きができる。
また、造成50年近い一戸建ての団地は、今では住む人がなくなり、家も取り壊され空き地となって点在している。
少子高齢化社会となり、虫食い状態がこれからも更に増えるだろう。 
休耕地政策。
驚くほどの愚策がなされた。
農業経済学を専攻した自分は、戦前戦後と高度成長期の農業政策の歴史を学んだ。
農業に関わる人々の農協と自民党の権力や利権と癒着した政策だ。
私は、そのことを今は語る気はないが、恐ろしく愚かな政策だと思う。
これが、日本の政治、農業政策だ。 
日本の近代史は農村社会抜きには語れない。
景況により農村部は、労働力のプールとなった。
貧しい最下層の人々の受皿であり、労働力の供給地となっていた。
景気が良くなると農村から労働力を供給し、不景気から仕事がなくなると農村にもどりその人々の受皿となる。
満州もハワイも南米移住もそのひとつである。
その歴史は、私には悲しい。
戦後の日本経済の発展は、構造改善事業により嘗て見たことのない「美田」を生み出したはずだが、その「美田」がなくなって久しい。
秋田県の八郎潟を見ると良い。
私の叔母の嫁いだ先の親戚が、15ヘクタール農業という八郎潟の干拓地に入植したが、その後20年も過ぎた頃の政府の休耕地政策で農業を止めた。 
自分の家は村でも有数の米供出農家だったが、父の事業の失敗から破産し何もなくなった。
当時、米百俵を供出できる農家は、那須町でも数えるほどだった。
祖父兼次郎の口から、米百俵の話は、よく聞いた。
小作から、村有数の農家になったことが自慢であり、感慨深い思い出だったと思う。
燕の舞う初夏の田植えから秋の黄金色の稲穂の美しい風景、家族総出の刈り取りと笹掛があり、冬から春の雪の降った田圃の稲株と里山の透き通った風景は、瞼に焼き付いている。
これが私の農村の原風景だ。
それが、荒れ地となって久しい。
何もなく随分と長い間放置されていたが、最近太陽光発電が設置されて、昔の面影は無くなりグロテスクな姿となった。
「美田」には、貧しい頃の憧れの田圃の光景と愚かな政策から休耕地となった表と裏の姿が伴う。
私の「美田」には、悲しい響きがある。
 
 
 
 
 

2020年5月28日木曜日

叔父のひやし針

先に中学生の頃の思い出の「火振り漁」の手記を書いたが、書きながら叔父正男のことを思い出していた。

同じ頃になるが、叔父は盆に戻ると、決まって「ひやし針」掛けに出かけていた。

ひやし針は、子どもの頃のその地方の鰻漁で、川や堀の鰻の棲み付いた巣の近くに釣り針をひやし、翌朝に掛かった鰻を引き上げる漁である。まず鰻の巣を見つけるのがコツで、当時は夕方に20本位をかけて、一晩で5匹から10匹を捕ることが出来た。鰻用の釣り針14号位を凧糸でくくって作る。糸の端を竹の棒に結び、堀の土手に刺して仕掛ける。餌は、生きた泥鰌が最適で他には、太いミミズを使う。

家の前を合川(ごうがわ)が流れていた。合川は、川幅は、家の前あたりで2間位、川上は10kmほど奥だった。山奥に一雨あると直ぐに水嵩が増えた。台風の時は、合川が氾濫して家の前の田圃が流水で水浸しになる。一帯が濁流に覆われ田圃も道路も埋没した。水が引いた後は稲が一面になぎ倒され、所々に土砂が覆われて凄いものだった。

その合川に大堰がある。その大堰は、誰の代に造ったのだろうか。

私の家は、江戸時代の終わりの頃に越中富山の砺波平野から移住し兄の代で7代目になる。

砺波地方では、藤四郎が代々の名で苗字があり足軽位の身分だったと聞く。

祖々母のキンからは誰が作ったと聞いた記憶はない。小学生の頃は、祖祖母の布団で脇に寝て、寝物語で昔の話をよく聞いた。寒い冬には、子どもは湯たんぽ代わりだった。我が家は浄土真宗で、寺請けでこの地に移住したと聞く。両郷にあるお寺に残る過去帳では、与左衛門が、初代のようだ。子がなかったのだろうか、同じ砺波から、細川家と加藤家の子を夫婦にして後継にしたようだ。そして、その夫婦の子が、仁太郎なのだろうと思う。仁太郎は三代目になる。

仁太郎、娘の初(婿の音松)、兼次郎、父實そして、兄新一。

大堰は、田圃に水を引くための堰だが、見た目にも大きな造りで大掛かりな工事だったろうと思う。村中の人達の手を借り、畚(もっこ)を担いで土や石を運び、数カ月も掛かるような、と想像する。

水量の少ない農閑期の冬にやったのだろう。

大堰は落差があり、上流の川床に大きな石を敷き詰めて堰にし大きく湾曲して1間半も滝のように降下する。

大堰の下流は、抉れてプールのように淀んでいた。削られないように土手岸も四角の黒くなった石が積まれていた。向こう岸は、篠笹が生えてその下は抉れていた。鯉やハヤの魚影も見られ格好の釣り場になった。夏には、近所の子どもたちが毎日のように水浴びに集まった。年長者がよく積み石の上から、飛び込みをした。深く流れのある水中に飛び込むのは、なかなか勇気が必要で、高学年でないと出来なかった。抉れた淀みに潜り、水眼鏡もかけずに魚を追いまわした。川底は、砂地になり、立つと砂が散らばり、裸足が心地よかった。手を伸ばして立っても水面には届かない。

その大堰から田圃への掘に水を引き込む。

堀の傍に広さにして五畝(5アール)ほどの遊水池があり葦(よし)が群生していた。

そこには、良く軽鴨や五位鷺が来ていて、ホオジロやセキレイの小鳥もいて葦の穂先に留まり囀っていた。いろいろなトンボや蜘蛛、水澄まし、水中には、もちろんゲンゴロウやタガメの驚くほどの種類の昆虫がいた。黄と黒のグラデーションの腹を持つ大きな蜘蛛が巣を張り、その巣の真ん中にいる蜘蛛が神々しく映った。

堀の脇の土手は、かなりの土が盛られ土手道はリヤカーが通れるようになっていた。リヤカーは、農家のどこにでもある便利な人力の運搬車である。幅が80cm一寸、長さが130cm位、荷台の高さが50cm位、径が70cm位の二輪の運搬車で、肥しや土を運ぶには、格好の運搬具だった。子どもの頃に父や母がリヤカーに肥やしを積んで田圃に運ぶのを手伝った。

当時は、肥料舎で堆肥を作っていた。それを春になると稲株の残る田圃に運びフォークを使い撒いた。

この堀は、我が家の前を横切っていた。

直径1m程の土管を敷いて土管から出た処で水の流れを堰き止め洗濯や泥の付いた大根、里芋などの野菜洗いに使っていた。稲藁の束子が大根洗いには丁度よく、里芋の泥落としは松の木の根っこから造ったイモ洗い棒を使った。樽桶に里芋を入れ、堀からの水をバケツで加えながら、松の木のイモ洗い棒で搔きまわす。面白いように泥と皮髭がとれた。

大切な田圃に水をひく堀であり生活用水の堀でもあった。

先人の知恵だ。

その地は膳棚という5軒ほどの集落で、大きくは稲沢という30軒ほどの古くからの農村集落だった。近くには、黒川を渡った隣部落になるが、那須与一伝説の高館山の居城跡があった。この部落で富山からの農家は、我が家と分家(新宅)だけだった。そして、富山地方の農家の遣り方を踏襲していた。いろいろな農具も富山地方に伝わるもので、他の農家とは違い独特だった。

村人総出で行う屋根の葺き替えや田植えを「結い」で行い、大切な部落の生活の知恵だったと思う。結とは労働力を対等に交換しあって田植え、稲刈りなど農の営みや住居など生活の営みを維持していくための共同作業である。「結い返し」の言葉は、母や祖母の会話に良く出てきた。幾つもの組が作られていて、我が家の組は、膳棚、町田、矢組が一つで、16軒ほどになる。大体は組内で行っていたが、それでも足りない時は、隣町の越堀から頼んでいた。越堀は奥羽街道にある鍋掛と芦野の間にある有名な宿駅だったという。

田圃は、2丁歩ほどあった。この堀の所々にある小さな堰は、堀から田圃に水を引くために堰き止めたものだ。堰の下は、小さく抉れて淵になって小魚が沢山見られた。泥鰌や砂はぎ、ギンギョ、油雑魚、はやの子どもなどが、面白いように見られた。時々、肥え笊ですくって、捕ることもできた。

決まって、鰻はそこに巣をつくる。

ひやし針は、そこに掛ける。

時折、鰻がその巣穴から顔を出してじっとしているのが見えた。

他には、田圃の源口、水の落とし口でも掛った。ひと夏だけの田圃でも鰻は巣をつくるのだろうか。あるいは、そこに集まる小魚を目当てに出てきて掛かるのかもしれない。

また、鰻は夏の茹だるような日には、夜に水を張った田圃の水面で涼んでいる。

月の明るい夜は、その鰻を容易に捕まえられた。ある時、父から、「行ってみろ、今夜は捕まえられるぞ。」と教えられた。

 

叔父は、私よりちょうど12歳年上になる。

私達兄弟姉妹は、正男兄ちゃんと言い叔父に懐いていた。

一番末の叔母と正男叔父は、兄や私と年齢が近く中学校や高校に自転車で通う姿を見ていた。

叔母は中学を卒業すると東京の洋装店に縫子として勤めた。

集団就職だ。

頭は良かったが、農村ではまだ女性は進学させなかった。

叔父は高校を卒業し東京に就職した。

今思うに就職してからの叔父は、いくつもの仕事を転々としていたようだ。

競馬場に厩舎を持っていた大叔父の縁故で、競走馬の輸送運転手だったことがある。一度、大きな競走馬運送のトラックで来たのには、驚いた。

大体がタクシーの運転手だった。

タクシー会社もいくつも変わった。

少し小柄だが、中学や高校では、喧嘩っ早く祖父母は、いつも心配していたように思う。

当時農村では高校に進学する家の子は少なかったと思う。叔父は進学し勉強のできは、良かったようだ。

明治生まれの大叔父は、地元の中学校を出て更に東京の鉄道省の学校に行き優秀だった。

学業を大切にしたのは、祖父の考えだったと思う。

祖々父は実直な人だったと聞くがその兄弟は、どの方も学業に優秀だったようだ。

祖父は、伊王野村の村会議員になり議長も務めた。

私が思いもしなかった大学進学も祖父が薦めてくれた。

大叔父も祖父も美しい書を書き運動も成績はよかった。

正男叔父の楷書を見たことがあるが、確りとした書だった。

DNAだと思う。

祖母のヨシは、白寿で大往生だったが、正男はそれから数年後に逝った。

晩年まで祖母は、正男のことを心配していた。

祖母は、遅れていた正男の結婚にはとても喜んでいた。

結婚式は挙げなかったが、男の子どもに恵まれて安心したと思う。

その後の正男の離婚のことは祖母には伏せた。

お盆と正月には、必ず戻って来た。

私達には自動車が珍しく自動車で戻る叔父が格好良く眩しかった。

来ると聞くとそれまでの日が、楽しみだった。

学校から戻ると祖母や母に勇んで、「正夫兄ちゃんは、来た。」と聞いた。

数日を過ごして戻るのだが、13日の迎え盆は、家でゆっくりしていた。

大叔父の家族や叔母達も集まり親戚縁者で20人近くになる。

薄暗くなった草道をめいめいに花や提灯等を持ち墓参りとなる。

 

お墓は萱野にあり、途中の道脇のススキの中でキリギリスや馬追が賑やかに囀り、近づくと一時静かになった。

浴衣を嬉しく着た妹や東京言葉を真似て話すよそ行きの自分がいた。

女性は、食事の用意をしてから遅れて行き、その後から宴に加わった。

親戚の従妹たちも大勢来ていたので、楽しい宴会になる。

戦前東京の子供たちは、10歳位だったが、揃って疎開していた。

彼等は、叔父や叔母達と兄弟姉妹のようにして育った。

正男叔父は、その中では兄貴分なので、従妹を周りに集めて夜遅くまで飲んでいた。

それが、身ひとつで東京に出た人間の楽しみだったのかと思う。

翌日は、街で飲むのではなく田舎の同級生宅に飲みに出かけていた。

飲める口だが、悪い飲み方を見たことはない。

随分と飲んだが最後まで崩れずに紳士だった。

祖父兼次郎は飲むと必ず詠い踊りも披露した。十八番は、黒田節で謡いながら、器用に踊った。何処で覚えたのだろうか。

叔父は、兄や私を大事に扱ってくれた。

貶すことも無く仕事のことや兄の起業した事業のことを聞いてくれた。

父や母にも無体な言葉を聞くことは無かった。

私の知る兼次郎のそして、我が家の家風だと思う。

叔父は、間違ったことが嫌いで喧嘩っ早かったが、偉振ることも無く人の話をよく聞いていた。

そんなことから、男気が強く会社との交渉役に押されたという。

それも職場を転々とした理由のひとつのようだ。

叔父の生き方を見るとその一本気な性格が見えてくる。

 

夕方に掛けるひやし針だが、捕れた話は殆ど聞かなかった。

ひやし針は、金具屋で求める何号かの鰻用の釣針に凧糸を結わえ捩り50cm程の長さにする。

端を竹に結び土手に刺すようにする。

餌は、太いミミズや泥鰌を使う。

泥鰌のほうが、生きが良くて掛かりが良かった。

私の子供の頃は、合川から水を引き込むその堀もあってひやし針は、随分と捕れた。

掛かったときは、糸が鰻の巣の中に引き込まれ直ぐに分かった。

鰻が、これでもかと凧糸に絡まっていた。

その内に耕地整理がなされて鰻のいる堀や所々の堰が無くなり捕れなくなった。

叔父はそれでも来る度にひやし針を掛けに出かけていた。

その頃は、堀ではなく前の合川にも掛けていた。

私の朝の台所が、心を覗く無心になれる時間のように

きっとひやし針を掛ける時が、叔父の心落ち着く時間だったのかと思う。

仕事の大変さは、誰しもが体験する。

正月や盆に戻り祖父母や従妹達と過ごし、友と語る時間は叔父の宝物だったと思う。

そして、夕方に掛け朝方に挙げに行くひやし針の時間も。

その叔父が逝き10年が経つ。

火振り漁とおなじく、ひやし針も今は聞くことはない。

耕地整理されたコンクリートの堀と何もない広がりの田圃からは、想像だに出来ない。

かつて、ひやし針で鰻が取れたことなど。

2020年5月25日月曜日

キャバレーチャイナタウン

チャイナタウンは、忘れられない響きがある。
学生時代の思い出深いアルバイト先だ。
新宿西口の小田急ビルの隣に多分6階だったと思うが、グランドキャバレーチャイナタウンがあった。ビルの最上階に横に長い大きな看板が付いていて新宿西口に出ると誰しもが目にしていた。
私たちスタッフは、5階が事務所で駅から続く地上階からエレベーターで昇り降りした。暫くして階段で行くことが出来ることが分かり、途中階にステーキ店やスーパーがあることも知った。
仲間からオーナーが福井県の代議士だと聞いた。
大学2年の時だと思うが、どのような経路でキャバレーに勤めたかは、記憶が定かではない。
思い出を辿るとマルクス経済学者大内力の資本論の勉強会になる。
勉強会で同郷の高校の友人が、新宿西口のクインビーという喫茶店に勤めていたからと思う。そこで、新宿駅近くのキャバレーで働ける情報を得て、キャバレーチャイナタウンを尋ねた。学生ながら、化粧香のする大人の職場に憧れていたのかもしれない。
キャバレーの面接で保証人が必要になり、迷った挙句当時南武線の中野島に住んでいた大叔父に保証人を頼んだ。
大叔父は、明治45年生まれで長年三共製薬会社に勤め、5人の子どもを大学に出していた。当時鉄道省の学校を出た優秀な方で、いつも東大出の何もできない若造が、直ぐに出世していくのを話していた。実直な方で学生がキャバレーでアルバイトをするなど言語道断だった。電話で保証人を依頼したと思うが、保証人のいるような職場は駄目だと断られた。
実家の母や叔父に話したら、大叔父さんの言うことだから仕方ないと言われた。
諦めて事務所に勤められない旨を話したら、その場にいたアルバイトを使うフロア主任の方が保証人を買って出てくれ、勤めることができた。
面倒見の良い優しい方だったが、同僚のボーイから、お姉言葉の彼は、ホモじゃないかと言われていた。水商売は、男らしい怖そうな人もいるが、総じてお姉言葉を使う人が多い。
私は、その方からボーイのいろはを教わった。これがその後にホテルに勤める要因になった。
日給が、多分2,500円か3,000円位だったかもしれない。
当時喫茶店の時給が180円だった。
フロアは、テーブル番号があり、小テーブルやL字やコの字形もあり100番を超えていた。まず、フロアの見取り図で、番号を暗記した。客席は多く、200人位は入れたのだろう。客として来たことはないのだが、エレベーターで6階を降りると踊り場があり、電飾ネオンで縁取った四角い枠のドアから、入るようになっていた。入るとそこに経理の方がいて、受付をしていた。お客様が全員引けるといつもカウンターのバーテンダーたちに「お疲れ様」の挨拶をしていた。水商売は、出社すると「お早うございます。」退社するときは「お疲れ様」が、定番の挨拶である。
バンドも2バンド編成で、途中にショーが2回程ありそれぞれ2部構成だった。
ショーは漫才や歌手だったりだが、一時テレビでよく見た有名な歌手も時折に見かけた。ショーのひとつは必ずヌードショーが入った。乳首や股間は小さな布で隠していたが、女性の一糸纏わぬ奇麗な裸体は、初めて見る私には驚きだった。この仕事の長い先輩は見慣れているのだろう、胸や背中の線から年増だと言っていた。
ボーイ達も随分といて、主任の元に二人のキャプテンがおりいろいろと教えてくれた。
今でも名前を憶えている。
二人ともハンサムな方で、一人は若く青山学院の学生で自分はこの方についた。もう一人は、少し年配の優男でホステスと同棲しているという。ジョージチャッキリスに似ており、噂話では、遊び人ではなくホステス達に優しく仲間のボーイ達に信頼のある方だった。
メニューとテーブル番号、そして、立ち方やサービスの仕方、ホステスのマッチを擦って呼ぶ合図などを教わった。暗闇の中で客に付いたホステスの動きを常に注意して待機する。前足に体重をかけて、直ぐに一歩がでるようにして立った。
おしぼりやお手元、グラス、オーダーなどの手の合図を遠目で見て駆けつける。彼女たちは、暗闇の中でマッチを擦り一瞬かざしてそのことを知らせた。テーブルに着いた時には、それらの合図されたものを持って行かなければならない。
私は、向いていたのだろう。
直ぐにメニューもテーブル番号も覚えて、一人前になった。

デシャップ台には、ベテランの叔母さん達が二人いた。
デシャップは、下げ膳の係になる。ボーイが下げてくるグラスや灰皿、オードブル皿などを洗いかたしていた。
初めて赤のボーイコートを着て挨拶に行ったら、口を揃えて似合っていると褒められた。
お愛想なのだが、すべてが初めての世界で不安だった自分は、安心したのを覚えている。
カウンターには、お摘まみと飲み物を出す人達がいた。
調理とドリンクのチーフが、しっかりと部署をまとめていた。
みな真面目で、新人の私に優しく丁寧にオーダーの通し方や受取り方を教えてくれた。
カウンターは、左側通行で、声掛け励行などボーイ同士がぶつからない為のルールがある。
新人には、呑み込みの悪い田舎出で訛りのある若者も何人かいたが、辛抱強く教えていた。
時折、カウンターに怒鳴られて、言い返す若者がいたが、バーテンダー達は、怒らずに聞いていた。教育のことから、キャバレーでも確りとした企業の印象を受けた。私も当初は何回か間違えたが、怒鳴られることもなく直ぐに覚えた。

事務所では、ホステスが3つのグループに分かれていた。それぞれに50人程の女性がいたので、全体では150人位はいたのだろう。花組とか星組とかの名前だったように思う。
50歳近い背の高くスリムな遠目でもそれらしいベテランの女性が、組頭をしていた。
宝塚のようだった。
出退勤時にホステス達とエレベータですれ違うこともあったが、フロアでの女性と化粧をしていない彼女達は、まったくの別人だった。
化粧を落としたスッピンの彼女達は、化粧焼けした年配の女性だった。彼女たちは、地味な格好で出社する。また、同伴出勤という制度があり、お客様と一緒にお店に出る女性もいた。ベテランの女性達に多いけれども、中には、ボーイと同じく田舎でも若い女性たちもいて、色々と組頭に教わっていた。
毎日朝礼があり、5人程のマネージャーがいて、輪番でその日を仕切っていた。
5人もいると個性があり、渋い人も愛想のない人も、ホステスから信頼されている人もそれぞれにいた。
サボってばかりいて、時折に支配人が来るといつも逃げ回っているマネージャーもいた。
その方と他に一人か二人の方の顔と名前を今でも覚えている。

私達ボーイは、ホステスの朝礼の前にフロア清掃やその日の準備をした。
白色の薄明かりの下で床のバキュームを掛けテーブルや椅子を並べ直し、トレーや灰皿などを洗った。そして、お手元やマッチ、灰皿、グラスをサイドテーブルに並べた。それらの物は、ホステスから言われると直ぐに届けられるようにしていた。
白色の薄明かりで見るフロアは、楽屋裏のようで独特の埃臭い匂いがあった。
営業開始前のミーティングでは、その日のお摘まみメニューにないものなどを教えられた。
私は、そこで数カ月を過ごした。
その時の稼ぎで大学の仲間と飲む機会を作った。
彼らは、大学のテニス同好会の仲間で、向ヶ丘遊園駅の自分のアパート近くの小料理屋だった。初めてだったが、お金の使い方を知らない田舎者の自分が、初めてお金を使ったように思う。アルバイトの経験になり、17、8万円近くが貯まっていた。
その後は、ビル清掃や築地場外の魚屋や丸中の果物の仲買とかのアルバイトをするようになった。築地は、稼ぎが良かった。1日、5,000円程になったように思う。

その後、大学を卒業し新たに経済学部に編入した時に再び勤めることになった。
ピーターパン症候群という言葉があるが、自分は、働きたい職業をみつけられなかった。それで、2年間の学士入学の編入と1年の海外旅行を計画した。
大学卒業と同時に住まいは、向ヶ丘遊園駅の下宿から錦糸町の扇橋の団地の一室に移った。
この団地には、暴漢に刺殺された浅沼稲次郎が住んでいたと聞く。
使う路線は、小田急線から総武線になった。
今度は、フロアボーイではなく調理部署になった。
調理は5階にありスタッフは4、5人だったが、私は、6階フロアにあるオードブルの配膳係となり、カウンターのドリンクの方々といつも一緒だった。金曜土曜などは、超忙しく、配膳が大変だったが、カウンターのスタッフに今までで一、二番に手際が良いと、また仕事の綺麗さでは、一番だと。褒められた。
4人ほどの部署だが、チーフはじめ皆優しくチャイナタウンでの一番幸せな時間になった。
営業終了後にビールとお摘まみで夜食を取る。調理部で作る自家製のドレッシングとマヨネーズが、新鮮で一味違っていた。ドリンク部署の役得だった。
その後に家庭でもそれらを自家製で作ることがあったが、美味しくそして、新鮮だった。
年に2回程ボーナス時に、ドリンクのチーフが、小田急ビルにあった有名なステーキ店でご馳走してくれた。中でもサブチーフの宇和島出身の方が、特に優しく可愛がってくれた。彼は、出社前の時間フロアの床をつかいベンチプレスでボディビルの体造りをしていた。
2度目のチャイナタウンは、長く1年間になった。
その後の2年間の世界旅行の費用をほとんどこのチャイナタウンと築地で稼いだ。
チャイナタウンのことは幾重にもなって思い出される。
最初のボーイの数カ月の経験は、その後のチャイナタウンへの呼び水だったのだろう。

私が辞めて10年位は、過ぎていた。
自分の勤めた那須のホテルにあのチャイナタウンの人達が御一行様でやって来た。
当時、田舎から家出をしてきてヘマばかりしていたボーイがいたが、その彼が2歳位の男の子を抱きかかえホステスと思わしき奥さんと一緒だったのを目にした。
彼が、勤め初めて数日が過ぎた頃に、親父さんが田舎から出てきて、事務所で話をしていたことを聞いた。家出のようだったが、話がついたのだろう、彼はそのまま務めることが出来た。
私は売店にいた。
彼は、当時と変わらずに良いパパ風になっていた。私は知らないお客様に接するように当たり障りなく話しかけたが、私のことは覚えていなかった。彼は、フロアの主任か何かになっていたように思う。経済のバブルが続いていた頃で、誰しも沢山のお土産を購入していた。お客様や関係者へのお土産だろうと思う。
随分と後になり風の便りで、チャイナタウンがなくなったことを聞いた。
四半世紀が過ぎていた。
私がお世話になったあの調理やドリンク、フロアの人達は、どうしただろうか。
今は半世紀になる。
グランドキャバレーチャイナタウンでのことは、今でも色褪せない思い出として蘇る。



2020年5月24日日曜日

妻の後ろ姿

私の朝は決まって台所から始まるのだが、ここ数日前から5時起きの運動を始めた。
この春先のコロナ禍から、社交ダンスの練習を辞めて7週間になる。
栃木県の非常事態宣言で、ダンスの練習場が、ダンス協会指導で中止となった。
週4日は、ダンス練習で過ごしていたのだが、コロナの感染懸念から辞めざるを得なかった。週の1日は、教室の個人と団体レッスン。更に1日、2日をペアの練習、そして、1日をダンスパーティだが、それぞれ、4時間から6時間を費やす。5分も踊ると汗が滲んで来るのだから、それは随分の運動量である。
その環境では、コロナに何処で移っても可笑しくはない。
妻の病気は肺疾患と膠原病なのだが、妻は感染したら一発で遣られる基礎疾患と心配している。私自身は問題ないと思っているが、私も感染すると死亡の4番目に来る癌経験者である。
自粛要請がこれほどに長引くとは思っていなかったが、先日体重を測ると65kgから67kgまで2kg増えしかも体の動きが鈍ってきた感じがする。社交ダンスの競技で今年A級昇級を目指している自分は、いつまでも練習せずに遊んでいるわけにはいかない。
家から歩いて10分ほどの所に樹齢のある杉と椚林、そして、ツツジの植生された、散歩には格好の公園がある。共墾社公園と名付けられ、石蔵が2か所あり原野から畑を作った際に集められた丸石が、山に積んである。4、5年前までは、毎朝飼い犬を連れて散歩し公園で体造りをしていた。腕立て伏せや柱へのプッシュ、縄跳びと腹筋運動を遣った。
私担当の犬が亡くなり、犬との散歩ではないが、朝の運動を遣ることにした。

今朝は、天気も良く格好の散歩日和、体作りにでかけた。
妻の老婆犬ココとの散歩の時間が重なり、お互いに家の鍵をもって出た。
老婆犬ココは、2匹の犬が亡くなった後に娘が連れてきた黒のラブラドル系のミックスで、大人しく優しい犬だった。年齢は推定で15歳ぐらいになるが、若いころは敏捷で、一度首輪から紐を外し逃げ出し、相手は遊んでもらっていると思ったのか、捕まりそうになると身を翻して更に逃げた。なかなか捕まえられずに閉口したが、30分も追いかけてやっと捕まえた。
そのココだが、今はヨタヨタと歩き、運動の為に妻が引き連れている。
妻が先にでたが、追いつけずにその姿は見えなかった。
私の歩き方は、蹴る力を付けるために早足の蹴り脚の歩き方になる。
ちょっと歩くとすぐに汗がにじみ、普段は歩いてゆく公園ではないが、あっという間に到着する。公園内にあるハローワークは、窓が大きな建物でその窓が大きな鏡となり、その前でエアー縄跳びをする。数日前から始めているので、今日は体も少し馴れて300回を跳ねる。
その後にせなかを意識し体重移動をおこなう。ダンスは、背中で踊るというほどに背中のラインは、大切である。アイススケートもバレーも、舞踊は、体のラインの美しさを表現するもの。それには、体幹や股関節が重要な働きをする。この体の動きが、コツと言える。長年、中学から、成年までテニスを遣ったり、スキーを遣ったりしたが、この体の仕組みを知っていたら、もっと上達しただろうと思う。
まだ始めたばかりなので、無理して遣りすぎないように心掛けた。
凡そ30分近くが過ぎ、同じ道を、蹴り足を意識してもどる。
町内に入り途中で分かれ道があり大谷石の石塀に沿って右に曲がる。
そして、すぐ角の家を左に曲がると路地のはるか先に妻とココの姿が小さく見えた。
老婆犬をあとに従えゆっくりと歩く妻の後ろ姿だ。
その姿を見た途端になぜか懐かしく思えた。
遠目でもオー脚に湾曲した脚と草臥れた後ろ姿に直ぐに妻だとわかる。
小柄で真直ぐに立つ姿格好が母親とますます似てきた。
最近は一緒に歩くこともなく、このような景色を見たことはなかったからか、懐かしい。
ちょっと前には、二匹の雄の犬がいて妻との二人とで午後の落ち着いた時間に公園まで毎日のように散歩した。妻は中型犬のダグーを連れてゆっくりと歩き、私は力の強い秋田犬風の五郎を連れていた。
決まって、公園内に入ると直ぐ左にある太い丸太のベンチに座り、犬たちも心得て休んだ。
ダグーはベンチに乗り、五郎は、私の脚の前に腹ばいとなり休んだ。その頃は、ゆったりとした時間が流れていた。今思うと私達夫婦と二匹の犬との甘露の時間だったと思う。一度、近所に住む時折見かける名も知らない女性が、柔らかい団子餅を犬達にくれた。五郎が、その餅を歯に引っ付かせ、驚いて前脚で取ろうと慌てていた姿に笑ってしまった。ダグーは、前脚で抑えて、上手に食べていた。
その二匹の犬が老齢から相次いで亡くなり、二人の散歩は途絶えた。
先に五郎が逝き、次いで1年後にダグーが、逝った。
本当に家族同然の犬が、あっという間に逝ってしまう。二匹とも病気から1カ月ほどで、食べられなくなり、横たわり痩せ細ってゆき、最後は、のた打ち回ることもなく、何も言わずに逝く姿は、切ないものがある。
いつも楽しかった当時の二匹の犬との話が妻の口をついで出る。散歩のときや庭仕事で妻との楽しいやり取りの事でした。犬達にとっては、いつも暖かくそして、怒りながらも面倒を見、死ぬ一カ月間は、本当に下の世話をも嫌がらずに介護してくれた妻は、素晴らしい女性と思う。
そんな妻の犬との姿を見るのは、久しぶりだ。

その後ろ姿は、彼女の過ごした時間を現わしている。
人は生まれ、幼少期を父母や家族と過ごし、成人し異性と出会い、親元を離れ、自分の巣をつくる。その人生は、幸か不幸かは人それぞれだが、誰しもが誰しもの人生を歩む。
私と彼女との出会いは、遥か昔のイタリアのベニスに始まる。ドイツ文学に憧れて、ゲーテの町デュッセルドルフに滞在しヨーロッパに旅し、私との邂逅がある。
彼女は、子どもが小さな頃は小柄で可憐な女性だった。シッカリとした意志を持ち、色々な夢を持っていたが、どれ程の夢がかなったのだろうか。今は年老いた。
犬を連れてゆっくりと歩く。
疲れるともう長くはないと呟くようになった。
悲しい響きの言葉だ。
庭仕事や洗濯で遠目に見かけるその時の顔は、決して晴れやかではない。
悲しい思い出に詰まった顔に見える。
私自身の鏡に思える。
彼女を幸せに出来なかった、私のせいだと思う。
私も言葉こそ出さないが、同じような思いでいる。