確か1カ月6,500円で、2カ月の敷金で銀座線田原町駅を出てすぐ後ろだった。家賃が安いことと、地下鉄の駅が近いことが魅力だった。
見るからに古い木造建で、3階に物干し台があり、トイレと洗面所が共同だった。
1階入口から直ぐに階段を上がり2階に3室だけあり、一番奥の左がそうだった。
先に中学生の頃の思い出の「火振り漁」の手記を書いたが、書きながら叔父正男のことを思い出していた。
同じ頃になるが、叔父は盆に戻ると、決まって「ひやし針」掛けに出かけていた。
ひやし針は、子どもの頃のその地方の鰻漁で、川や堀の鰻の棲み付いた巣の近くに釣り針をひやし、翌朝に掛かった鰻を引き上げる漁である。まず鰻の巣を見つけるのがコツで、当時は夕方に20本位をかけて、一晩で5匹から10匹を捕ることが出来た。鰻用の釣り針14号位を凧糸でくくって作る。糸の端を竹の棒に結び、堀の土手に刺して仕掛ける。餌は、生きた泥鰌が最適で他には、太いミミズを使う。
家の前を合川(ごうがわ)が流れていた。合川は、川幅は、家の前あたりで2間位、川上は10kmほど奥だった。山奥に一雨あると直ぐに水嵩が増えた。台風の時は、合川が氾濫して家の前の田圃が流水で水浸しになる。一帯が濁流に覆われ田圃も道路も埋没した。水が引いた後は稲が一面になぎ倒され、所々に土砂が覆われて凄いものだった。
その合川に大堰がある。その大堰は、誰の代に造ったのだろうか。
私の家は、江戸時代の終わりの頃に越中富山の砺波平野から移住し兄の代で7代目になる。
砺波地方では、藤四郎が代々の名で苗字があり足軽位の身分だったと聞く。
祖々母のキンからは誰が作ったと聞いた記憶はない。小学生の頃は、祖祖母の布団で脇に寝て、寝物語で昔の話をよく聞いた。寒い冬には、子どもは湯たんぽ代わりだった。我が家は浄土真宗で、寺請けでこの地に移住したと聞く。両郷にあるお寺に残る過去帳では、与左衛門が、初代のようだ。子がなかったのだろうか、同じ砺波から、細川家と加藤家の子を夫婦にして後継にしたようだ。そして、その夫婦の子が、仁太郎なのだろうと思う。仁太郎は三代目になる。
仁太郎、娘の初(婿の音松)、兼次郎、父實そして、兄新一。
大堰は、田圃に水を引くための堰だが、見た目にも大きな造りで大掛かりな工事だったろうと思う。村中の人達の手を借り、畚(もっこ)を担いで土や石を運び、数カ月も掛かるような、と想像する。
水量の少ない農閑期の冬にやったのだろう。
大堰は落差があり、上流の川床に大きな石を敷き詰めて堰にし大きく湾曲して1間半も滝のように降下する。
大堰の下流は、抉れてプールのように淀んでいた。削られないように土手岸も四角の黒くなった石が積まれていた。向こう岸は、篠笹が生えてその下は抉れていた。鯉やハヤの魚影も見られ格好の釣り場になった。夏には、近所の子どもたちが毎日のように水浴びに集まった。年長者がよく積み石の上から、飛び込みをした。深く流れのある水中に飛び込むのは、なかなか勇気が必要で、高学年でないと出来なかった。抉れた淀みに潜り、水眼鏡もかけずに魚を追いまわした。川底は、砂地になり、立つと砂が散らばり、裸足が心地よかった。手を伸ばして立っても水面には届かない。
その大堰から田圃への掘に水を引き込む。
堀の傍に広さにして五畝(5アール)ほどの遊水池があり葦(よし)が群生していた。
そこには、良く軽鴨や五位鷺が来ていて、ホオジロやセキレイの小鳥もいて葦の穂先に留まり囀っていた。いろいろなトンボや蜘蛛、水澄まし、水中には、もちろんゲンゴロウやタガメの驚くほどの種類の昆虫がいた。黄と黒のグラデーションの腹を持つ大きな蜘蛛が巣を張り、その巣の真ん中にいる蜘蛛が神々しく映った。
堀の脇の土手は、かなりの土が盛られ土手道はリヤカーが通れるようになっていた。リヤカーは、農家のどこにでもある便利な人力の運搬車である。幅が80cm一寸、長さが130cm位、荷台の高さが50cm位、径が70cm位の二輪の運搬車で、肥しや土を運ぶには、格好の運搬具だった。子どもの頃に父や母がリヤカーに肥やしを積んで田圃に運ぶのを手伝った。
当時は、肥料舎で堆肥を作っていた。それを春になると稲株の残る田圃に運びフォークを使い撒いた。
この堀は、我が家の前を横切っていた。
直径1m程の土管を敷いて土管から出た処で水の流れを堰き止め洗濯や泥の付いた大根、里芋などの野菜洗いに使っていた。稲藁の束子が大根洗いには丁度よく、里芋の泥落としは松の木の根っこから造ったイモ洗い棒を使った。樽桶に里芋を入れ、堀からの水をバケツで加えながら、松の木のイモ洗い棒で搔きまわす。面白いように泥と皮髭がとれた。
大切な田圃に水をひく堀であり生活用水の堀でもあった。
先人の知恵だ。
その地は膳棚という5軒ほどの集落で、大きくは稲沢という30軒ほどの古くからの農村集落だった。近くには、黒川を渡った隣部落になるが、那須与一伝説の高館山の居城跡があった。この部落で富山からの農家は、我が家と分家(新宅)だけだった。そして、富山地方の農家の遣り方を踏襲していた。いろいろな農具も富山地方に伝わるもので、他の農家とは違い独特だった。
村人総出で行う屋根の葺き替えや田植えを「結い」で行い、大切な部落の生活の知恵だったと思う。結とは労働力を対等に交換しあって田植え、稲刈りなど農の営みや住居など生活の営みを維持していくための共同作業である。「結い返し」の言葉は、母や祖母の会話に良く出てきた。幾つもの組が作られていて、我が家の組は、膳棚、町田、矢組が一つで、16軒ほどになる。大体は組内で行っていたが、それでも足りない時は、隣町の越堀から頼んでいた。越堀は奥羽街道にある鍋掛と芦野の間にある有名な宿駅だったという。
田圃は、2丁歩ほどあった。この堀の所々にある小さな堰は、堀から田圃に水を引くために堰き止めたものだ。堰の下は、小さく抉れて淵になって小魚が沢山見られた。泥鰌や砂はぎ、ギンギョ、油雑魚、はやの子どもなどが、面白いように見られた。時々、肥え笊ですくって、捕ることもできた。
決まって、鰻はそこに巣をつくる。
ひやし針は、そこに掛ける。
時折、鰻がその巣穴から顔を出してじっとしているのが見えた。
他には、田圃の源口、水の落とし口でも掛った。ひと夏だけの田圃でも鰻は巣をつくるのだろうか。あるいは、そこに集まる小魚を目当てに出てきて掛かるのかもしれない。
また、鰻は夏の茹だるような日には、夜に水を張った田圃の水面で涼んでいる。
月の明るい夜は、その鰻を容易に捕まえられた。ある時、父から、「行ってみろ、今夜は捕まえられるぞ。」と教えられた。
叔父は、私よりちょうど12歳年上になる。
私達兄弟姉妹は、正男兄ちゃんと言い叔父に懐いていた。
一番末の叔母と正男叔父は、兄や私と年齢が近く中学校や高校に自転車で通う姿を見ていた。
叔母は中学を卒業すると東京の洋装店に縫子として勤めた。
集団就職だ。
頭は良かったが、農村ではまだ女性は進学させなかった。
叔父は高校を卒業し東京に就職した。
今思うに就職してからの叔父は、いくつもの仕事を転々としていたようだ。
競馬場に厩舎を持っていた大叔父の縁故で、競走馬の輸送運転手だったことがある。一度、大きな競走馬運送のトラックで来たのには、驚いた。
大体がタクシーの運転手だった。
タクシー会社もいくつも変わった。
少し小柄だが、中学や高校では、喧嘩っ早く祖父母は、いつも心配していたように思う。
当時農村では高校に進学する家の子は少なかったと思う。叔父は進学し勉強のできは、良かったようだ。
明治生まれの大叔父は、地元の中学校を出て更に東京の鉄道省の学校に行き優秀だった。
学業を大切にしたのは、祖父の考えだったと思う。
祖々父は実直な人だったと聞くがその兄弟は、どの方も学業に優秀だったようだ。
祖父は、伊王野村の村会議員になり議長も務めた。
私が思いもしなかった大学進学も祖父が薦めてくれた。
大叔父も祖父も美しい書を書き運動も成績はよかった。
正男叔父の楷書を見たことがあるが、確りとした書だった。
DNAだと思う。
祖母のヨシは、白寿で大往生だったが、正男はそれから数年後に逝った。
晩年まで祖母は、正男のことを心配していた。
祖母は、遅れていた正男の結婚にはとても喜んでいた。
結婚式は挙げなかったが、男の子どもに恵まれて安心したと思う。
その後の正男の離婚のことは祖母には伏せた。
お盆と正月には、必ず戻って来た。
私達には自動車が珍しく自動車で戻る叔父が格好良く眩しかった。
来ると聞くとそれまでの日が、楽しみだった。
学校から戻ると祖母や母に勇んで、「正夫兄ちゃんは、来た。」と聞いた。
数日を過ごして戻るのだが、13日の迎え盆は、家でゆっくりしていた。
大叔父の家族や叔母達も集まり親戚縁者で20人近くになる。
薄暗くなった草道をめいめいに花や提灯等を持ち墓参りとなる。
お墓は萱野にあり、途中の道脇のススキの中でキリギリスや馬追が賑やかに囀り、近づくと一時静かになった。
浴衣を嬉しく着た妹や東京言葉を真似て話すよそ行きの自分がいた。
女性は、食事の用意をしてから遅れて行き、その後から宴に加わった。
親戚の従妹たちも大勢来ていたので、楽しい宴会になる。
戦前東京の子供たちは、10歳位だったが、揃って疎開していた。
彼等は、叔父や叔母達と兄弟姉妹のようにして育った。
正男叔父は、その中では兄貴分なので、従妹を周りに集めて夜遅くまで飲んでいた。
それが、身ひとつで東京に出た人間の楽しみだったのかと思う。
翌日は、街で飲むのではなく田舎の同級生宅に飲みに出かけていた。
飲める口だが、悪い飲み方を見たことはない。
随分と飲んだが最後まで崩れずに紳士だった。
祖父兼次郎は飲むと必ず詠い踊りも披露した。十八番は、黒田節で謡いながら、器用に踊った。何処で覚えたのだろうか。
叔父は、兄や私を大事に扱ってくれた。
貶すことも無く仕事のことや兄の起業した事業のことを聞いてくれた。
父や母にも無体な言葉を聞くことは無かった。
私の知る兼次郎のそして、我が家の家風だと思う。
叔父は、間違ったことが嫌いで喧嘩っ早かったが、偉振ることも無く人の話をよく聞いていた。
そんなことから、男気が強く会社との交渉役に押されたという。
それも職場を転々とした理由のひとつのようだ。
叔父の生き方を見るとその一本気な性格が見えてくる。
夕方に掛けるひやし針だが、捕れた話は殆ど聞かなかった。
ひやし針は、金具屋で求める何号かの鰻用の釣針に凧糸を結わえ捩り50cm程の長さにする。
端を竹に結び土手に刺すようにする。
餌は、太いミミズや泥鰌を使う。
泥鰌のほうが、生きが良くて掛かりが良かった。
私の子供の頃は、合川から水を引き込むその堀もあってひやし針は、随分と捕れた。
掛かったときは、糸が鰻の巣の中に引き込まれ直ぐに分かった。
鰻が、これでもかと凧糸に絡まっていた。
その内に耕地整理がなされて鰻のいる堀や所々の堰が無くなり捕れなくなった。
叔父はそれでも来る度にひやし針を掛けに出かけていた。
その頃は、堀ではなく前の合川にも掛けていた。
私の朝の台所が、心を覗く無心になれる時間のように
きっとひやし針を掛ける時が、叔父の心落ち着く時間だったのかと思う。
仕事の大変さは、誰しもが体験する。
正月や盆に戻り祖父母や従妹達と過ごし、友と語る時間は叔父の宝物だったと思う。
そして、夕方に掛け朝方に挙げに行くひやし針の時間も。
その叔父が逝き10年が経つ。
火振り漁とおなじく、ひやし針も今は聞くことはない。
耕地整理されたコンクリートの堀と何もない広がりの田圃からは、想像だに出来ない。
かつて、ひやし針で鰻が取れたことなど。