昨日のテレビ番組で浅草を取り上げていた。
浅草に所縁のあるタレントが、浅草の名のある老舗やかつての風物を紹介していた。
今は、浅草のシンボルともいえる雷門の大提灯が、修理のために外されている。仲見世や雷おこしの店に思い出がある。まだ浅草の場所も知らない頃に、山中湖のテニス合宿の後で、一緒だった三ノ輪の友人宅をもう一人の友と訪ねたことがある。映画俳優でも通用するようなスマートで日本人離れした彼は、老舗の帽子工場の御曹司だった。その時に紹介されたのが、雷おこしのお店だった。そこの二階の食堂で彼が美味しいとお薦めのかつ丼を頂戴した。私には、その光景も彼らの顔も懐かしい。
浅草に住んだのは学生の時で、2年間休学して行った海外旅行から戻ってからである。
休学する前は、江東区の扇橋の団地に住んでいた。日本社会党の浅沼稲次郎は、誰しもが知っていると思うが、彼が長年住んでいた団地が隣の棟だった。私の12、3歳程歳の離れた従妹夫婦が長年住んでおり、その同じ棟に母の京都の叔母の棲んでいた空き部屋であり、そこに1年住みました。母は、いつも山科の叔母さんと言い、とても可愛がられていたことを話していた。
便が悪く錦糸町駅から30分ほど歩いた。小さなふるい改札口が印象的で、出ると直ぐに交差点を渡り、速足で歩いた。30分は、結構な距離になり、家に着くころには、汗がにじんでいた。時折、錦糸町ではなく両国に出ることもあった。時間的には少し遠く、駅へ続く道はなく、遠回りになりジグザグに歩いた。
旅先で日本に戻ったら浅草に住もうと考えていた。
浅草は、江戸時代の情緒を残し伝統行事の祭や大正昭和初期の歓楽街だった街だ。
海外旅行の旅先で出会う人達は、彼等の知っていることを尋ねてくるが、殆ど日本のことは知らなかった。私達は、中学や高校である程度の世界の知識を学ぶので、まして旅行に行くにあたっては、旅先の知識を持っている。彼らの話す日本は、自分が理解している日本とギャップがあった。
ヨーロッパの街では、必ず博物館や美術館を訪ねた。
決まって東洋のコーナーがあり、中国の文物と並んで、日本の浮世絵や書が一角を占めていた。江戸元禄時代や庶民の生活も紹介されていた。
それは、日本を外から見る機会になり、ふだん知らない日本の歴史と文化に触れることになり、驚いた。それらから、日本の伝統文化に関心を持った。
浅草は、それらの文化を色濃く残していると思われた。
それまで浅草を訪ねたことは一二度あるが、殆ど知らなかった。
浅草の通り沿いにある不動産会社で安アパートを探し希望に沿う物件を見つけた。事務所の小さな窓に物件のチラシが一面に貼ってある、それらしい不動産会社。
確か1カ月6,500円で、2カ月の敷金で銀座線田原町駅を出てすぐ後ろだった。家賃が安いことと、地下鉄の駅が近いことが魅力だった。
確か1カ月6,500円で、2カ月の敷金で銀座線田原町駅を出てすぐ後ろだった。家賃が安いことと、地下鉄の駅が近いことが魅力だった。
金龍寺というお寺の3階建てのアパート。
見るからに古い木造建で、3階に物干し台があり、トイレと洗面所が共同だった。
1階入口から直ぐに階段を上がり2階に3室だけあり、一番奥の左がそうだった。
見るからに古い木造建で、3階に物干し台があり、トイレと洗面所が共同だった。
1階入口から直ぐに階段を上がり2階に3室だけあり、一番奥の左がそうだった。
部屋には、ガスこん炉がひとつに石のシンクがあり蛇口がひとつだった。まな板を使うスペースは殆どなく、これが浅草らしいアパートと思われて、自分は満足した。
4畳半一間で一間の窓が南と西に向いてあった。
西陽が当たり、夏には、汗が噴き出るように暑くなる。その窓の下には、お寺のお墓が広がっていた。小さく区画され、お墓と塔婆がいくつも並んでいた。お花が活けてあり、供物が並んでいた。
1階は、町工場になっており、古くからの栃木県馬頭町出身のご家族が住んでいた。
時折に挨拶を交わすぐらいだったが、田舎出らしい素朴な人柄のご家族だったように思う。最初のご挨拶でご夫婦の優しい笑顔と言葉が印象に残っている。
浅草に住み始めたのは秋の頃だった。
アルバイトは、旅行前に勤めていた築地場外の魚の切売の店辻孝だった。
大学は、都合8年間在籍していた。8年間と紹介すると誰しもが驚くが、最初の4年間は、農学部の農芸化学科だった。
校舎は、多摩川を渡ってすぐの生田にあり、私は応用微生物を専攻していた。そこは、田舎出身の私には、緑が多くちょうど良かったのかも知れない。歩いて、20分ほどの所に下宿し学生生活を楽しんだ。下宿と言っても、食事は付かずに自炊が出来る内容だった。倹約化の自分は、外食ではなく自炊をした。テニス同好会に籍を置き、殆ど毎日のように京王線の明大前駅にある和泉校舎の練習に通った。そして、卒業後は、学士入学で政治経済学部の経済課に編入した。お茶の水にある本校舎になる。
ピーターパン症候群という言葉があるが、自分は将にそれで、就職する気がなかった。
何の仕事についたら良いかが分からなかった。
それで安易な2年間の学士入学を選んだ。しかし、編入と同時に1年間の海外旅行を計画した。1年後に休学し海外旅行にでた。
五木寛之の「海を見ていたジョニー」や「1日5ドルの海外旅行」のペーパーバックに影響を受けた。バックパッカーのひとり旅を予定した。
1年後の5月に横浜の埠頭から旅に出た。
旅に出るまでの顛末は、前稿の「キャバレーチャイナタウン」に記した。
無事にヨーロッパへの世界旅行を実現できたが、1年休学の予定が、2年間になってしまった。
旅先で戻る飛行機の費用が足りなくなり、働かざるを得なかったからだ。
旅先の情報でスイスには、日本人の学生にも斡旋してくれる職安があると聞いた。
当時スイスでは、日本人の学生は働くことができ、職安で仕事を紹介してくれた。その職場は、アウトバーン近くのビジネスホテルで、ホテルリンデと言った。リンデとは、菩提樹の意である。
3か月を働いた。
2年間の海外旅行では、写真も随分と撮り日記もつけ、ノートは三冊になった。
一時ヨーロッパでは、趣味のスケッチを描いた。
旅先のポーランドで買い求めたスケッチ帳だが、三冊になった。
2年間の旅は、こうして見ると膨大な時間だ。
それから、もう1年を履修した。
アルバイトの築地場外の切売り店辻孝は、始発の地下鉄で通った。
そして、午後は明るい内に戻った。
その内に八王子の市場に築地から2屯トラックで魚を運んだ。
その頃になると夕方に寝て、朝3時起きになった。
トラックで築地と八王子間を行き来し、終わるとそのままトラックで浅草のアパートに戻った。
その内に日本橋に勤めていた妻が仕事の帰りに寄るようになり、やがて同居するようになった。
同棲だが、同居すると直ぐに結婚を決め入籍した。
母は私には勿体ない嫁だと喜んでいた。
埼玉の花園IC近くの大きな農家の末っ子娘で学生時はドイツ文学を専攻していた。扇橋の従妹ご夫婦に仲人を頼み、妻の実家のご挨拶に伺った。
その年の秋に結婚式を挙げた。
妻は、2年間の旅行中にベニスで出会った。
ベニスから、少し離れたところにベネティアングラスで有名なムラーノ島があり、そこのユースホステルに宿泊することにした。ベニスから水上バスで埠頭に付くと、日本人が4人位屯していた。その中に妻は居た。
ヨーロッパに入り数カ月した頃だった。
ひとり旅で白の大きなトランクを一つ持ち、アフガンコートに手編みの青と白、茶の横縞のセーターを着ていた。かなり疲れた印象だった。荷物を持ってあげて、ピサの斜塔を一緒に旅した。疲れていたからだろうか、数週間を一緒に旅をした。
その後滞在先のデュッセルドルフに戻って行った。ドイツ文学が専攻だったことから、寮に住み憧れの街だったようだ。一度私の働いているスイスのホテルに尋ねてきた。
それは、インターラーケンにあった。
支配人婦人が喜び顔で日本人の女性が会いに来たと声かけてくれた。
驚いて出迎えるとそこには笑顔の彼女がベニスで出会った同じアフガンコートに手編みのセーター姿でいた。支配人夫人は、私に一緒に過ごす時間をくれた。
一緒にその村の道を散歩した。牧草畑にラッパ水仙が至る所に咲き誇り、こじんまりとした家が、散在していた。
彼女は、午後の時間をゆっくりと過ごし戻っていった。
支配人ご夫妻に3人の調理人、フロントには、妙齢の女性スタッフのいるホテルだった。
皆気持ちの良い地元の人たちだった。
その後妻は、ドイツから一足先に日本に戻ったが、私は、更に1年をヨーロッパから、イスタンブールを経て、中近東をゆっくり廻りアフガニスタン、インド、タイ、香港を経て、日本に戻った。
私は日本に戻り少し経ち妻と再会した。
私は、新学期が始まるまでの間、実家の家にいた。
祖父兼次郎が、仕事場にいる私に、若い娘が私に会いに来たと喜んで伝えた。
古い築90年の造りの家に彼女は待っていた。 何を話したか、思い出せないが、きっと、大学に戻りどうこうするの話をしたのかと思う。
浅草に出た私の生活は、二人で始まった。
二人の生活は、かぐや姫の神田川の世界だった。
アパートからは、通りを挟んで銭湯があり、二人で通った。小さな交差点を渡ると商店街があり、小さな商店が賑やかに左右に並んでいた。渡って銭湯は少し先にあった。私は、烏の行水なので、先に出て妻を待つことが多かった。
4畳半一間のアパートでの生活は、ほんとうに何もない歌のようだった。
妻が料理したが、生田の大学4年間の自炊生活の私も料理した。料理は、限られていたが、野菜炒め、カレー、スパゲッティが、得意だった。
買い出しは、スーパー三平だった。
数年前まで三平は人気のレストランだった。そのレストランは、テニス同好会の何かの催しの折に利用した記憶がある。女子達の話題に上った人気のレストランだったように思う。
私が住みついた時は、スーパー三平になっていた。
国際劇場は、まだ営業していた。
チケット売り場には受付の女性がいたが、私の生活ではレビューの立看板を覗き見するぐらいで、観賞することはなかった。
浅草の歓楽街の時代を象徴する国劇は、暫くして惜しまれながら閉鎖した。
それから田舎に戻り、数年後に那須のホテル会社に勤めた。その会社が国劇を買取り跡地にホテルを建てた。当時でも浅草の地に28階建てホテルは、イケイケバンバンの話題のホテルになった。ホテルをバックに浅草浅草寺のポスターを書面や銀座線の吊り広告や各駅に見かけた。
私と浅草の因縁だろう。
ある時の夏祭りでは、二人で浴衣で参加した。私は、母の仕立てた白地に黒い模様が柄となった浴衣に黒の角帯と桐下駄を履いた。妻は、紺色に椿柄の浴衣だった。
仁丹堂の建物の向いの雷門通りが歩行者天国となり、大きな長い輪になり踊っていた。妻は、その時はすでにお腹に子を持ちあまり乗り気ではなかった。
妻は参加しなかったが、私はその踊りに加わり東京音頭を見様見真似で踊った。
直に外れて、近くの喫茶店で抹茶アイスクリームを食べたことを覚えている。
時折仲見世にゆき浅草寺に遊んだ。
一緒に食事する機会は少なかったが格好の散策路だった。
大学に戻ってからは、勤め先を築地場外からアパートのすぐ裏になる喫茶店に替えた。
喫茶店は、純喫茶寿。
早番と遅番の時間があったが、駿河台の大学の授業にあわせて変則で勤めることができた。
卒論もなんとか提出でき卒業することができた。
田原町駅の目の前で、サラリーマンの立寄り場所で客足の多い店だった。
そこでは、フロアとカウンターとを見た。
喫茶メニューは、そこで覚えた。
プリンやスパゲッティ、サンドイッチ、ドリップ式のコーヒー落としなどだが、その後のホテル就職の呼び水だったのかも知れない。
接客業の前哨戦だった。
私達は、そこで双子の娘に恵まれた。
大学卒業の3月初めに産み月になる。
ゼミの仲間たちは、双子の娘用にベビーチェアを贈ってくれた。
お腹が大きくなると悪阻(つわり)から、調理は殆ど私がしたが、妻はあまり食べられずに大変だったと思う。予定日よりも数日速く産気づき、夕方から翌朝迄かかったが安産だった。
病院の看護婦さんの指示に従い、陣痛の間隔が短くなってからで、タクシーを拾い病院に入ったのは夕方だった。
男が居てもどうしようもない。
生まれるのはまだまだ先の翌朝になると聞いて、数時間を付き添っていたが、アパートに戻った。
途中、浅草寺に母子の安全をお願いした。
もう遅い時間で11時を回り、境内には人っ子一人いなかった。
風の強い日で背中から吹いた。
父親になる不安と決意を胸に仲見世を一人歩いてアパートに戻った。
次の朝病院に行くと「女のお子さんですよ。」と看護婦さんから聞いた。
二卵性双生児。
安産で、妻のホッとした顔が緩み、微笑みが菩薩のようで印象的だった。
大役を果たした喜びで輝いていた。
名前は、妻がつけたが、良い名だったと思う。
生まれるとすぐに妻の母が介護に来てくれた。
1カ月近くはいたろうか。
4畳半に3人で寝た。
後で義母の語るには、何もない四畳半一間の小さな部屋に小さな台所と押入れがあるだけで、大きな農家に生活する義母には笑い話になったようだ。
それは、妻の姉達から聞いた。
私は、アルバイトがあり日中は不在だった。
長女は未熟児で生まれ、手元には1カ月近く遅れて来た。
二人とも押し入れに上下で寝かせていた記憶がある。
東京に住む小学校時代の同級生が数人でお見舞いに来てくれ、それを見て笑っていた。
ひと段落した頃に田舎に引っ越した。
浅草での思い出は、尽きない。
ちょうど1年一寸の期間だったが、青春の一頁と言えるだろう。
妻と生活し子どもに恵まれたが、大学とアルバイトで将来の夢を持つではなく過ごした。
アルバイト程度の仕事で貧しかったことから、派手な思い出はないが、それが私達夫婦の過ごした時間だ。
妻と懐かしく語ることはないが、今の生活と比べると何という時間を過ごしたのかと思う。
後に長女が東京に勤めてから、浅草の行きつけの居酒屋で飲み、国劇跡の自社ホテルに泊まった。
その頃に娘は、私の勤めた築地の脇に立つビルに勤めていた。その当時は、運河になっていたところで、埋め立てて大きなビルが建っていた。
仕事に揉まれ一丁前になった娘の話を聞いて、嬉しく思った。
浅草も築地も私の思い出の地だ。
那須のホテルに勤めて30年が過ぎたが、その間に幾度も本社の浅草に尋ねた。
浅草は、自分には縁ある地になる。
喜びも悲しみも無尽に詰まった街だ。
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