弘前は、40代の前半に初めて訪れた街だ。
それまで名前を聞いてはいたが、およそ無縁の地名だった。
中学1年の時に担任の先生が弘前を「ひろさき」と読むと教えてくれた。
彼女は、山形の東玉置郡の出身だった。
着任して2年目の色白の若い先生だった。
知らない私達に驚いていたが、関東の中学生には弘前城の桜もねぷたも知らなかった。
那須事業所では、営業会議で弘前に事業部の新規事業があると聞いた。そして、派遣スタッフを募っているとも。幾度もその話を聞いていたので、中々スタッフが決まらないようだった。私は、那須にある老舗ホテルの予約とフロントの課長だった。
秋に事業所のGMが入れ替わった。
その年の暮れの人事考課はB査定だった。
私は、その時には営業部の支配人になっていたが、新たにGMが来て初めての査定だった。
私は中途採用だったことから、同年齢の者よりも職制は数段階下からのスタートだった。
負けず嫌いの私は、追いつけ追い越せの気持ちがあり、仕事に一生懸命だった。
そのようなことから常にAかS査定を取り、その頃にはやっと等級も追いついた感があった。
しかし、今回のGMは、その年度の事業所の成績が悪かったことから、支配人クラスの者に一律Bの査定を下した。その年度は、ホテル業界は厳しい年でどちらの営業所も悪かった。
那須事業所の実績は、目標達成率95%程だったが、他事業所は、80%にも届かない年だった。
程ほどの実績だったのは、私の取組んでいた企画の成果が出たことによる。
「ヤッター!」の気持ちから自己評価は高かった。
私は今回の人事考課で次長に昇級できると思っていた。
それが、来たばかりで営業実績の中身も知らずにそんな「一律」の理由でB評価を下す。
私には彼らしいと思えたが、憤怒やる方なかった。
それで、那須担当の役員宛に上申書を書いた。役員は、立志伝中のような方で、炭焼きをやりながら、定時制高校を出てホテルに勤めた人だった。ホテル躍進の伝説の人だった。
上申書の内容は、今回の評価が不当だというものだ。
私は、当時那須に誰それありと言わる程の成果を出していた。他のスタッフからもオベンチャラを言われていた。私は、逆上せていた。
後で聞くと本社の担当役員が、上申書をひらひらと持ち歩き、私の引き受け先を探していたという。
評価の不服を書くようなことは、ご法度の世界。はみ出し者は、許されない。
そんなものなのだろう。
その結果が、弘前の出向だった。
そこはホテル事業部と言い数年契約で人材をプロパーとして派遣し、事業に当たる。
ホテルコンサル業でもあり、新規ホテルの開発会社になる。
上申書を出し暫くしてGMから、話があった。
人のいない煙草臭いドライバー室だった。
上申書の結果が、来たなと思い身構えた。
内容は弘前への出向だった。
彼は、弘前への3年間の出向とその契約が満了すると事業部の籍は無くなること。
那須に戻る籍はないこと。その後は辞めるなり何処に行くなり好きにせよという。
これが、彼の言葉だった。
本社の意向を言わされているように思えた。
上司に逆らうサラリーマンの宿命なのだろう。
このようなことを伝えるGMがいる。
私は彼の下で働かなくて済むことは、幸いだと思った。
彼の仲間内の評価は、聞いていたし、私自身も良く知っていた。
腹がでてだらしなく太り釦が出来ず、およそ背広姿が似合わない。
出世コースとは関係なく長年総務にいて、時間になると定刻で湯本の居酒屋に飲みに行っていた。
それが毎日だった。
仲間内から仙人と言われていた。
私を中途採用した時の総務の係長だった。子飼いの大卒は、皆順番でGMになっていた。
私には老舗ホテルの奢りに思えた。
辞令には逆らえない。
しかし、この時点では、まだ安易に考えていた。
もともと出向を望んでいたので那須を離れることは、これも良しだった。
本当なら、成田か少し日の当たる事業所だったが。
全国区の出向組は、GMにまで昇進できる。
地元勤務から離れらなない者は、部長職までだった。
3月末に弘前の赴任地に顔見世に行くことになるが、その前に事業部で出向者の顔合わせがあった。
初めて出向の3人が揃った。
辞令は、調理長、営業部長、支配人の3名になる。
私は、営業部長だった。
支配人は、私よりも5歳下で職制も下で係長だった。
私はその後持ち級からすぐに次長に昇級した。
後になり彼の話を聞くと仕事をしないことで有名な営業マンだった。
彼は、当時有名なGMの事業所にいた。
支配人での赴任は、決まっていたという。
他事業所に出る者に花を持たせる。
GMとしての配慮だった。
私のように「帰る籍がない、野垂れ死にせよ。」とは異なる。
彼のGMにはそれが言える。
彼を長年見てきた私には、彼らしいと思った。
それだけで部下を持つ資格はない。
赴任地では、接客の飲食部門、営業、フロント予約とホテルの殆どを経験している自分と営業だけの彼とでは、経験が違う。
ホテル準備の会議では自分中心で物事が進んだ。
企画書は、すべて自分が書いた。
村の人達は、私達を上から来た人と言っていたが、その活動に目を見張っていたと思う。
赴任地での私は水を得た魚のようだった。
しかし、この人事が通るのが会社組織と言える。
この人事内容を知って正直面食らった。
ショックだった。
私は下戸だったが強かに飲み二日酔いをした。
事業部の者は、サラリーマンの厳しい掟の中で生きてきた人達だった。
いろいろな事業所から、はみ出して出向して来ていた。
その強かな目で私を見ていたのだろうと思う。
素知らぬ顔をして。
この人事で、彼は腐らずに遣るだろうか。
支配人とうまくやれるだろうか、と。
サラリーマンの悲哀は、人事にある。
出向の人事が出てすぐに辞める人は多かった。
事業部の専務は、社員達から能無しの烙印を押されていた。
ほんとうに驚くほどに何もしない人で、社長のイエスマンだった。
それが、彼の優れた長所と言えるのだろう。
才覚のあるものは、才で生きる。
才のないものは、上司に諂い生きる道を選ぶ。
しかし、ホテルが負債から倒産し民事再生になった時、新しい受皿人事として彼は本社社長となった。
誰しもが驚いた。
主流だった名だたる人達は、倒産の責任から組織に残れなかったが、亜流となる事業部からの彼が、適任だった。
民事再生に関わった銀行団には、社長は操り人形だから、誰でも良かったのだろう。
これ以降、ホテルの質は格段に落ちた。
以前は、社員の目はお客様に向いていたが、これ以来上席に挙げる見た目のデータ、数字だけに拘った。トップは銀行団だけを見ていた。
いく度も滞在した旗艦ホテルの接客は、目を見張るほどに酷く変わっていった。
上も下も心が壊れたのだろう。
これが人事だ。
鉛味という言葉は、初めて使った。
私は、この人事でそれまでの自分が壊れたことを後になり知った。
那須の事業所でマネージャーの頃に私の仕事振りを見たお客様から、「社長の息子だ。」と言われたことがある。「あんなに一生懸命に働く社員はいない。」と。
その言葉は、私の勲章だった。
その年、会社の「ヒーロー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。
しかしこの人事で会社への忠誠心は、失せた。
人事は、その時の組織にいる者が為すものだ。
今でもその人事に関わった役員の顔を忘れたことはない。
私の心の底に怨恨が芽生えていた。
私は、当時まだそれを知らなかった。
弘前では好きに振舞った。
仕事では、上司の彼は追認するだけだった。
キャリアが違う。
これが私の唯一の鬱憤晴らしになった。
しかし、私はその人事と仕事のストレスから劇太となり80kgの体重となった。
人はこうして壊れてゆくのかと思うほどに眠れない夜を過ごした。
鬱にこそならなかったのは、私には、逃げ道があったからだろう。
住まいの近くにはゴルフの練習所があり、毎朝1時間ほど打ちっぱなしを過ごした後に出社した。施設には、プールとテニスコートがあり毎日のように数キロを泳ぎ、冬にはスキー場でおよそ1Kmのゲレンデを2時間ほど滑った。
身体を動かすには事欠かなかった。
人には単身赴任を満喫していたように見えたと思う。
それでも根っからの仕事人間で、仕事は常に一生懸命だった。
現地採用のスタッフたちもそのことを知っていたのだろう。
何もしない飾り物然の彼が、いつも事務所で新聞を見ている姿が思い出される。
3年で他に出向していった。
表立って対立することはなかったが、生涯気持ちが通うことはないと思う。
人事の悪戯。
それが彼と私との縁だ。
人事は、良い者も悪い者も当事者には気持ちが晴れるものではない。
その後も59歳でホテルを去るまで人事には、苦い思い出が付きまとう。
もうひとつか二つは鉛味の人事が書けそうだ。
当事者には鉛味する人事は、一度で沢山だと思う。
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