2020年6月11日木曜日

満天ハウス

津軽には、平成7年の春から7年間いた。
私が、44歳の時で日本ビューホテル事業(株)からの出向になる。
津軽を訪れたのは初めてだった。
津軽地方は、青森県西部の地域で、江戸時代に津軽氏が納めた津軽藩、黒石藩の支配した領域という。
出向先は、中津軽郡相馬村にある第3セクター(財)星と森のロマントピア相馬になる。
今では先に行われた市町村合併から、弘前市になる。思いもかけずに随分と遠くに来たものだと思う。
那須から東京へは150kmだが、みちのくの弘前市は福島市、仙台市、盛岡市を経て540kmの距離となる。車では、東北高速道路を使い休みながらだが7時間、ほぼ1日がかりとなる。
津軽でのことは何から語ろうか、語ると尽きない。
そして、今では24年も経過し随分と昔になった。思い出せないことも多くなり、時間軸の前後がわからなくなっている。 
満天ハウスは、弘前市では誰しもが知る相馬村のテーマパーク、ロマントピアのコテージの名前だ。
ロマントピアというと誰しもが口を揃えて、満天ハウスに泊まりバーベキューをした話になる。
津軽では、バーベキューは誰しもが親しむ食娯楽と言える。
決まって、春先や秋の採り入れ時に林檎畑でバーベキューを楽しんでいる。
チョットした店ではバーベキューの漬けダレを売っていた。
漬けダレは、どこどこの店のが美味しいとの話となる。
満天ハウスには幾つかのタイプがあり、一番大きなものが星型の5角形の屋根で天窓もつき総勢10人程度が泊まれるようになっていた。小さなタイプは、斜面に造られていて、2階式もあり4人泊まりで可愛らしい作りだった。
全部で12棟あり、それぞれ12星座の名前が付いていた。 
テーマパークの星と森のロマントピア相馬は、県や国の支援事業と絡ませて作られており、過疎村特有の仕組みがあり、村負担の予算も最終的には、国の予算事業が当てはまる。
補助事業の予算では、2割が事務費として割り当てられている。
予算消化が求められるために、パソコンを筆頭に高額な文具に湯水のごとく予算を使っている印象を受けた。
民間企業では、事務費を湯水のように使う、考えられない経験になる。
第3セクターは、箱型予算と言われる。
事業計画予算は、当初に施設の建設等に割り当てられるが、運営にかかる継続予算は少なく、頭でっかちの竜頭蛇尾となる。
運営のための継続的費用が必要なのだが、予算化ではその考え方が無いように思えた。
立派な箱を造っても、ある期間が過ぎると運営費用が不足し身動きが取れなくなる。
何億ともいう設備には膨大なメンテナンス費用が掛かる。しかし、施設維持の費用が捻出できず行政のお荷物になる。
相馬村は、県の機関と入魂(じっこん)で大規模プロジェクト支援をいくつも受けていた。
それは、村の行政職員に優秀な人たちが多かったからと言える。
このわずか住民4千人たらずの村に国会議員が、二人もいることは考えられなかった。
私達が赴任した翌年に村の村長と議長とが二人揃って天皇陛下の園遊会に全国市町村議会議長と村長の肩書で招待を受けていた。 
 津軽の相馬村は、一種独特の村と言える。 
星と森のロマントピアの思い出のひとつは、満天ハウスになる。
私達が赴任したのが、3月30日。
そして、4月1日付で村の辞令をもらった。
(財)星と森のロマントピアそうまの支配人、部長、調理長の命である。
私は、それからの7年間をこの地で過ごした。
財団は村の経済課の担当となる。
村の職員が、管理部長として財団に赴任しており、行政とのパイプ役を担当していた。
彼は優秀な人で、行政がらみのことでは随分と助けられた。
その点、行政と摩擦を起こさずに運営できたのは、彼の功績による。
経済課長が優秀な方で太っ腹というのだろう、何もかも心得ていた。
ひとつは、職員採用であるがすべて我々に任せてくれた。
彼の言うのには我々に任せてくれることで縁故採用を遣らずに済んだと喜んでいた。
数十人の職員採用であったが、倍の応募があり管理部長と我々3名とで選にあたった。
その意味では、我々の思う通りの人選ができた。 
7月21日が、施設オープン日となった。
それまでの3カ月ほどが、施設の準備と採用スタッフの教育研修期間となる。
私のいた那須事業所は20数億円の売上を持つリゾートホテルだったが、その経験から準備室の任を担うことが出来た。接客や料飲関係スタッフの教育、調度品の購入、調理関係や取引業者の選定と見積と毎日が戦場だった。
それでもそれだけの経験と実績を持っていたからだろう、熟(こな)すことができた。 
スタッフの教育は私の担当だった。
全員を3班に分け、2泊3日で研修を組みその中に楽しみも盛り込んだ。
御岩木山の登山、ホテルと満天ハウスのコテージ宿泊体験、プールなどの利用体験だった。
私にはこれらの研修が思い出深いものとなった。
御岩木さんは津軽の霊峰標高625m。
津軽平野に美しく立つ。
初めての御岩木山の登山は都合3回登ることになる。御岩木山のスキー場のリフトを使い残りは歩き昇りつめた。
石ころだらけの頂上の見晴らしは、素晴らしかった。
風が強かったが、天候に恵まれて四方360度のパノラマを見ることができた。
御岩木山は、3方から登ることができ、裾野からのその道も見ることができた。
スタッフの中には、一度も登ったことがない者もいた。
岩山だったが、誰も怪我をせずに済んだ。
白鳥座のホテルでは、調理のつくる1泊2食の朝夕の献立料理を堪能した。
研修でない者たちが、慣れない手つきで接客をした。
満天ハウスのコテージでは、台所で調理しバーベキューとなった。
私達はその頃は村にあるソーラーハウスの村営住宅に住んでおり、私が一坪農園で育てた大根を持参した。 
大根サラダが瑞々しく野菜作りはこんなに簡単なのかと思った。
誰それがどうしたかとかの細かなことは思い出せないが、賑やかな時間を過ごしたと思う。
スタッフの内で村出身のものは半分ほどで、残りは弘前市内からだった。
みな気持ちの良い若者達で指導や扱いに困惑した記憶はない。 
いつも思うのだが、この地区は美男美女の多いところだ。
「相馬男に目屋女」という言葉をよく聞いた。相馬男は、もちろん相馬村の男のことだが、目屋は隣村の村になる。
世界自然遺産白神山地の入口の村になる。
幾度か白神山地の尾根を車で走ったが、緑と渓谷の鬱蒼とする尾根が日本海に続いていた。
スタッフの若い女性たちはみな揃って小顔で目元涼しく美人だった。
林檎畑で見かける女性たちは、皆日焼けしないように鍔広の帽子に頬っかぶりをして目だけをだしていた。
ときおり見かける素顔の彼女たちは、関東では見かけない美人だった。
津軽凧絵があるが、同じ顔立ちに見えた。
ときおり、長谷川和夫ばりのハンサムな男性を見かけることがあった。
今でもテレビで映る顔から津軽人を言い当てることができる。 
津軽でのことは、ひとも、津軽弁も、過ごした時間も、何もかもが芋づる式に、この満天ハウスとともに思い出される。
 
 
 

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