会津若松には、民芸品に会津木綿がある。
私の知る会津木綿は、原山織物工場の商品である。明治時代の創業で当時は織元は30数社ほどあったが、現存するひとつである。そして、未だに当時の豊田自動織機を使っている。豊田自動織機は、子どもの頃に豊田佐吉翁の偉業として教えられた。トヨタ自動車の前身の会社だが、機織りの女工に交じり悪戦苦闘して発明した話を鮮明に覚えている。
古代の被覆は麻になるけれども、私は麻の歴史を学んだことがある。
麻は、食料として、繊維として、縄文時代には優れた植物として重宝されていた。
数カ月という短期間で3メートルにも成長する。
繊維は、強靭な麻縄となり、細かな繊維を績むことで麻布を織ることができる。古代では、天皇家に汚れを祓う具として伝わっていた。
伊勢神宮の神宮御札や新嘗祭には生娘の織る麻布を纏い式を執り行う。
しかし、木綿が1500年代に日本に伝わり、目の粗い麻に代わるものとして普及していった。麻(苧麻)の布は、木綿の10倍の手間暇がかかると言われます。更に機能性として保温性や肌触りは、木綿にはかないません。競って木綿を栽培していました。そして、その木綿を染める藍も普及しました。
江戸時代には、換金作物として農村に普及し、度々木綿を栽培してはならぬの沙汰が幕府から出ています。作付け禁止令ですが、江戸幕府は石高制を採用して、米主体の経済政策を基本としていました。最初の頃は畑に作付けしていたのですが、田にまで作付けが広まったからです。
会津の木綿布は400年の歴史と謳われている。
会津藩では、蒲生氏郷が木綿栽培を普及させ木綿布の機織りを奨励しています。次いで伊予松山から国替えとなった加藤嘉明公が技術を伝え、更に保科正之公の推奨を受けて、さらに発展したと言います。
原山織物工場は、明治32年に市内に創業をしています。
彼で6代目。
他人の飯を食べに外に働きに出たけれども、じき家業を継ぐために実家に戻りました。伝統的な機織り業という家業は、職人としてと経営者としてと2つの道を歩むことになります。
彼の温厚さは年老いた優しそうな御母堂を見ていると理解できます。
幾人かの姉妹の後に恵まれた男の子だったのかと思います。唯一の後継者として本当に大切に可愛がられて育ったのでしょう。
私が知った頃は、市内では一番の老舗であり反物だけでなく、いく種類もの雑貨も作っていました。
そして、彼が中心となり段取りしていました。
しかし、東日本大震災で一変しました。
福島第一原発の事故により会津への観光客で持っていた物産は、売上が皆無となりました。
豊田式自動織機で作る木綿布は、現代の木綿布業界では、お土産的な要素でしか通用しなかったからです。優れた品質ではなく昔からの風合いを持つ趣味の民藝品の木綿としての価値でした。
その時の彼の苦労は、並大抵のものでは無かったと思います。
女兄弟の末っ子の男の子として育ち、お姉さま達には頭が上がらなかったのでしょう。
注文の件で電話をすると電話口のお姉さんは簡単なことでもすぐに彼に電話を回してしまいます。
その度に彼を呼ぶ声が聞こえてきます。
その声を聞く私には、彼が気の毒でなりませんでした。
ある時仕事上の依頼を彼にした時にいつもの覇気が見られませんでした。
電話口の彼は、明らかに疲れている印象がありました。
それから数日して工場に伺うことがあり、電話で彼の死を知りました。
公別式は数日前に済んでいました。 暗い客間の奥に仏壇が設えてあり、香典返しの白い紙袋が奥に並んでいました。仏壇に詣でて、ご焼香をさせて貰いました。
工場には、藍甕がありました。
ひんやりとした薄暗い湿気った土間に8個の甕が埋めてあり、そこで藍染めをしていたようです。
他の糸は化学染料で染めていました。
訪ねるといつも竹竿に染糸が干してありました。
その糸は藍染であり茜染でした。
事務所の奥にある工場からは、いつもガッチャンガッチャンという音が聞こえてきました。
彼の性格でしょう。工場内は奇麗に整理整頓されて、豊田式自動織機が並んでいました。
彼の死後は、後継者はなく工場を閉鎖すると聞きました。
数年たち、ある服飾デザイナーの方が、工場を継承すると聞きました。縁戚の方が工場を引き継ぎそのデザイナーの方と経営にあたると言います。
現代式経営は、従来の倍近くに価格を引き上げましたが、それも現代的なのかと思います。
それに似合う価値ある反物に変わっていました。
彼が一人で担った後継者の苦しみを思うと悲しい。
誰も救えなかった苦しみになる。
古い格式の家の伝統を継承しようとし戦い敗れて遂に倒れてしまった。
彼のことを私は忘れない。
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