天の川を見なくなって久しい。
天の川は、雲一つない漆黒の夜空に星屑が川となって流れるように横たわる。
今の街に住むようになって随分となるが、時折に風の強い夜に見ることがあったが、今では年に1度もない。この地は那須高原の一角の街で自然は豊かだが、生活が変わったのだろう。これから先、台風一過か秋から冬の季節の変わり目でないと見ることもないと思う。
昔、今では20年程前になるが、弘前で満天の星を見たことがある。本社企画のスタッ4、5人が弘前にある私達の出向先を訪れ、仕事が退けた後に一緒に鍛冶町に飲みにでかけた。私達はホテル開発会社のプロパーで、ホテル開設準備のために出向していた。津軽らしい飲み処を梯子した後に弘前駅から弘前城までの大通りを歩いた。その時夜空に天の川が広がっていた。天の川それは壮大な宇宙に存在する星の群生に思える。今では夜間に外出することもなく、また漆黒の空も壮大な天の川も見ることはなくなった。
神田で見た天の川は、いろいろな思い出が詰まっている。
あれは大学に入ったばかりの頃だと思う。学生生活にも慣れた6月頃で明治大学軟式テニス同好会の新入生歓迎会だ。
当初、体育会系の軟式テニス部に入ろうと思っていたが、ある人のアドバイスで思いとどまった。それで準体育会系の同好会にした。どうしてその方に出会ったかは思い出せない。生田のテニス部のコートを見ていて出会ったのだろうか。その方は後で知ったが、同好会の副会長だった。当時テレビで人気のあった柔道一直線の森田健作に似たナイスガイだった。テニスの力量はそれ程ではなく、団体戦のメンバーではなかったが、面倒見がよく本当に好い人だった。
私達の年代は当たり年と言えるのだろう80名ほどの新入部員となり、その夏の山中湖の合宿は150名ほどになった。短大学部の可愛らしい女性も多く男性は各県のチャンピオンが幾人かいて、また関東大会で8本や16本に残った者もいた。トーナメントで決勝まで勝ち残ったチーム数を何本と呼ぶ。それは知らずとなく覚えた。私は高校時代は県大会の実績はなかった。中学高校と一途に練習したことから学内では一番手で過ごし、それなりの自信があった。新入生には大学に入ってから始めた者も多く、私はテニスの上位者としてそれなりに過ごした。東京6大学の東大を除く5大学の同好会があつまり五連という組織があった。春秋の大会があり3年生の時に団体戦7組のメンバーにもなった。新人戦の個人では、8本程度には残れていた。
同好会では毎年新入生歓迎会を神田の料亭で行っていた。
学生向けなので、高級な料亭ではなかったけれども、先輩からその話を聞いて楽しみにしていた。会費はあったかどうかはもう覚えていない。
自分は下戸なので、この時はあまり飲まなかったように思う。
程々に飲めればよいのだが、飲みすぎた時はいつも吐いて酩酊した。その時は皆で揃って楽しく神田の街を御茶ノ水駅まで歩いた。入部して2カ月も過ぎていたので、先輩の人柄等も知っていた。噂で誰それが飲み癖が悪いとかそんな話を聞いていた。
やはり、案の定その噂通りで何人かの者が、つかまってグダグダとお説教を聞いていた。正座をさせらる姿は今でも懐かしいシーンとして思い出される。そんなことは、そのあとの飲み会では幾度も見かけた。仲間には一浪や二浪の者もいたが、同好会では年齢は関係なく学年の先輩後輩で接しなければならない。学部もいろいろで自分は農学部の農芸化学科だった。明治は商学部が有名でそちらの学部の者は、確りとしていた。他には有名な都立高校からの者もいて先輩たちは、そんな話を噂しあっていた。
仲間には人気者が居て、彼は「旗坊」と呼ばれていた。同好会には明治大学の紫紺の団旗があった。畳2枚ほどの大きさで大切にされていた。合宿の間中をテニスコートにたてるので、誰かがそれを持ってゆくことになる。合宿所から、テニスコートまで二列の隊列を組んで走る。およそ1kmも走るのだが、彼が先頭を走り、いつも団旗を持っていてそんなあだ名がついた。彼は一浪しており確り者だった。
私の周囲は一浪、二浪の強者が揃っており、田舎者のすべてに甘い性格の私は子ども然だった。大人しくしており、皆の後ろを付いて歩いた。
それでもテニスが好きで、毎日のように授業が終わると明大前の和泉校舎に通った。
テニスコートが6面あるが、半分を硬式テニス同好会が使っていた。
学割で通学定期を購入し生田校舎から来る者と同行した。
小田急線の生田から、下北沢で井の頭線に乗り換え、吉祥寺行きの3つ目だったろうか。
テニスのペアは自分たちの申請もあったが、先輩のペアのいない者に上手い者が宛がわれた。私は神奈川県のトップクラスの者と組んでいたが、その後には幾人かと変わった。私の場合ペアを幹部が決めてくれた。それぞれに強い後衛で真面目なだけが取り柄の自分をリードしてくれた。2年の時には団体戦のメンバーになった。
群馬のチャンピオンが仲間にいたが、4年生の伝説の人とペアを組まされた。テニスのペアと試合といろいろと思い出は尽きない。
9時も半ばを過ぎた頃だろうか、歓迎会もお開きとなる。最後は、畳の宴席に二重三重と円陣を組み、その中央に会長が出てエールと一本締めを行う。フレーッ!フレーッ!明治が繰り返される。厳粛な締めの時間。良く通ったあの声は、今でも蘇る。
料亭を出ると、そんな者達と並んで神田から御茶ノ水駅に向かって緩い坂道を歩いた。
まだまだ知らない世界に入ったばかりで期待に胸を膨らませ夢をいだいて新しい仲間と。
それぞれに賑やかに隣の者と話しながら楽しく歩いた。
天空を見上げると雲一つない夜空に天の川が壮大に広がっていた。久々に見た天の川、周囲の建物と広がった星屑のきらめきが、似合わなかった。
自分は「東京にもこんな空があるんだ。」と叫んだ。
それを聞いて仲間達に笑いが起こった。一瞬それからの楽しい時間を予感したように思う。
同好会の時間は、試合もその後の付き合いも膨大な時間が流れた。
今では40年の月日が過ぎた。
たった4年間の大学生活だったが思い出は尽きない。
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