先日幼馴染のやっている居酒屋に同級生が集まった。
そこに津軽で一緒に赴任した調理長の奥さんがいた。彼女は歌が上手く、彼のカラオケ居酒屋を手づだっていた。調理長はもう4年になるだろうか、病から亡くなっていた。
私はリタイアし職場を離れて10年になるが、めっきり行き来がなくなり、彼が亡くなったことは、聞こえて来なかった。時折は彼の勤める保養所を尋ねたりもしていたが、それも少なくなっていた。
ある時に誰からだったか忘れたが、彼の死を聞き家に尋ねた。
家を訪ねるのは初めてだった。
鳥野目街道から、少し入ったところに家があった。少し坂を上ると、盛り土した宅地に山から採ってきたらしき樹木が植えられていて、大きな庭石などもあった。調理長の趣味だという。
電話で尋ねると伝えていたからか、仏壇は奇麗になっていた。
仏壇に手を合わせ、奥さんから彼の死に際の話を聞いた。
彼は幾度も癌になり、手術を受けてを繰り返していたという。その期間は10年になるという。話を聞くと生命力の強い男だったと思う。
最後はもう頑張らなくても良いから、という話を奥さんがして、天国に召されていったという。
彼女は、かつて、大型ショッピングセンターのジュエリーの店長をしていて、商売には明るかった。リタイアしてからは、趣味のカラオケに励み、その結社のカラオケ大会で、幾度も優勝をしたという。リビングには、優勝カップがいくつも並んでいた。
その関係から、幼馴染の居酒屋でカラオケを見ているという。
そこで昔一緒に赴任した、弘前市営のテーマパークの話になった。
特に調理長は、その施設の理事長に可愛がられていた。調理長も奥さんも気立てが良いからか、スタッフや村の職員たちにも気に入られていた。
毎週決まって土曜日には、理事長が私達出向の3人を誘い、鍛冶町に繰り出した。
我々とは支配人、営業部長、調理長の3人である。
彼女といろいろの話をした後に「理事長さんはお元気でしょうかね。」の話となった。
津軽を離れて当初は続いていたお歳暮のやりとりも無くなり、風の便りで好きなゴルフも止めたと聞いていた。
彼は、ガッチリとプレイをしいつも80台で回っていたが、時折にそれも切った。
村内のことや鍛冶町のことは、理事長から教わった。
もちろんゴルフも。私は津軽に入った時はゴルフを始めた頃で、スコアは100台だったが、凝り性の性格からその内に90も切るようになった。
それも当然だと思う。
単身赴任の私は、毎朝1時間を練習場で1篭を打ってから出社した。
1篭千円だったろうか。着物センターと言い、弘前では誰しもが知っていた。休みの日にはよく役場の職員と出くわした。役場の職員には年間60回はコースに出るという強者が何人もいた。この地の公務員は暇な人が多いのだろうと思った。また、雪に覆われる冬の長い土地では、娯楽と言うと春を待って始まるゴルフが、人気なのだろう、と。
何言う経済課長も強者の一人で、いつも80を切っていた。
時折に来る本社の常務とは良い勝負だった。
調理長はキャリアがあったが、それほどの凝り性でもなく、私はその内に同じレベルになった。キャリアのない私は、当初は100を切ることだったが、その内に90を切るのが目標になった。理事長は酸いも甘いも心得た人で、プレイのマナーやいろいろな常識を教えてくれた。ゴルフでは理事長と握ることはなかった。握るとは、お互いのスコアから、賭けることを言うのだが、我々は3人とも下手すぎて理事長の相手にならない。
握ることは、恐れ多い。
鍛冶町では理事長がすべて支払った。鍛冶町は、弘前の3000軒とも、4000軒ともいう繁華街である。一晩で数件を梯子し最後は決まって、山科という津軽の中華そばを食べて終わった。村の人達は鍛冶町に出ると終わりはこの中華そばだった。細麺の鰹節出汁で実に旨かった。昼に役場で会い、夜は鍛冶町で会う。
理事長はいくつかの店で何万円も使い馴染みの店では付けにしていた。いつも羽振りが良かった。津軽では「えふりこき」という。村の助役が公社の理事長を兼務していた。そして村一番のリンゴ農家だった。40代の息子夫婦に二人の孫がいて、愛妻家でもあった。
行くとビーグル犬がいた。あがれと言われあがるが、大きな造りの家だった。その内に建て替えて新しい家にする話をしてくれた。ここに床の間を持ってきて、雪見障子にして、廊下には夏と冬で畳を入れ替えてと楽しそうだった。自分の代で家を造ることは、彼の自慢になるのかと思う。随分と贅を凝らした家になった。我々は古い家も新しい家も訪ねていた。
我々は3人だったが、理事長は好みもあっただろうが、そんなそぶりも見せずに分け隔てすることも無く接してくれた。未熟な我々には、男気のある方に思う。
昔も今もリンゴの値段は変わらず、戦後直ぐの頃は今よりも高かったという。それは伝説の価格だった。木箱1箱が昔は7,000円もしたという。林檎御殿ではないが、その村は裕福な村だった。その村の人達は、林檎畑から作業着と長靴の格好で鍛冶町に飲みに出た。金があるが、町の人達に通じる常識は持っていない。「金があるからと言って。」そんな目で、鍛冶町の女達は村人を見ていた。採用した弘前のスタッフや村の人達は、そんな話をしてくれた。
鍛冶町からの戻りは、決まって午前様だった。理事長は飲みつかれ、決まって寝むり込んでしまい、我々が家まで送った。寝込んでいる理事長を起こし、家まで届けるのは調理長の役目だった。彼の言うことなら理事長も聞いた。喜んで聞いていたように思う。
馴染みのタクシー代行があり、いつもチケットで支払い、我々が負担することはなかった。鍛冶町の駐車場も決まっていた。駐車場の兄ちゃんも心得たもので一言三言で事が済んだ。
我々は、そのあとに弘前迄戻るが、そのまま村にあるホテルに泊まることもあった。
私のアパートは桔梗野にあり、3人は直ぐ近くに住んでいた。
ホテルでは宿直の担当者に伝えてあるので、部屋を取っていた。
時折役場の経済課に書類をもって行くこともあったが、理事長は中央の助役の席で対応していた。村の助役は個室こそなかったが、偉かった。
飲みの次の日は、役場のフロアの中央にある助役席で、居眠りをしていることもあるようだ。時折村長から呼ばれて、村長室に入ることもあった。村長は、私の父と同じ年齢だったと思う。本当に人格者でもう何年も続けて村政を担っていた。奥さんが愛子さんといい内親王の愛子さんと同じだと話してくれた。鍛冶町に行きつけの店がありママは、素人然の40代だった。私は店を訪ねたことはないが、村長の女とのエピソードを聞いた。村の人達は誰しもが知っていた。
当時青森県の木村守男知事が、後援会の女性問題を議会で取り上げられていたが、土壌の違いになるのだろう。村では誰も問題にしていない。皆当たり前と思っている。
村の男達は鍛冶町に出ると右へ倣いだったように思う。役場の人達や先輩たちと鍛冶町で飲む時は、決まって朝までになる。コンパニオンを呼び、我々では想像もできない遊び方をしていた。上から下まで皆が皆だった。
ゴルフでは、良く我々3人と理事長ででかけた。
一度は雪の日で、岩木山麓にある津軽カントリークラブだった。上り下りの勾配がきつく距離の長いコースだったが、冬が早い。きっとシーズン最後の日だったように思う。
1ホール頃から雪が降り始めたが、3ホール目のグリーンでは、かなりの降りになり積もった。白く積もったグリーンを、ゴルフボールが雪を纏い転がり、最後にパカリと壊れた。
これでは諦めざるを得ない。3ホールであがることになった。当時も今も笑い話のひとつだ。
その時間では鍛冶町に出るには早く、どこで飲もうかの話となった。それで調理長の家で飲みとなった。
奥さんもいて、理事長は土手町のデパートで食材を調達してきた。肉のベニヤだ。細かなところまで気の利く人だ。その後時間が来て鍛冶町に出た気がする。
村には支援プロジェクトで手長エビの養殖があった。勿論県や国の予算が降りていた。
大きな養殖のハウスがあり、6つ程の直径10m深さ1m強のタンクがありそこにエビが養殖されていた。何人かの方々が養殖組合に名を連ねており一人は議会議長だった。なかなか上手くゆかずテーマパークの名物食材として利用することになっていたが、難しかった。
殆ど生産することができずにいた。私の家で鯉や金魚、鰻の養殖を経験していたことから、見る限りこの取り組みでは難しいと思えた。
林檎の村の村政は、優秀な職員がいたことによる。経済課長も助役も出納役も確りした方々だった。
村では村長選がある。理事長は出馬したことはなかったようだが、何人かの村の有力者が候補になっていた。現村長は、4期ぐらい続いていたように思う。助役になるにはやはり村の派閥のパワーバランスが関係する。村長派に付くことで得られる役職と言える。理事長は性格的に厳しい方で、村内に敵も多かったことから、村長になる人ではなかったのかと思う。
若い頃からその性格から友人が少なくリンゴ農家のつきあいだけでは寂しかったようだ。57歳の頃から、ゴルフを始めたと聞く。
嶽温泉に津軽カントリークラブの嶽コースがあり、1日回っても2,500円だったように思う。セルフで回るのだが、それなりに長さもありいい練習になる。9ホール目はロングの打ち下ろしで距離もあった。村の職員の話では、ゴルフを始めた頃は毎日のように嶽コースに通ったという。我々の知る理事長は、常に80前後で回っていた。それでも80を切ることは少なく残りの数ホールで大叩きをして逃すことが多かったようだ。決まって、ゴルフの後は鍛冶町でその日のゴルフ仲間と飲んで楽しんでいた。良く「ゴルフをやってよかった。」と我々に話していた。
また、岩木川沿いの河川敷にもショートコースがあり、そこも恰好の練習場だった。二つのコースは理事長から教わった。3人では私が一番練習熱心だった。
河川敷や嶽コースに時折に一人で行き、半日は練習三昧となる。河川敷では、誰も見ていなかったがホールインワンを経験した。単身赴任で暇を持て余していたこともあるが、90を切るのが目標だったからだ。凝り性だったからか1年位で、90台になった。
その内に90も切れるようになった。
ある時本社の常務と理事長との4人で、鰺ヶ沢カントリークラブのコースを回ったことがある。ハーフを38で回り残りのハーフを44で回った。82が、私のベストになる。ゾーンに入るというが、ロングパットもカップに吸い寄せられ、そんなプレイが幾つも続いた。
視察名目で、本社の役員と我々出向者で、財団の役員をご案内した。福島や那須の事業所に出かけることもあった。
勿論名目は視察だが、本社の財団役員の接待になる。決まってゴルフがある。我々は、兵隊なので本社役員の指示で動く。そのようなことも楽しい思い出だが、村にはそれらに反感を持つものもいた。やっかみである。
我々の実績は素晴らしかった。当初のシミレーションの目標数字を大きくクリアし、村の人々は驚いていた。スタッフの教育やイベントも成功し、新しい企画提案もあり順風満帆だった。しかし、何年か後に助役が変わった。
別の助役が理事長となった。これもパワーバランスの結果である。
今度の助役は、真面目な方で鍛冶町に飲みに出ることはなかった。優しい人で敵も少なくやはり優秀な方だった。田中理事長とのことは、津軽そのものだった。私は7年間になるが、理事長との時が一番良い時だったかもしれない。未熟な自分は理事長にはいろいろと教えていただいた。津軽というと、理事長とのこと抜きには思い起こせない程、濃い時間を過ごした。思い出は尽きない。
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