2020年7月2日木曜日

悲の器

学生時代に「悲の器」の言葉を聞いた。
当時誰しもが知る高橋和巳の小説のタイトルだ。
第1回文芸賞受賞作。
粗筋は知ってはいるが読んではいない。
このタイトルに惹かれた。
松本清張に砂の器がある。
人を器として表現する。
悲しみのいっぱい詰まった人を表す「器」の言葉に惹かれていた。
仏僧の言葉に「人は悲しみを背負ってこの世に生まれてくる。」がある。
琵琶法師の吟ずる平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす…」とある。
この齢になり己の悲しみをみている。
毎日来る孫がいて2歳ちょっとになるが、本能のままに無邪気に自由奔放に振る舞っている。
燥ぎまわり、叱られ泣いて直ぐに笑い喜怒哀楽をそのままに賑やかである。
かつて物心ついた自分もそうだったように思う。
小学校から中学、高校へ進み更に大学に進んだ。
そして、就業し30年が過ぎた。
今は第3の人生と言えるリタイア後の時間を過ごしている。
中学校ではそれほどに悩むことなく自分に正直に振る舞っていた。思春期を迎え青春を謳歌し妻を迎え家族を持ち、そして、社会ではそれなりの立場になり人生という大河を泳いできたように思う。
しかし、振り返ると当時は気づかなかった周囲の人達の姿がそして心が見えるようになった。
そのことが推し量れる年齢になった。
とうじ自分がその人達に悲しみや怒りを与えたと思うと心が痛んだ。
そのようなことに思いいたり悲しみが心に刺さってくる。
 
仕事では、30年のキャリアとなる。
全てのことを仕事を通して学んできたように思う。
 職場や御取引先とお客様そしてライバルなど、男女のことも職場から学んだ。
給料を頂戴しながらになる。
ホテル業に就いたのは29歳の時になる。
3年ほど勤めた家業が上手くゆかずに家を離れた。
その時に最初に性に合う接客業が思い付いた。東京にいるときは、築地の果物売り場や場外の魚類売り場で働いたが、その後に接客業のキャバレーや喫茶店で働いた。大人しい性格で人に喜んでもらうことが好きだった。自分には、接客業の水があったようだ。
那須温泉の老舗のホテルに就職し安堵した。
学卒だが会社勤めの経験のない29歳という年齢からか、1年間の使用期間があり問題がなければ本採用という条件でだった。しかし、本採用かどうかの確約はない。一家4人の生活にはぎりぎりの安給料だった。
勤められたのは良いが悲しかった。大学に8年間という時間を過ごし2年間という海外の旅も経験していたが、就職となると何の役にも立たない。
その道を選んだ自分のせいになる。
会社勤めの常識も知らずにただ一生懸命に働いた。
1年後に本採用となった。
あとで聞いた上司の話によると、その時の接客支配人が自分を「必ずや将来大きな戦力となる人材だ。」と評価し推薦してくれたという。
彼は能力が高く素都のない人で最後には専務まで上り詰めた。
私には恩人になる。
接客支配人と担当上司と私との共通項は、学生時代面識はなかったがテニスをやっていたことだった。
また、直属上司の彼は同学年で目をかけてくれた。
既に家族を持っていた私を不憫に思ってくれたのだろうか。
いちど、テニスの練習をしている市営コートに見に来てくれて、少しの時間一緒に練習したことを思い出す。さすがに学連でやっていただけあって、私よりも数段巧かった。
その時の私は子ども二人を持ち妻との四人家族になる。子どもは保育園に入る年齢になっていた。
よく継ぎ接ぎの御下がりの衣類を着ていた。義姉の娘のお古だ。
子ども心に一緒に遊ぶ近所の子ども達に引け目を感じていたのかもしれない。一二度そんなことを話したことがある。悲しい思いをさせていた。それを聞く妻はもっと切なかったかも知れない。
妻は裕福な家に生まれ苦労など知らずに育っていた。9人兄弟姉妹の末っ子。母親が46歳の時の子になる。母は手元に置きたかったようだが、それを捨てて自分のところに嫁いできた。
妻は内職を始めたが、足りない分はどこからか工面していたようだ。
実家の年老いた母から借りていた。
義母は可愛い末っ子の妻にくれた気でいたが、本人は返さなければと律義に思っていた。
ある程度落ち着いたときにその金額は、数百万円になっていたと聞いた。
私が50歳半ばの頃だ。
それを聞き数年で返済したが、私はそんなことも気づかない男だった。
その頃はまだ学生気分が抜けきれずに何とかなると言った風情だった。
贅沢はしなかったが、必要な時は金がなくとも使っていた。
恥ずかしい話だが我慢することを知らなかった。
パチンコや女や飲むと言ったことはなかった。
好きなテニスと仕事に精を出していた。早起きテニスの人達とは、楽しく過ごすことができた。とうじ50人ほどいたママさんテニスのコーチなどもしていた。少し若手のテニスの上手い男性ということで人気もあった。子ども二人は妻任せで構わずにテニスと仕事にかまけていた。
よく言われた「独身ですか。」と。
今更に思うが、全くのとっつあん坊やだ。
 
仕事では接客のレストラン担当となり、もともとキャバレー仕込みで好きで得意な部門だった。笑顔があり人あたりがソフトでお客様にも人気があった。呑み込みも早くメニューやドリンクの知識も人一倍勉強した。その内に夜の部門になりそちらも上手にこなした。
半年ほどで直ぐに配置換えとなり企画と売店担当になった。
29歳の学卒を早く一人前にするための人事だと思う。
この企画では、勉強になった。
この時の経験が、現在の通販の仕事に結びついている。
下野手仕事会という伝統工芸の職人さん達とのお付き合いがあり、郷土資料館の尾島利雄先生と知り合うことができた。
先生には随分とご迷惑をおかけしたが、根気よくご指導くださった。
人の酸いも甘いも弁えた方だった。
私には手仕事や民俗芸能に携わる人々をまじかに見る機会となった。
一緒に随行するだけで勉強になった。
会社勤めとは縁のない職人気質の人達を束ねて県の伝統工芸士の資格を取り付けていた。おなじく民俗芸能保存会関係でも先生のお墨付きで国の指定認可も取り付けている。
そんな職人達とのやり取りをコミカルに描いた「おらやんなっちゃった。」の著書がある。
天皇陛下の御進講は尾島先生だった。
母親思いの方でいつも講演では下野の女として母の御恩を語っていた。
その尾島先生の講演を幾度も聞いていた。私のその後のホテル講演やイベント司会のテクニックは先生直伝といえる。
スピーチにはコツがある。
文章を覚えるのではない。趣旨をまとめ思い情熱を語ること。
起承転結の文章は覚えるが、言葉を逐次追うのではなく思いを語ることになる。
先生は栃木県知事にアポイントなしで常に会いに行っていた。
そして、それが出来た。
先生は、私の赴任先に幾度も訪ねてくれた。
津軽でも、あぶくま洞でも。
常に気にかけてくれ、お土産を持ってお弟子さんを伴い訪ねてくれた。私が長年、友人と思っていた幼馴染がいたが、青森に来たが訪ねて来ることはなかった。津軽に単身赴任で7年もいた。人はこうして狂うのかと思うほどに眠れぬ夜があった。
那須湯本にもすぐ近くまで来ていたようだが、訪ねて来ることはなかった。そこまで来たなら寄ればいいのにと思ったが、全部後で聞いたことだ。
人の気持ちは図れるものだと思う。
私が勝手に友達と思っていただけになる。
今幼馴染の集まりでは彼は呼ばれることはない。
しかし私も逆に同じことを友人にしていたことが思い当たる。
そのことを思い出す度に心に刺さり痛む。
 
私は仕事に真面目に取り組んだ。
いつも業界紙を月決めでとり勉強していた。
そして企画が得意だった。
長年営業企画に籍を置き随分イベントを提案していた。その後、昇進し第二接客課のマネージャーとなった。
従来はあまり陽の当たらない部署になるのだろうか。
新しいGMが来られ、事業所の売上達成を大きな目標にしていた。
部門の目標達成率で四半期ごとに成果報酬をだすことになった。第2接客課は、2年いたことになるが、部門売上だけで年間目標を1千万円もクリアしていた。私の部署だけが、目標をクリアしそして、その報酬を得た。四半期ごとの全社員集会では常に表彰されて、年間の褒章金額が50万円を超えた。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
その後、フロントの課長、販売部の課長を担当した。
同時に係長やマネージャーを束ねて業務改善チームを立ち上げた。そして、顧客満足の観点から改善を行い社内や本社の評価は高かったと思う。
予約の時には、顧客へのDM戦略で大きく集客を増やした。
那須事業所にOOありを自他ともに認めていた。
しかし、勢いづいた私は、表立ってトラブルはなかったけれども問題の芽を育てていたのだろうと思う。傍若無人に振る舞うことはなかったが、人のやっかみの目はあるものだ。
部下や同僚の目はどうだったのだろうか。
もともと自分勝手で人の気持ちを読めるタイプではない。まして、人の話を聞きやる気を引き立てることは考えたことはない。正攻法というのか正面切って理屈で論破して自分の意の通りに進めていた。
表立って敵はいなかったが、隠れて反発する人もいたと思う。
この結果が、「鉛味の人事」になる。
 
妻とのことは今更ながら後悔の念となる。
苦労のかけ通しだったように思う。
縁あって一緒になった女性になる。
幸せにしなければの気持ちがあるが、少し余裕ができた時には互いに年を取り何もいらなくなっている。
念願だった二人旅にゆこうと声かけるが、今は妻の体がもたない。
リウマチ系の病気になり足も痺れ長く歩くこともままならない。
脊柱管狭窄症という。
老いると男性も女性も現れる症状だ。
妻はキャディの仕事を長年行っていた。
膝の軟骨が擦り減って、また、腰が滑り症だという。
一泊の温泉旅も難しい。
夫婦には相性もある。
二人のことはお互い様と言えるのだが、「すまない」という気持ちと「し方なかった」の思いがある。
貧しい道をあゆみ二人の子どもを世に送り出した。
ともに戦い生きてきた「戦友」の気持ちがある。
ここでは触れないけれども、人には話せないことになる。
あの世で詫びようと思う。
 
学生時代は都合8年間になる。
入学は明治大学の農学部農芸化学科になる。
私立大学では有名な岩本教授の応用微生物研究室に籍を置いた。そこでは、藍藻スピルリナ・プラテンシス(Spirulina Platensis )のテーマを与えられて、培養から生体成分の分析まで行っていた。
当時五千万円を超える高額なクロマトグラフィーの機械を使い、生体成分の分析ができた。クロレラが話題になっていて、まだ、藍藻のスピルリナは未来の研究テーマであり、先端を行っていたように思う。
確りとした先輩と仲間が居り外房館山にある海の家の旅行なども行い楽しい時間を過ごしていた。
中のひとりはアルバイトを紹介してくれ、その内に広島の三次市の5歳ほど年上の先輩を紹介してくれた。その先輩には随分とお世話になった。
会計士を目指していて三年位になるのか国家試験に挑戦していた。彼は明治の商学部で風貌は高倉健に似ていた。
高倉健は明治の先輩だと話してくれ、若い駆け出しの頃に淡路千景に可愛がられていた話をしてくれた。
お父様は立派な方で、京都のタクシー会社の重役をしていた。
そこのタクシー会社でアルバイトをした時に居酒屋につれてゆかれご馳走になった。初めて海鼠を食べた。
特殊な匂いと歯ごたえが今でも記憶に残っている。関西では正月の定番料理だったようだ。
明治と立命館とのテニス交流戦が、毎年相互に訪問しあってあったが、その年は立命館の登板で御所のコートになった。
御所を入ると中央の木陰の中に5面あった。
交流戦の当日はすこし雪が舞っていたように思う。
それに合わせて一か月程アルバイトで滞在した。吉祥院這登の運送会社の助手として過ごした。11トンの大型トラックで北陸や九州、四国まで行き面白い経験となった。住まいは、住み込みの従業員室が当てがわれた。
一か月間日曜のたびに嵐山や南禅寺などの有名な観光地巡りをして過ごした。
一度真鶴から来ていた木戸さんという運転手さんに生意気な口をきいて殴られた。大型トラックで酒を飲み運転をしていたことに助手の私が何か生意気なことを言ったからだが、木戸さんは腹に据えかねていたのだろう。その夜酔って絡んできて殴られた。それを見ていた別の東京から来ていた方が、慰めてくれたが、自分は後悔した。
テニスの宿は、鴨川沿いの四条の旅館だったように思う。
その京都での1か月は、学生時代の思い出の一つになった。
そういえば、あの公認会計士を目指していた先輩はどうしたろうか。
岩本応用微生物研の人達は、その後行き来がなかった。
同期ではひとりが筑波大学の修士になり、協和発酵(株)の研究室に入ったと聞いた。
彼は、アルバイトに明け暮れて苦学生だったが、学業をやり遂げた。
尊敬している。
彼に清掃のアルバイトを紹介されて、お世話になった。
その後のことは、キャバレーチャイナタウンや美田で触れている。
皆そうなのだろうか、私なりに無鉄砲な学生時代を送っていた。
 
神奈川のテニスの友人たちは、皆真面目だった。
生田校舎にいた頃は、誘われて江ノ島や鎌倉などに遊んだ。
藤沢から来ていた友の家にも泊まりに行った。
藤沢駅から歩いて、30分ほどだが、山手にあり乳牛を飼っていた。
光明君と言ったろうか。
末っ子で上の兄弟姉妹からは、みっちゃんと呼ばれていた。
青い目のダルメシアンの子犬を飼っていた。4年の時に好きな女性がいて、告白していたことを覚えている。
横浜の大和町にいた友とは同じ学部でいつも吊るんで行動していた。
私は彼といろいろと友達付き合いをしていたが、彼に済まないことをした記憶がある。
よく私の下宿にも授業の合間に中休みの時間に来ていた。
しかし、私の田舎に友人たちが4人程で来た時に彼はタイミング悪くその仲間から漏れてしまった。
車が1台だったこともあるが、それがずーと悔やまれた。
自分の結婚式の時も司会を頼もうと思ったほどだ。
彼は、司会は苦手だとして断ったが、私は一番の友達に思っていた。
卒業後、田舎に引っ込んだ自分は、何かの都合で東京に出た時はいつも良く待ち合わせた。
そして、京橋に勤めていた彼は、いろいろな店で奢ってくれた。
それが目的ではなかったが、金回りの悪い自分は、ついつい奢ってもらい返すことをしなかった。
気が弱く割り勘で行こうとか自分が払うということが言えず、奢ってもらい続けた。
その様なことが続いて、彼は感情を害したと思う。
東京に出ても会うことが無くなった。
ある時彼の家に電話すると素敵な女性がでて、彼を「あなた」と呼んでいた。
結婚していた。
声の感じからして、素敵な好感の持てる女性だったように思う。
彼は、仲間内ではいつも阿保な役を演じていたが、島崎藤村の詩を吟ずるようなそんな詩心がわかる感性豊かな男だった。
恥ずかしがり屋だったのだろうと思う。
そんな彼に私は頼りっきりで付き合っていた。
一言を言う勇気がない、気が弱かったからだが、大切な友達をなくしてしまったと思う。
人生に大切な「勇気」を持ち合わせていなかった。
その後、あの素敵な声の奥さんは亡くなったという。
若くして突然だった。
ご病気だったと聞いたが、その後彼に会う機会はなかった。
彼が再婚した話は聞いていない。
私には悔やまれる大切な友の思い出になる。
 
人生を通して、対人交渉が苦手だと思っている。
本部の常務と飲む機会があり、「お前は営業は得意じゃないが、企画はぴか一だ。」と言われたことがある。自分では不本意だったが、そうかもしれない。
彼はその後本社の社長となった人物だ。
人を見る目も人に対する関り方もよく弁えていた。
彼は私のことを見抜いていた。
 
「鉛味の人事」で書いた、私と支配人との確執の原因となったことは常務から聞いた。
次長の私が何故5歳も若い係長の下の人事になったかだが、彼は言った。
「支配人人事は初めから決まっていた。下に誰を持ってくるか探していておまえになった。」と。
当時の本部役員の考えたことだが、私には知らず怨恨となった。
私は人の洞察力や人の気持ちを思い図ることは、苦手だった。
粘り腰というか、売ることに関しては強気の押しがなかったように思う。
思い付きの発想力があり、それを企画にまで持ってゆき、それなりの実績があった。
那須事業所でも津軽でもそれが、成果を上げた。
営業力はその両方の掛け算になるので、総じては実績を残せたように思う。
その粘り腰というか押しの強さは、自分自身に対する自信だと思う。
「成功体験」というが、私はいつも気の弱さから「負け犬」だったように思う。
神奈川のテニス仲間に自分のその気の弱さをみて「可哀そうだ」と言っていた者がいた。
その友達はハンサムで末っ子の甘ちゃんだったけれども女性には人気がありモテた。頭もよく彼は東大を目指していた。自分たちの時は東大紛争から、東大を受験することが出来なかったが、それで明治の工学部に来た。
しかし、どこかで間違えたのだろう。
大きな建設会社の社員となり全国の工事現場をそれなりのポジションで歩いていたが、四国の現場でいつも通う飲み屋の女性を連れて逃げたと聞いた。
彼女にはヤクザが付いていたと聞いた。
もちろんヤクザに追われ職場も捨てたことになる。
その後の便りは聞かない。
彼は賢く私の弱い性格を見抜いていた。
自分を振り返るとそれなりの才能を持っていたが、それを活かす「勇気」を持たなかった。
同じことを長年有名なホテルで働いていた仕事のできる者に「勿体ない」と言われた。
やはり、押しのことであり、もう一歩の勇気だったように思う。
それが為に自分に関わる人に「悲しい思い」をさせたように思う。
「勇気」「強さ」は「優しさ」になる。
自分にはその「勇気」が掛けていた。
それが為に周囲の人達を悲しい目にあわせたと思う。
 
この齢となり今更にその時々のことが思い出される。
悲しい思い出だ。
「悲の器」の言葉がそのことを思い出させる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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