2020年7月10日金曜日

徒手空拳

「徒手空拳」の言葉は武器を持たずに身ひとつで戦うイメージなる。
サラリーマンは、誰か派閥の下でいるときはそれほどに酷い人事にはならないが、離れた時は諸に受ける。
総務畑にいると36協定なる言葉は誰しもが聞いたことがあると思う。
労働基準法の時間外労働休日労働に関する協定書になるが、中小企業では知ってはいるが、殆ど守られることはないと思う。

自分が長年お世話になったホテルには、労働組合はない。
経営協議会という名の社員の代表組織があった。
その代表には、会社(事業所)の御眼鏡に叶う人材が選ばれるようになっていた。経協委員はマネージャークラスの者がなり、社員にも事業所のトップにも信任が厚かった。
長年事業所の経協委員となっていた者がいたが、穏やかな人柄に部下からの信頼も厚く適任だったように思う。
本社総務の人間が来ると時折にそのようなことで情報交換なども行っていたようだ。
自分も一度経協委員に選ばれたことがあったが、どうという内容ではなかった。いずれにしろ形式上の代表であり問題のあるようなことは皆無だったからになる。
実質、那須事業所の営業畑にいた時は業務優先で働いていたし、公休消化は殆どできていなかった。有休以外に年間120日は休みを取るべきだが、70日位しか消化していなかった。上司も総務も何も言わなかった。それが、長年の慣行だった。
成田や浅草事業所の経協では、120日を超える休日を消化しそれ以外の有休消化率を問題としていた。当時の那須事業所ではあり得なかった。

それでも、「鉛味の人事」のようなことは人事のことであり、労組問題にはならない。会社側に対して物申すこともなかったが、「徒手空拳」の言葉が浮かんだことが、2度程ある。
一度は津軽やあぶくま洞の出向から、那須事業所に戻ってからになる。
「鉛味の人事」の際にもう2、3つは、書けるとしたが、その一つがあった。
ホテル事業部からお払い箱になり、自分で次の出向先を決めることになった。
その際に担当だった本部の部長は、何も面倒を見てくれなかった。
自分で移転先を見つけて来いという。
あぶくま洞では担当としてきたが、来ると必ず飯の話と宿の話で不満を言っていた。そして、必ず会社の費用で食事をした。
とんでもない方だったが、悪いことをしているわけではない。
それが本部の上司になる。
それでいて、出向先の行政の前ではそれらしい言葉で対応し良好な関係を維持していた。
彼らの術と言える。
出向先で精神を病むほどのストレスを受けながら仕事にあたっていた。
しかし、契約が終了すると次の転籍先は自分で探せという。
徒手空拳という言葉が、浮かぶ。
従来の給料の半分ほどの給料で那須事業所に戻る道を選んだ。
戻ってからが、悪夢となった。
55歳になる。
支配人の肩書はもらったが、居場所がない。
次の世代が仕切っていた。
10年以上も那須を離れていて、世代のギャップを埋められなかった。
外で仕事をしていた自分には、旧態依然の組織でどうしようもない態にみえたが、それを改善するには無理があった。
那須事業所の社長には、人事構想があった。
ある男をGMにするという構想だった。
彼は、1年ほど前に職を失いホテルに戻った。
20年近く前に家業を継ぐためにホテルを辞めて行った者だ。
当時は係長だった。
20年近いブランクがある。
いくらでも歴戦の強者の候補者はいたろうに。
そして、嘱託からGMに抜擢するという。
社長はワンマンな男だった。
皆が呆れたが、それが、出来た。
嘗て、自分がフロントの課長時代にその社長は当時の人事の悔しさから、悪酔いをして、トイレで糞まみれになったことがある。同僚が先にGMになり口惜しさからのようだ。
私ともう一人のフロントのもので介抱し、浴衣を着せて客室に休ませたことがある。
しかし、その後フロントのものをナイトフロントに左遷した。
その後は彼は浅草のGMに移動して行った。
栄転になる。
私はそれから随分とたったが、新しいGMの下で津軽に飛ばされた。

私は抜擢されてGMとなったかつての同僚に反発した。
私は居場所がなくなった。
支配人肩書の私はナイトフロントに左遷されることになった。
その話を総務課長がもって来た。
私は即座に退職を伝えた。
残こされていた休日と有休を賃金として計算するよう回答した。
社長は私と争うことはせずにそれを飲んだ。
金額は150万円ほどになった。
それを聞いて驚いたが、2年間の退職金に代わる金額と言えよう。
「徒手空拳」の言葉になる。
ワンマン社長の構想にひとり対峙したが、36協定が自分を守ってくれたことになる。
そんな話をきいた同世代の者が、「いやなら、自分でやればいい。」と話してくれた。
彼は温厚な常識的な人だった。
私のもっとも尊敬するタイプの人になる。
ある時には私の噂を聞いて忠告してくれたことがある。
激しい言葉ではないが、こころに響いた。

その後、捨てる神あれば拾う神ありの話となった。
那須を離れ路頭に迷うことになったが、直ぐに次の事業所を紹介された。
私を拾ってくれたのはホテル開発の者だった。
いつも浅草に出ると「鯛や」でいろいろと面倒を見て接待してくれた。
那須事業所でも津軽でもお世話になった。
給料もかつての出向時の給料に近いもので副総支配人の肩書だった。
そこはホテル業務を知らない会社でそれなりに実績を残すことができた。
終の職場にしようと思ったほどだ。
しかし、契約から私はその新しい職場を3年後に離れることになった。
離れる際に彼のメンツを潰すことになった。
36協定から未消化の休日を買い取ってもらった。
本当なら、私の主張は常識的にもあり得ない話だったけれども。
相手は、一部上場の名門企業だ。
コンプライアンス上からそれを認めてくれた。
彼等にとり労使間の問題を起こすことは汚点となる。
彼等の生きる術なのかもしれない。

私には「徒手空拳」の言葉が浮かぶ。
那須を離れて津軽に飛ばされたが、その際に芽生えた怨恨が根を張っていた。
そして、10年が過ぎ使い捨て同然に扱われた。
彼等から言えば自業自得になるのだろう。
仲間には責任はないが、会社に対しては義理はない感情となる。
会社は人によって動く。
会社のせいではないと思うが、その時に関わった人々になる。
那須のワンマンな社長は今どうやっているのだろうか。
消息は聞こえて来ない。
彼の生き様を小説にしたいと思うことがある。
彼を知る同僚は今でも彼の名を聞くと声を荒げ罵る。
社長を殺すことを夢に見るという。
彼はそれ程の怨恨を受けている。
同僚は、かつて社長が糞塗れになったときに私と一緒に介抱したフロントの者だ。
私は社長のような生き方、それもありと思う。
しかし、それを許した本部の取締役達への憤りは消えない。
同じ取締役という仲間意識だと思う。
それが彼等の所施術になる。
そのホテルはみずほ銀行管理を離れヒューリック傘下のホテルとなっている。
このコロナ禍では、接客業は成り立たない。
今後どのように生きてゆくのか。
世界中が大変な時になった。
旧知のものに状況を聞くと人員カットと10月までの支援金で遣り繰りをするが、それから先はどうしてよいかわからないという。

「徒手空拳」の言葉は、やせ犬一匹の姿にダブる。
ゴロツキのような態で生きてゆく姿が自分にダブる。








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