2020年7月8日水曜日

ネットワークビジネス

ネットワークビジネスとの出会いは、丁度東日本大震災の時になる。
というのはそれを契機にスタートしたからである。
それまでネットワークビジネスのことは名前ぐらいは知っていたが、私の関りにはなかった。
しかし、それが虎視眈々と狙われていたのが、今になり分かる。
そこにはスキだらけで無防備の自分がいた。
 
私は伝統工芸品の通販サイトを運営している。
東日本大震災の時には、弘前にいた。
数日前に着いていくつかの工房を訪ねていた。
弘前は車で走行距離530km。
津軽の工房は10数軒になり弘前の宿を拠点にして車で行き来していた。
遠くは、五所川原や平内町になる。
その日は、土手町の中三で知り合いの方と会っていたが、その最中に揺れが来た。
大きなビルがゆったりとそして大きく揺らぎ只ならぬ恐ろしさを感じた。
早々と別れてビル1階の喫茶店を出ると大通りは空が暗くなり足早な人々の姿があった。信号機は止まり車がクラクションを鳴らし行き交っていた。そこは不気味で不穏な空気が漂い一瞬にして映画の世界にタイムスリップしたようだった。
その日はそのあとに下川原焼土人形の写真撮影を予定しており、その足でそのままに訪ねた。車で30分ほどの距離だったが、途中東京の娘から携帯に電話が入り、安否を気遣う言葉があった。娘も大丈夫だというが、東京は大変だと言っていた。栃木の妻ともう一人の娘とも何とか連絡が取れ無事のようだ。
一瞬のその時間帯だけ携帯がつながった。
その後はどちらともいくら掛けても繋がらなくなっていた。
下川原焼土人形の撮影は午後の3時半頃からスタートし商品数も多く随分と時間がかかった。
停電が続いていて遅くなると工房は暗く撮影が出来なくなったが、辛うじて終わすことができた。
宿に戻り、翌日に家に戻ろうと安易に思っていたが、停電からガソリンを入れることも出来ずまた、高速は全面不通だった。弘前インターの入口まで行ったが、閉鎖されて完全にアウトだった。携帯が繋がらず情報が入らなかった。電気がとまると何もできない。
一日を何もできず無為に過ごした。
やっと城南のスタンドが給油できると話を聞き、早くに家を出て、13号線を戻ることにした。早朝にスタンドを尋ねた。
6時半頃だが、行列はできていたがそれ程に待つことなく給油できた。
安堵した。530kmは、満タンなら何とか途中で給油せずに戻れる距離だ。
昔幾度かこの道路を使い栃木の自宅まで戻っていた。
途中懐かしい風景の中を走り当時の記憶も思い出され、それでも1日がかかり何とか戻ることができた。13号線を走る車は皆無だった。
随分と飛ばして走るが、何分に時間はかかる。
会津に出たのは、夜の10時を回った頃で遅い時間になっていた。
そこから、2時間がまだかかる。
 
通販はまだスタートしたばかりだった。
2010年4月8日が会社設立日になる。
工房の方々は、誰しもが3年は売れないよと言った。
半年以上も鳴かず飛ばずで、初めての通販での注文は、11月になった。
7か月が過ぎていた。
それでも、私には素晴らしいことだった。
それからは、徐々に増えていった。
初年度の売上が24万3千円。
まだまだ先を見越せる内容ではない。
それは当初から予想されていた。
初めの数年は何かアルバイトの仕事をしながらにしようと思っていたが、その時に東日本大震災に出会ったことになる。
世の中が不穏な状態になり、心の中に何かしなければの焦りが芽生えていた。
自分の生きている間にこの様が災害が起こるとは。
誰しもが感じたことになる。
通販のお取引工房に原木細工丸太絵の工房があった。
木材の木っ端を磨いてそこに電熱ペンで線描をする。
そして、色を塗り描く。
ホームページを作るには、画像と価格サイズ等のスペックが資料となる。
そんな打ち合わせをしていたが、ある時「東京で無料のセミナーがあるけど行きませんか。」と言われた。交通費も出してくれるという。
自分は誘われているけれども時間が無理なので、私に代わって行かないかという。
これがネットワークビジネスへの誘いだった。
人に会うことは営業の基本なので、幾度か誘われるうちに会うことにした。
その後、彼女を誘っていた女性と連絡を取り、近くのファミリーレストランで会うことになった。
その時間に行くとその女性以外に知らない男性が一緒にいて、タヒチアンノニジュースの話を聞くことになった。
随分と長い時間をいろいろと話を聞いた。
友人知人の話から、ノニジュースの成分の話、そしてネットワークの繋がりから、ビジネスになること。アップラインの話から、レジェンドともいえる方の成功の話も聞いた。
私にネットワークビジネスをやることに抵抗はなかった。
タヒチアンノニジュースの生薬としての成分についても理解することができた。
私は彼女達の話を聞いて、直ぐにネットワークビジネスを行うことを心に決めた。
登録は少し先になったが、やることに抵抗はなかった。
隣に座っていた年老いた男性は私のアップラインになった。

話を聞いて私には勝算があった。
1.知人数。2.営業力。3.知識。4.講演、セミナーの開催。ネットワークに必要な要素の全てを持っていると思った。
長年のホテル業から、数百人をこえる知人がいた。旅行業者から、同業者、顧客、趣味の友人知人、ホテル時代を通じていかに多くの人々とあって来たか、そのことが自分の資産となる。
ホテル営業では、宿泊や日帰りの誘客を仕事としていた。ハードなブライダルの営業も。人に会い誘客することが仕事だった。
大学時代に専攻した応用微生物学はノニジュースの生薬としての効能を説明していた。
人の持つ生体恒常性、免疫という自然治癒力の理解は代替医療には必須のものになる。
そして、ホテルのブライダルの司会や津軽での幾たびかの講演から話すことに慣れていた。同じく社員教育では理路整然と話すことも得意だった。
いくらでもノニジュースのセミナーを開催し勧誘が出来るだろうと。
そうとなったら、一目散になる。
新宿の西新宿から歩いて20分ほどのところにタヒチアンノニジュース日本法人の自社所有ビルがあった。
そこでは、毎月日曜毎に会員獲得から得られる人達の表彰が行われていた。
そこに新しい会員を連れて行きその高揚感溢れるシーンを見せることが、モチベーションを高める方法となる。
ネットワークでは、成功者に会わせることが大切な活動となる。
いつもアップラインと連れ立って、新宿に向かった。それでも少しずつダウンラインという会員が増えて行きもう少しでジェードという月に40ケースというクラスに一歩手前まで来た。
30ケース位になりもう少しだった。
成功者セミナーやダウンラインを連れて、いく度新宿のビルに通っただろうか。
しかし、そこからが足踏み状態となり伸びなかった。
私がその数になることでアップラインの何人かは、そのクラスのジェードに昇格できた。
私を勧誘しそのダウンラインに取り込んだ人はネットワーク拡大に成功したことになる。
私が知らない老人ともいえる人達をジェードに出来たからだ。
これがネットワークの妙味と言える。
ダウンラインに力のある者がつくと一気にアップできる。
私はそれから随分と足踏みをした。
ダウンラインに取り組めた方々を上手くフォローすることが出来なかった。
今では十分に可能性はあったと思うのだが。
何故時間を掛けていろいろな可能性を試みることが出来なかったのだろうと思う。
人を育てることが苦手だったことに尽きるのかと思う。
幾人かに「売り気」が強すぎると言われた。
頭から売り付ける印象を与えていたようだ。
ネットワークビジネスの言葉を聞いた方は、「ねずみ講」のイメージから8割は抵抗感を持つと言われる。今でもそうだが、ねずみ講といった架空の商品で、人を募りトップはトンずらする。商品はないのだから破綻するのは当たり前だ。
そんなネットワークが蔓延っていたし、それが、いまだに名を変え品を変えあることも事実だ。
そこで売り気満々の自分が売りつけようとする。
誰しもが敬遠するだろう。
私にはまったく抵抗感はなかったけれども、そんな胡散臭いノニジュースを信じてやる気を持った自分が変わり者なのだろう。
今でも思うが、ノニジュースは素晴らしい生薬であり、ビジネスとしても確りとしたものだと。
それを活かせなかった自分の人間力不足に尽きると。

私は人の気持ちを読むことが苦手なタイプになる。
ブライダルでも成果は出したが、そんなことが苦手だった。
津軽でもあぶくま洞でもレジーナでも同じく人の気持ちを思い図ることが苦手だったと思う。
営業力は総合力になる。
ネットワークでは、あと一歩のところをクリアできなかったことが自分の敗因になる。
植物を育てることがどういうことか。
人を育てることがどういうことかになる。

そのようなことが続いていた時にアップラインと決定的な事件となった。
当時、私はfacebookやブログで生体恒常性や自然治癒力からの情報発信で、友人関係が増えていた。
私の中ではノニジュースをその一環で捉えていた。ビジネスよりも戦後の生活習慣病の是正する知識を普及させたかった。本来から自然治癒力や生体恒常性のある伝統食品を商品としていた。そして代替医療や戦後の成人病に対する考え方を普及させようとしていた。
ノニジュースは、ネットワークではあったけれどもそのひとつになる。
そのようなことから、代替医療のfacebook繋がりの人達をノニジュースのネットワークに募ろうと考えていた。
市営の公共施設を予約しセミナーを開催し集客していた。
アップラインの方々は、そこに来るだけだった。
そして、その人達はいつものように名刺を出してお茶に誘い胡散臭い方法で会員に募ろうとしていた。
一目で旧態依然の「ねずみ講」の姿に見えた。
私は、私のfacebook繋がりの人達には、その勧誘の仕方は似合わないことから、やめてくれと話したが、無理だった。
その反省会の席上で決定的なことになった。
そんな私に業を煮やしたのだろう。
パールの方が次回からの集まりは、ジェードで行うと宣言された。
私は除かれてしまった。
ひとり、OHPを使い講習会を開き奮闘していたが、仕方ない。
私との意見の違いに痺れを切らしたのだろう。

ネットワークは、既に出来上がっているラインを変更することができない。
親を選べないこと、それに連なるラインを選べないことが一番のネックとなる。
もうひとつは、後で知ったことだが、もう少し楽に登録者を増やすことができたが、一番難しい登録方法を選択していた。
ある意味では何も知らない自分が騙されていたことになる。
それを知らなかった自分が愚かだったといえる。
説明時にその登録の仕方しかないと思わされていた。
もう少し楽な登録のし方があったのだが、後になって知ったことだ。
こころに芽生えた「騙された」という気持ちが育ちアップラインに不信感を持った。
これらのことから、自分はネットワークの活動から離れていった。
ちょうど通販の売上も可成りになっていた。
アルバイトも辞められた。
いまでは、自分が愛用するだけになっている。
その後にその人達との連絡は無くなった。
一、二度、連絡がきたが、構わずにいた。
原木細工丸太絵の時に私に触手を伸ばした彼女は、見事に一度もあっていない。
彼女なりに私を見限ったのだろう。
その後にそれらの人達のサークルが大きくなった話は聞かない。
私を除いた時点で自分の足を切ったことになる。
ネットワークの未熟な組織が自爆した印象を持つ。
ノニジュースのネットワークに関わり3年ほどだったが、これも縁といえようか。
私のネットワークビジネスとの経験となった。
素晴らしいビジネス形態だと思うが、成功するためにはやはり人間力が必要になる。
自分の人間力が未熟だったことになる。
組織では、他人を活かす能力が大切に思う。









 

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