チャイナタウンは、忘れられない響きがある。
学生時代の思い出深いアルバイト先だ。
新宿西口の小田急ビルの隣に多分6階だったと思うが、グランドキャバレーチャイナタウンがあった。ビルの最上階に横に長い大きな看板が付いていて新宿西口に出ると誰しもが目にしていた。
私たちスタッフは、5階が事務所で駅から続く地上階からエレベーターで昇り降りした。暫くして階段で行くことが出来ることが分かり、途中階にステーキ店やスーパーがあることも知った。
仲間からオーナーが福井県の代議士だと聞いた。
大学2年の時だと思うが、どのような経路でキャバレーに勤めたかは、記憶が定かではない。
思い出を辿るとマルクス経済学者大内力の資本論の勉強会になる。
勉強会で同郷の高校の友人が、新宿西口のクインビーという喫茶店に勤めていたからと思う。そこで、新宿駅近くのキャバレーで働ける情報を得て、キャバレーチャイナタウンを尋ねた。学生ながら、化粧香のする大人の職場に憧れていたのかもしれない。
学生時代の思い出深いアルバイト先だ。
新宿西口の小田急ビルの隣に多分6階だったと思うが、グランドキャバレーチャイナタウンがあった。ビルの最上階に横に長い大きな看板が付いていて新宿西口に出ると誰しもが目にしていた。
私たちスタッフは、5階が事務所で駅から続く地上階からエレベーターで昇り降りした。暫くして階段で行くことが出来ることが分かり、途中階にステーキ店やスーパーがあることも知った。
仲間からオーナーが福井県の代議士だと聞いた。
大学2年の時だと思うが、どのような経路でキャバレーに勤めたかは、記憶が定かではない。
思い出を辿るとマルクス経済学者大内力の資本論の勉強会になる。
勉強会で同郷の高校の友人が、新宿西口のクインビーという喫茶店に勤めていたからと思う。そこで、新宿駅近くのキャバレーで働ける情報を得て、キャバレーチャイナタウンを尋ねた。学生ながら、化粧香のする大人の職場に憧れていたのかもしれない。
キャバレーの面接で保証人が必要になり、迷った挙句当時南武線の中野島に住んでいた大叔父に保証人を頼んだ。
大叔父は、明治45年生まれで長年三共製薬会社に勤め、5人の子どもを大学に出していた。当時鉄道省の学校を出た優秀な方で、いつも東大出の何もできない若造が、直ぐに出世していくのを話していた。実直な方で学生がキャバレーでアルバイトをするなど言語道断だった。電話で保証人を依頼したと思うが、保証人のいるような職場は駄目だと断られた。
実家の母や叔父に話したら、大叔父さんの言うことだから仕方ないと言われた。
諦めて事務所に勤められない旨を話したら、その場にいたアルバイトを使うフロア主任の方が保証人を買って出てくれ、勤めることができた。
大叔父は、明治45年生まれで長年三共製薬会社に勤め、5人の子どもを大学に出していた。当時鉄道省の学校を出た優秀な方で、いつも東大出の何もできない若造が、直ぐに出世していくのを話していた。実直な方で学生がキャバレーでアルバイトをするなど言語道断だった。電話で保証人を依頼したと思うが、保証人のいるような職場は駄目だと断られた。
実家の母や叔父に話したら、大叔父さんの言うことだから仕方ないと言われた。
諦めて事務所に勤められない旨を話したら、その場にいたアルバイトを使うフロア主任の方が保証人を買って出てくれ、勤めることができた。
面倒見の良い優しい方だったが、同僚のボーイから、お姉言葉の彼は、ホモじゃないかと言われていた。水商売は、男らしい怖そうな人もいるが、総じてお姉言葉を使う人が多い。
私は、その方からボーイのいろはを教わった。これがその後にホテルに勤める要因になった。
日給が、多分2,500円か3,000円位だったかもしれない。
当時喫茶店の時給が180円だった。
フロアは、テーブル番号があり、小テーブルやL字やコの字形もあり100番を超えていた。まず、フロアの見取り図で、番号を暗記した。客席は多く、200人位は入れたのだろう。客として来たことはないのだが、エレベーターで6階を降りると踊り場があり、電飾ネオンで縁取った四角い枠のドアから、入るようになっていた。入るとそこに経理の方がいて、受付をしていた。お客様が全員引けるといつもカウンターのバーテンダーたちに「お疲れ様」の挨拶をしていた。水商売は、出社すると「お早うございます。」退社するときは「お疲れ様」が、定番の挨拶である。
バンドも2バンド編成で、途中にショーが2回程ありそれぞれ2部構成だった。
ショーは漫才や歌手だったりだが、一時テレビでよく見た有名な歌手も時折に見かけた。ショーのひとつは必ずヌードショーが入った。乳首や股間は小さな布で隠していたが、女性の一糸纏わぬ奇麗な裸体は、初めて見る私には驚きだった。この仕事の長い先輩は見慣れているのだろう、胸や背中の線から年増だと言っていた。
ボーイ達も随分といて、主任の元に二人のキャプテンがおりいろいろと教えてくれた。
今でも名前を憶えている。
二人ともハンサムな方で、一人は若く青山学院の学生で自分はこの方についた。もう一人は、少し年配の優男でホステスと同棲しているという。ジョージチャッキリスに似ており、噂話では、遊び人ではなくホステス達に優しく仲間のボーイ達に信頼のある方だった。
メニューとテーブル番号、そして、立ち方やサービスの仕方、ホステスのマッチを擦って呼ぶ合図などを教わった。暗闇の中で客に付いたホステスの動きを常に注意して待機する。前足に体重をかけて、直ぐに一歩がでるようにして立った。
おしぼりやお手元、グラス、オーダーなどの手の合図を遠目で見て駆けつける。彼女たちは、暗闇の中でマッチを擦り一瞬かざしてそのことを知らせた。テーブルに着いた時には、それらの合図されたものを持って行かなければならない。
私は、向いていたのだろう。
直ぐにメニューもテーブル番号も覚えて、一人前になった。
デシャップ台には、ベテランの叔母さん達が二人いた。
デシャップは、下げ膳の係になる。ボーイが下げてくるグラスや灰皿、オードブル皿などを洗いかたしていた。
初めて赤のボーイコートを着て挨拶に行ったら、口を揃えて似合っていると褒められた。
お愛想なのだが、すべてが初めての世界で不安だった自分は、安心したのを覚えている。
カウンターには、お摘まみと飲み物を出す人達がいた。
調理とドリンクのチーフが、しっかりと部署をまとめていた。
みな真面目で、新人の私に優しく丁寧にオーダーの通し方や受取り方を教えてくれた。
カウンターは、左側通行で、声掛け励行などボーイ同士がぶつからない為のルールがある。
新人には、呑み込みの悪い田舎出で訛りのある若者も何人かいたが、辛抱強く教えていた。
時折、カウンターに怒鳴られて、言い返す若者がいたが、バーテンダー達は、怒らずに聞いていた。教育のことから、キャバレーでも確りとした企業の印象を受けた。私も当初は何回か間違えたが、怒鳴られることもなく直ぐに覚えた。
事務所では、ホステスが3つのグループに分かれていた。それぞれに50人程の女性がいたので、全体では150人位はいたのだろう。花組とか星組とかの名前だったように思う。
50歳近い背の高くスリムな遠目でもそれらしいベテランの女性が、組頭をしていた。
宝塚のようだった。
出退勤時にホステス達とエレベータですれ違うこともあったが、フロアでの女性と化粧をしていない彼女達は、まったくの別人だった。
化粧を落としたスッピンの彼女達は、化粧焼けした年配の女性だった。彼女たちは、地味な格好で出社する。また、同伴出勤という制度があり、お客様と一緒にお店に出る女性もいた。ベテランの女性達に多いけれども、中には、ボーイと同じく田舎でも若い女性たちもいて、色々と組頭に教わっていた。
毎日朝礼があり、5人程のマネージャーがいて、輪番でその日を仕切っていた。
5人もいると個性があり、渋い人も愛想のない人も、ホステスから信頼されている人もそれぞれにいた。
サボってばかりいて、時折に支配人が来るといつも逃げ回っているマネージャーもいた。
その方と他に一人か二人の方の顔と名前を今でも覚えている。
私達ボーイは、ホステスの朝礼の前にフロア清掃やその日の準備をした。
白色の薄明かりの下で床のバキュームを掛けテーブルや椅子を並べ直し、トレーや灰皿などを洗った。そして、お手元やマッチ、灰皿、グラスをサイドテーブルに並べた。それらの物は、ホステスから言われると直ぐに届けられるようにしていた。
白色の薄明かりで見るフロアは、楽屋裏のようで独特の埃臭い匂いがあった。
営業開始前のミーティングでは、その日のお摘まみメニューにないものなどを教えられた。
私は、そこで数カ月を過ごした。
その時の稼ぎで大学の仲間と飲む機会を作った。
私は、その方からボーイのいろはを教わった。これがその後にホテルに勤める要因になった。
日給が、多分2,500円か3,000円位だったかもしれない。
当時喫茶店の時給が180円だった。
フロアは、テーブル番号があり、小テーブルやL字やコの字形もあり100番を超えていた。まず、フロアの見取り図で、番号を暗記した。客席は多く、200人位は入れたのだろう。客として来たことはないのだが、エレベーターで6階を降りると踊り場があり、電飾ネオンで縁取った四角い枠のドアから、入るようになっていた。入るとそこに経理の方がいて、受付をしていた。お客様が全員引けるといつもカウンターのバーテンダーたちに「お疲れ様」の挨拶をしていた。水商売は、出社すると「お早うございます。」退社するときは「お疲れ様」が、定番の挨拶である。
バンドも2バンド編成で、途中にショーが2回程ありそれぞれ2部構成だった。
ショーは漫才や歌手だったりだが、一時テレビでよく見た有名な歌手も時折に見かけた。ショーのひとつは必ずヌードショーが入った。乳首や股間は小さな布で隠していたが、女性の一糸纏わぬ奇麗な裸体は、初めて見る私には驚きだった。この仕事の長い先輩は見慣れているのだろう、胸や背中の線から年増だと言っていた。
ボーイ達も随分といて、主任の元に二人のキャプテンがおりいろいろと教えてくれた。
今でも名前を憶えている。
二人ともハンサムな方で、一人は若く青山学院の学生で自分はこの方についた。もう一人は、少し年配の優男でホステスと同棲しているという。ジョージチャッキリスに似ており、噂話では、遊び人ではなくホステス達に優しく仲間のボーイ達に信頼のある方だった。
メニューとテーブル番号、そして、立ち方やサービスの仕方、ホステスのマッチを擦って呼ぶ合図などを教わった。暗闇の中で客に付いたホステスの動きを常に注意して待機する。前足に体重をかけて、直ぐに一歩がでるようにして立った。
おしぼりやお手元、グラス、オーダーなどの手の合図を遠目で見て駆けつける。彼女たちは、暗闇の中でマッチを擦り一瞬かざしてそのことを知らせた。テーブルに着いた時には、それらの合図されたものを持って行かなければならない。
私は、向いていたのだろう。
直ぐにメニューもテーブル番号も覚えて、一人前になった。
デシャップ台には、ベテランの叔母さん達が二人いた。
デシャップは、下げ膳の係になる。ボーイが下げてくるグラスや灰皿、オードブル皿などを洗いかたしていた。
初めて赤のボーイコートを着て挨拶に行ったら、口を揃えて似合っていると褒められた。
お愛想なのだが、すべてが初めての世界で不安だった自分は、安心したのを覚えている。
カウンターには、お摘まみと飲み物を出す人達がいた。
調理とドリンクのチーフが、しっかりと部署をまとめていた。
みな真面目で、新人の私に優しく丁寧にオーダーの通し方や受取り方を教えてくれた。
カウンターは、左側通行で、声掛け励行などボーイ同士がぶつからない為のルールがある。
新人には、呑み込みの悪い田舎出で訛りのある若者も何人かいたが、辛抱強く教えていた。
時折、カウンターに怒鳴られて、言い返す若者がいたが、バーテンダー達は、怒らずに聞いていた。教育のことから、キャバレーでも確りとした企業の印象を受けた。私も当初は何回か間違えたが、怒鳴られることもなく直ぐに覚えた。
事務所では、ホステスが3つのグループに分かれていた。それぞれに50人程の女性がいたので、全体では150人位はいたのだろう。花組とか星組とかの名前だったように思う。
50歳近い背の高くスリムな遠目でもそれらしいベテランの女性が、組頭をしていた。
宝塚のようだった。
出退勤時にホステス達とエレベータですれ違うこともあったが、フロアでの女性と化粧をしていない彼女達は、まったくの別人だった。
化粧を落としたスッピンの彼女達は、化粧焼けした年配の女性だった。彼女たちは、地味な格好で出社する。また、同伴出勤という制度があり、お客様と一緒にお店に出る女性もいた。ベテランの女性達に多いけれども、中には、ボーイと同じく田舎でも若い女性たちもいて、色々と組頭に教わっていた。
毎日朝礼があり、5人程のマネージャーがいて、輪番でその日を仕切っていた。
5人もいると個性があり、渋い人も愛想のない人も、ホステスから信頼されている人もそれぞれにいた。
サボってばかりいて、時折に支配人が来るといつも逃げ回っているマネージャーもいた。
その方と他に一人か二人の方の顔と名前を今でも覚えている。
私達ボーイは、ホステスの朝礼の前にフロア清掃やその日の準備をした。
白色の薄明かりの下で床のバキュームを掛けテーブルや椅子を並べ直し、トレーや灰皿などを洗った。そして、お手元やマッチ、灰皿、グラスをサイドテーブルに並べた。それらの物は、ホステスから言われると直ぐに届けられるようにしていた。
白色の薄明かりで見るフロアは、楽屋裏のようで独特の埃臭い匂いがあった。
営業開始前のミーティングでは、その日のお摘まみメニューにないものなどを教えられた。
私は、そこで数カ月を過ごした。
その時の稼ぎで大学の仲間と飲む機会を作った。
彼らは、大学のテニス同好会の仲間で、向ヶ丘遊園駅の自分のアパート近くの小料理屋だった。初めてだったが、お金の使い方を知らない田舎者の自分が、初めてお金を使ったように思う。アルバイトの経験になり、17、8万円近くが貯まっていた。
その後は、ビル清掃や築地場外の魚屋や丸中の果物の仲買とかのアルバイトをするようになった。築地は、稼ぎが良かった。1日、5,000円程になったように思う。
その後、大学を卒業し新たに経済学部に編入した時に再び勤めることになった。
その後、大学を卒業し新たに経済学部に編入した時に再び勤めることになった。
ピーターパン症候群という言葉があるが、自分は、働きたい職業をみつけられなかった。それで、2年間の学士入学の編入と1年の海外旅行を計画した。
大学卒業と同時に住まいは、向ヶ丘遊園駅の下宿から錦糸町の扇橋の団地の一室に移った。
この団地には、暴漢に刺殺された浅沼稲次郎が住んでいたと聞く。
大学卒業と同時に住まいは、向ヶ丘遊園駅の下宿から錦糸町の扇橋の団地の一室に移った。
この団地には、暴漢に刺殺された浅沼稲次郎が住んでいたと聞く。
使う路線は、小田急線から総武線になった。
今度は、フロアボーイではなく調理部署になった。
調理は5階にありスタッフは4、5人だったが、私は、6階フロアにあるオードブルの配膳係となり、カウンターのドリンクの方々といつも一緒だった。金曜土曜などは、超忙しく、配膳が大変だったが、カウンターのスタッフに今までで一、二番に手際が良いと、また仕事の綺麗さでは、一番だと。褒められた。
今度は、フロアボーイではなく調理部署になった。
調理は5階にありスタッフは4、5人だったが、私は、6階フロアにあるオードブルの配膳係となり、カウンターのドリンクの方々といつも一緒だった。金曜土曜などは、超忙しく、配膳が大変だったが、カウンターのスタッフに今までで一、二番に手際が良いと、また仕事の綺麗さでは、一番だと。褒められた。
4人ほどの部署だが、チーフはじめ皆優しくチャイナタウンでの一番幸せな時間になった。
営業終了後にビールとお摘まみで夜食を取る。調理部で作る自家製のドレッシングとマヨネーズが、新鮮で一味違っていた。ドリンク部署の役得だった。
営業終了後にビールとお摘まみで夜食を取る。調理部で作る自家製のドレッシングとマヨネーズが、新鮮で一味違っていた。ドリンク部署の役得だった。
その後に家庭でもそれらを自家製で作ることがあったが、美味しくそして、新鮮だった。
年に2回程ボーナス時に、ドリンクのチーフが、小田急ビルにあった有名なステーキ店でご馳走してくれた。中でもサブチーフの宇和島出身の方が、特に優しく可愛がってくれた。彼は、出社前の時間フロアの床をつかいベンチプレスでボディビルの体造りをしていた。
2度目のチャイナタウンは、長く1年間になった。
その後の2年間の世界旅行の費用をほとんどこのチャイナタウンと築地で稼いだ。
チャイナタウンのことは幾重にもなって思い出される。
最初のボーイの数カ月の経験は、その後のチャイナタウンへの呼び水だったのだろう。
私が辞めて10年位は、過ぎていた。
2度目のチャイナタウンは、長く1年間になった。
その後の2年間の世界旅行の費用をほとんどこのチャイナタウンと築地で稼いだ。
チャイナタウンのことは幾重にもなって思い出される。
最初のボーイの数カ月の経験は、その後のチャイナタウンへの呼び水だったのだろう。
私が辞めて10年位は、過ぎていた。
自分の勤めた那須のホテルにあのチャイナタウンの人達が御一行様でやって来た。
当時、田舎から家出をしてきてヘマばかりしていたボーイがいたが、その彼が2歳位の男の子を抱きかかえホステスと思わしき奥さんと一緒だったのを目にした。
当時、田舎から家出をしてきてヘマばかりしていたボーイがいたが、その彼が2歳位の男の子を抱きかかえホステスと思わしき奥さんと一緒だったのを目にした。
彼が、勤め初めて数日が過ぎた頃に、親父さんが田舎から出てきて、事務所で話をしていたことを聞いた。家出のようだったが、話がついたのだろう、彼はそのまま務めることが出来た。
私は売店にいた。
彼は、当時と変わらずに良いパパ風になっていた。私は知らないお客様に接するように当たり障りなく話しかけたが、私のことは覚えていなかった。彼は、フロアの主任か何かになっていたように思う。経済のバブルが続いていた頃で、誰しも沢山のお土産を購入していた。お客様や関係者へのお土産だろうと思う。
随分と後になり風の便りで、チャイナタウンがなくなったことを聞いた。
四半世紀が過ぎていた。
私がお世話になったあの調理やドリンク、フロアの人達は、どうしただろうか。
今は半世紀になる。
グランドキャバレーチャイナタウンでのことは、今でも色褪せない思い出として蘇る。
随分と後になり風の便りで、チャイナタウンがなくなったことを聞いた。
四半世紀が過ぎていた。
私がお世話になったあの調理やドリンク、フロアの人達は、どうしただろうか。
今は半世紀になる。
グランドキャバレーチャイナタウンでのことは、今でも色褪せない思い出として蘇る。
0 件のコメント:
コメントを投稿