「美田」という言葉には、悲しい響きがある。
この言葉は、大学の農業経済ゼミの大木先生から聞いた。
埼玉県のその名は忘れたが町村合併前の村に住み、「明治大学の教授では、僕が唯一村住まいだ。」と得意げに話していた。
その先生から、「美田」の言葉を聞いた。
素晴らしい「美田」が、農業政策により失われてゆく話をされた。
それからは美しい田圃をみると先生の「美田」の言葉を思い出した。
私の住む家の近くに7、8丁歩はあるだろうか、10数枚ほどの水田がある。
大型機械を使い代々の米作農家だ。
大きな敷地に家を構え、大きな石塀を回していた。
家の裏は、鬱蒼とした大きな欅と杉が囲み、那須連山からの吹き下ろしを防いでいた。
私の知る米農家は、春先に肥やしを撒いて耕し荒くれ掻きをして苗を植える。
しかし、その家は、化成肥料だけで有機肥料の肥しを使わない。
荒くれ掻きも田植えも1、2週間で終わってしまう。
途中の田の草取りも除草剤を撒くことでおこない、秋には、コンバインで稲刈りが数日で終わる。
私の知るかつての農業ではなかった。
これが、近代農業なのだろうか。
私の知るこの「美田」は、私が今の家に引っ越してきてからずーと見てきた。
年により、生育も異なり台風により倒れたり、稲穂のつき方も違っていた。
近くを通るたびに稲の育ちや雑草、そして夏の穂先の花芽の付きかたが気になった。
テレビで米作況指数がでるとこの田圃の稲穂を見比べた。
今年で20年を超えるだろうか。
その間、農作業でその老夫婦の姿以外に若い人達を見たことはない。
息子を見たことはなく、その家の嫁と思われる女性の犬を連れた散歩姿位だろうか。
私が、今の家に引っ越して来た当時元気だった老夫婦は、今では随分と歳老いた。
今年は、少し景色が変わった。
コロナウィルス禍で賑わっていたので、あまり気にしなかったのだが。
GWの前にはいつも農作業が始まるのだが、田圃の中に篠竹が2本2mほど離れて立ち、ピンクの紐が結ばれていた。
道路脇の田圃の2、3枚だが、どうしたのだろうか。
妻から、20軒ほどの団地ができる話を聞いた。
昨年、近くのやはり大きな田圃が、突然に建売団地に変わったのを見て驚いた。
そう言えば、数年前に他にも大規模の建売団地の開発を見た。
都市計画の住宅地区なのだろう。
長年続けた農業も後継者がなく、そして相続と同時に相続税で農業を止めざるを得ない。
それが、都市計画区域だ。
あちらこちらに立つ真新しいアパートは少し経つと空きができる。
また、造成50年近い一戸建ての団地は、今では住む人がなくなり、家も取り壊され空き地となって点在している。
少子高齢化社会となり、虫食い状態がこれからも更に増えるだろう。
休耕地政策。
驚くほどの愚策がなされた。
農業経済学を専攻した自分は、戦前戦後と高度成長期の農業政策の歴史を学んだ。
農業に関わる人々の農協と自民党の権力や利権と癒着した政策だ。
私は、そのことを今は語る気はないが、恐ろしく愚かな政策だと思う。
これが、日本の政治、農業政策だ。
日本の近代史は農村社会抜きには語れない。
景況により農村部は、労働力のプールとなった。
貧しい最下層の人々の受皿であり、労働力の供給地となっていた。
景気が良くなると農村から労働力を供給し、不景気から仕事がなくなると農村にもどりその人々の受皿となる。
満州もハワイも南米移住もそのひとつである。
その歴史は、私には悲しい。
戦後の日本経済の発展は、構造改善事業により嘗て見たことのない「美田」を生み出したはずだが、その「美田」がなくなって久しい。
秋田県の八郎潟を見ると良い。
私の叔母の嫁いだ先の親戚が、15ヘクタール農業という八郎潟の干拓地に入植したが、その後20年も過ぎた頃の政府の休耕地政策で農業を止めた。
自分の家は村でも有数の米供出農家だったが、父の事業の失敗から破産し何もなくなった。
当時、米百俵を供出できる農家は、那須町でも数えるほどだった。
祖父兼次郎の口から、米百俵の話は、よく聞いた。
小作から、村有数の農家になったことが自慢であり、感慨深い思い出だったと思う。
燕の舞う初夏の田植えから秋の黄金色の稲穂の美しい風景、家族総出の刈り取りと笹掛があり、冬から春の雪の降った田圃の稲株と里山の透き通った風景は、瞼に焼き付いている。
これが私の農村の原風景だ。
それが、荒れ地となって久しい。
何もなく随分と長い間放置されていたが、最近太陽光発電が設置されて、昔の面影は無くなりグロテスクな姿となった。
「美田」には、貧しい頃の憧れの田圃の光景と愚かな政策から休耕地となった表と裏の姿が伴う。
私の「美田」には、悲しい響きがある。
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