「壊れる」のことは一度は書きたいと思っていた。
これまで、幾人もの人が壊れてゆく姿を見てきた。
しかし、人の死を書くことに抵抗があり決めかねていたが、
自分自身の心の悲しみから「壊れる」の言葉が浮かんでくるようになった。
いま書いてみようと思う。
「壊れる」は、津軽の単身赴任の時に初めて浮かんだ言葉だ。
当時は、赴任して数年が過ぎ、冬になり夜眠ることが出来なかった。
ストレスからだと思うが、何もすることはないのだが朝の3時頃まで眠れずにいた。6畳二間で奥に布団を敷いて、手前は炬燵とフィンランド製のストーブがあり、その隣に14吋のTVを置いていた。眠れないので、炬燵に寝ころびTVをつけたままうつらうつらしながら時間を過ごした。朝方になり眠たくなってから布団に入った。
ストレス太りで当時は体重が80kgにもなろうとしていた。
普段は、72、3kgだから、かなり太ったことになる。
村の職員検診では、中性脂質がかなりの数値になっていた。足首が白く浮腫み指で押すと凹んだままで戻らなかった。
毎日施設の温水プールで1、2kmを泳ぎ、冬にはスキー場のゲレンデを2時間は滑っていた。しかし、心は病んでいたのかと思う。
常々自分は図太く鬱などとは無縁だと思っていた。それまでも那須事業所では修羅場を幾度も潜っていたからだが、その時に「人はこうして壊れてゆくのか。」と思った。
この時のストレスは「鉛味の人事」に記してある。
自死のことは職場でも聞いた。
ひとつは那須事業所に勤めて直ぐの時にFBのキャプテンからだ。
シティホテルの事業所から来たマネージャーだったと言うが。
仕事は鍛え上げのウェイターでそれまでの那須のレストランサービスを作り変えた。洋食と中華のメニューを刷新しメニューブックも作り替えた。
私が配置された時はそのメニューでサービスしていた。そのホテルは夏季には1泊ひとり4、5万円はしていた。当然ミールチャージは、2万円程になる高級リゾートホテルだ。
ただ、彼には問題があった。
短気で激しやすかった。
部下の一寸した間違いに怒鳴りつけたようだ。
部下達は我慢がならなかったのだろう。
ある時、彼は反発した部下達5、6人から集団リンチを受けた。
誰かひとり首謀者がいたようだが、既にその者はいなかった。
営業後のレストランのフロアだった。
アゼリアというレストランは、五十嵐豊の焼いた益子焼で一尺半角の民藝調の石盤が壁一面に嵌め込まれていた。反対側の白壁には有名な画家の林檎の絵があった。そして足元から天井まで開かれた大きな窓から那須高原が一望に出来、いつも暖かく眩しい光が射しこんでいた。
そこでそんなことがあった。
その後彼は那須から他の事業所に移ったが、暫くして自死したと聞く。
自分自身への自責の念・苦恨の念からだと思う。
その後那須で彼の自死の話を聞くことはなかった。
夕食準備がひと段落したテイクファイブで彼のサービスマニュアルの話はよく聞いた。
部下だった者達は、彼の仕事は認めていたのだと思う。
幼馴染も幾人かが自死をしている。
殆どは鬱からになる。
20歳そこそこで亡くなった彼女は、結婚生活で夫から暴力を受け実家に戻り人と会わなくなった。そして、亡くなった。
幼馴染がよく彼女のことを話していた。田舎に戻る電車で一緒になりそんな話を聞いたという。夏休みで戻った時に彼女が亡くなった話を聞いたが、学生の私には、彼女の心の苦しみは分からなかった。
最近になるが、ある小学校の友人は、生き方が下手だったのかもしれない。
婿に入った家から追い出され、20kmもある実家まで歩いて戻ったという。歩きながら何を思っただろうか。60歳を過ぎて何も持たずに無一文で追いだされたのだろうか。その後1年ほど引き籠っていたが、誰にも会わず自死をしたと聞く。三十歳を過ぎる娘がいたにも関わらず、何があったのだろう。
私達幼馴染は、そのことを聞いて言葉にならなかった。近所の友達は声をかけていたが頑なに籠っていたようだ。
小学生の頃は体が大きく餓鬼大将だったが、ある時に工場勤めから婿に入った。地元では有名なお店だった。我々はそれを聞いて良かったと話していた。
還暦を迎える頃に彼のお店に行ったが、婿は大変なんだと愚痴っていた。
苦労はあるのだろうと思ってはいたが、その頃に既に不協和音は大きくなっていたのだろう。義父との軋轢のようだったが長かったのかもしれない。還暦祝いの宿の同室のものが、彼から泣き事を聞いてこぼしていた。
家を御出たのは、それから1年もした頃だ。
この年齢になれば、それでも十分に生きてゆけると思うのだが。
彼は、その道を歩めなかった。
不器用なのだろう。
もう一人は、小学校からの文武両道に秀でた男だった。
運動神経もよく、小学校の野球では、サードで3番を打っていた。
彼はクラスのヒーロー的な人物だったが、私は補欠でとても及ばなかった。
頭も良く高校も進学校に入りその後に東京の製薬会社に勤めた。そして社内恋愛で結婚した奥さんと関西の本社に転勤していった。幼馴染が集うとその頃の東京での写真を見る。その頃はまだ結婚前でつるんで遊んでいた頃だ。髪型や着るものもトッポく意気盛んだったのが見て分かる。
お互いに田舎者で元気にあふれた姿が眩しい。
彼はそれから暫くたち鬱の症状が出るようになり、なかなか改善できずにいた。鬱はホルモンバランスからなると聞く。優秀で真面目な男だったからだろうか。
ひと時は、元気になり60歳の還暦の集いでは、元気な顔を見せていた。
皆が集った会で回復を喜び楽しく飲んだ記憶がある。
彼は気を使っていたのだろう終始笑顔で対応していた。
しかし、その後はなかなか良くならず一進一退を繰り返していたようだ。幼馴染が電話をしても出ないことが多くなったと聞く。
そして、つい最近訃報を聞いた。
家族からは、葬式は身内だけで行うので誰も来ないで欲しいとのことだった。
詳しくはわからないが想像はできる。
古稀の祝いの数か月前になる。
もう一度は衝撃的だった。
出向先の職場でのことだ。
彼は40代の中堅の係長だったが、長年鬱の病に苦しんでいたという。
病院に通い薬も処方してもらっていたが、なかなか改善していなかった。病み始めて15、6年以上になるのだろうか。
他にも同じように鬱に苦しんでいる女性もいたようで、二人で情報交換などもしていたと聞く。
職場の古い者達はその話を聞いていたし心配もしていた。
ある時朝礼で彼が出社していないことが話となり、それを知る者が何かあったのかも知れないと申し出てくれた。
その当時彼は町営住宅に住んでいた。それを聞き私と地元の地理に明るい係長で尋ねたが、そこに姿はなかった。後になり、部屋を見たが6畳一間の奥に座卓があるだけの他には何もないガランとして、人が住んでいるようには見えなかった。こんな部屋にと思うと彼の心の空虚さが透けて見えるようだ。
どこを探せば良いか分からなかったが、実家の人も分からず一緒の者の心当たりから実家近くを捜した。
少し大通りから離れたところの川沿いに実家の小屋があるという。
4軒2軒幅の藁などを入れて置く納屋だがもしかしてと思い二人して覗いた。
大きな引戸があり入ると入口の右壁の土台に携帯と手帳がきちんと置かれていた。
小屋の中央には梁があり、彼はそこからロープで首を吊っていた。
その姿を見上げる私には衝撃だった。
事件性もあるので、触ることはできない。
役場の担当課長や職場の長に連絡を取り警察や諸々の方々が来るのを待った。
5分か10分の時間だったが、何言うでもなく二人過ごした。
他愛もない言葉を交わした気がする。
来るのを待って入れ違いに事務所に戻った。
後で聞いたことだが、警察の調べでは死後硬直から朝方の4時半頃に亡くなったようだ。
我々が朝礼後に携帯で呼んでいた時は既に亡くなっていたことになる。
警察の現場検証が済んで彼の長兄が遺体の彼をひとりで側に抱えて家に運んだという。
実家には不祥事になるのだろう。
それまでの彼は、職場では努めて明るく振る舞っていた。
そんな鬱に苦しんでいることはおくびにも出していなかった。
前の日も明るく振る舞って帰って行ったと聞く。
私には通夜と告別式でもその衝撃は続いた。
部下の鬱からの自死を防げなかったのかと自問自答した。誰も責めることはないが、出向先の部下であり、彼のことを詳しくは知らなかった。鬱のことも後から聞いたことだ。
役場の担当課長は、仕方ないと淡々と話してくれた。
この山間の町は閉鎖的というのだろうか昔から自死の多い町と聞いていた。
閉鎖的な村社会は生きることが難しいのかと思う。
村を出られなければ、その中で生きてゆかざるを得ない。
村八分という言葉が思い浮かぶ。
最期に悲しい友の話がある。
高校時代の同級生で隣町の中学校から一緒に高校に通った友になる。
その中学校からは彼だけが通っていた。県北一の進学校で何人かが東大に合格する名門校だった。家は開拓農家で、大通りから広い区画された水田や牧草地に沿って道があり奥に納屋と家があった。背後には杉林を背負っていた。
私と同じく自転車通学となり1時間ちょっとだが1年の内はよく一緒に通った。その内学年でクラスも変わり、帰りはクラブを遣る私とクラブのない彼とでは一緒にはならなかった。
体は大きく中学時代は砲丸投げの選手だった。一寸変わっており、クラスメートから少し小馬鹿にされていた。
ある時彼の学帽を小賢しい連中が、休み時間に隠した。
私はそれを注意できずに見ていた。
後で彼から「友達じゃないな。」と言われたことが、心に刺さった。
彼は将棋好きで将棋部を作ろうとしていたが、苦手な授業の時間は机の下で良く詰め将棋をやっていた。そのようなことが、職員室にも聞こえたのだろうか、その年には将棋部の話は実現しなかった。
卒業してから風の便りで県では有数の将棋指しとなり、ベスト5位にははいっていたようだ。
その後、40年は立つだろうか、私が建設関係の仕事に就いた時に彼が不動産会社にいることを聞いた。住宅営業だったことから情報が得られたらと思い彼のいる事務所を訪ねた。
そこは殆ど実績がない会社で潰れる寸前だといい、毎日事務所に詰めるだけで仕事は無いという。高校を終えて農業を継いでいたが、脚の動かなくなる病気が発症してからは地元では有名な不動産会社に長年勤めていたという。そこで不動産免許も取得した。もう既に破綻して無くなった会社だが、そこで営業は鍛えられたという。彼の得意な将棋の話となり、数年前に一度県のチャンピオンになったようだ。上位の者が三人位いて、彼はその一人だという。そして、県の王将位を一度は手にしたいタイトルだと言っていた。
そんなことを淡々と話してくれた。
家を持ち、奥さんとの二人住まいだという。
子どもさんがいたかは定かではなかったが、たしか成人し嫁いだ娘さんがいたと思う。
奥さんは腎臓が悪く、彼の介護がなければ、生きて行けないような話だった。
週に何度か腎臓透析をしているという。
彼は「自分が居なければ、妻はすぐにでも死んでしまう。」
そんなことを話した。
その後建設会社を離れたことから、彼のいる不動産会社を訪ねることはなかった。
4、5年は経っていたろうか、ある時風の便りで彼が亡くなったことを聞いた。
自死だという。
そのことを聞いて驚いたが、彼の淡々とした話を思い出した。
春先のことだったが、奥さんは前の年の秋に亡くなったという。
それから数カ月しか経っていなかった。
彼はもう生きる必要が無くなったのだろう。
ドアノブに紐をかけて、あの大きな体で逝ってしまった。
彼の生きがいは何だったのだろう。
家族への気持ちが強く病気持ちの奥さんを長年介護してきた。
趣味の将棋に長年取り組み県で有数の棋士になっていた。
彼は脚が動かなくなる不治の筋ジストロフィのような持病を持っていた。
父親もそうだったという。
不動産の免許を取ったのは体を動かさなくてもよい職業だからだが、そうして家を建て生活を送ってきた。
どこで壊れたのだろうか。
鬱だったのだろうか。
奥さんとの愛憎のことはわからない。
予想はしていただろうが、先に旅立たれたことで心が折れてしまったのだろうか。
会った時には「介護の為に自分は生きている。」心が窺えた。
それから先の彼の心の中は闇で私には分からない。
「悲の器」に書いた。
いまの私は「悲しみ」を思うことが増えてきた。
過去は変えられないというが、今更に「勇気のなさ」から、自分の愚かさから「悲しみ」を感じるようになった。
ストレスではなく今まで生きてきた生き様への後悔から「壊れる」不安を感じている。
嘗ては、ストレスから「壊れる」恐れを感じたが、今は違う。
後悔の悲しみからの恐れだ。
しかし、開き直りの気持ちもある。
自分は「壊れる」ことはないだろうとも思う。
何故なら自分は「鈍」で「奥手」になる。
萩原朔太郎や芥川龍之介、太宰治等の著名な作家や詩人達の憂いに比べ70歳になろうとする自分が今感じている悲しみは、レベルも年齢も遥かに異なるように思う。
感性が異なる。
書物や話から石川啄木も、萩原朔太郎も、野口英世も生き様では「ろくでもない」人間だったと聞く。
近くにいたら決して関わりたくない人間だと思う。
だからこそあのような偉業を達成できたのだろう。
中途半端で大した能力もない自分は、そのままで生きて九束ってゆけばよい。
「壊れる」なんて烏滸がましい。
笑われて太鼓判を押されるような気がする。
「あんたは大丈夫だよ。」と。
これまで、幾人もの人が壊れてゆく姿を見てきた。
しかし、人の死を書くことに抵抗があり決めかねていたが、
自分自身の心の悲しみから「壊れる」の言葉が浮かんでくるようになった。
いま書いてみようと思う。
「壊れる」は、津軽の単身赴任の時に初めて浮かんだ言葉だ。
当時は、赴任して数年が過ぎ、冬になり夜眠ることが出来なかった。
ストレスからだと思うが、何もすることはないのだが朝の3時頃まで眠れずにいた。6畳二間で奥に布団を敷いて、手前は炬燵とフィンランド製のストーブがあり、その隣に14吋のTVを置いていた。眠れないので、炬燵に寝ころびTVをつけたままうつらうつらしながら時間を過ごした。朝方になり眠たくなってから布団に入った。
ストレス太りで当時は体重が80kgにもなろうとしていた。
普段は、72、3kgだから、かなり太ったことになる。
村の職員検診では、中性脂質がかなりの数値になっていた。足首が白く浮腫み指で押すと凹んだままで戻らなかった。
毎日施設の温水プールで1、2kmを泳ぎ、冬にはスキー場のゲレンデを2時間は滑っていた。しかし、心は病んでいたのかと思う。
常々自分は図太く鬱などとは無縁だと思っていた。それまでも那須事業所では修羅場を幾度も潜っていたからだが、その時に「人はこうして壊れてゆくのか。」と思った。
この時のストレスは「鉛味の人事」に記してある。
自死のことは職場でも聞いた。
ひとつは那須事業所に勤めて直ぐの時にFBのキャプテンからだ。
シティホテルの事業所から来たマネージャーだったと言うが。
仕事は鍛え上げのウェイターでそれまでの那須のレストランサービスを作り変えた。洋食と中華のメニューを刷新しメニューブックも作り替えた。
私が配置された時はそのメニューでサービスしていた。そのホテルは夏季には1泊ひとり4、5万円はしていた。当然ミールチャージは、2万円程になる高級リゾートホテルだ。
ただ、彼には問題があった。
短気で激しやすかった。
部下の一寸した間違いに怒鳴りつけたようだ。
部下達は我慢がならなかったのだろう。
ある時、彼は反発した部下達5、6人から集団リンチを受けた。
誰かひとり首謀者がいたようだが、既にその者はいなかった。
営業後のレストランのフロアだった。
アゼリアというレストランは、五十嵐豊の焼いた益子焼で一尺半角の民藝調の石盤が壁一面に嵌め込まれていた。反対側の白壁には有名な画家の林檎の絵があった。そして足元から天井まで開かれた大きな窓から那須高原が一望に出来、いつも暖かく眩しい光が射しこんでいた。
そこでそんなことがあった。
その後彼は那須から他の事業所に移ったが、暫くして自死したと聞く。
自分自身への自責の念・苦恨の念からだと思う。
その後那須で彼の自死の話を聞くことはなかった。
夕食準備がひと段落したテイクファイブで彼のサービスマニュアルの話はよく聞いた。
部下だった者達は、彼の仕事は認めていたのだと思う。
幼馴染も幾人かが自死をしている。
殆どは鬱からになる。
20歳そこそこで亡くなった彼女は、結婚生活で夫から暴力を受け実家に戻り人と会わなくなった。そして、亡くなった。
幼馴染がよく彼女のことを話していた。田舎に戻る電車で一緒になりそんな話を聞いたという。夏休みで戻った時に彼女が亡くなった話を聞いたが、学生の私には、彼女の心の苦しみは分からなかった。
最近になるが、ある小学校の友人は、生き方が下手だったのかもしれない。
婿に入った家から追い出され、20kmもある実家まで歩いて戻ったという。歩きながら何を思っただろうか。60歳を過ぎて何も持たずに無一文で追いだされたのだろうか。その後1年ほど引き籠っていたが、誰にも会わず自死をしたと聞く。三十歳を過ぎる娘がいたにも関わらず、何があったのだろう。
私達幼馴染は、そのことを聞いて言葉にならなかった。近所の友達は声をかけていたが頑なに籠っていたようだ。
小学生の頃は体が大きく餓鬼大将だったが、ある時に工場勤めから婿に入った。地元では有名なお店だった。我々はそれを聞いて良かったと話していた。
還暦を迎える頃に彼のお店に行ったが、婿は大変なんだと愚痴っていた。
苦労はあるのだろうと思ってはいたが、その頃に既に不協和音は大きくなっていたのだろう。義父との軋轢のようだったが長かったのかもしれない。還暦祝いの宿の同室のものが、彼から泣き事を聞いてこぼしていた。
家を御出たのは、それから1年もした頃だ。
この年齢になれば、それでも十分に生きてゆけると思うのだが。
彼は、その道を歩めなかった。
不器用なのだろう。
もう一人は、小学校からの文武両道に秀でた男だった。
運動神経もよく、小学校の野球では、サードで3番を打っていた。
彼はクラスのヒーロー的な人物だったが、私は補欠でとても及ばなかった。
頭も良く高校も進学校に入りその後に東京の製薬会社に勤めた。そして社内恋愛で結婚した奥さんと関西の本社に転勤していった。幼馴染が集うとその頃の東京での写真を見る。その頃はまだ結婚前でつるんで遊んでいた頃だ。髪型や着るものもトッポく意気盛んだったのが見て分かる。
お互いに田舎者で元気にあふれた姿が眩しい。
彼はそれから暫くたち鬱の症状が出るようになり、なかなか改善できずにいた。鬱はホルモンバランスからなると聞く。優秀で真面目な男だったからだろうか。
ひと時は、元気になり60歳の還暦の集いでは、元気な顔を見せていた。
皆が集った会で回復を喜び楽しく飲んだ記憶がある。
彼は気を使っていたのだろう終始笑顔で対応していた。
しかし、その後はなかなか良くならず一進一退を繰り返していたようだ。幼馴染が電話をしても出ないことが多くなったと聞く。
そして、つい最近訃報を聞いた。
家族からは、葬式は身内だけで行うので誰も来ないで欲しいとのことだった。
詳しくはわからないが想像はできる。
古稀の祝いの数か月前になる。
もう一度は衝撃的だった。
出向先の職場でのことだ。
彼は40代の中堅の係長だったが、長年鬱の病に苦しんでいたという。
病院に通い薬も処方してもらっていたが、なかなか改善していなかった。病み始めて15、6年以上になるのだろうか。
他にも同じように鬱に苦しんでいる女性もいたようで、二人で情報交換などもしていたと聞く。
職場の古い者達はその話を聞いていたし心配もしていた。
ある時朝礼で彼が出社していないことが話となり、それを知る者が何かあったのかも知れないと申し出てくれた。
その当時彼は町営住宅に住んでいた。それを聞き私と地元の地理に明るい係長で尋ねたが、そこに姿はなかった。後になり、部屋を見たが6畳一間の奥に座卓があるだけの他には何もないガランとして、人が住んでいるようには見えなかった。こんな部屋にと思うと彼の心の空虚さが透けて見えるようだ。
どこを探せば良いか分からなかったが、実家の人も分からず一緒の者の心当たりから実家近くを捜した。
少し大通りから離れたところの川沿いに実家の小屋があるという。
4軒2軒幅の藁などを入れて置く納屋だがもしかしてと思い二人して覗いた。
大きな引戸があり入ると入口の右壁の土台に携帯と手帳がきちんと置かれていた。
小屋の中央には梁があり、彼はそこからロープで首を吊っていた。
その姿を見上げる私には衝撃だった。
事件性もあるので、触ることはできない。
役場の担当課長や職場の長に連絡を取り警察や諸々の方々が来るのを待った。
5分か10分の時間だったが、何言うでもなく二人過ごした。
他愛もない言葉を交わした気がする。
来るのを待って入れ違いに事務所に戻った。
後で聞いたことだが、警察の調べでは死後硬直から朝方の4時半頃に亡くなったようだ。
我々が朝礼後に携帯で呼んでいた時は既に亡くなっていたことになる。
警察の現場検証が済んで彼の長兄が遺体の彼をひとりで側に抱えて家に運んだという。
実家には不祥事になるのだろう。
それまでの彼は、職場では努めて明るく振る舞っていた。
そんな鬱に苦しんでいることはおくびにも出していなかった。
前の日も明るく振る舞って帰って行ったと聞く。
私には通夜と告別式でもその衝撃は続いた。
部下の鬱からの自死を防げなかったのかと自問自答した。誰も責めることはないが、出向先の部下であり、彼のことを詳しくは知らなかった。鬱のことも後から聞いたことだ。
役場の担当課長は、仕方ないと淡々と話してくれた。
この山間の町は閉鎖的というのだろうか昔から自死の多い町と聞いていた。
閉鎖的な村社会は生きることが難しいのかと思う。
村を出られなければ、その中で生きてゆかざるを得ない。
村八分という言葉が思い浮かぶ。
最期に悲しい友の話がある。
高校時代の同級生で隣町の中学校から一緒に高校に通った友になる。
その中学校からは彼だけが通っていた。県北一の進学校で何人かが東大に合格する名門校だった。家は開拓農家で、大通りから広い区画された水田や牧草地に沿って道があり奥に納屋と家があった。背後には杉林を背負っていた。
私と同じく自転車通学となり1時間ちょっとだが1年の内はよく一緒に通った。その内学年でクラスも変わり、帰りはクラブを遣る私とクラブのない彼とでは一緒にはならなかった。
体は大きく中学時代は砲丸投げの選手だった。一寸変わっており、クラスメートから少し小馬鹿にされていた。
ある時彼の学帽を小賢しい連中が、休み時間に隠した。
私はそれを注意できずに見ていた。
後で彼から「友達じゃないな。」と言われたことが、心に刺さった。
彼は将棋好きで将棋部を作ろうとしていたが、苦手な授業の時間は机の下で良く詰め将棋をやっていた。そのようなことが、職員室にも聞こえたのだろうか、その年には将棋部の話は実現しなかった。
卒業してから風の便りで県では有数の将棋指しとなり、ベスト5位にははいっていたようだ。
その後、40年は立つだろうか、私が建設関係の仕事に就いた時に彼が不動産会社にいることを聞いた。住宅営業だったことから情報が得られたらと思い彼のいる事務所を訪ねた。
そこは殆ど実績がない会社で潰れる寸前だといい、毎日事務所に詰めるだけで仕事は無いという。高校を終えて農業を継いでいたが、脚の動かなくなる病気が発症してからは地元では有名な不動産会社に長年勤めていたという。そこで不動産免許も取得した。もう既に破綻して無くなった会社だが、そこで営業は鍛えられたという。彼の得意な将棋の話となり、数年前に一度県のチャンピオンになったようだ。上位の者が三人位いて、彼はその一人だという。そして、県の王将位を一度は手にしたいタイトルだと言っていた。
そんなことを淡々と話してくれた。
家を持ち、奥さんとの二人住まいだという。
子どもさんがいたかは定かではなかったが、たしか成人し嫁いだ娘さんがいたと思う。
奥さんは腎臓が悪く、彼の介護がなければ、生きて行けないような話だった。
週に何度か腎臓透析をしているという。
彼は「自分が居なければ、妻はすぐにでも死んでしまう。」
そんなことを話した。
その後建設会社を離れたことから、彼のいる不動産会社を訪ねることはなかった。
4、5年は経っていたろうか、ある時風の便りで彼が亡くなったことを聞いた。
自死だという。
そのことを聞いて驚いたが、彼の淡々とした話を思い出した。
春先のことだったが、奥さんは前の年の秋に亡くなったという。
それから数カ月しか経っていなかった。
彼はもう生きる必要が無くなったのだろう。
ドアノブに紐をかけて、あの大きな体で逝ってしまった。
彼の生きがいは何だったのだろう。
家族への気持ちが強く病気持ちの奥さんを長年介護してきた。
趣味の将棋に長年取り組み県で有数の棋士になっていた。
彼は脚が動かなくなる不治の筋ジストロフィのような持病を持っていた。
父親もそうだったという。
不動産の免許を取ったのは体を動かさなくてもよい職業だからだが、そうして家を建て生活を送ってきた。
どこで壊れたのだろうか。
鬱だったのだろうか。
奥さんとの愛憎のことはわからない。
予想はしていただろうが、先に旅立たれたことで心が折れてしまったのだろうか。
会った時には「介護の為に自分は生きている。」心が窺えた。
それから先の彼の心の中は闇で私には分からない。
「悲の器」に書いた。
いまの私は「悲しみ」を思うことが増えてきた。
過去は変えられないというが、今更に「勇気のなさ」から、自分の愚かさから「悲しみ」を感じるようになった。
ストレスではなく今まで生きてきた生き様への後悔から「壊れる」不安を感じている。
嘗ては、ストレスから「壊れる」恐れを感じたが、今は違う。
後悔の悲しみからの恐れだ。
しかし、開き直りの気持ちもある。
自分は「壊れる」ことはないだろうとも思う。
何故なら自分は「鈍」で「奥手」になる。
萩原朔太郎や芥川龍之介、太宰治等の著名な作家や詩人達の憂いに比べ70歳になろうとする自分が今感じている悲しみは、レベルも年齢も遥かに異なるように思う。
感性が異なる。
書物や話から石川啄木も、萩原朔太郎も、野口英世も生き様では「ろくでもない」人間だったと聞く。
近くにいたら決して関わりたくない人間だと思う。
だからこそあのような偉業を達成できたのだろう。
中途半端で大した能力もない自分は、そのままで生きて九束ってゆけばよい。
「壊れる」なんて烏滸がましい。
笑われて太鼓判を押されるような気がする。
「あんたは大丈夫だよ。」と。