2020年7月12日日曜日

壊れる

「壊れる」のことは一度は書きたいと思っていた。
これまで、幾人もの人が壊れてゆく姿を見てきた。
しかし、人の死を書くことに抵抗があり決めかねていたが、
自分自身の心の悲しみから「壊れる」の言葉が浮かんでくるようになった。
いま書いてみようと思う。

「壊れる」は、津軽の単身赴任の時に初めて浮かんだ言葉だ。
当時は、赴任して数年が過ぎ、冬になり夜眠ることが出来なかった。
ストレスからだと思うが、何もすることはないのだが朝の3時頃まで眠れずにいた。6畳二間で奥に布団を敷いて、手前は炬燵とフィンランド製のストーブがあり、その隣に14吋のTVを置いていた。眠れないので、炬燵に寝ころびTVをつけたままうつらうつらしながら時間を過ごした。朝方になり眠たくなってから布団に入った。
ストレス太りで当時は体重が80kgにもなろうとしていた。
普段は、72、3kgだから、かなり太ったことになる。
村の職員検診では、中性脂質がかなりの数値になっていた。足首が白く浮腫み指で押すと凹んだままで戻らなかった。
毎日施設の温水プールで1、2kmを泳ぎ、冬にはスキー場のゲレンデを2時間は滑っていた。しかし、心は病んでいたのかと思う。
常々自分は図太く鬱などとは無縁だと思っていた。それまでも那須事業所では修羅場を幾度も潜っていたからだが、その時に「人はこうして壊れてゆくのか。」と思った。
この時のストレスは「鉛味の人事」に記してある。

自死のことは職場でも聞いた。
ひとつは那須事業所に勤めて直ぐの時にFBのキャプテンからだ。
シティホテルの事業所から来たマネージャーだったと言うが。
仕事は鍛え上げのウェイターでそれまでの那須のレストランサービスを作り変えた。洋食と中華のメニューを刷新しメニューブックも作り替えた。
私が配置された時はそのメニューでサービスしていた。そのホテルは夏季には1泊ひとり4、5万円はしていた。当然ミールチャージは、2万円程になる高級リゾートホテルだ。
ただ、彼には問題があった。
短気で激しやすかった。
部下の一寸した間違いに怒鳴りつけたようだ。
部下達は我慢がならなかったのだろう。
ある時、彼は反発した部下達5、6人から集団リンチを受けた。
誰かひとり首謀者がいたようだが、既にその者はいなかった。
営業後のレストランのフロアだった。
アゼリアというレストランは、五十嵐豊の焼いた益子焼で一尺半角の民藝調の石盤が壁一面に嵌め込まれていた。反対側の白壁には有名な画家の林檎の絵があった。そして足元から天井まで開かれた大きな窓から那須高原が一望に出来、いつも暖かく眩しい光が射しこんでいた。
そこでそんなことがあった。
その後彼は那須から他の事業所に移ったが、暫くして自死したと聞く。
自分自身への自責の念・苦恨の念からだと思う。
その後那須で彼の自死の話を聞くことはなかった。
夕食準備がひと段落したテイクファイブで彼のサービスマニュアルの話はよく聞いた。
部下だった者達は、彼の仕事は認めていたのだと思う。

幼馴染も幾人かが自死をしている。
殆どは鬱からになる。
20歳そこそこで亡くなった彼女は、結婚生活で夫から暴力を受け実家に戻り人と会わなくなった。そして、亡くなった。
幼馴染がよく彼女のことを話していた。田舎に戻る電車で一緒になりそんな話を聞いたという。夏休みで戻った時に彼女が亡くなった話を聞いたが、学生の私には、彼女の心の苦しみは分からなかった。
最近になるが、ある小学校の友人は、生き方が下手だったのかもしれない。
婿に入った家から追い出され、20kmもある実家まで歩いて戻ったという。歩きながら何を思っただろうか。60歳を過ぎて何も持たずに無一文で追いだされたのだろうか。その後1年ほど引き籠っていたが、誰にも会わず自死をしたと聞く。三十歳を過ぎる娘がいたにも関わらず、何があったのだろう。
私達幼馴染は、そのことを聞いて言葉にならなかった。近所の友達は声をかけていたが頑なに籠っていたようだ。
小学生の頃は体が大きく餓鬼大将だったが、ある時に工場勤めから婿に入った。地元では有名なお店だった。我々はそれを聞いて良かったと話していた。
還暦を迎える頃に彼のお店に行ったが、婿は大変なんだと愚痴っていた。
苦労はあるのだろうと思ってはいたが、その頃に既に不協和音は大きくなっていたのだろう。義父との軋轢のようだったが長かったのかもしれない。還暦祝いの宿の同室のものが、彼から泣き事を聞いてこぼしていた。
家を御出たのは、それから1年もした頃だ。
この年齢になれば、それでも十分に生きてゆけると思うのだが。
彼は、その道を歩めなかった。
不器用なのだろう。
もう一人は、小学校からの文武両道に秀でた男だった。
運動神経もよく、小学校の野球では、サードで3番を打っていた。
彼はクラスのヒーロー的な人物だったが、私は補欠でとても及ばなかった。
頭も良く高校も進学校に入りその後に東京の製薬会社に勤めた。そして社内恋愛で結婚した奥さんと関西の本社に転勤していった。幼馴染が集うとその頃の東京での写真を見る。その頃はまだ結婚前でつるんで遊んでいた頃だ。髪型や着るものもトッポく意気盛んだったのが見て分かる。
お互いに田舎者で元気にあふれた姿が眩しい。
彼はそれから暫くたち鬱の症状が出るようになり、なかなか改善できずにいた。鬱はホルモンバランスからなると聞く。優秀で真面目な男だったからだろうか。
ひと時は、元気になり60歳の還暦の集いでは、元気な顔を見せていた。
皆が集った会で回復を喜び楽しく飲んだ記憶がある。
彼は気を使っていたのだろう終始笑顔で対応していた。
しかし、その後はなかなか良くならず一進一退を繰り返していたようだ。幼馴染が電話をしても出ないことが多くなったと聞く。
そして、つい最近訃報を聞いた。
家族からは、葬式は身内だけで行うので誰も来ないで欲しいとのことだった。
詳しくはわからないが想像はできる。
古稀の祝いの数か月前になる。

もう一度は衝撃的だった。
出向先の職場でのことだ。
彼は40代の中堅の係長だったが、長年鬱の病に苦しんでいたという。
病院に通い薬も処方してもらっていたが、なかなか改善していなかった。病み始めて15、6年以上になるのだろうか。
他にも同じように鬱に苦しんでいる女性もいたようで、二人で情報交換などもしていたと聞く。
職場の古い者達はその話を聞いていたし心配もしていた。
ある時朝礼で彼が出社していないことが話となり、それを知る者が何かあったのかも知れないと申し出てくれた。
その当時彼は町営住宅に住んでいた。それを聞き私と地元の地理に明るい係長で尋ねたが、そこに姿はなかった。後になり、部屋を見たが6畳一間の奥に座卓があるだけの他には何もないガランとして、人が住んでいるようには見えなかった。こんな部屋にと思うと彼の心の空虚さが透けて見えるようだ。
どこを探せば良いか分からなかったが、実家の人も分からず一緒の者の心当たりから実家近くを捜した。
少し大通りから離れたところの川沿いに実家の小屋があるという。
4軒2軒幅の藁などを入れて置く納屋だがもしかしてと思い二人して覗いた。
大きな引戸があり入ると入口の右壁の土台に携帯と手帳がきちんと置かれていた。
小屋の中央には梁があり、彼はそこからロープで首を吊っていた。
その姿を見上げる私には衝撃だった。
事件性もあるので、触ることはできない。
役場の担当課長や職場の長に連絡を取り警察や諸々の方々が来るのを待った。
5分か10分の時間だったが、何言うでもなく二人過ごした。
他愛もない言葉を交わした気がする。
来るのを待って入れ違いに事務所に戻った。
後で聞いたことだが、警察の調べでは死後硬直から朝方の4時半頃に亡くなったようだ。
我々が朝礼後に携帯で呼んでいた時は既に亡くなっていたことになる。
警察の現場検証が済んで彼の長兄が遺体の彼をひとりで側に抱えて家に運んだという。
実家には不祥事になるのだろう。
それまでの彼は、職場では努めて明るく振る舞っていた。
そんな鬱に苦しんでいることはおくびにも出していなかった。
前の日も明るく振る舞って帰って行ったと聞く。
私には通夜と告別式でもその衝撃は続いた。
部下の鬱からの自死を防げなかったのかと自問自答した。誰も責めることはないが、出向先の部下であり、彼のことを詳しくは知らなかった。鬱のことも後から聞いたことだ。
役場の担当課長は、仕方ないと淡々と話してくれた。
この山間の町は閉鎖的というのだろうか昔から自死の多い町と聞いていた。
閉鎖的な村社会は生きることが難しいのかと思う。
村を出られなければ、その中で生きてゆかざるを得ない。
村八分という言葉が思い浮かぶ。

最期に悲しい友の話がある。
高校時代の同級生で隣町の中学校から一緒に高校に通った友になる。
その中学校からは彼だけが通っていた。県北一の進学校で何人かが東大に合格する名門校だった。家は開拓農家で、大通りから広い区画された水田や牧草地に沿って道があり奥に納屋と家があった。背後には杉林を背負っていた。
私と同じく自転車通学となり1時間ちょっとだが1年の内はよく一緒に通った。その内学年でクラスも変わり、帰りはクラブを遣る私とクラブのない彼とでは一緒にはならなかった。
体は大きく中学時代は砲丸投げの選手だった。一寸変わっており、クラスメートから少し小馬鹿にされていた。
ある時彼の学帽を小賢しい連中が、休み時間に隠した。
私はそれを注意できずに見ていた。
後で彼から「友達じゃないな。」と言われたことが、心に刺さった。
彼は将棋好きで将棋部を作ろうとしていたが、苦手な授業の時間は机の下で良く詰め将棋をやっていた。そのようなことが、職員室にも聞こえたのだろうか、その年には将棋部の話は実現しなかった。
卒業してから風の便りで県では有数の将棋指しとなり、ベスト5位にははいっていたようだ。
その後、40年は立つだろうか、私が建設関係の仕事に就いた時に彼が不動産会社にいることを聞いた。住宅営業だったことから情報が得られたらと思い彼のいる事務所を訪ねた。
そこは殆ど実績がない会社で潰れる寸前だといい、毎日事務所に詰めるだけで仕事は無いという。高校を終えて農業を継いでいたが、脚の動かなくなる病気が発症してからは地元では有名な不動産会社に長年勤めていたという。そこで不動産免許も取得した。もう既に破綻して無くなった会社だが、そこで営業は鍛えられたという。彼の得意な将棋の話となり、数年前に一度県のチャンピオンになったようだ。上位の者が三人位いて、彼はその一人だという。そして、県の王将位を一度は手にしたいタイトルだと言っていた。
そんなことを淡々と話してくれた。
家を持ち、奥さんとの二人住まいだという。
子どもさんがいたかは定かではなかったが、たしか成人し嫁いだ娘さんがいたと思う。
奥さんは腎臓が悪く、彼の介護がなければ、生きて行けないような話だった。
週に何度か腎臓透析をしているという。
彼は「自分が居なければ、妻はすぐにでも死んでしまう。」
そんなことを話した。
その後建設会社を離れたことから、彼のいる不動産会社を訪ねることはなかった。
4、5年は経っていたろうか、ある時風の便りで彼が亡くなったことを聞いた。
自死だという。
そのことを聞いて驚いたが、彼の淡々とした話を思い出した。
春先のことだったが、奥さんは前の年の秋に亡くなったという。
それから数カ月しか経っていなかった。
彼はもう生きる必要が無くなったのだろう。
ドアノブに紐をかけて、あの大きな体で逝ってしまった。
彼の生きがいは何だったのだろう。
家族への気持ちが強く病気持ちの奥さんを長年介護してきた。
趣味の将棋に長年取り組み県で有数の棋士になっていた。
彼は脚が動かなくなる不治の筋ジストロフィのような持病を持っていた。
父親もそうだったという。
不動産の免許を取ったのは体を動かさなくてもよい職業だからだが、そうして家を建て生活を送ってきた。
どこで壊れたのだろうか。
鬱だったのだろうか。
奥さんとの愛憎のことはわからない。
予想はしていただろうが、先に旅立たれたことで心が折れてしまったのだろうか。
会った時には「介護の為に自分は生きている。」心が窺えた。
それから先の彼の心の中は闇で私には分からない。

「悲の器」に書いた。
いまの私は「悲しみ」を思うことが増えてきた。
過去は変えられないというが、今更に「勇気のなさ」から、自分の愚かさから「悲しみ」を感じるようになった。
ストレスではなく今まで生きてきた生き様への後悔から「壊れる」不安を感じている。
嘗ては、ストレスから「壊れる」恐れを感じたが、今は違う。
後悔の悲しみからの恐れだ。
しかし、開き直りの気持ちもある。
自分は「壊れる」ことはないだろうとも思う。
何故なら自分は「鈍」で「奥手」になる。
萩原朔太郎や芥川龍之介、太宰治等の著名な作家や詩人達の憂いに比べ70歳になろうとする自分が今感じている悲しみは、レベルも年齢も遥かに異なるように思う。
感性が異なる。
書物や話から石川啄木も、萩原朔太郎も、野口英世も生き様では「ろくでもない」人間だったと聞く。
近くにいたら決して関わりたくない人間だと思う。
だからこそあのような偉業を達成できたのだろう。
中途半端で大した能力もない自分は、そのままで生きて九束ってゆけばよい。
「壊れる」なんて烏滸がましい。
笑われて太鼓判を押されるような気がする。
「あんたは大丈夫だよ。」と。



2020年7月10日金曜日

徒手空拳

「徒手空拳」の言葉は武器を持たずに身ひとつで戦うイメージなる。
サラリーマンは、誰か派閥の下でいるときはそれほどに酷い人事にはならないが、離れた時は諸に受ける。
総務畑にいると36協定なる言葉は誰しもが聞いたことがあると思う。
労働基準法の時間外労働休日労働に関する協定書になるが、中小企業では知ってはいるが、殆ど守られることはないと思う。

自分が長年お世話になったホテルには、労働組合はない。
経営協議会という名の社員の代表組織があった。
その代表には、会社(事業所)の御眼鏡に叶う人材が選ばれるようになっていた。経協委員はマネージャークラスの者がなり、社員にも事業所のトップにも信任が厚かった。
長年事業所の経協委員となっていた者がいたが、穏やかな人柄に部下からの信頼も厚く適任だったように思う。
本社総務の人間が来ると時折にそのようなことで情報交換なども行っていたようだ。
自分も一度経協委員に選ばれたことがあったが、どうという内容ではなかった。いずれにしろ形式上の代表であり問題のあるようなことは皆無だったからになる。
実質、那須事業所の営業畑にいた時は業務優先で働いていたし、公休消化は殆どできていなかった。有休以外に年間120日は休みを取るべきだが、70日位しか消化していなかった。上司も総務も何も言わなかった。それが、長年の慣行だった。
成田や浅草事業所の経協では、120日を超える休日を消化しそれ以外の有休消化率を問題としていた。当時の那須事業所ではあり得なかった。

それでも、「鉛味の人事」のようなことは人事のことであり、労組問題にはならない。会社側に対して物申すこともなかったが、「徒手空拳」の言葉が浮かんだことが、2度程ある。
一度は津軽やあぶくま洞の出向から、那須事業所に戻ってからになる。
「鉛味の人事」の際にもう2、3つは、書けるとしたが、その一つがあった。
ホテル事業部からお払い箱になり、自分で次の出向先を決めることになった。
その際に担当だった本部の部長は、何も面倒を見てくれなかった。
自分で移転先を見つけて来いという。
あぶくま洞では担当としてきたが、来ると必ず飯の話と宿の話で不満を言っていた。そして、必ず会社の費用で食事をした。
とんでもない方だったが、悪いことをしているわけではない。
それが本部の上司になる。
それでいて、出向先の行政の前ではそれらしい言葉で対応し良好な関係を維持していた。
彼らの術と言える。
出向先で精神を病むほどのストレスを受けながら仕事にあたっていた。
しかし、契約が終了すると次の転籍先は自分で探せという。
徒手空拳という言葉が、浮かぶ。
従来の給料の半分ほどの給料で那須事業所に戻る道を選んだ。
戻ってからが、悪夢となった。
55歳になる。
支配人の肩書はもらったが、居場所がない。
次の世代が仕切っていた。
10年以上も那須を離れていて、世代のギャップを埋められなかった。
外で仕事をしていた自分には、旧態依然の組織でどうしようもない態にみえたが、それを改善するには無理があった。
那須事業所の社長には、人事構想があった。
ある男をGMにするという構想だった。
彼は、1年ほど前に職を失いホテルに戻った。
20年近く前に家業を継ぐためにホテルを辞めて行った者だ。
当時は係長だった。
20年近いブランクがある。
いくらでも歴戦の強者の候補者はいたろうに。
そして、嘱託からGMに抜擢するという。
社長はワンマンな男だった。
皆が呆れたが、それが、出来た。
嘗て、自分がフロントの課長時代にその社長は当時の人事の悔しさから、悪酔いをして、トイレで糞まみれになったことがある。同僚が先にGMになり口惜しさからのようだ。
私ともう一人のフロントのもので介抱し、浴衣を着せて客室に休ませたことがある。
しかし、その後フロントのものをナイトフロントに左遷した。
その後は彼は浅草のGMに移動して行った。
栄転になる。
私はそれから随分とたったが、新しいGMの下で津軽に飛ばされた。

私は抜擢されてGMとなったかつての同僚に反発した。
私は居場所がなくなった。
支配人肩書の私はナイトフロントに左遷されることになった。
その話を総務課長がもって来た。
私は即座に退職を伝えた。
残こされていた休日と有休を賃金として計算するよう回答した。
社長は私と争うことはせずにそれを飲んだ。
金額は150万円ほどになった。
それを聞いて驚いたが、2年間の退職金に代わる金額と言えよう。
「徒手空拳」の言葉になる。
ワンマン社長の構想にひとり対峙したが、36協定が自分を守ってくれたことになる。
そんな話をきいた同世代の者が、「いやなら、自分でやればいい。」と話してくれた。
彼は温厚な常識的な人だった。
私のもっとも尊敬するタイプの人になる。
ある時には私の噂を聞いて忠告してくれたことがある。
激しい言葉ではないが、こころに響いた。

その後、捨てる神あれば拾う神ありの話となった。
那須を離れ路頭に迷うことになったが、直ぐに次の事業所を紹介された。
私を拾ってくれたのはホテル開発の者だった。
いつも浅草に出ると「鯛や」でいろいろと面倒を見て接待してくれた。
那須事業所でも津軽でもお世話になった。
給料もかつての出向時の給料に近いもので副総支配人の肩書だった。
そこはホテル業務を知らない会社でそれなりに実績を残すことができた。
終の職場にしようと思ったほどだ。
しかし、契約から私はその新しい職場を3年後に離れることになった。
離れる際に彼のメンツを潰すことになった。
36協定から未消化の休日を買い取ってもらった。
本当なら、私の主張は常識的にもあり得ない話だったけれども。
相手は、一部上場の名門企業だ。
コンプライアンス上からそれを認めてくれた。
彼等にとり労使間の問題を起こすことは汚点となる。
彼等の生きる術なのかもしれない。

私には「徒手空拳」の言葉が浮かぶ。
那須を離れて津軽に飛ばされたが、その際に芽生えた怨恨が根を張っていた。
そして、10年が過ぎ使い捨て同然に扱われた。
彼等から言えば自業自得になるのだろう。
仲間には責任はないが、会社に対しては義理はない感情となる。
会社は人によって動く。
会社のせいではないと思うが、その時に関わった人々になる。
那須のワンマンな社長は今どうやっているのだろうか。
消息は聞こえて来ない。
彼の生き様を小説にしたいと思うことがある。
彼を知る同僚は今でも彼の名を聞くと声を荒げ罵る。
社長を殺すことを夢に見るという。
彼はそれ程の怨恨を受けている。
同僚は、かつて社長が糞塗れになったときに私と一緒に介抱したフロントの者だ。
私は社長のような生き方、それもありと思う。
しかし、それを許した本部の取締役達への憤りは消えない。
同じ取締役という仲間意識だと思う。
それが彼等の所施術になる。
そのホテルはみずほ銀行管理を離れヒューリック傘下のホテルとなっている。
このコロナ禍では、接客業は成り立たない。
今後どのように生きてゆくのか。
世界中が大変な時になった。
旧知のものに状況を聞くと人員カットと10月までの支援金で遣り繰りをするが、それから先はどうしてよいかわからないという。

「徒手空拳」の言葉は、やせ犬一匹の姿にダブる。
ゴロツキのような態で生きてゆく姿が自分にダブる。








2020年7月8日水曜日

ネットワークビジネス

ネットワークビジネスとの出会いは、丁度東日本大震災の時になる。
というのはそれを契機にスタートしたからである。
それまでネットワークビジネスのことは名前ぐらいは知っていたが、私の関りにはなかった。
しかし、それが虎視眈々と狙われていたのが、今になり分かる。
そこにはスキだらけで無防備の自分がいた。
 
私は伝統工芸品の通販サイトを運営している。
東日本大震災の時には、弘前にいた。
数日前に着いていくつかの工房を訪ねていた。
弘前は車で走行距離530km。
津軽の工房は10数軒になり弘前の宿を拠点にして車で行き来していた。
遠くは、五所川原や平内町になる。
その日は、土手町の中三で知り合いの方と会っていたが、その最中に揺れが来た。
大きなビルがゆったりとそして大きく揺らぎ只ならぬ恐ろしさを感じた。
早々と別れてビル1階の喫茶店を出ると大通りは空が暗くなり足早な人々の姿があった。信号機は止まり車がクラクションを鳴らし行き交っていた。そこは不気味で不穏な空気が漂い一瞬にして映画の世界にタイムスリップしたようだった。
その日はそのあとに下川原焼土人形の写真撮影を予定しており、その足でそのままに訪ねた。車で30分ほどの距離だったが、途中東京の娘から携帯に電話が入り、安否を気遣う言葉があった。娘も大丈夫だというが、東京は大変だと言っていた。栃木の妻ともう一人の娘とも何とか連絡が取れ無事のようだ。
一瞬のその時間帯だけ携帯がつながった。
その後はどちらともいくら掛けても繋がらなくなっていた。
下川原焼土人形の撮影は午後の3時半頃からスタートし商品数も多く随分と時間がかかった。
停電が続いていて遅くなると工房は暗く撮影が出来なくなったが、辛うじて終わすことができた。
宿に戻り、翌日に家に戻ろうと安易に思っていたが、停電からガソリンを入れることも出来ずまた、高速は全面不通だった。弘前インターの入口まで行ったが、閉鎖されて完全にアウトだった。携帯が繋がらず情報が入らなかった。電気がとまると何もできない。
一日を何もできず無為に過ごした。
やっと城南のスタンドが給油できると話を聞き、早くに家を出て、13号線を戻ることにした。早朝にスタンドを尋ねた。
6時半頃だが、行列はできていたがそれ程に待つことなく給油できた。
安堵した。530kmは、満タンなら何とか途中で給油せずに戻れる距離だ。
昔幾度かこの道路を使い栃木の自宅まで戻っていた。
途中懐かしい風景の中を走り当時の記憶も思い出され、それでも1日がかかり何とか戻ることができた。13号線を走る車は皆無だった。
随分と飛ばして走るが、何分に時間はかかる。
会津に出たのは、夜の10時を回った頃で遅い時間になっていた。
そこから、2時間がまだかかる。
 
通販はまだスタートしたばかりだった。
2010年4月8日が会社設立日になる。
工房の方々は、誰しもが3年は売れないよと言った。
半年以上も鳴かず飛ばずで、初めての通販での注文は、11月になった。
7か月が過ぎていた。
それでも、私には素晴らしいことだった。
それからは、徐々に増えていった。
初年度の売上が24万3千円。
まだまだ先を見越せる内容ではない。
それは当初から予想されていた。
初めの数年は何かアルバイトの仕事をしながらにしようと思っていたが、その時に東日本大震災に出会ったことになる。
世の中が不穏な状態になり、心の中に何かしなければの焦りが芽生えていた。
自分の生きている間にこの様が災害が起こるとは。
誰しもが感じたことになる。
通販のお取引工房に原木細工丸太絵の工房があった。
木材の木っ端を磨いてそこに電熱ペンで線描をする。
そして、色を塗り描く。
ホームページを作るには、画像と価格サイズ等のスペックが資料となる。
そんな打ち合わせをしていたが、ある時「東京で無料のセミナーがあるけど行きませんか。」と言われた。交通費も出してくれるという。
自分は誘われているけれども時間が無理なので、私に代わって行かないかという。
これがネットワークビジネスへの誘いだった。
人に会うことは営業の基本なので、幾度か誘われるうちに会うことにした。
その後、彼女を誘っていた女性と連絡を取り、近くのファミリーレストランで会うことになった。
その時間に行くとその女性以外に知らない男性が一緒にいて、タヒチアンノニジュースの話を聞くことになった。
随分と長い時間をいろいろと話を聞いた。
友人知人の話から、ノニジュースの成分の話、そしてネットワークの繋がりから、ビジネスになること。アップラインの話から、レジェンドともいえる方の成功の話も聞いた。
私にネットワークビジネスをやることに抵抗はなかった。
タヒチアンノニジュースの生薬としての成分についても理解することができた。
私は彼女達の話を聞いて、直ぐにネットワークビジネスを行うことを心に決めた。
登録は少し先になったが、やることに抵抗はなかった。
隣に座っていた年老いた男性は私のアップラインになった。

話を聞いて私には勝算があった。
1.知人数。2.営業力。3.知識。4.講演、セミナーの開催。ネットワークに必要な要素の全てを持っていると思った。
長年のホテル業から、数百人をこえる知人がいた。旅行業者から、同業者、顧客、趣味の友人知人、ホテル時代を通じていかに多くの人々とあって来たか、そのことが自分の資産となる。
ホテル営業では、宿泊や日帰りの誘客を仕事としていた。ハードなブライダルの営業も。人に会い誘客することが仕事だった。
大学時代に専攻した応用微生物学はノニジュースの生薬としての効能を説明していた。
人の持つ生体恒常性、免疫という自然治癒力の理解は代替医療には必須のものになる。
そして、ホテルのブライダルの司会や津軽での幾たびかの講演から話すことに慣れていた。同じく社員教育では理路整然と話すことも得意だった。
いくらでもノニジュースのセミナーを開催し勧誘が出来るだろうと。
そうとなったら、一目散になる。
新宿の西新宿から歩いて20分ほどのところにタヒチアンノニジュース日本法人の自社所有ビルがあった。
そこでは、毎月日曜毎に会員獲得から得られる人達の表彰が行われていた。
そこに新しい会員を連れて行きその高揚感溢れるシーンを見せることが、モチベーションを高める方法となる。
ネットワークでは、成功者に会わせることが大切な活動となる。
いつもアップラインと連れ立って、新宿に向かった。それでも少しずつダウンラインという会員が増えて行きもう少しでジェードという月に40ケースというクラスに一歩手前まで来た。
30ケース位になりもう少しだった。
成功者セミナーやダウンラインを連れて、いく度新宿のビルに通っただろうか。
しかし、そこからが足踏み状態となり伸びなかった。
私がその数になることでアップラインの何人かは、そのクラスのジェードに昇格できた。
私を勧誘しそのダウンラインに取り込んだ人はネットワーク拡大に成功したことになる。
私が知らない老人ともいえる人達をジェードに出来たからだ。
これがネットワークの妙味と言える。
ダウンラインに力のある者がつくと一気にアップできる。
私はそれから随分と足踏みをした。
ダウンラインに取り組めた方々を上手くフォローすることが出来なかった。
今では十分に可能性はあったと思うのだが。
何故時間を掛けていろいろな可能性を試みることが出来なかったのだろうと思う。
人を育てることが苦手だったことに尽きるのかと思う。
幾人かに「売り気」が強すぎると言われた。
頭から売り付ける印象を与えていたようだ。
ネットワークビジネスの言葉を聞いた方は、「ねずみ講」のイメージから8割は抵抗感を持つと言われる。今でもそうだが、ねずみ講といった架空の商品で、人を募りトップはトンずらする。商品はないのだから破綻するのは当たり前だ。
そんなネットワークが蔓延っていたし、それが、いまだに名を変え品を変えあることも事実だ。
そこで売り気満々の自分が売りつけようとする。
誰しもが敬遠するだろう。
私にはまったく抵抗感はなかったけれども、そんな胡散臭いノニジュースを信じてやる気を持った自分が変わり者なのだろう。
今でも思うが、ノニジュースは素晴らしい生薬であり、ビジネスとしても確りとしたものだと。
それを活かせなかった自分の人間力不足に尽きると。

私は人の気持ちを読むことが苦手なタイプになる。
ブライダルでも成果は出したが、そんなことが苦手だった。
津軽でもあぶくま洞でもレジーナでも同じく人の気持ちを思い図ることが苦手だったと思う。
営業力は総合力になる。
ネットワークでは、あと一歩のところをクリアできなかったことが自分の敗因になる。
植物を育てることがどういうことか。
人を育てることがどういうことかになる。

そのようなことが続いていた時にアップラインと決定的な事件となった。
当時、私はfacebookやブログで生体恒常性や自然治癒力からの情報発信で、友人関係が増えていた。
私の中ではノニジュースをその一環で捉えていた。ビジネスよりも戦後の生活習慣病の是正する知識を普及させたかった。本来から自然治癒力や生体恒常性のある伝統食品を商品としていた。そして代替医療や戦後の成人病に対する考え方を普及させようとしていた。
ノニジュースは、ネットワークではあったけれどもそのひとつになる。
そのようなことから、代替医療のfacebook繋がりの人達をノニジュースのネットワークに募ろうと考えていた。
市営の公共施設を予約しセミナーを開催し集客していた。
アップラインの方々は、そこに来るだけだった。
そして、その人達はいつものように名刺を出してお茶に誘い胡散臭い方法で会員に募ろうとしていた。
一目で旧態依然の「ねずみ講」の姿に見えた。
私は、私のfacebook繋がりの人達には、その勧誘の仕方は似合わないことから、やめてくれと話したが、無理だった。
その反省会の席上で決定的なことになった。
そんな私に業を煮やしたのだろう。
パールの方が次回からの集まりは、ジェードで行うと宣言された。
私は除かれてしまった。
ひとり、OHPを使い講習会を開き奮闘していたが、仕方ない。
私との意見の違いに痺れを切らしたのだろう。

ネットワークは、既に出来上がっているラインを変更することができない。
親を選べないこと、それに連なるラインを選べないことが一番のネックとなる。
もうひとつは、後で知ったことだが、もう少し楽に登録者を増やすことができたが、一番難しい登録方法を選択していた。
ある意味では何も知らない自分が騙されていたことになる。
それを知らなかった自分が愚かだったといえる。
説明時にその登録の仕方しかないと思わされていた。
もう少し楽な登録のし方があったのだが、後になって知ったことだ。
こころに芽生えた「騙された」という気持ちが育ちアップラインに不信感を持った。
これらのことから、自分はネットワークの活動から離れていった。
ちょうど通販の売上も可成りになっていた。
アルバイトも辞められた。
いまでは、自分が愛用するだけになっている。
その後にその人達との連絡は無くなった。
一、二度、連絡がきたが、構わずにいた。
原木細工丸太絵の時に私に触手を伸ばした彼女は、見事に一度もあっていない。
彼女なりに私を見限ったのだろう。
その後にそれらの人達のサークルが大きくなった話は聞かない。
私を除いた時点で自分の足を切ったことになる。
ネットワークの未熟な組織が自爆した印象を持つ。
ノニジュースのネットワークに関わり3年ほどだったが、これも縁といえようか。
私のネットワークビジネスとの経験となった。
素晴らしいビジネス形態だと思うが、成功するためにはやはり人間力が必要になる。
自分の人間力が未熟だったことになる。
組織では、他人を活かす能力が大切に思う。









 

チャイナエッグ

チャイナエッグの言葉に出会ったのは、いつだろうか。
営業を経験した者は「チャイナエッグ」の言葉は知っていると思う。
今ではいつだったかも思い出せないが、ブライダルで婚礼情報から夜討ち朝駆けをしていた頃だったかと思う。
お客様の中にはお愛想がよく、訪問すると「お茶を飲んでげや。」といろいろと話が弾む方がいたが、契約にはならない人がいる。心中では、結婚式を申し込むつもりはさらさらないが、営業マンはその応対から期待して通う。
営業マンの行き先がないときはつい足を向けてしまう。
チャイナエッグは、鳥に卵を産ませないために温めさせる偽物の卵のことだ。
ブライダルの営業は、キツイ。
獲るか獲られるか一発勝負になる。
ホテルのブライダルには、客層がある。
地元のブライダルは、客単価が段違いに低い。
営業の殆どが空振りになる。
それでも婚礼情報があれば、営業としては訪問せざるを得ない。
断られることが続くとさすがに滅入ってくる。

那須高原は、眼下に那須町、黒磯市、西那須野町、黒羽町、大田原市等を見る農村地帯になる。一部核となる行政機関もあるが、農村都市と言えた。
当時の調理長から食文化という言葉も聞いた。
系列のホテルに伊良湖ビューホテルがあるが、恒例のクリスマスのバイキングでは、一人7,000円のチケットを4日間のイベントで数千枚を販売する。
それを那須ビューホテルでは、3,500円のチケットを1カ月かけてやっと数千枚売る。
半額のチケットだが方や倍の金額のチケットを数日間で埋めることができる。
これが、食文化の違いという。
渥美半島は換金作物の宝庫になる。
朝早くから畑に出て朝食は喫茶店でモーニングを取るという。
電照菊や渥美メロンの産地になる。
お金持ちの農村地帯だ。
那須高原でのホテルブライダルは、食ならぬ文化の違いと言える。
それをおなじ土壌で人情力を使い地元のブライダル会館と競争しようとしていた。
当時そんな経済法則も分からずに営業をしていた。

自分がブライダルの営業に抜擢されたのは、入社して2年目になる。
経理のベテランの少し年上の方と自分が人事案に上り、営業支配人が自分を推薦してくれたという。当時は営業企画を担当していた頃だが、ホテルがブライダルに力を入れた頃になる。根っからのホテル婚礼を担当していた者がいたが、上司と折り合いが悪く急遽やめて地元の婚礼会館に転職したが、その後釜になる。
それまで営業などやったことは一度も無かった。
何をどうやったらよいか分からないが、自分なりに戦略を考えて他事業所のことも聞きながらスタートした。
誰も教えてはくれなかった。
ゼロからになる。
見よう見まねでお取引先の業者から聞いた話を参考にした。
社員から婚礼情報を募り夜討ち朝駆けの営業を始めた。
もともと粘り強い性格からそれなりに婚礼を獲得できた。
ホテル社員の縁故だったり、広告チラシからの飛び込みだったりだが、随分と獲得できた。
情報を得てゆくと初めからホテルで上げることが決まっていた。
自分の営業力というよりも初めからホテルで結婚式を挙げたいお客様だった。
それでも巷では、ビューホテルのOOは、凄いと話題になった。
4年ほどブライダルを担当したが、200組近いご婚礼を担当した。
大安吉日の日曜日や祭日には、昼と夜もあり3組ほど担当することになる。
上司の指示でフロントの者に担当をお願いすることになったが、引継ぎが難しかった。
それでも合間に依頼した披露宴会場を覗きみた。
アシスタントとして、同じ営業部の者に担当アテンドを依頼することにもなるのだが、ブライダルのきめ細かな手配は、一朝一夕には理解されないので、取りこぼしとなる。
頭から自分の売上実績にならないと身を入れて担当をしない若者もいた。
ミスをしても自分は指示されていなかったと豪語する。
困惑した。
こちらは司会者の近くにいて常に進行をチェックする。
披露宴会場のFB担当者と打ち合わせをするのだが、スケジュール通りには動かない。
調理から、現場から控室、新郎新婦のお色直しの際の担当者への確認と身の休まることはない。
当然だと思うが。
しかし、もう一人のブライダル担当者は、殆ど現場に任せていた。
私にはあれほど打合せをしても失敗をする現場を見ているとチェックせざるを得ないのだが、太っ腹なのだろうか。
それといって、クレームになることはなかったようだ。
何か御呪いがあるのだろうか。
彼は、営業のプロと言えるほどのキャリアを持っていた。
コツを持っていたのだろう。

「田中理事長」のなかで、自分は営業向きではないことに触れた。
チャイナエッグは、気持ちの弱い自分には良く分かった。
物件を獲るという強い気持ちで当たれずに時間を費やしてしまう。
理屈で営業を行っていた。
戦略を講じて、目標達成を図った。
那須でも出向先の津軽でもあぶくま洞でもレジーナの森でも営業を担当した。
実績は、営業向きの性格に企画力が掛け算となるからだろう。
当時の那須事業所の営業部支配人となり、那須事業所と東京宇都宮の営業部の組織を任された。営業マンが、30人程はいた部署になる。
僅か数か月で津軽に飛ばされたけれども。
理由は、「鉛味の人事」に書いてある。
ホテルの営業マンは、海千山千の強者が多い。
私から見ると信じられないほどに出鱈目な者ばかりがいる。
朝礼後に事務所を出ると営業をせずに一日中、ブラブラしている。あるいは直行直帰で事務所に顔を出さない。
日報だけは、架空の内容で提出する。
営業チラシは、捨ててしまう。
当然実績は出ないけれども、半年や1年間は時間を稼げる。
同様に同じ頃に東京にいた営業マンを後に部下に持つ機会があった。
当時は全然面識はなかった者だが、日報では1日3件程度の訪問先しか記載されていなかった。実績も出てこなかった。自分は、疑うことをしなかったが、あまりに酷いので問い質すことがあった。あとで他の彼を知る者から、彼はその類の営業マンだったと聞いた。
ある時は、東京の営業部長肩書の者が、競馬か競艇のギャンブルの使い込みで事故破産して辞めていった。いつも事業所の会議では、強気の格好いいことを言っていた者だ。
当時私がフロントの課長時に私の相応しくない行動を営業会議で取り上げ非難をされたことがある。事業所のGMは恥をかいた。彼には仲間意識など一欠けらもない。
人を責めることでカモフラージュをしていたのだろう。
もう一つは、自分が那須の企画担当の折にダンス企画を立案し東京の一営業マンに提案したことがある。そして、東京営業部や他の宇都宮、仙台の営業部にも連絡をして集客を依頼した。
しかし、その話を独り占めし彼一人で進めていた。
他の誰もが知らない話になっていた。
実際は宇都宮所長も仙台所長も知っていた筈だが。
那須の営業部上司も知っていたが、何のフォローもしていなかった。
現地の営業会議でその話題が出た時は誰も知らぬ存ぜぬの態で、有耶無耶になった。
これほどに出鱈目な組織が営業部組織だ。
シティホテル事業所のブライダル担当者が使い込みでクビなった。2千万円位の金額だったろうか。そんなことが聞こえてきた。自分もブライダルで500万円をこえる金額を幾度か直接集金したことがある。振込んでくれればいいのだが、直接という方も中にはおいでだった。
営業マンが着服する可能性はあるけれども私は真面目で通っていたからか端から問題視はされなかった。
那須の事業所で副総支配人までになっていた名物男がいた。
誰しもが知る個性的な人だったが、辞めていった頃には生活が火の車だったのだろう。
退職後に新しく務めたホテルの支配人になっていたが、負債から首が回らなくなっていたようだ。旧知のホテルの者達に借金の声掛けをしていた。
1週間で返すからと5万円や数万円の金を貸してくれという。
彼のその話は出回っていた。
私にも来たが態よく断った。
それでも人の良いのは断れずに貸していた。
当然に戻らなかった。

口先だけでできるホテル営業という職は、それだけ誘い水が多い職場になるのだろう。どこかで道を踏み外す。
見た目が優男で口が上手く格好よく振る舞っていれば、世間体は誤魔化せる。
いつも思うホテルマンの7割は、出鱈目だと。
営業では、チャイナエッグの話は五万とある。
お付き合いから八方美人から勿論当たり前の話だ。
そして、営業マンの話も決して信じるべきではないと。









2020年7月2日木曜日

悲の器

学生時代に「悲の器」の言葉を聞いた。
当時誰しもが知る高橋和巳の小説のタイトルだ。
第1回文芸賞受賞作。
粗筋は知ってはいるが読んではいない。
このタイトルに惹かれた。
松本清張に砂の器がある。
人を器として表現する。
悲しみのいっぱい詰まった人を表す「器」の言葉に惹かれていた。
仏僧の言葉に「人は悲しみを背負ってこの世に生まれてくる。」がある。
琵琶法師の吟ずる平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす…」とある。
この齢になり己の悲しみをみている。
毎日来る孫がいて2歳ちょっとになるが、本能のままに無邪気に自由奔放に振る舞っている。
燥ぎまわり、叱られ泣いて直ぐに笑い喜怒哀楽をそのままに賑やかである。
かつて物心ついた自分もそうだったように思う。
小学校から中学、高校へ進み更に大学に進んだ。
そして、就業し30年が過ぎた。
今は第3の人生と言えるリタイア後の時間を過ごしている。
中学校ではそれほどに悩むことなく自分に正直に振る舞っていた。思春期を迎え青春を謳歌し妻を迎え家族を持ち、そして、社会ではそれなりの立場になり人生という大河を泳いできたように思う。
しかし、振り返ると当時は気づかなかった周囲の人達の姿がそして心が見えるようになった。
そのことが推し量れる年齢になった。
とうじ自分がその人達に悲しみや怒りを与えたと思うと心が痛んだ。
そのようなことに思いいたり悲しみが心に刺さってくる。
 
仕事では、30年のキャリアとなる。
全てのことを仕事を通して学んできたように思う。
 職場や御取引先とお客様そしてライバルなど、男女のことも職場から学んだ。
給料を頂戴しながらになる。
ホテル業に就いたのは29歳の時になる。
3年ほど勤めた家業が上手くゆかずに家を離れた。
その時に最初に性に合う接客業が思い付いた。東京にいるときは、築地の果物売り場や場外の魚類売り場で働いたが、その後に接客業のキャバレーや喫茶店で働いた。大人しい性格で人に喜んでもらうことが好きだった。自分には、接客業の水があったようだ。
那須温泉の老舗のホテルに就職し安堵した。
学卒だが会社勤めの経験のない29歳という年齢からか、1年間の使用期間があり問題がなければ本採用という条件でだった。しかし、本採用かどうかの確約はない。一家4人の生活にはぎりぎりの安給料だった。
勤められたのは良いが悲しかった。大学に8年間という時間を過ごし2年間という海外の旅も経験していたが、就職となると何の役にも立たない。
その道を選んだ自分のせいになる。
会社勤めの常識も知らずにただ一生懸命に働いた。
1年後に本採用となった。
あとで聞いた上司の話によると、その時の接客支配人が自分を「必ずや将来大きな戦力となる人材だ。」と評価し推薦してくれたという。
彼は能力が高く素都のない人で最後には専務まで上り詰めた。
私には恩人になる。
接客支配人と担当上司と私との共通項は、学生時代面識はなかったがテニスをやっていたことだった。
また、直属上司の彼は同学年で目をかけてくれた。
既に家族を持っていた私を不憫に思ってくれたのだろうか。
いちど、テニスの練習をしている市営コートに見に来てくれて、少しの時間一緒に練習したことを思い出す。さすがに学連でやっていただけあって、私よりも数段巧かった。
その時の私は子ども二人を持ち妻との四人家族になる。子どもは保育園に入る年齢になっていた。
よく継ぎ接ぎの御下がりの衣類を着ていた。義姉の娘のお古だ。
子ども心に一緒に遊ぶ近所の子ども達に引け目を感じていたのかもしれない。一二度そんなことを話したことがある。悲しい思いをさせていた。それを聞く妻はもっと切なかったかも知れない。
妻は裕福な家に生まれ苦労など知らずに育っていた。9人兄弟姉妹の末っ子。母親が46歳の時の子になる。母は手元に置きたかったようだが、それを捨てて自分のところに嫁いできた。
妻は内職を始めたが、足りない分はどこからか工面していたようだ。
実家の年老いた母から借りていた。
義母は可愛い末っ子の妻にくれた気でいたが、本人は返さなければと律義に思っていた。
ある程度落ち着いたときにその金額は、数百万円になっていたと聞いた。
私が50歳半ばの頃だ。
それを聞き数年で返済したが、私はそんなことも気づかない男だった。
その頃はまだ学生気分が抜けきれずに何とかなると言った風情だった。
贅沢はしなかったが、必要な時は金がなくとも使っていた。
恥ずかしい話だが我慢することを知らなかった。
パチンコや女や飲むと言ったことはなかった。
好きなテニスと仕事に精を出していた。早起きテニスの人達とは、楽しく過ごすことができた。とうじ50人ほどいたママさんテニスのコーチなどもしていた。少し若手のテニスの上手い男性ということで人気もあった。子ども二人は妻任せで構わずにテニスと仕事にかまけていた。
よく言われた「独身ですか。」と。
今更に思うが、全くのとっつあん坊やだ。
 
仕事では接客のレストラン担当となり、もともとキャバレー仕込みで好きで得意な部門だった。笑顔があり人あたりがソフトでお客様にも人気があった。呑み込みも早くメニューやドリンクの知識も人一倍勉強した。その内に夜の部門になりそちらも上手にこなした。
半年ほどで直ぐに配置換えとなり企画と売店担当になった。
29歳の学卒を早く一人前にするための人事だと思う。
この企画では、勉強になった。
この時の経験が、現在の通販の仕事に結びついている。
下野手仕事会という伝統工芸の職人さん達とのお付き合いがあり、郷土資料館の尾島利雄先生と知り合うことができた。
先生には随分とご迷惑をおかけしたが、根気よくご指導くださった。
人の酸いも甘いも弁えた方だった。
私には手仕事や民俗芸能に携わる人々をまじかに見る機会となった。
一緒に随行するだけで勉強になった。
会社勤めとは縁のない職人気質の人達を束ねて県の伝統工芸士の資格を取り付けていた。おなじく民俗芸能保存会関係でも先生のお墨付きで国の指定認可も取り付けている。
そんな職人達とのやり取りをコミカルに描いた「おらやんなっちゃった。」の著書がある。
天皇陛下の御進講は尾島先生だった。
母親思いの方でいつも講演では下野の女として母の御恩を語っていた。
その尾島先生の講演を幾度も聞いていた。私のその後のホテル講演やイベント司会のテクニックは先生直伝といえる。
スピーチにはコツがある。
文章を覚えるのではない。趣旨をまとめ思い情熱を語ること。
起承転結の文章は覚えるが、言葉を逐次追うのではなく思いを語ることになる。
先生は栃木県知事にアポイントなしで常に会いに行っていた。
そして、それが出来た。
先生は、私の赴任先に幾度も訪ねてくれた。
津軽でも、あぶくま洞でも。
常に気にかけてくれ、お土産を持ってお弟子さんを伴い訪ねてくれた。私が長年、友人と思っていた幼馴染がいたが、青森に来たが訪ねて来ることはなかった。津軽に単身赴任で7年もいた。人はこうして狂うのかと思うほどに眠れぬ夜があった。
那須湯本にもすぐ近くまで来ていたようだが、訪ねて来ることはなかった。そこまで来たなら寄ればいいのにと思ったが、全部後で聞いたことだ。
人の気持ちは図れるものだと思う。
私が勝手に友達と思っていただけになる。
今幼馴染の集まりでは彼は呼ばれることはない。
しかし私も逆に同じことを友人にしていたことが思い当たる。
そのことを思い出す度に心に刺さり痛む。
 
私は仕事に真面目に取り組んだ。
いつも業界紙を月決めでとり勉強していた。
そして企画が得意だった。
長年営業企画に籍を置き随分イベントを提案していた。その後、昇進し第二接客課のマネージャーとなった。
従来はあまり陽の当たらない部署になるのだろうか。
新しいGMが来られ、事業所の売上達成を大きな目標にしていた。
部門の目標達成率で四半期ごとに成果報酬をだすことになった。第2接客課は、2年いたことになるが、部門売上だけで年間目標を1千万円もクリアしていた。私の部署だけが、目標をクリアしそして、その報酬を得た。四半期ごとの全社員集会では常に表彰されて、年間の褒章金額が50万円を超えた。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
その後、フロントの課長、販売部の課長を担当した。
同時に係長やマネージャーを束ねて業務改善チームを立ち上げた。そして、顧客満足の観点から改善を行い社内や本社の評価は高かったと思う。
予約の時には、顧客へのDM戦略で大きく集客を増やした。
那須事業所にOOありを自他ともに認めていた。
しかし、勢いづいた私は、表立ってトラブルはなかったけれども問題の芽を育てていたのだろうと思う。傍若無人に振る舞うことはなかったが、人のやっかみの目はあるものだ。
部下や同僚の目はどうだったのだろうか。
もともと自分勝手で人の気持ちを読めるタイプではない。まして、人の話を聞きやる気を引き立てることは考えたことはない。正攻法というのか正面切って理屈で論破して自分の意の通りに進めていた。
表立って敵はいなかったが、隠れて反発する人もいたと思う。
この結果が、「鉛味の人事」になる。
 
妻とのことは今更ながら後悔の念となる。
苦労のかけ通しだったように思う。
縁あって一緒になった女性になる。
幸せにしなければの気持ちがあるが、少し余裕ができた時には互いに年を取り何もいらなくなっている。
念願だった二人旅にゆこうと声かけるが、今は妻の体がもたない。
リウマチ系の病気になり足も痺れ長く歩くこともままならない。
脊柱管狭窄症という。
老いると男性も女性も現れる症状だ。
妻はキャディの仕事を長年行っていた。
膝の軟骨が擦り減って、また、腰が滑り症だという。
一泊の温泉旅も難しい。
夫婦には相性もある。
二人のことはお互い様と言えるのだが、「すまない」という気持ちと「し方なかった」の思いがある。
貧しい道をあゆみ二人の子どもを世に送り出した。
ともに戦い生きてきた「戦友」の気持ちがある。
ここでは触れないけれども、人には話せないことになる。
あの世で詫びようと思う。
 
学生時代は都合8年間になる。
入学は明治大学の農学部農芸化学科になる。
私立大学では有名な岩本教授の応用微生物研究室に籍を置いた。そこでは、藍藻スピルリナ・プラテンシス(Spirulina Platensis )のテーマを与えられて、培養から生体成分の分析まで行っていた。
当時五千万円を超える高額なクロマトグラフィーの機械を使い、生体成分の分析ができた。クロレラが話題になっていて、まだ、藍藻のスピルリナは未来の研究テーマであり、先端を行っていたように思う。
確りとした先輩と仲間が居り外房館山にある海の家の旅行なども行い楽しい時間を過ごしていた。
中のひとりはアルバイトを紹介してくれ、その内に広島の三次市の5歳ほど年上の先輩を紹介してくれた。その先輩には随分とお世話になった。
会計士を目指していて三年位になるのか国家試験に挑戦していた。彼は明治の商学部で風貌は高倉健に似ていた。
高倉健は明治の先輩だと話してくれ、若い駆け出しの頃に淡路千景に可愛がられていた話をしてくれた。
お父様は立派な方で、京都のタクシー会社の重役をしていた。
そこのタクシー会社でアルバイトをした時に居酒屋につれてゆかれご馳走になった。初めて海鼠を食べた。
特殊な匂いと歯ごたえが今でも記憶に残っている。関西では正月の定番料理だったようだ。
明治と立命館とのテニス交流戦が、毎年相互に訪問しあってあったが、その年は立命館の登板で御所のコートになった。
御所を入ると中央の木陰の中に5面あった。
交流戦の当日はすこし雪が舞っていたように思う。
それに合わせて一か月程アルバイトで滞在した。吉祥院這登の運送会社の助手として過ごした。11トンの大型トラックで北陸や九州、四国まで行き面白い経験となった。住まいは、住み込みの従業員室が当てがわれた。
一か月間日曜のたびに嵐山や南禅寺などの有名な観光地巡りをして過ごした。
一度真鶴から来ていた木戸さんという運転手さんに生意気な口をきいて殴られた。大型トラックで酒を飲み運転をしていたことに助手の私が何か生意気なことを言ったからだが、木戸さんは腹に据えかねていたのだろう。その夜酔って絡んできて殴られた。それを見ていた別の東京から来ていた方が、慰めてくれたが、自分は後悔した。
テニスの宿は、鴨川沿いの四条の旅館だったように思う。
その京都での1か月は、学生時代の思い出の一つになった。
そういえば、あの公認会計士を目指していた先輩はどうしたろうか。
岩本応用微生物研の人達は、その後行き来がなかった。
同期ではひとりが筑波大学の修士になり、協和発酵(株)の研究室に入ったと聞いた。
彼は、アルバイトに明け暮れて苦学生だったが、学業をやり遂げた。
尊敬している。
彼に清掃のアルバイトを紹介されて、お世話になった。
その後のことは、キャバレーチャイナタウンや美田で触れている。
皆そうなのだろうか、私なりに無鉄砲な学生時代を送っていた。
 
神奈川のテニスの友人たちは、皆真面目だった。
生田校舎にいた頃は、誘われて江ノ島や鎌倉などに遊んだ。
藤沢から来ていた友の家にも泊まりに行った。
藤沢駅から歩いて、30分ほどだが、山手にあり乳牛を飼っていた。
光明君と言ったろうか。
末っ子で上の兄弟姉妹からは、みっちゃんと呼ばれていた。
青い目のダルメシアンの子犬を飼っていた。4年の時に好きな女性がいて、告白していたことを覚えている。
横浜の大和町にいた友とは同じ学部でいつも吊るんで行動していた。
私は彼といろいろと友達付き合いをしていたが、彼に済まないことをした記憶がある。
よく私の下宿にも授業の合間に中休みの時間に来ていた。
しかし、私の田舎に友人たちが4人程で来た時に彼はタイミング悪くその仲間から漏れてしまった。
車が1台だったこともあるが、それがずーと悔やまれた。
自分の結婚式の時も司会を頼もうと思ったほどだ。
彼は、司会は苦手だとして断ったが、私は一番の友達に思っていた。
卒業後、田舎に引っ込んだ自分は、何かの都合で東京に出た時はいつも良く待ち合わせた。
そして、京橋に勤めていた彼は、いろいろな店で奢ってくれた。
それが目的ではなかったが、金回りの悪い自分は、ついつい奢ってもらい返すことをしなかった。
気が弱く割り勘で行こうとか自分が払うということが言えず、奢ってもらい続けた。
その様なことが続いて、彼は感情を害したと思う。
東京に出ても会うことが無くなった。
ある時彼の家に電話すると素敵な女性がでて、彼を「あなた」と呼んでいた。
結婚していた。
声の感じからして、素敵な好感の持てる女性だったように思う。
彼は、仲間内ではいつも阿保な役を演じていたが、島崎藤村の詩を吟ずるようなそんな詩心がわかる感性豊かな男だった。
恥ずかしがり屋だったのだろうと思う。
そんな彼に私は頼りっきりで付き合っていた。
一言を言う勇気がない、気が弱かったからだが、大切な友達をなくしてしまったと思う。
人生に大切な「勇気」を持ち合わせていなかった。
その後、あの素敵な声の奥さんは亡くなったという。
若くして突然だった。
ご病気だったと聞いたが、その後彼に会う機会はなかった。
彼が再婚した話は聞いていない。
私には悔やまれる大切な友の思い出になる。
 
人生を通して、対人交渉が苦手だと思っている。
本部の常務と飲む機会があり、「お前は営業は得意じゃないが、企画はぴか一だ。」と言われたことがある。自分では不本意だったが、そうかもしれない。
彼はその後本社の社長となった人物だ。
人を見る目も人に対する関り方もよく弁えていた。
彼は私のことを見抜いていた。
 
「鉛味の人事」で書いた、私と支配人との確執の原因となったことは常務から聞いた。
次長の私が何故5歳も若い係長の下の人事になったかだが、彼は言った。
「支配人人事は初めから決まっていた。下に誰を持ってくるか探していておまえになった。」と。
当時の本部役員の考えたことだが、私には知らず怨恨となった。
私は人の洞察力や人の気持ちを思い図ることは、苦手だった。
粘り腰というか、売ることに関しては強気の押しがなかったように思う。
思い付きの発想力があり、それを企画にまで持ってゆき、それなりの実績があった。
那須事業所でも津軽でもそれが、成果を上げた。
営業力はその両方の掛け算になるので、総じては実績を残せたように思う。
その粘り腰というか押しの強さは、自分自身に対する自信だと思う。
「成功体験」というが、私はいつも気の弱さから「負け犬」だったように思う。
神奈川のテニス仲間に自分のその気の弱さをみて「可哀そうだ」と言っていた者がいた。
その友達はハンサムで末っ子の甘ちゃんだったけれども女性には人気がありモテた。頭もよく彼は東大を目指していた。自分たちの時は東大紛争から、東大を受験することが出来なかったが、それで明治の工学部に来た。
しかし、どこかで間違えたのだろう。
大きな建設会社の社員となり全国の工事現場をそれなりのポジションで歩いていたが、四国の現場でいつも通う飲み屋の女性を連れて逃げたと聞いた。
彼女にはヤクザが付いていたと聞いた。
もちろんヤクザに追われ職場も捨てたことになる。
その後の便りは聞かない。
彼は賢く私の弱い性格を見抜いていた。
自分を振り返るとそれなりの才能を持っていたが、それを活かす「勇気」を持たなかった。
同じことを長年有名なホテルで働いていた仕事のできる者に「勿体ない」と言われた。
やはり、押しのことであり、もう一歩の勇気だったように思う。
それが為に自分に関わる人に「悲しい思い」をさせたように思う。
「勇気」「強さ」は「優しさ」になる。
自分にはその「勇気」が掛けていた。
それが為に周囲の人達を悲しい目にあわせたと思う。
 
この齢となり今更にその時々のことが思い出される。
悲しい思い出だ。
「悲の器」の言葉がそのことを思い出させる。