確か中学2年生の時だと思う。
その中学校は、伊王野という町外れにあった。伊王野は、嘗ては伊王野村というほど栄えた町で映画館や数軒の呉服店、金物店、クリーニング、製材所、肉や鮮魚、八百屋、書店等があった。上町中町下町下郷とあり町の中心には、役場と消防署、小学校がある。病院や診療所、歯科医も2軒ほどあった。その町を通り抜け蓑沢地区の奥の八溝山を源流とする三蔵川を渡り、長く続く坂道を1km近く上る。自転車通学の者も皆降りて歩いた。そこは赤坂と言っていた。
その中学校は、その伊王野の町を見下ろす山の切り開いた斜面を背にして建ち、2階建ての木造の校舎だった。道路から100メートルほど左に真直ぐに入り大きな高さ2mほどの白御影の門柱がある。校庭は、周囲200m競争のできる円が描かれ、サッカーと野球のできる広さのグラウンドで、更に右上の段上のグラウンドには、テニスコートとバスケット、バレーボールのコートがあった。各学年が一クラスの稲沢小学校から、一学年5クラスの中学校に通う私には、全てが驚きで見るほどに凄い印象がある。
その日は、2年になって直ぐの時で、彼と私とが誰もいなくなった職員室で、先生の看板書きの仕事を手伝っていた。どうして彼と私なのかは思い出せない。
先生が、翌日の全体行事の進行表を筆で模造紙に書いていたのだと思う。
職員室は、すでに誰もいなくなって、向かいのグラウンド裏の雑木林越しから西日が射し込んでいた。西日に職員室の埃が白く光り漂っていた。午後の暖かで静かな時間が流れていた。
職員室は、すでに誰もいなくなって、向かいのグラウンド裏の雑木林越しから西日が射し込んでいた。西日に職員室の埃が白く光り漂っていた。午後の暖かで静かな時間が流れていた。
唐突に先生が彼に「響」という字は艮(コン)の上に「点」が付くかどうかを訊いた。
私は付くかどうか思い出せずにいたが、彼は確信をもって付かないと答えた。
その時、どうして彼に聞いて、私には聞かなかったのかが不思議に思えた。
後になり、あの時先生は答えを知りたかったわけでは無かったのかと思った。
答えから彼自身を諮っていたのだろうと。
直近の一学年時の期末試験で彼は学年一位だった。
私は、その結果が掲示されるまで彼のことは知らなかった。
私は付くかどうか思い出せずにいたが、彼は確信をもって付かないと答えた。
その時、どうして彼に聞いて、私には聞かなかったのかが不思議に思えた。
後になり、あの時先生は答えを知りたかったわけでは無かったのかと思った。
答えから彼自身を諮っていたのだろうと。
直近の一学年時の期末試験で彼は学年一位だった。
私は、その結果が掲示されるまで彼のことは知らなかった。
2学年になり、同じクラスだったと思う。
彼は、運動神経が良く、優しく勉強ができたけれども、目立たなかった。
変に正義感があり自立心の強い、好奇心の強い自分は、他の同級生たちとは違っていた。
今になり、交流があるが当時も今も変わらない。
その先生は、私の3歳年上の兄の担任だった。
体育専門の背が高く、180cmはあったろうと思う、凛とした風貌だが、眼鏡をかけ穏やかな方だった。男子生徒達は、皆憧れをもって見ていたと思う。ある時出逢った兄に、「弟は少し違うな」と言っていたという。
学年で1、2位の成績で1年の時に生徒副会長になり2年で生徒会長になっていた。
今この年齢になり、当時を思い出して、何故立候補したのか自分の気持ちが思い出せない。何を考えていたのだろうか。
何もかもが凄く映った中学校で、生徒会長に立候補する気持ちを持っていたのかと思う。生徒会は、ひとつの生徒の自主的な活動だが、頭の良い者が、なっていた。立候補者は、全校生集会で壇上にあがり立候補演説をした。何を話したのだろうか。1年生時の身体検査で身長は、142cmの小さな体躯だった。入学するとテニスクラブに入り一生懸命に練習していた。小さな稲沢小学校から来ている先輩でも嘗て生徒会長だった者の名は、聞かなかった。
今この年齢になり、当時を思い出して、何故立候補したのか自分の気持ちが思い出せない。何を考えていたのだろうか。
何もかもが凄く映った中学校で、生徒会長に立候補する気持ちを持っていたのかと思う。生徒会は、ひとつの生徒の自主的な活動だが、頭の良い者が、なっていた。立候補者は、全校生集会で壇上にあがり立候補演説をした。何を話したのだろうか。1年生時の身体検査で身長は、142cmの小さな体躯だった。入学するとテニスクラブに入り一生懸命に練習していた。小さな稲沢小学校から来ている先輩でも嘗て生徒会長だった者の名は、聞かなかった。
自分は何かが違っていたのだろう。
その先生の言っていた意味は、「弟は少し違うな」の言葉を兄も私も当時は誉め言葉だと思っていたが、今は違うのかも知れないと思う。
私は、いくつもの恥ずかしいエピソードを持っている。
フォークダンス事件、試験の白紙事件などをやらかしていた。フォークダンス事件は、体育の時間でフォークダンスの際に男連中が、恥ずかしさから嫌がって口々に言っていた。憧れの体育の先生が、「嫌な者は、手を挙げろ。」と言うが、悪の連中は、誰も手を挙げない。私は、不甲斐ないと思い、それならとひとり手を挙げた。私は嫌いではなかったが、代わって手を挙げた。一本気で意固地だったのだろう。
その先生の言っていた意味は、「弟は少し違うな」の言葉を兄も私も当時は誉め言葉だと思っていたが、今は違うのかも知れないと思う。
私は、いくつもの恥ずかしいエピソードを持っている。
フォークダンス事件、試験の白紙事件などをやらかしていた。フォークダンス事件は、体育の時間でフォークダンスの際に男連中が、恥ずかしさから嫌がって口々に言っていた。憧れの体育の先生が、「嫌な者は、手を挙げろ。」と言うが、悪の連中は、誰も手を挙げない。私は、不甲斐ないと思い、それならとひとり手を挙げた。私は嫌いではなかったが、代わって手を挙げた。一本気で意固地だったのだろう。
白紙事件は、今でも幼稚な自分を恥かしく思うが、事実は答案を白紙で出したわけではない。当時は、「能ある鷹は爪を隠す」の言葉が気に入り、日記や何かに書いていた。ただそれだけなのだが、それを私は、答案用紙の名前のわきに書いて出した。一度だけだったと思うが、それを見たその科目の先生が、自分の受持ちクラスでその話を話したという。その先生は、強面の理科の先生で、山岳登山で有名な方だった。県の代表で南米の登山に参加したことを後に聞いた。当時町の町章デザインに応募し採用され、やはり憧れの先生だった。御病気で若くして亡くなられた。
その後、問題になったわけではないが、最近会った友人から、その話を聞いた。彼は、その先生のクラスだった。当時白紙事件として伝わったようだ。
恥ずかしいほどに意固地だった。先生方も田舎の子はこうなのかと思っていたと思う。
井の中の蛙の私には、勿論知る由もない。
今になり、この年齢になり思えることだ。
私は数学が得意で決まってひとり満点だった。私が小学校5年の頃に叔父が兄に関数を教えていたのを脇で見ていて、覚えたことから、小学校の算数の時間に関数を使って答えを出していた。エックスとワイの関数。先生も驚いただろう。そのことから、本当に数学は得意だった。
恥ずかしいほどに意固地だった。先生方も田舎の子はこうなのかと思っていたと思う。
井の中の蛙の私には、勿論知る由もない。
今になり、この年齢になり思えることだ。
私は数学が得意で決まってひとり満点だった。私が小学校5年の頃に叔父が兄に関数を教えていたのを脇で見ていて、覚えたことから、小学校の算数の時間に関数を使って答えを出していた。エックスとワイの関数。先生も驚いただろう。そのことから、本当に数学は得意だった。
私は、意識はしていなかったのだが、何となく勉強ができた類で、「何ちゃない」だったようだ。もう少し気持ちなりが確りしていたなら、人生は違ったと思うが。
その先生が、私に向かい「いつも苦虫をつぶした顔をしている。」と笑っていた。
今も一生懸命に考えると不機嫌そうな顔になる。
実際は、不機嫌でもなんでもなくそう見えるだけなのだが。
昔も今も変わらない。
その先生が、私に向かい「いつも苦虫をつぶした顔をしている。」と笑っていた。
今も一生懸命に考えると不機嫌そうな顔になる。
実際は、不機嫌でもなんでもなくそう見えるだけなのだが。
昔も今も変わらない。