2020年4月10日金曜日

響の字

響の字を見ると思い出すことがある。
確か中学2年生の時だと思う。
その中学校は、伊王野という町外れにあった。伊王野は、嘗ては伊王野村というほど栄えた町で映画館や数軒の呉服店、金物店、クリーニング、製材所、肉や鮮魚、八百屋、書店等があった。上町中町下町下郷とあり町の中心には、役場と消防署、小学校がある。病院や診療所、歯科医も2軒ほどあった。その町を通り抜け蓑沢地区の奥の八溝山を源流とする三蔵川を渡り、長く続く坂道を1km近く上る。自転車通学の者も皆降りて歩いた。そこは赤坂と言っていた。
その中学校は、その伊王野の町を見下ろす山の切り開いた斜面を背にして建ち、2階建ての木造の校舎だった。道路から100メートルほど左に真直ぐに入り大きな高さ2mほどの白御影の門柱がある。校庭は、周囲200m競争のできる円が描かれ、サッカーと野球のできる広さのグラウンドで、更に右上の段上のグラウンドには、テニスコートとバスケット、バレーボールのコートがあった。各学年が一クラスの稲沢小学校から、一学年5クラスの中学校に通う私には、全てが驚きで見るほどに凄い印象がある。
その日は、2年になって直ぐの時で、彼と私とが誰もいなくなった職員室で、先生の看板書きの仕事を手伝っていた。どうして彼と私なのかは思い出せない。
先生が、翌日の全体行事の進行表を筆で模造紙に書いていたのだと思う。
職員室は、すでに誰もいなくなって、向かいのグラウンド裏の雑木林越しから西日が射し込んでいた。西日に職員室の埃が白く光り漂っていた。午後の暖かで静かな時間が流れていた。
唐突に先生が彼に「響」という字は艮(コン)の上に「点」が付くかどうかを訊いた。
私は付くかどうか思い出せずにいたが、彼は確信をもって付かないと答えた。
その時、どうして彼に聞いて、私には聞かなかったのかが不思議に思えた。
後になり、あの時先生は答えを知りたかったわけでは無かったのかと思った。
答えから彼自身を諮っていたのだろうと。
直近の一学年時の期末試験で彼は学年一位だった。
私は、その結果が掲示されるまで彼のことは知らなかった。
2学年になり、同じクラスだったと思う。
彼は、運動神経が良く、優しく勉強ができたけれども、目立たなかった。
変に正義感があり自立心の強い、好奇心の強い自分は、他の同級生たちとは違っていた。
今になり、交流があるが当時も今も変わらない。

その先生は、私の3歳年上の兄の担任だった。
体育専門の背が高く、180cmはあったろうと思う、凛とした風貌だが、眼鏡をかけ穏やかな方だった。男子生徒達は、皆憧れをもって見ていたと思う。ある時出逢った兄に、「弟は少し違うな」と言っていたという。
学年で1、2位の成績で1年の時に生徒副会長になり2年で生徒会長になっていた。
今この年齢になり、当時を思い出して、何故立候補したのか自分の気持ちが思い出せない。何を考えていたのだろうか。
何もかもが凄く映った中学校で、生徒会長に立候補する気持ちを持っていたのかと思う。生徒会は、ひとつの生徒の自主的な活動だが、頭の良い者が、なっていた。立候補者は、全校生集会で壇上にあがり立候補演説をした。何を話したのだろうか。1年生時の身体検査で身長は、142cmの小さな体躯だった。入学するとテニスクラブに入り一生懸命に練習していた。小さな稲沢小学校から来ている先輩でも嘗て生徒会長だった者の名は、聞かなかった。
自分は何かが違っていたのだろう。
その先生の言っていた意味は、「弟は少し違うな」の言葉を兄も私も当時は誉め言葉だと思っていたが、今は違うのかも知れないと思う。
私は、いくつもの恥ずかしいエピソードを持っている。
フォークダンス事件、試験の白紙事件などをやらかしていた。フォークダンス事件は、体育の時間でフォークダンスの際に男連中が、恥ずかしさから嫌がって口々に言っていた。憧れの体育の先生が、「嫌な者は、手を挙げろ。」と言うが、悪の連中は、誰も手を挙げない。私は、不甲斐ないと思い、それならとひとり手を挙げた。私は嫌いではなかったが、代わって手を挙げた。一本気で意固地だったのだろう。
白紙事件は、今でも幼稚な自分を恥かしく思うが、事実は答案を白紙で出したわけではない。当時は、「能ある鷹は爪を隠す」の言葉が気に入り、日記や何かに書いていた。ただそれだけなのだが、それを私は、答案用紙の名前のわきに書いて出した。一度だけだったと思うが、それを見たその科目の先生が、自分の受持ちクラスでその話を話したという。その先生は、強面の理科の先生で、山岳登山で有名な方だった。県の代表で南米の登山に参加したことを後に聞いた。当時町の町章デザインに応募し採用され、やはり憧れの先生だった。御病気で若くして亡くなられた。
その後、問題になったわけではないが、最近会った友人から、その話を聞いた。彼は、その先生のクラスだった。当時白紙事件として伝わったようだ。
恥ずかしいほどに意固地だった。先生方も田舎の子はこうなのかと思っていたと思う。
井の中の蛙の私には、勿論知る由もない。
今になり、この年齢になり思えることだ。
私は数学が得意で決まってひとり満点だった。私が小学校5年の頃に叔父が兄に関数を教えていたのを脇で見ていて、覚えたことから、小学校の算数の時間に関数を使って答えを出していた。エックスとワイの関数。先生も驚いただろう。そのことから、本当に数学は得意だった。
私は、意識はしていなかったのだが、何となく勉強ができた類で、「何ちゃない」だったようだ。もう少し気持ちなりが確りしていたなら、人生は違ったと思うが。
その先生が、私に向かい「いつも苦虫をつぶした顔をしている。」と笑っていた。
今も一生懸命に考えると不機嫌そうな顔になる。
実際は、不機嫌でもなんでもなくそう見えるだけなのだが。
昔も今も変わらない。

娘の寝顔

娘は、毎朝8時半には、孫を連れてくる。
私達にとっては、2歳の男の子で初孫だが、生後3カ月の時から保育園に預けることが出来た。
家を建てたばかりでローン返済に四苦八苦している娘夫婦には、共稼ぎは避けられない。
「今日は、何もしていないの。」
「体温計とおむつと着替えをお願い。」とか、「朝ご飯も」の時もある。
娘夫婦は、当初は近くに会社があったのだが、その後旦那が転勤となり本社のある渋谷に単身赴任となった。毎週末土曜日の午前中に戻り日曜日の午後に帰る。
娘は、私の家の近くの郵便局に勤め2歳の子一人を育てている。
半端ない大変な生活だと思う。
土日こそ旦那が戻るけれども、それ以外は一人で子育てをし嘱託でまる一日勤めている。

私達夫婦の子育ては、すでに40数年前になる。
私が学生の時に双子の娘を授かった。
妻とは、23歳で出会い25歳の時に結婚し、当時26歳だった。
浅草田原町の四畳半一間のアパート。
金竜寺というお寺さんの経営するアパートで、西側の窓下には、お墓が並んでいた。双子の娘は、生まれてすぐには、押入れの上と下に寝かせていた。
娘が3月に生まれてすぐに大学を卒業した。ゼミの同級生からは、双子用の座椅子をプレゼントされた。
そして、今の町に戻り生活を始めた。
乳飲み子二人を抱えた若夫婦は、大変だった。男親は、頼りない。妻は大変だったと思うが、当時の私には分からない。双子だから、夜中に目が覚めたら子どもを抱いていたことが、幾度もあった。
オシメは、手縫いで作っていたし、今のような紙パンツなどない。毎朝、手で洗い干していた。妻の手は荒れて、それ以来手のヒビは、治まったことは無い。
妻は勤めずに私の安給料で二人の子どもを育て遣り繰りをしていた。
しかし、私の安給料では無理があった。
そして、子どもが3歳になる時に県営住宅から一戸建ての中古の家を購入し引っ越した。これも妻が、県営住宅の近くに見つけてきた。
同時に妻は縫い包み人形の縫製の内職をどこからか探してきた。
5、6万円もする中古の工業用ミシンを購入し生まれて初めての内職を始めた。
最初の頃こそ縫製数は少なかったが、確かな仕上がりに業者から信頼され、そのうちに仕上げ数も増え注文も増えていった。
妻は、無口で大人しいが芯の強い女だと思う。
私はただ一生懸命に働いた。
29歳でホテルに中途入社した私は、時間の暇なく働くことしかできなかった。
本社のある浅草や成田の事業所では、有給消化や時間外の抑制が、労組の課題だったが、私のいた那須事業所では、有給どころか公休の半分近くが未消化だった。
それでも苦にならず私は、同い歳の者より遅れて入社した分職制で追いつきたかった。
どうしたら良いかはわからないが、追い越したかった。
それからの30年は長い時間が過ぎた。
妻とは戦友だったと思う。

娘は、学業は得意だけれども社交がまったく苦手で、どの職についても上手くゆかなかった。結婚前に幾つかの会社に契約社員として勤めたが、その内に人間関係で行き詰まる。いろいろと性格が自分に似ているが、社交性だけは、そうではなかった。
朝は孫を私達に預けその間の20分余りを惜しんで寝ている。
孫を看ている私の傍で寝ている娘の寝顔が苦痛で歪んでいる。
適当に済ますことのできない性格が苦痛になるのだろう。
今までに娘のこのような苦しそうな寝顔を見たことはない。
子をつれて保育園に行く時間になると決まって緊張からトイレに行く。
私が代わってやることは出来ない。
仕方ないと思い、文句を言わずに助けてやることにした。
私達夫婦に初孫を抱かせてくれた娘夫婦に感謝している。
現代の子育ては、半端ない。
そういう時代になったのだと思う。

火振り漁

 
いつも夕食後に孫を見送る。
娘が遅くに勤めから戻り夕食を取り9時頃に孫をつれて帰るのが日課になる。
今日は、倉庫の屋根の上に月はなく、暗い夜空に星が大きく揺れて瞬いていた。
そういえば天気予報で寒の戻りの話をしていた。
天上は、かなり冷えて風が強いのだろう。
娘が、帰り支度で車を掛け、子どものチャイルドシートの準備をしている。
孫が、私の胸に抱き着きながら星と言えずに「ひー様がいっぱい。」と話し、空を見上げている。

強い風と揺らめく星明りの中、孫と娘の車の出発するのを車から離れて見送る。
一瞬、中学生の頃に付いていった地元の男若衆の火振り漁を思い出した。それは、真っ暗な闇の中でカンテラの灯りに照らされた鮮やかな若衆の顔や水面の魚影だった。
火振り漁は、暑い夏の風物詩、決まってお盆の頃に行っていた。
お盆は家を出たものが都会から戻り賑やかになる。
私の育った小字の集落は、5軒ほどの農家だった。部落には、大字で30軒ほどの農家と数軒のお店や自転車屋があった。子どもながらにいろいろな村の行事でそれぞれの家や小部落の人々を知っていた。皆、屋号と名前で呼び合い、「上の○○ちゃん」や「○○家の誰それ」と呼ぶ。我が家は、上と呼ばれ、当然、下もあった。建前やご祝儀では、村中が集いそれぞれに個性的な旦那衆や婦人達がいた。酔うと喧嘩っ早い人や狡く評判の悪い人も。彼らは、呼び捨てにされていた。また、道普請や土木関係の知識を持ち仕事の指図のできる人は、○○先生などと呼ばれ尊敬されていた。
火振り漁には、5軒の家の若衆と隣集落の気心の知れた幾人かが、参加した。
今日は火振り漁だというと日中にカンテラの準備をし松明にする枯れ竹をいくつも束にしていた。
カンテラは足元を照らし移動するのに容易だけれども、魚のいる場所では、明るさの強い松明が自由に操れて役に立つ。
日中に束ねた松明用の竹を適所に運んでいた。
そう言えば、その日は二つのグループだった。
出発こそ一緒だったが、声掛けあっていたが、徐々に遠く離れ幾つかの堀の漁になり、そのまま分かれて終わった。
燃料のカーバイトは、強い青白い閃光と独特の匂いを放つ。
アセチレンガスが、シューという音を立てて噴き出し、その独特の臭いは、直ぐにカンテラを思い出させる。
私はカンテラを持つ役を仰せつかっていたのだが、田圃脇の水が満々としている堀川の水面を照らせという。堀の淀んだ広い場所に雑魚が群れて静かにジッとしていた。
カンテラに照らされ、雑魚(ざこ)の群が灯りの中をゆっくりと移動する。
大きな雑魚が数十匹も群れていた。
日中に見る魚は、逃げ足速く人から見えるところにジッとしてはいない。人の気配を感じるとすぐに淵や川岸の垂れ下がった篠笹の暗い繁みの中に隠れてしまい姿を見せることはない。
若衆は、カンテラに照らされた雑魚をヤスで突いて捕る。
どうしてそんなことができるのかと思うほどに器用に、そしてあたり前に突いていた。
若衆の中の顔の効く者が、決まって上手かった。
当時は、下の延ちゃんが、そうだった。
頭もよく、喧嘩も強く、農家を継いで直ぐの頃だった。
私の兄や弟は魚捕りが得意で上手く突いていたが、私はついぞしたことはなかった。
性格の向き不向きだと思うが、自分では捕まえることもできないのだが、魚が可哀そうに思えていた。
一度だけの経験だったが、暗い田圃の畦道を連れだって付いて歩き、カンテラと松明の灯りに照らされた若衆と魚影の群れが、鮮やかに脳裏に残っている。

当時は今とは違う時が流れていた。
もう半世紀以上も昔のことだ。
父や近所の若集が、30代の頃の村の人々との付き合いが日常だったあの頃はもう戻らない。
今は、農業自体がなくなり村人も勤め人となり火振り漁もなくなった。
あの魚がいっぱいいた堀は、構造改善事業でなくなって久しい。
思い出の残る田圃や畦道や堀はなくなり、区画整理された殺風景な水田が広がる。
当時は、鰻や雑魚の川魚がご馳走だったが、今はスーパーに何でも揃っている。
そして収入も増え生活が変わった。
火振り漁の言葉も死語となる。

2020年4月8日水曜日

赤と黒

今朝は妻との会話からビビットな色、赤と黒の言葉を思い出した。
もう20年以上も前になるが、弘前の鍛冶町のスナックのママが店を持つ前に一番町のブティックに勤めていた。
その店の名が、赤と黒だったように思う。
オーナーが有名な女性でお洒落な店だったようだ。
鍛冶町は、弘前の有名な飲み屋街で、3000軒とも4000軒ともいう東北一の繁華街である。
出向先の財団公社の理事長が、毎週土曜日になるといつも我々を飲みに誘ってくれた。
鍛冶町の宵は、独特の雰囲気がある。その筋の若衆が大勢屯(たむろ)していた。我々は、ネオンが煌めく雑踏の中を理事長に次いで、歩いた。
理事長は、ガタイが良く肩で風を切ってゆっくりと歩き、鍛冶町では顔だった。
そして、帰りはいつも午前様だった。
理事長は、村一番のリンゴ農家で村役場の助役である。
もう、60代半ばを超えていたと思う。
我々は支配人、部長、調理長の3名で、東京に本社を持つ大手ホテル会社の事業部から出向していた。
良く言うホテルのプロパーである。
まず、最初は理事長と行きつけの噂のあるスナックのママのところからスタートした。ただ馴染みだけだったかもしれないが、今でも噂の真相は分からない。その後に2、3件を梯子して、最後は津軽そばで有名な山科でラーメンを頂戴した。そこには、村からきている役場の職員などがカウンターに並び、一言三言言葉を交わし挨拶する。
最後は先に寝てしまう理事長をタクシーで自宅まで送り、決まって弘前の住まいには戻らず出向先の村のホテルに宿泊していた。
人に話せないような大人の遊びも随分と教えてもらった。このような世界が津軽にはあるのかと思った。紛れもない師といえる人である。

赤と黒は、ウィスキーで馴染みである。
舶来の高級ウィスキーだったが、そのうちに値崩れから、かつての半分以下の値段で飲めるようになった。
私が長年勤めたホテルのナイトクラブの高級酒シーバースリーガルもカティーサークも、量販店では唯のウィスキーとなった。
私は30代後半ばのクラブセクション担当だった。
バブル時は、ダブルで5,000円もしていた値段の高かった頃が、懐かしい。
クラブは、7、80席だが、当時は、夜の8時から11時頃までの営業だったが、一晩で50万円を超えたのを思い出す。フィリッピンショーや弾き語りのショーが2ステージあり、クラブとコーヒーハウスで5、6人のスタッフだったが、20歳そこそこの若者が一生懸命に動いていた。そんな売上のいった日は、誇らしかった。すべての片付けと清掃を済ませ、ひと段落後に残った料理とビールやウィスキーを簡単に遣り、労をねぎらった。

赤と黒の言葉は、大人の響きがする。
フランス映画に有名な赤と黒がある。
ジェラール・フィリップとダニエル・ダリュー、個性ある俳優だが、当代一の憧れの男と女を観ていた。
原作は、スタンダールである。
サマセット・モームは、世界の十大小説のひとつと言っている。
私は原作を読んでいないので、映画の印象で薄っすらと筋を覚えている。
赤と黒は、男と女の情念に思う。

赤と黒は、ビビットな色である。
伝統工芸品の漆塗りでは、朱と溜がある。
朱と溜は、漆塗りでは対の色である。
朱は根来朱といい、黒は溜めという深みのある赤と黒である。
単なる漢字の赤と黒という色ではない。
焼き物の釉薬にも鉄赤と黒とがあり、お互いに引き立てる関係にある。
その釉薬を作るのは、窯元の自家秘伝と聞く。
釉薬は、酸化還元があり外気と窯の温度も関係し色の発色は難しいと聞く。
日本人は、四季のある豊かな自然から3万色を識別できるという。藍染めには、染の工程で14種類もの藍の呼称がある。また、草木染や京染には、色を表現する名称が、幾多とあると聞く。
そして、赤と黒でも何々赤や何々黒といって、数えきれない種類がある。
日本人の美学に赤と黒の色が職人の技能感性として伝わるのは、嬉しく思う。

女の黒髪

ひさびさに女性の黒髪は男心を惑わすことを思い出した。
いつもダンス練習所でみかける彼女は、髪をひっつめにして裾の長い黒のドレスを身に着けている。
それが、ホテルのダンスホールで見かけた彼女は、いつものペアと一緒だったのだが、黒のパンツに髪を解いて長く肩に垂らしスレンダーな女性だった。
更に私が幾人かの女性を相手にレッスンしていたからなのだが、他人行儀に挨拶もしない。ペアの彼が誰か知らぬ女性と踊っているのかと思っていた。
しかし、後になり練習所で彼女達に確かめるといつも見かけていた彼女だった。
美人でおきゃん、コミカルでいつも優しく声をかけてくれるが、色気を感じさせない女性である。
しかし、今は色気を隠して振る舞っていることがわかる。
ただ隠して見せていないと。
無口で長い黒髪の女性は、男心を惹きつける。
黒髪は女の命という言葉を思い出した。
自分はいつしか女性を意識しない齢になったのかもしれない。
どこかからか、「男を忘れては駄目よ。」とおきゃんな声が聞こえたような気がした。

2020年4月5日日曜日

父の悲しみ


父のことを思い出すのは、いつも朝の台所になる。
台所を預かりすでに5年近くになる。
妻が突然に膠原病ともつかぬ免疫不全症から足腰や関節が痛み、包丁が握れなくなってからである。
当初の数カ月は、痛みから寝起きもできずベットで唸ってばかりいた。
今は寛解というのだろう、治療薬で痛みも和らぎ落ち着いている。
台所は、今も引き続き私が見ている。
妻が毎朝の犬との散歩にでかけ戻るまでの小一時間が、私の心を覗き見る時間となる。
無心に野菜を切りフライパンに炒め、鍋に煮物をつくる時が、雑念のない無我の境地になれる。

今朝は、自分の過去をふり返り、どうしようもないその性に今更ながらに嫌気がさしていた。昔は、思い出しても悪いと思うことはなかったのだが、今はその出鱈目さが心に刺さってくる。天に唾吐くという言葉があるが、今将にその唾が自分に降りかかってきているようだ。
周囲の人々は、どのような目で自分を見ていたのだろうか。
そう思うと居た堪れなくなる。

父のことは、ずいぶんと昔に愛想をつかしていた。
私が学生を終えて、子ども二人と妻を抱え将来をどうするか迷った時に実家を手伝う決意をした。妻は、反対をしたが私について来た。
今振り返ると、二人の子育てで疲れどうでも良かったのかと思う。
当時は、そんな妻の思いのことなど考えもしなかった。
後になり妻の語るには、言い出したら聞かない私をあきらめていたと言う。
私は都会に所帯を持ち自立する気持ちが無かった。
学生を終えたばかりで、一銭の貯えもない一家四人の都会での生活は、想像できなかった。
「傾いた家を助ける」という詰まらない理由を見つけて実家に戻る安易な道を選んだ。
兄夫婦のいる借金まみれの実家の事業は、自分一人が戻ったところで良くなることはないのだが、そうは考えなかった。
しかし、戻るとすぐに父が如何に出鱈目で、一緒にいた兄夫婦や母、叔父も振り回されていることが、わかった。
収入は、生活できるだけの計算した最低限の安給料だったことから、妻には苦労をかけた。
3年ほど手伝ったが、事業はどうしようもなく、自分は家から離れて、東京のサービス業に職を求めることにした。
西武系列のホテルやレストランに履歴書を送り就職活動を行ったが、面接通知はなく上手くゆかなかった。
なんの蓄えもない、子ども二人と妻との四人家族で、都会で生活できるわけがない。
偶然に地元のホテルの社員募集の折込チラシを見つけ就職できた。
それが自分には、幸いした。
そうして家を離れることができた。

家は破産し1憶8千万円の借金ができたが、幸いに地元の不動産会社が持ち山と田畑をすべて購入してくれて、数千万円程の借金を若干残したが帳消しとなった。
持ち山が10数丁歩、水田が3丁歩、畑が一丁歩ほどあり、当時としては大きな農家だった。
父は人望が厚く友人達から、1千万円を超える借金をしていたが、それらも全て返すことができた。
そのことが一番良かったと思う。
父のことを思うといろいろな批判はできるけれども、それで終わることではない。
戦前戦後の時代に父の受けた教育、能力や性格そして環境を思うと仕方なかったと思う。
私は自分への愛想つかしの度に悲しくなるが、今は父もそうだったのではないかと思う。
幾度もの事業の失敗と叔父や母への迷惑など、私なら思い詰め自殺を考えただろうと思うほどの出鱈目さなのだ。
40代前半の頃に4男正治を堕胎させた父親としての贖罪はなかったのだろうか。
私は自分の欲望に負けてしまう弱い性格だが、父もそうだったろうと思う。
祖父母が小作農から一生懸命に働き、村でも有数の農家となり、作った山や田畑を自分の失敗からすべて失ったことや、二度目の事業も自分が仕切り借金だらけにしたことなどを自覚していたのだろうか。
いつも家を継いだ弟彰の気の利かなさを愚痴っていたが、褒め言葉を聞いたことがない。
それでも彰は、いつも父を温かく見守っていた。
年金生活の父は、自由になる金がなくなるといつも売掛の集金にゆき、そこからくすねて使っていたことなど、彰は笑いながら話していた。
母が68歳で逝き、お葬式の日に自分は母の分まで長生きすると話す夫がいるだろうか。
驚くほどの悲しい馬鹿さ加減だ。

私は、両親、祖父母に大学まで出してもらい、自分のことだけを考えて生きてきた。しかし、この年齢になり足跡を振り返ると自分の愚かさにどうしようもない自責の念を覚える。
過ぎたことは変えられない。
果たして父は、そのような思いをしなかったのだろうか。
自分が父なら、どうしたろうか。
父はいつも気丈でプライドがあり、弱音を見たことは一度もない。
それでも80数歳で亡くなる時には、悲しみを持っていただろうと思うのだが。
最後の1年は、山の伐採事故から怪我を負い脊椎を痛め下肢半分が動かず寝たきりとなった。80歳過ぎの老人が、チェンソーを使い灌木を切る。その老いを認めない自信過剰さは、目に見える。
自分と重なる。
病院に担ぎ込まれ、その回復の見込みのない半身不随の状況を担当医から聞いた。
我々子ども4人が集められてその話の最中に自分は、その恐ろしさから気を失った。
寝たきりで動けない父は、病床でいつも夢を見ていた。そして、夢で見た儲け話を頻繁に見舞いに訪れた私の娘に語っていた。
決まって、自分考案の特許の儲け話とロシアのスパイが、それを狙っているという話だ。
最期は朦朧とすることが多く、どこまで正気だったかもわからない。
とうとう最期まで、人としての悲しみを知らずに逝ったのかも知れない。

私は、子どもの頃父を誇らしく思っていた。
叔父や叔母たちから、デカ兄ちゃんとして慕われていた。
弁もたち信念を感じさせる凛とした顔立ちで優しく賢い人だった。
近在一の企業農家としていろいろなことに取組んでいた。
NHKの明るい農村というTV番組でも取上げられ地域でも一目置かれていた。
そんな事業の夢を語る父が自慢だった。
近在の人達とは、違っていた。
けれど、そうではなかった。
大切なものに欠けていたと思う。
父の話をすると、妻から私が父に一番似ているといわれる。
一緒にいた妻の言葉は正しく、私もそう思う。

2020年4月3日金曜日

ひいらぎ日記


最近は、ブログとホームページのメンテナンスに忙しくしていました。
私のwebsiteは、伝統工芸品の通販です。
そのことで常に訴求力のある文章を意識していました。
しかし、文章書きは自己流ですので限度があります。
中学校の卒業記念文集「やみぞ」には、題は思い出せませんが、随分と長い文を書いた記憶があります。大学のテニス同好会でも文集を出すことになり、夏休みを田舎で過ごしましたが、その間に400詰め原稿用紙7枚程にダラダラと書いたように思います。
それを読んだ友人が、長くて草臥れたと言っていました。
10年程前に長年勤めたホテル会社を定年からリタイアし、次の仕事としてwebsiteの通販を思いつきました。
写真撮影と文章は、結構よく出来たと思います。
写真は、デジカメのオートフォーカスで、枡形の罫線が入り左右上下のバランスが簡単にとれるようになっています。
ホームページの文章は、何も考えず思うがまま書いていました。
ブログも同じレベルといえるでしょう。
小学校の幼馴染が私のホームページを見て「よくああいった文章が書けるね。」と感心していました。自分は何も考えずに書いていたので、「そうか!」と驚いたほどです。
数年前にDRM(ダイレクトレスポンスマーケティング)メソッド(手法)を知り、アピールする文章、お客様へのプレゼンテーションを学ぼうとしました。
いくつかの本を購入しブログやfacebookを駆使する戦略を導入しました。
しかし、その後は忙しく頓挫しています。
それでも、常に文章力を磨くという課題は継続していました。
数カ月前に小説家の方の商品を通販で、販売することになりました。その方の経歴紹介から19年間師事した師が居られたことを知り、その師を書き綴った著書を読みました。
書くことに厳しい方でした。
私には、その方のご指摘がよく分かりました。
自分の理解がどの程度かは、わかりませんが、左脳的な理解だと思います。
しかし、小説は観察眼が文章になったもの、それは右脳的なもので、観察眼と表現力が自分にあるのかどうか分かりません。
次いで頂戴した師の書いた「私の小説教室」の心得10か条も読みました。小説が左脳的な手法で書けるのなら書けそうです。
私は、若かりし時の旅先で書き留めたスケッチから油絵を描くと幾度も言葉にしていましたが、一度もキャンバスに向かったことはありません。
妻に「俺は、小説を書けるよ。」と話し鼻から笑われました。
妻は「小説は身を削って書くものだ。」と言います。
そうかも知れません。
嘗て一度も小説を書こうとも書けるとも思ったことはありませんでした。
しかし、いま書いてみようと思います。
ブログとホームページ、そして、英語版ページでも文章力が必要となります。
通信販売の販促のDRM手法が骨格になり、それに魅力的な文章力が求められます。

ひいらぎ日記は、散文形式のエッセイです。
電子書籍化のことも脳裏にありますが、趣旨は私の文章力を磨くためです。
駒田信二の心得10箇条を突き詰めて推敲して書きます。
ひいらぎ日記のタイトルは、テレビドラマの夢千代日記や平安時代の更級日記、蜻蛉日記から「日記」にしました。
兼好法師の徒然草に似た名では恐れ多く思います。
ひいらぎは、葉が八角形に尖っています。
初めて見る、葉は丸いものと思っていた子どもには不思議な木の葉でした。
母の実家の生け垣に柊の木があり、時折白い花が咲き赤い実をつけていました。
子どもの頃にバスが通るたびにその柊の垣根越しに遥か下の街道を走るバスを見ていました。
「ひいらぎ」の語感の良さと子どもの頃の母の実家で過ごした思い出から、ひいらぎ日記としました。