2020年4月8日水曜日

赤と黒

今朝は妻との会話からビビットな色、赤と黒の言葉を思い出した。
もう20年以上も前になるが、弘前の鍛冶町のスナックのママが店を持つ前に一番町のブティックに勤めていた。
その店の名が、赤と黒だったように思う。
オーナーが有名な女性でお洒落な店だったようだ。
鍛冶町は、弘前の有名な飲み屋街で、3000軒とも4000軒ともいう東北一の繁華街である。
出向先の財団公社の理事長が、毎週土曜日になるといつも我々を飲みに誘ってくれた。
鍛冶町の宵は、独特の雰囲気がある。その筋の若衆が大勢屯(たむろ)していた。我々は、ネオンが煌めく雑踏の中を理事長に次いで、歩いた。
理事長は、ガタイが良く肩で風を切ってゆっくりと歩き、鍛冶町では顔だった。
そして、帰りはいつも午前様だった。
理事長は、村一番のリンゴ農家で村役場の助役である。
もう、60代半ばを超えていたと思う。
我々は支配人、部長、調理長の3名で、東京に本社を持つ大手ホテル会社の事業部から出向していた。
良く言うホテルのプロパーである。
まず、最初は理事長と行きつけの噂のあるスナックのママのところからスタートした。ただ馴染みだけだったかもしれないが、今でも噂の真相は分からない。その後に2、3件を梯子して、最後は津軽そばで有名な山科でラーメンを頂戴した。そこには、村からきている役場の職員などがカウンターに並び、一言三言言葉を交わし挨拶する。
最後は先に寝てしまう理事長をタクシーで自宅まで送り、決まって弘前の住まいには戻らず出向先の村のホテルに宿泊していた。
人に話せないような大人の遊びも随分と教えてもらった。このような世界が津軽にはあるのかと思った。紛れもない師といえる人である。

赤と黒は、ウィスキーで馴染みである。
舶来の高級ウィスキーだったが、そのうちに値崩れから、かつての半分以下の値段で飲めるようになった。
私が長年勤めたホテルのナイトクラブの高級酒シーバースリーガルもカティーサークも、量販店では唯のウィスキーとなった。
私は30代後半ばのクラブセクション担当だった。
バブル時は、ダブルで5,000円もしていた値段の高かった頃が、懐かしい。
クラブは、7、80席だが、当時は、夜の8時から11時頃までの営業だったが、一晩で50万円を超えたのを思い出す。フィリッピンショーや弾き語りのショーが2ステージあり、クラブとコーヒーハウスで5、6人のスタッフだったが、20歳そこそこの若者が一生懸命に動いていた。そんな売上のいった日は、誇らしかった。すべての片付けと清掃を済ませ、ひと段落後に残った料理とビールやウィスキーを簡単に遣り、労をねぎらった。

赤と黒の言葉は、大人の響きがする。
フランス映画に有名な赤と黒がある。
ジェラール・フィリップとダニエル・ダリュー、個性ある俳優だが、当代一の憧れの男と女を観ていた。
原作は、スタンダールである。
サマセット・モームは、世界の十大小説のひとつと言っている。
私は原作を読んでいないので、映画の印象で薄っすらと筋を覚えている。
赤と黒は、男と女の情念に思う。

赤と黒は、ビビットな色である。
伝統工芸品の漆塗りでは、朱と溜がある。
朱と溜は、漆塗りでは対の色である。
朱は根来朱といい、黒は溜めという深みのある赤と黒である。
単なる漢字の赤と黒という色ではない。
焼き物の釉薬にも鉄赤と黒とがあり、お互いに引き立てる関係にある。
その釉薬を作るのは、窯元の自家秘伝と聞く。
釉薬は、酸化還元があり外気と窯の温度も関係し色の発色は難しいと聞く。
日本人は、四季のある豊かな自然から3万色を識別できるという。藍染めには、染の工程で14種類もの藍の呼称がある。また、草木染や京染には、色を表現する名称が、幾多とあると聞く。
そして、赤と黒でも何々赤や何々黒といって、数えきれない種類がある。
日本人の美学に赤と黒の色が職人の技能感性として伝わるのは、嬉しく思う。

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