2020年4月10日金曜日

娘の寝顔

娘は、毎朝8時半には、孫を連れてくる。
私達にとっては、2歳の男の子で初孫だが、生後3カ月の時から保育園に預けることが出来た。
家を建てたばかりでローン返済に四苦八苦している娘夫婦には、共稼ぎは避けられない。
「今日は、何もしていないの。」
「体温計とおむつと着替えをお願い。」とか、「朝ご飯も」の時もある。
娘夫婦は、当初は近くに会社があったのだが、その後旦那が転勤となり本社のある渋谷に単身赴任となった。毎週末土曜日の午前中に戻り日曜日の午後に帰る。
娘は、私の家の近くの郵便局に勤め2歳の子一人を育てている。
半端ない大変な生活だと思う。
土日こそ旦那が戻るけれども、それ以外は一人で子育てをし嘱託でまる一日勤めている。

私達夫婦の子育ては、すでに40数年前になる。
私が学生の時に双子の娘を授かった。
妻とは、23歳で出会い25歳の時に結婚し、当時26歳だった。
浅草田原町の四畳半一間のアパート。
金竜寺というお寺さんの経営するアパートで、西側の窓下には、お墓が並んでいた。双子の娘は、生まれてすぐには、押入れの上と下に寝かせていた。
娘が3月に生まれてすぐに大学を卒業した。ゼミの同級生からは、双子用の座椅子をプレゼントされた。
そして、今の町に戻り生活を始めた。
乳飲み子二人を抱えた若夫婦は、大変だった。男親は、頼りない。妻は大変だったと思うが、当時の私には分からない。双子だから、夜中に目が覚めたら子どもを抱いていたことが、幾度もあった。
オシメは、手縫いで作っていたし、今のような紙パンツなどない。毎朝、手で洗い干していた。妻の手は荒れて、それ以来手のヒビは、治まったことは無い。
妻は勤めずに私の安給料で二人の子どもを育て遣り繰りをしていた。
しかし、私の安給料では無理があった。
そして、子どもが3歳になる時に県営住宅から一戸建ての中古の家を購入し引っ越した。これも妻が、県営住宅の近くに見つけてきた。
同時に妻は縫い包み人形の縫製の内職をどこからか探してきた。
5、6万円もする中古の工業用ミシンを購入し生まれて初めての内職を始めた。
最初の頃こそ縫製数は少なかったが、確かな仕上がりに業者から信頼され、そのうちに仕上げ数も増え注文も増えていった。
妻は、無口で大人しいが芯の強い女だと思う。
私はただ一生懸命に働いた。
29歳でホテルに中途入社した私は、時間の暇なく働くことしかできなかった。
本社のある浅草や成田の事業所では、有給消化や時間外の抑制が、労組の課題だったが、私のいた那須事業所では、有給どころか公休の半分近くが未消化だった。
それでも苦にならず私は、同い歳の者より遅れて入社した分職制で追いつきたかった。
どうしたら良いかはわからないが、追い越したかった。
それからの30年は長い時間が過ぎた。
妻とは戦友だったと思う。

娘は、学業は得意だけれども社交がまったく苦手で、どの職についても上手くゆかなかった。結婚前に幾つかの会社に契約社員として勤めたが、その内に人間関係で行き詰まる。いろいろと性格が自分に似ているが、社交性だけは、そうではなかった。
朝は孫を私達に預けその間の20分余りを惜しんで寝ている。
孫を看ている私の傍で寝ている娘の寝顔が苦痛で歪んでいる。
適当に済ますことのできない性格が苦痛になるのだろう。
今までに娘のこのような苦しそうな寝顔を見たことはない。
子をつれて保育園に行く時間になると決まって緊張からトイレに行く。
私が代わってやることは出来ない。
仕方ないと思い、文句を言わずに助けてやることにした。
私達夫婦に初孫を抱かせてくれた娘夫婦に感謝している。
現代の子育ては、半端ない。
そういう時代になったのだと思う。

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