父のことを思い出すのは、いつも朝の台所になる。
台所を預かりすでに5年近くになる。
妻が突然に膠原病ともつかぬ免疫不全症から足腰や関節が痛み、包丁が握れなくなってからである。
当初の数カ月は、痛みから寝起きもできずベットで唸ってばかりいた。
今は寛解というのだろう、治療薬で痛みも和らぎ落ち着いている。
台所は、今も引き続き私が見ている。
妻が毎朝の犬との散歩にでかけ戻るまでの小一時間が、私の心を覗き見る時間となる。
無心に野菜を切りフライパンに炒め、鍋に煮物をつくる時が、雑念のない無我の境地になれる。
今朝は、自分の過去をふり返り、どうしようもないその性に今更ながらに嫌気がさしていた。昔は、思い出しても悪いと思うことはなかったのだが、今はその出鱈目さが心に刺さってくる。天に唾吐くという言葉があるが、今将にその唾が自分に降りかかってきているようだ。
周囲の人々は、どのような目で自分を見ていたのだろうか。
そう思うと居た堪れなくなる。
父のことは、ずいぶんと昔に愛想をつかしていた。
私が学生を終えて、子ども二人と妻を抱え将来をどうするか迷った時に実家を手伝う決意をした。妻は、反対をしたが私について来た。
今振り返ると、二人の子育てで疲れどうでも良かったのかと思う。
当時は、そんな妻の思いのことなど考えもしなかった。
後になり妻の語るには、言い出したら聞かない私をあきらめていたと言う。
私は都会に所帯を持ち自立する気持ちが無かった。
学生を終えたばかりで、一銭の貯えもない一家四人の都会での生活は、想像できなかった。
「傾いた家を助ける」という詰まらない理由を見つけて実家に戻る安易な道を選んだ。
兄夫婦のいる借金まみれの実家の事業は、自分一人が戻ったところで良くなることはないのだが、そうは考えなかった。
しかし、戻るとすぐに父が如何に出鱈目で、一緒にいた兄夫婦や母、叔父も振り回されていることが、わかった。
収入は、生活できるだけの計算した最低限の安給料だったことから、妻には苦労をかけた。
3年ほど手伝ったが、事業はどうしようもなく、自分は家から離れて、東京のサービス業に職を求めることにした。
西武系列のホテルやレストランに履歴書を送り就職活動を行ったが、面接通知はなく上手くゆかなかった。
なんの蓄えもない、子ども二人と妻との四人家族で、都会で生活できるわけがない。
偶然に地元のホテルの社員募集の折込チラシを見つけ就職できた。
それが自分には、幸いした。
そうして家を離れることができた。
家は破産し1憶8千万円の借金ができたが、幸いに地元の不動産会社が持ち山と田畑をすべて購入してくれて、数千万円程の借金を若干残したが帳消しとなった。
持ち山が10数丁歩、水田が3丁歩、畑が一丁歩ほどあり、当時としては大きな農家だった。
父は人望が厚く友人達から、1千万円を超える借金をしていたが、それらも全て返すことができた。
そのことが一番良かったと思う。
父のことを思うといろいろな批判はできるけれども、それで終わることではない。
戦前戦後の時代に父の受けた教育、能力や性格そして環境を思うと仕方なかったと思う。
私は自分への愛想つかしの度に悲しくなるが、今は父もそうだったのではないかと思う。
幾度もの事業の失敗と叔父や母への迷惑など、私なら思い詰め自殺を考えただろうと思うほどの出鱈目さなのだ。
40代前半の頃に4男正治を堕胎させた父親としての贖罪はなかったのだろうか。
私は自分の欲望に負けてしまう弱い性格だが、父もそうだったろうと思う。
祖父母が小作農から一生懸命に働き、村でも有数の農家となり、作った山や田畑を自分の失敗からすべて失ったことや、二度目の事業も自分が仕切り借金だらけにしたことなどを自覚していたのだろうか。
いつも家を継いだ弟彰の気の利かなさを愚痴っていたが、褒め言葉を聞いたことがない。
それでも彰は、いつも父を温かく見守っていた。
年金生活の父は、自由になる金がなくなるといつも売掛の集金にゆき、そこからくすねて使っていたことなど、彰は笑いながら話していた。
母が68歳で逝き、お葬式の日に自分は母の分まで長生きすると話す夫がいるだろうか。
驚くほどの悲しい馬鹿さ加減だ。
私は、両親、祖父母に大学まで出してもらい、自分のことだけを考えて生きてきた。しかし、この年齢になり足跡を振り返ると自分の愚かさにどうしようもない自責の念を覚える。
過ぎたことは変えられない。
果たして父は、そのような思いをしなかったのだろうか。
自分が父なら、どうしたろうか。
父はいつも気丈でプライドがあり、弱音を見たことは一度もない。
それでも80数歳で亡くなる時には、悲しみを持っていただろうと思うのだが。
最後の1年は、山の伐採事故から怪我を負い脊椎を痛め下肢半分が動かず寝たきりとなった。80歳過ぎの老人が、チェンソーを使い灌木を切る。その老いを認めない自信過剰さは、目に見える。
自分と重なる。
病院に担ぎ込まれ、その回復の見込みのない半身不随の状況を担当医から聞いた。
我々子ども4人が集められてその話の最中に自分は、その恐ろしさから気を失った。
寝たきりで動けない父は、病床でいつも夢を見ていた。そして、夢で見た儲け話を頻繁に見舞いに訪れた私の娘に語っていた。
決まって、自分考案の特許の儲け話とロシアのスパイが、それを狙っているという話だ。
最期は朦朧とすることが多く、どこまで正気だったかもわからない。
とうとう最期まで、人としての悲しみを知らずに逝ったのかも知れない。
私は、子どもの頃父を誇らしく思っていた。
叔父や叔母たちから、デカ兄ちゃんとして慕われていた。
弁もたち信念を感じさせる凛とした顔立ちで優しく賢い人だった。
近在一の企業農家としていろいろなことに取組んでいた。
NHKの明るい農村というTV番組でも取上げられ地域でも一目置かれていた。
そんな事業の夢を語る父が自慢だった。
近在の人達とは、違っていた。
けれど、そうではなかった。
大切なものに欠けていたと思う。
父の話をすると、妻から私が父に一番似ているといわれる。
一緒にいた妻の言葉は正しく、私もそう思う。
父の話をすると、妻から私が父に一番似ているといわれる。
一緒にいた妻の言葉は正しく、私もそう思う。
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