2020年6月24日水曜日

田中理事長のこと

先日幼馴染のやっている居酒屋に同級生が集まった。
そこに津軽で一緒に赴任した調理長の奥さんがいた。彼女は歌が上手く、彼のカラオケ居酒屋を手づだっていた。調理長はもう4年になるだろうか、病から亡くなっていた。
私はリタイアし職場を離れて10年になるが、めっきり行き来がなくなり、彼が亡くなったことは、聞こえて来なかった。時折は彼の勤める保養所を尋ねたりもしていたが、それも少なくなっていた。
ある時に誰からだったか忘れたが、彼の死を聞き家に尋ねた。
家を訪ねるのは初めてだった。
鳥野目街道から、少し入ったところに家があった。少し坂を上ると、盛り土した宅地に山から採ってきたらしき樹木が植えられていて、大きな庭石などもあった。調理長の趣味だという。
電話で尋ねると伝えていたからか、仏壇は奇麗になっていた。
仏壇に手を合わせ、奥さんから彼の死に際の話を聞いた。
彼は幾度も癌になり、手術を受けてを繰り返していたという。その期間は10年になるという。話を聞くと生命力の強い男だったと思う。
最後はもう頑張らなくても良いから、という話を奥さんがして、天国に召されていったという。
彼女は、かつて、大型ショッピングセンターのジュエリーの店長をしていて、商売には明るかった。リタイアしてからは、趣味のカラオケに励み、その結社のカラオケ大会で、幾度も優勝をしたという。リビングには、優勝カップがいくつも並んでいた。
その関係から、幼馴染の居酒屋でカラオケを見ているという。
そこで昔一緒に赴任した、弘前市営のテーマパークの話になった。
特に調理長は、その施設の理事長に可愛がられていた。調理長も奥さんも気立てが良いからか、スタッフや村の職員たちにも気に入られていた。
毎週決まって土曜日には、理事長が私達出向の3人を誘い、鍛冶町に繰り出した。
我々とは支配人、営業部長、調理長の3人である。
彼女といろいろの話をした後に「理事長さんはお元気でしょうかね。」の話となった。
津軽を離れて当初は続いていたお歳暮のやりとりも無くなり、風の便りで好きなゴルフも止めたと聞いていた。
彼は、ガッチリとプレイをしいつも80台で回っていたが、時折にそれも切った。
村内のことや鍛冶町のことは、理事長から教わった。
もちろんゴルフも。私は津軽に入った時はゴルフを始めた頃で、スコアは100台だったが、凝り性の性格からその内に90も切るようになった。
それも当然だと思う。
単身赴任の私は、毎朝1時間を練習場で1篭を打ってから出社した。
1篭千円だったろうか。着物センターと言い、弘前では誰しもが知っていた。休みの日にはよく役場の職員と出くわした。役場の職員には年間60回はコースに出るという強者が何人もいた。この地の公務員は暇な人が多いのだろうと思った。また、雪に覆われる冬の長い土地では、娯楽と言うと春を待って始まるゴルフが、人気なのだろう、と。
何言う経済課長も強者の一人で、いつも80を切っていた。
時折に来る本社の常務とは良い勝負だった。
調理長はキャリアがあったが、それほどの凝り性でもなく、私はその内に同じレベルになった。キャリアのない私は、当初は100を切ることだったが、その内に90を切るのが目標になった。理事長は酸いも甘いも心得た人で、プレイのマナーやいろいろな常識を教えてくれた。ゴルフでは理事長と握ることはなかった。握るとは、お互いのスコアから、賭けることを言うのだが、我々は3人とも下手すぎて理事長の相手にならない。
握ることは、恐れ多い。 
鍛冶町では理事長がすべて支払った。鍛冶町は、弘前の3000軒とも、4000軒ともいう繁華街である。一晩で数件を梯子し最後は決まって、山科という津軽の中華そばを食べて終わった。村の人達は鍛冶町に出ると終わりはこの中華そばだった。細麺の鰹節出汁で実に旨かった。昼に役場で会い、夜は鍛冶町で会う。
理事長はいくつかの店で何万円も使い馴染みの店では付けにしていた。いつも羽振りが良かった。津軽では「えふりこき」という。村の助役が公社の理事長を兼務していた。そして村一番のリンゴ農家だった。40代の息子夫婦に二人の孫がいて、愛妻家でもあった。
行くとビーグル犬がいた。あがれと言われあがるが、大きな造りの家だった。その内に建て替えて新しい家にする話をしてくれた。ここに床の間を持ってきて、雪見障子にして、廊下には夏と冬で畳を入れ替えてと楽しそうだった。自分の代で家を造ることは、彼の自慢になるのかと思う。随分と贅を凝らした家になった。我々は古い家も新しい家も訪ねていた。
我々は3人だったが、理事長は好みもあっただろうが、そんなそぶりも見せずに分け隔てすることも無く接してくれた。未熟な我々には、男気のある方に思う。 
昔も今もリンゴの値段は変わらず、戦後直ぐの頃は今よりも高かったという。それは伝説の価格だった。木箱1箱が昔は7,000円もしたという。林檎御殿ではないが、その村は裕福な村だった。その村の人達は、林檎畑から作業着と長靴の格好で鍛冶町に飲みに出た。金があるが、町の人達に通じる常識は持っていない。「金があるからと言って。」そんな目で、鍛冶町の女達は村人を見ていた。採用した弘前のスタッフや村の人達は、そんな話をしてくれた。
鍛冶町からの戻りは、決まって午前様だった。理事長は飲みつかれ、決まって寝むり込んでしまい、我々が家まで送った。寝込んでいる理事長を起こし、家まで届けるのは調理長の役目だった。彼の言うことなら理事長も聞いた。喜んで聞いていたように思う。
馴染みのタクシー代行があり、いつもチケットで支払い、我々が負担することはなかった。鍛冶町の駐車場も決まっていた。駐車場の兄ちゃんも心得たもので一言三言で事が済んだ。
我々は、そのあとに弘前迄戻るが、そのまま村にあるホテルに泊まることもあった。
私のアパートは桔梗野にあり、3人は直ぐ近くに住んでいた。
ホテルでは宿直の担当者に伝えてあるので、部屋を取っていた。
時折役場の経済課に書類をもって行くこともあったが、理事長は中央の助役の席で対応していた。村の助役は個室こそなかったが、偉かった。
飲みの次の日は、役場のフロアの中央にある助役席で、居眠りをしていることもあるようだ。時折村長から呼ばれて、村長室に入ることもあった。村長は、私の父と同じ年齢だったと思う。本当に人格者でもう何年も続けて村政を担っていた。奥さんが愛子さんといい内親王の愛子さんと同じだと話してくれた。鍛冶町に行きつけの店がありママは、素人然の40代だった。私は店を訪ねたことはないが、村長の女とのエピソードを聞いた。村の人達は誰しもが知っていた。
当時青森県の木村守男知事が、後援会の女性問題を議会で取り上げられていたが、土壌の違いになるのだろう。村では誰も問題にしていない。皆当たり前と思っている。
村の男達は鍛冶町に出ると右へ倣いだったように思う。役場の人達や先輩たちと鍛冶町で飲む時は、決まって朝までになる。コンパニオンを呼び、我々では想像もできない遊び方をしていた。上から下まで皆が皆だった。 
ゴルフでは、良く我々3人と理事長ででかけた。
一度は雪の日で、岩木山麓にある津軽カントリークラブだった。上り下りの勾配がきつく距離の長いコースだったが、冬が早い。きっとシーズン最後の日だったように思う。
1ホール頃から雪が降り始めたが、3ホール目のグリーンでは、かなりの降りになり積もった。白く積もったグリーンを、ゴルフボールが雪を纏い転がり、最後にパカリと壊れた。
これでは諦めざるを得ない。3ホールであがることになった。当時も今も笑い話のひとつだ。
その時間では鍛冶町に出るには早く、どこで飲もうかの話となった。それで調理長の家で飲みとなった。
奥さんもいて、理事長は土手町のデパートで食材を調達してきた。肉のベニヤだ。細かなところまで気の利く人だ。その後時間が来て鍛冶町に出た気がする。 
村には支援プロジェクトで手長エビの養殖があった。勿論県や国の予算が降りていた。
大きな養殖のハウスがあり、6つ程の直径10m深さ1m強のタンクがありそこにエビが養殖されていた。何人かの方々が養殖組合に名を連ねており一人は議会議長だった。なかなか上手くゆかずテーマパークの名物食材として利用することになっていたが、難しかった。
殆ど生産することができずにいた。私の家で鯉や金魚、鰻の養殖を経験していたことから、見る限りこの取り組みでは難しいと思えた。
林檎の村の村政は、優秀な職員がいたことによる。経済課長も助役も出納役も確りした方々だった。 
村では村長選がある。理事長は出馬したことはなかったようだが、何人かの村の有力者が候補になっていた。現村長は、4期ぐらい続いていたように思う。助役になるにはやはり村の派閥のパワーバランスが関係する。村長派に付くことで得られる役職と言える。理事長は性格的に厳しい方で、村内に敵も多かったことから、村長になる人ではなかったのかと思う。
若い頃からその性格から友人が少なくリンゴ農家のつきあいだけでは寂しかったようだ。57歳の頃から、ゴルフを始めたと聞く。
嶽温泉に津軽カントリークラブの嶽コースがあり、1日回っても2,500円だったように思う。セルフで回るのだが、それなりに長さもありいい練習になる。9ホール目はロングの打ち下ろしで距離もあった。村の職員の話では、ゴルフを始めた頃は毎日のように嶽コースに通ったという。我々の知る理事長は、常に80前後で回っていた。それでも80を切ることは少なく残りの数ホールで大叩きをして逃すことが多かったようだ。決まって、ゴルフの後は鍛冶町でその日のゴルフ仲間と飲んで楽しんでいた。良く「ゴルフをやってよかった。」と我々に話していた。
また、岩木川沿いの河川敷にもショートコースがあり、そこも恰好の練習場だった。二つのコースは理事長から教わった。3人では私が一番練習熱心だった。
河川敷や嶽コースに時折に一人で行き、半日は練習三昧となる。河川敷では、誰も見ていなかったがホールインワンを経験した。単身赴任で暇を持て余していたこともあるが、90を切るのが目標だったからだ。凝り性だったからか1年位で、90台になった。
その内に90も切れるようになった。
ある時本社の常務と理事長との4人で、鰺ヶ沢カントリークラブのコースを回ったことがある。ハーフを38で回り残りのハーフを44で回った。82が、私のベストになる。ゾーンに入るというが、ロングパットもカップに吸い寄せられ、そんなプレイが幾つも続いた。 
視察名目で、本社の役員と我々出向者で、財団の役員をご案内した。福島や那須の事業所に出かけることもあった。
勿論名目は視察だが、本社の財団役員の接待になる。決まってゴルフがある。我々は、兵隊なので本社役員の指示で動く。そのようなことも楽しい思い出だが、村にはそれらに反感を持つものもいた。やっかみである。
我々の実績は素晴らしかった。当初のシミレーションの目標数字を大きくクリアし、村の人々は驚いていた。スタッフの教育やイベントも成功し、新しい企画提案もあり順風満帆だった。しかし、何年か後に助役が変わった。
別の助役が理事長となった。これもパワーバランスの結果である。
今度の助役は、真面目な方で鍛冶町に飲みに出ることはなかった。優しい人で敵も少なくやはり優秀な方だった。田中理事長とのことは、津軽そのものだった。私は7年間になるが、理事長との時が一番良い時だったかもしれない。未熟な自分は理事長にはいろいろと教えていただいた。津軽というと、理事長とのこと抜きには思い起こせない程、濃い時間を過ごした。思い出は尽きない。

2020年6月20日土曜日

隣家の母子

最近は隣家のことが話題に上る。
隣家には70代後半の女性と30代前後の母親、そして3人の子供がいる。子どもはおとなしい5、6歳の男の子と年子だろうか賑やかないつも母親に叱られている男の子。そして、一昨年生まれたばかり女の子だ。その女の子は我が家の孫よりは少し年上に見える。
そして、もう一人40代の男性が別棟に同居している。 老女は、その母親を孫だと言っていたが、そのようにも見えなかった。
私達がこの家に越してきたのは、20年ほど前になる。私たち夫婦と娘そして犬のダグー、一家3人と一匹のペットの所帯だった。その頃のダグーは3、4歳で幸せだった。
私が1畳ほどの犬小屋を大工仕事で作り、妻との朝夕の散歩があった。晴れた日には下半身のお股を全開して庭で寝そべっていた。庭仕事が好きな妻は日中を庭木の剪定や草取りに過ごすが、妻はこれほどに安心しきった無防備の犬がいるのだろうかと笑っていた。その内にもう一匹の大型犬を娘が拾ってきて2匹のわんことなった。雄二匹は修羅場になるが、その話は別に譲るとして、ペットと我々は穏やかな生活を送っていた。 
その後直ぐに古くからいた隣家のご家族が引っ越していった。当時小学生だった末の男の子が、いつも虐められて泣いているのを覚えている。今では、もう高校生位になっているだろう。
しばらくしてその後に入ったのが、若いご夫婦だった。もう5、6年ほど前になるが、姿を見たことはない。元居た一家から、今度その夫婦が入居するという話があった。朝から晩まで明るく笑っている女性の声が窓を通して聞こえてきた。その内に赤ん坊の泣き声が聞こえた。しかし、子どもも若い母親の姿も見ることはなく、声だけが聞こえてきた。我々は別段気にもせずにいた。1、2年経った頃だろうか、また赤ちゃんの声が聞こえてきた。多分二人目が生まれたのだろうと話していたが、又しても姿は見えない。
そのうちに70代の御婆さんが越してきて、出会った際にご挨拶ができた。その若い母親は御婆さんの娘の子で孫だという。ある時妻が、御婆さんから男が働かずに娘に金をせびっていると、愚痴を聞いて来た。そして、数年前からどうも3人目の子どもがいると思われた。
3人の子どもをう乳母車に載せ、大通りを押している姿を見かけた。大通りで少し大変に思え気になった。そんなことから、今は祖々母と母親と子ども3人の所帯のようだ。父親だと思われる男性は、今はいるのかどうかも分からない。男の姿はなく、誰が父親かもわからなかった。
今ひとりいる男性は、聞こえてくる話しぶりから、父親ではないようだ。隣家ではあるが、母親とは話をしたことはない。 
私の住む班は11軒ほどで、他に6室のアパートと班に入らない隣家と、先にもう2軒がある。最近新しく一戸建てのアパート4軒と駐車場が造られている。コロナ禍の最中であるが、建設は順調に進んでいる。
最近町内の話題になっているのが、隣家の子どもたちのこと。近所の方や町内に来る車、郵便屋さんのバイクに、隣家の2番目の男の子が、飛び出してきて纏わりつく。皆危なくて車を動かせなくて困っている。私も一度、子どもたちがオムツひとつで出てきて、トウセンボをされて驚いた。母親とお婆さんがいるようなのだが、出てこない。誰かわからないが、幾度か本気に怒っている声を聴いた。それでも、家の奥に母親は居るはずなのだが、ウンともスンともない。一度大通りの向こう側にあるお店に、オムツだけの裸に近い姿の子ども達3人が行き、警察沙汰になったと聞いた。最近市役所の車を、時々見かけるようになった。若い女性職員が、玄関口で母親と話しているようだが、埒が明かないようだ。
長男はもう学校に行く年齢だと思う。子どもの小学校入学で来ているようだが、どうなっているのだろうか。
母親は昨年の秋頃には、朝から晩まで歌を歌っていた。異常なほどに甲高い声で歌っていた。ときおり夜中に大きな声で、携帯で話しているのが聞こえてくる。子どもに構っているようには見えない。
子どもの衣類の洗濯物も見えないし、食事はどうしているのだろうか。調理をしているようには見えない。風呂に入っている様子も見えない。子どもは貰い物のような、一目で古着とわかる衣類を着ている。見すぼらしさが見える。薄汚れた布団と毛布が、ゲートに毎日干されている。どの子か分からないが、寝小便をしているのだろう。
最近は歌声は聞こえなくなったが、朝から晩まで次男の子を怒鳴っている。それも子どもに言う言葉ではない。ひどい言葉遣いだ。その度に子どもは甲高い声で泣いている。長男の男の子の声は殆ど聞こえない。
次男が車のトウセンボをしている時でも、脇からジッとして見ている。賑やかな次男に対して、長男は発達障害ではないのかと、心配してしまう。育児放棄の言葉が浮かぶ。
若い母親は構わないので、御婆さんが見ているのだろう。背骨が曲がり殆ど動けない体だが、子供たちを看ている。二番目の男の子は言うことを聞かない。今では、杖で男の子を叩いているようだ。その度に悲鳴を上げて泣いている。 
妻は犬の散歩の度に、子供たちが出て来やしないかと気を付けている。犬が好きで良く出てくるからだ。3番目の女の子は愛情に飢えているのだろう。妻が何かで手を差し出すと、直ぐに寄ってきたという。二番目の男の子も愛情に飢えているのがわかる。けっして異常な子ではない。少し元気なだけだ。トウセンボの時も確りとした目で私を見据えていた。 
妻と近所の婦人たちとで、その隣家のことで話すことがある。井戸端会議だ。
彼女たちは皆車で一度や二度は、二番目の男の子にトウセンボをされたことがあるという。
母親に何とかするように玄関まで行くのだが、出て来ないという。御婆さんに伝えるが、どうしようもないようだ。近所に母親の実家があるようだが、両親は来たことがないという。御婆さんは実家の長男夫婦と折り合いが悪く、この娘孫の所に転がり込んでいるようだ。若い母親は家族にも見放されているのだろう。
思いもかけずに初孫に恵まれた私は、孫がかわいくてしょうがない。若い母親と両親との確執があったとしても、孫への愛情は誰しもが持つ気持ちと思うのだが。私たちはついぞ両親を見たことがない。両親とのこの若い母親との間にも、同じようなことがあったのだろうか。孫が生まれれば、放っておけないだろうと思うのだが。ときおり見かけれる3人の子供たちは、可愛らしい子ども達だ。 
誰が子ども達の父親なのかはわからない。姿を見ないし、まして子を抱く父の姿は。
噂では、ヤクザではないかという。一緒に暮らせないヤクザの子を3人も孕まされて、こんな生活をしているのだろうか。子ども達は似た顔つきだから、父親はおなじだろうと思う。妻との話は想像の域を出ない。親は子を選べない、そして子も親を選べない。この言葉は、良く聞くが、この親子を見ていてつくづくと思う。この子ども等を何とかしたいが、如何ともしがたい。我々にはどうもできないと思う。ときおり泣き叫ぶ声に心が裂かれる。市役所も手を焼いている母子を、隣家の者であってもどうすることも出来ない。 
同居している男性が、朝早く出て深夜11時ごろに戻ってくる。この男性は何なんだろうか。子ども達を抱いたり遊んだりする姿を見たことはない。仕事一辺倒だからだろうか。父親ではない。若い母親とは知り合いのようだ。時は過ぎこの子等も大きくなる。どのような子に育ってゆくのだろうか。どのような大人になってゆくのだろうか。まともな環境で育っても人は危ういのに。まして、子どもの頃にこのような生活を送る子は、どうなるのだろうか。まともに育ったとしたら奇跡だと思う。
私の幼馴染に父親が酒癖が悪く、飲むと直ぐに酒乱になる家族があった。その父親は御婆さんから可愛がられて育ったと聞く。弁が経ち優秀な方だったと思うし、叔父から聞く何人かの子供たちは、会社で出世して文武両道に秀でていたと言う。しかし、私の同級生は心優しい男の子だったが、中学校でぐれてしまい、その後に何処に行ったかも分からなかった。とうに忘れていた時、彼の訃報を聞いた。葬式は田舎で済ませた。40歳そこそこで飲みすぎから体を壊して早死にをした。年老いた母親から事の次第を聞いた。タクシーの運転手をしていたという。同居の女性はいたようだが、子どもや家族は居なかったようだ。まともな人生は送れなかったのだろうと思う。私には何年たとうが、親しい子どもの頃のままの彼だったが、他の同級生たちは彼を良くは話してなかった。葬式の席で彼の悪口を話し、せせら笑う彼等に違和感を覚えた。子は親を選べない、そして親も子を選べない。「宿命」と言う。
隣家の子ども達を特に2番目の男の子を見ていると、その言葉が重たく響く。最近聞いた話では、若い母親のお腹には子どもがいるという。4人目の子になる。最近親しく見える同居人が父親だろうか。子どもを堕す知恵があれば、このような生活は送らないだろう。人にはそれぞれの人生がある。神様はよくぞシェークスピアのような劇画を描く。神様の悪戯に思える。

2020年6月17日水曜日

神田で見た天の川

天の川を見なくなって久しい。
天の川は、雲一つない漆黒の夜空に星屑が川となって流れるように横たわる。
今の街に住むようになって随分となるが、時折に風の強い夜に見ることがあったが、今では年に1度もない。この地は那須高原の一角の街で自然は豊かだが、生活が変わったのだろう。これから先、台風一過か秋から冬の季節の変わり目でないと見ることもないと思う。
昔、今では20年程前になるが、弘前で満天の星を見たことがある。本社企画のスタッ4、5人が弘前にある私達の出向先を訪れ、仕事が退けた後に一緒に鍛冶町に飲みにでかけた。私達はホテル開発会社のプロパーで、ホテル開設準備のために出向していた。津軽らしい飲み処を梯子した後に弘前駅から弘前城までの大通りを歩いた。その時夜空に天の川が広がっていた。天の川それは壮大な宇宙に存在する星の群生に思える。今では夜間に外出することもなく、また漆黒の空も壮大な天の川も見ることはなくなった。
 
神田で見た天の川は、いろいろな思い出が詰まっている。
あれは大学に入ったばかりの頃だと思う。学生生活にも慣れた6月頃で明治大学軟式テニス同好会の新入生歓迎会だ。
当初、体育会系の軟式テニス部に入ろうと思っていたが、ある人のアドバイスで思いとどまった。それで準体育会系の同好会にした。どうしてその方に出会ったかは思い出せない。生田のテニス部のコートを見ていて出会ったのだろうか。その方は後で知ったが、同好会の副会長だった。当時テレビで人気のあった柔道一直線の森田健作に似たナイスガイだった。テニスの力量はそれ程ではなく、団体戦のメンバーではなかったが、面倒見がよく本当に好い人だった。
私達の年代は当たり年と言えるのだろう80名ほどの新入部員となり、その夏の山中湖の合宿は150名ほどになった。短大学部の可愛らしい女性も多く男性は各県のチャンピオンが幾人かいて、また関東大会で8本や16本に残った者もいた。トーナメントで決勝まで勝ち残ったチーム数を何本と呼ぶ。それは知らずとなく覚えた。私は高校時代は県大会の実績はなかった。中学高校と一途に練習したことから学内では一番手で過ごし、それなりの自信があった。新入生には大学に入ってから始めた者も多く、私はテニスの上位者としてそれなりに過ごした。東京6大学の東大を除く5大学の同好会があつまり五連という組織があった。春秋の大会があり3年生の時に団体戦7組のメンバーにもなった。新人戦の個人では、8本程度には残れていた。
同好会では毎年新入生歓迎会を神田の料亭で行っていた。
学生向けなので、高級な料亭ではなかったけれども、先輩からその話を聞いて楽しみにしていた。会費はあったかどうかはもう覚えていない。
自分は下戸なので、この時はあまり飲まなかったように思う。
程々に飲めればよいのだが、飲みすぎた時はいつも吐いて酩酊した。その時は皆で揃って楽しく神田の街を御茶ノ水駅まで歩いた。入部して2カ月も過ぎていたので、先輩の人柄等も知っていた。噂で誰それが飲み癖が悪いとかそんな話を聞いていた。
やはり、案の定その噂通りで何人かの者が、つかまってグダグダとお説教を聞いていた。正座をさせらる姿は今でも懐かしいシーンとして思い出される。そんなことは、そのあとの飲み会では幾度も見かけた。仲間には一浪や二浪の者もいたが、同好会では年齢は関係なく学年の先輩後輩で接しなければならない。学部もいろいろで自分は農学部の農芸化学科だった。明治は商学部が有名でそちらの学部の者は、確りとしていた。他には有名な都立高校からの者もいて先輩たちは、そんな話を噂しあっていた。
仲間には人気者が居て、彼は「旗坊」と呼ばれていた。同好会には明治大学の紫紺の団旗があった。畳2枚ほどの大きさで大切にされていた。合宿の間中をテニスコートにたてるので、誰かがそれを持ってゆくことになる。合宿所から、テニスコートまで二列の隊列を組んで走る。およそ1kmも走るのだが、彼が先頭を走り、いつも団旗を持っていてそんなあだ名がついた。彼は一浪しており確り者だった。
私の周囲は一浪、二浪の強者が揃っており、田舎者のすべてに甘い性格の私は子ども然だった。大人しくしており、皆の後ろを付いて歩いた。
それでもテニスが好きで、毎日のように授業が終わると明大前の和泉校舎に通った。
テニスコートが6面あるが、半分を硬式テニス同好会が使っていた。
学割で通学定期を購入し生田校舎から来る者と同行した。
小田急線の生田から、下北沢で井の頭線に乗り換え、吉祥寺行きの3つ目だったろうか。
テニスのペアは自分たちの申請もあったが、先輩のペアのいない者に上手い者が宛がわれた。私は神奈川県のトップクラスの者と組んでいたが、その後には幾人かと変わった。私の場合ペアを幹部が決めてくれた。それぞれに強い後衛で真面目なだけが取り柄の自分をリードしてくれた。2年の時には団体戦のメンバーになった。
群馬のチャンピオンが仲間にいたが、4年生の伝説の人とペアを組まされた。テニスのペアと試合といろいろと思い出は尽きない。
 
9時も半ばを過ぎた頃だろうか、歓迎会もお開きとなる。最後は、畳の宴席に二重三重と円陣を組み、その中央に会長が出てエールと一本締めを行う。フレーッ!フレーッ!明治が繰り返される。厳粛な締めの時間。良く通ったあの声は、今でも蘇る。
料亭を出ると、そんな者達と並んで神田から御茶ノ水駅に向かって緩い坂道を歩いた。
まだまだ知らない世界に入ったばかりで期待に胸を膨らませ夢をいだいて新しい仲間と。
それぞれに賑やかに隣の者と話しながら楽しく歩いた。
天空を見上げると雲一つない夜空に天の川が壮大に広がっていた。久々に見た天の川、周囲の建物と広がった星屑のきらめきが、似合わなかった。
自分は「東京にもこんな空があるんだ。」と叫んだ。
それを聞いて仲間達に笑いが起こった。一瞬それからの楽しい時間を予感したように思う。
同好会の時間は、試合もその後の付き合いも膨大な時間が流れた。
今では40年の月日が過ぎた。
たった4年間の大学生活だったが思い出は尽きない。
 
 

2020年6月14日日曜日

艶話

渡部建の話題で賑わっている。
発端は相も変わらず「文春砲」のスキャンダル報道によるが、呆れた時代になったと思わずにはいられない。巷にはこんなニュースが溢れている。
ずいぶん昔に有名な芸能人が「不倫は文化だ。」と宣ったことがある。
ハンサムで賢く本人は得意だろうが、褒められた人間ではない。 
私の聞く戦前の昭和に「夜這い」がある。
若衆が、意中の女性の夜の床に忍び込み、ことに及ぶ。
男女ともそんな駆け引きがあったのだろう。
そんな話を聞いたこともあり、夜這いの話はエロ小説にもよく登場した。
私の勤めた那須のホテルでは、男女の話は日常茶飯事だったように思う。
一世を風靡した時代のカリスマ箭内源典は、大らかだった。
彼は鬼の源典と異名をとっていた。
見るからに偉丈夫で厳つい顔は近寄り難くこわかったが、下の者にはその場で叱ることはなかった。八重洲に本社があり、時折に那須事業所に来られた。その都度に社員教育の訓話があったが、事業所では、一大イベントだった。
源典は訓話が終わり帰り際につい居眠りをしてしまった社員の手を取り「忙しく疲れているのに有難う。」と労った。彼にはそれが出来た。
さらさらと音を立てて流れる浅瀬の自分には、深く淀んで流れる箭内源典は及びもつかない人だった。伊良湖ビューホテルは日本の旅行業社が選ぶ日本一の施設として数年間選ばれ続けた。後に有名となる鴨川グランドホテルやリステル、加賀百万石なども競って視察に訪れた。彼は那須温泉の小松屋石雲荘の旦那で、白河市内に芸妓を囲い悠々自適の日をすごしていた。40代後半に、レストランシアターのリゾートホテルを那須高原の旋風が丘に立て、世間をあっと言わせたのが彼になる。
そして、伊良湖ビューホテルの大成功と続く。
スタッフは、高卒の女性を採用し同時に大卒の男子従業員を入れた。当時としては何もかもが画期的だった。彼ら大卒の人達が、その後のホテルの躍進を担っていた。
先輩から聞いた話だが、石雲荘では若い女子従業員たちが大浴場に入っていると箭内は「ドーレ大きくなったかな。」なんて言いながら入ってきた。そして、ひとりひとりと話をし賑やかだった言います。男女のことは何でも知っている大らかな人でした。
不倫やセクハラなどと波風を立てない男女のことは何でもない当たり前の時代です。 
ホテルでは、男女の艶話はいつでもありました。
社長の縁戚で支配人の者が若い女子社員と客室で過ごしたことを聞きました。
客室のベットを片しているのを早朝出社したマネージャーに目撃され、照れて謝っていたそうです。そんな話題が私達の間を流れました。また、彼女もそのことを寮の仲間に得意になって吹聴していたようです。
ハンサムで女性に人気のあった総務の支配人も若い頃にそんなことがあり、古くからの客室係のパート達も笑って話していました。当時は、女子従業員との艶話はよくあったのでしょう。
旅館業は、人の接客で成り立ちます。
職業柄なのかこのような男女のことは、大目に見られていました。
左遷や処罰のことは聞いたことはありません。
おおらかとは言いながら、それで箔が付くわけではないのですが、ただ大目に見られていたということでしょうか。 
いつから文春砲なるこんなニュースが市民権を得たのだろうか。
どうでもいいようなことが不倫不倫で賑わう。
決して褒められた話ではないが、そんなことでテレビCMから外され世間のバッシングを受けることになる。
私には、それを見る世間が一億総ヒステリー症候群に思える。
そちらの方が余程に危うく見えるのだが。
そんなことに血眼にならずに、もっと大切なことが在るだろうと思う。
毎日尖閣諸島に領海侵犯を行い既成事実化している中国の恐ろしさが見えないのだろうか。
これは男の自覚による。
女性の目を気にしすぎる軟弱な男が増え、家を国家を守る気概が失せた民族になり果てたように思う。
子を戦争から守るのは、女性の本能だろう。
しかし、同じように子ども家族の為に戦い敵を殺すのは男の本能。
家族を守るのは物言わぬ男の器量だと思う。
不倫の一つや二つは、当たり前だと思うのだが。
 
 
 

ある後継者の悲しみ

会津若松には、民芸品に会津木綿がある。
私の知る会津木綿は、原山織物工場の商品である。明治時代の創業で当時は織元は30数社ほどあったが、現存するひとつである。そして、未だに当時の豊田自動織機を使っている。豊田自動織機は、子どもの頃に豊田佐吉翁の偉業として教えられた。トヨタ自動車の前身の会社だが、機織りの女工に交じり悪戦苦闘して発明した話を鮮明に覚えている。
古代の被覆は麻になるけれども、私は麻の歴史を学んだことがある。
麻は、食料として、繊維として、縄文時代には優れた植物として重宝されていた。
数カ月という短期間で3メートルにも成長する。
繊維は、強靭な麻縄となり、細かな繊維を績むことで麻布を織ることができる。古代では、天皇家に汚れを祓う具として伝わっていた。
伊勢神宮の神宮御札や新嘗祭には生娘の織る麻布を纏い式を執り行う。
しかし、木綿が1500年代に日本に伝わり、目の粗い麻に代わるものとして普及していった。麻(苧麻)の布は、木綿の10倍の手間暇がかかると言われます。更に機能性として保温性や肌触りは、木綿にはかないません。競って木綿を栽培していました。そして、その木綿を染める藍も普及しました。 
江戸時代には、換金作物として農村に普及し、度々木綿を栽培してはならぬの沙汰が幕府から出ています。作付け禁止令ですが、江戸幕府は石高制を採用して、米主体の経済政策を基本としていました。最初の頃は畑に作付けしていたのですが、田にまで作付けが広まったからです。
会津の木綿布は400年の歴史と謳われている。
会津藩では、蒲生氏郷が木綿栽培を普及させ木綿布の機織りを奨励しています。次いで伊予松山から国替えとなった加藤嘉明公が技術を伝え、更に保科正之公の推奨を受けて、さらに発展したと言います。
原山織物工場は、明治32年に市内に創業をしています。
彼で6代目。
他人の飯を食べに外に働きに出たけれども、じき家業を継ぐために実家に戻りました。伝統的な機織り業という家業は、職人としてと経営者としてと2つの道を歩むことになります。
彼の温厚さは年老いた優しそうな御母堂を見ていると理解できます。
幾人かの姉妹の後に恵まれた男の子だったのかと思います。唯一の後継者として本当に大切に可愛がられて育ったのでしょう。 
私が知った頃は、市内では一番の老舗であり反物だけでなく、いく種類もの雑貨も作っていました。
そして、彼が中心となり段取りしていました。
しかし、東日本大震災で一変しました。
福島第一原発の事故により会津への観光客で持っていた物産は、売上が皆無となりました。
豊田式自動織機で作る木綿布は、現代の木綿布業界では、お土産的な要素でしか通用しなかったからです。優れた品質ではなく昔からの風合いを持つ趣味の民藝品の木綿としての価値でした。
その時の彼の苦労は、並大抵のものでは無かったと思います。
女兄弟の末っ子の男の子として育ち、お姉さま達には頭が上がらなかったのでしょう。
注文の件で電話をすると電話口のお姉さんは簡単なことでもすぐに彼に電話を回してしまいます。
その度に彼を呼ぶ声が聞こえてきます。
その声を聞く私には、彼が気の毒でなりませんでした。
ある時仕事上の依頼を彼にした時にいつもの覇気が見られませんでした。
電話口の彼は、明らかに疲れている印象がありました。
それから数日して工場に伺うことがあり、電話で彼の死を知りました。
公別式は数日前に済んでいました。 暗い客間の奥に仏壇が設えてあり、香典返しの白い紙袋が奥に並んでいました。仏壇に詣でて、ご焼香をさせて貰いました。
工場には、藍甕がありました。
ひんやりとした薄暗い湿気った土間に8個の甕が埋めてあり、そこで藍染めをしていたようです。
他の糸は化学染料で染めていました。
訪ねるといつも竹竿に染糸が干してありました。
その糸は藍染であり茜染でした。
事務所の奥にある工場からは、いつもガッチャンガッチャンという音が聞こえてきました。
彼の性格でしょう。工場内は奇麗に整理整頓されて、豊田式自動織機が並んでいました。
彼の死後は、後継者はなく工場を閉鎖すると聞きました。
数年たち、ある服飾デザイナーの方が、工場を継承すると聞きました。縁戚の方が工場を引き継ぎそのデザイナーの方と経営にあたると言います。
現代式経営は、従来の倍近くに価格を引き上げましたが、それも現代的なのかと思います。
それに似合う価値ある反物に変わっていました。
彼が一人で担った後継者の苦しみを思うと悲しい。
誰も救えなかった苦しみになる。
古い格式の家の伝統を継承しようとし戦い敗れて遂に倒れてしまった。
彼のことを私は忘れない。

2020年6月11日木曜日

満天ハウス

津軽には、平成7年の春から7年間いた。
私が、44歳の時で日本ビューホテル事業(株)からの出向になる。
津軽を訪れたのは初めてだった。
津軽地方は、青森県西部の地域で、江戸時代に津軽氏が納めた津軽藩、黒石藩の支配した領域という。
出向先は、中津軽郡相馬村にある第3セクター(財)星と森のロマントピア相馬になる。
今では先に行われた市町村合併から、弘前市になる。思いもかけずに随分と遠くに来たものだと思う。
那須から東京へは150kmだが、みちのくの弘前市は福島市、仙台市、盛岡市を経て540kmの距離となる。車では、東北高速道路を使い休みながらだが7時間、ほぼ1日がかりとなる。
津軽でのことは何から語ろうか、語ると尽きない。
そして、今では24年も経過し随分と昔になった。思い出せないことも多くなり、時間軸の前後がわからなくなっている。 
満天ハウスは、弘前市では誰しもが知る相馬村のテーマパーク、ロマントピアのコテージの名前だ。
ロマントピアというと誰しもが口を揃えて、満天ハウスに泊まりバーベキューをした話になる。
津軽では、バーベキューは誰しもが親しむ食娯楽と言える。
決まって、春先や秋の採り入れ時に林檎畑でバーベキューを楽しんでいる。
チョットした店ではバーベキューの漬けダレを売っていた。
漬けダレは、どこどこの店のが美味しいとの話となる。
満天ハウスには幾つかのタイプがあり、一番大きなものが星型の5角形の屋根で天窓もつき総勢10人程度が泊まれるようになっていた。小さなタイプは、斜面に造られていて、2階式もあり4人泊まりで可愛らしい作りだった。
全部で12棟あり、それぞれ12星座の名前が付いていた。 
テーマパークの星と森のロマントピア相馬は、県や国の支援事業と絡ませて作られており、過疎村特有の仕組みがあり、村負担の予算も最終的には、国の予算事業が当てはまる。
補助事業の予算では、2割が事務費として割り当てられている。
予算消化が求められるために、パソコンを筆頭に高額な文具に湯水のごとく予算を使っている印象を受けた。
民間企業では、事務費を湯水のように使う、考えられない経験になる。
第3セクターは、箱型予算と言われる。
事業計画予算は、当初に施設の建設等に割り当てられるが、運営にかかる継続予算は少なく、頭でっかちの竜頭蛇尾となる。
運営のための継続的費用が必要なのだが、予算化ではその考え方が無いように思えた。
立派な箱を造っても、ある期間が過ぎると運営費用が不足し身動きが取れなくなる。
何億ともいう設備には膨大なメンテナンス費用が掛かる。しかし、施設維持の費用が捻出できず行政のお荷物になる。
相馬村は、県の機関と入魂(じっこん)で大規模プロジェクト支援をいくつも受けていた。
それは、村の行政職員に優秀な人たちが多かったからと言える。
このわずか住民4千人たらずの村に国会議員が、二人もいることは考えられなかった。
私達が赴任した翌年に村の村長と議長とが二人揃って天皇陛下の園遊会に全国市町村議会議長と村長の肩書で招待を受けていた。 
 津軽の相馬村は、一種独特の村と言える。 
星と森のロマントピアの思い出のひとつは、満天ハウスになる。
私達が赴任したのが、3月30日。
そして、4月1日付で村の辞令をもらった。
(財)星と森のロマントピアそうまの支配人、部長、調理長の命である。
私は、それからの7年間をこの地で過ごした。
財団は村の経済課の担当となる。
村の職員が、管理部長として財団に赴任しており、行政とのパイプ役を担当していた。
彼は優秀な人で、行政がらみのことでは随分と助けられた。
その点、行政と摩擦を起こさずに運営できたのは、彼の功績による。
経済課長が優秀な方で太っ腹というのだろう、何もかも心得ていた。
ひとつは、職員採用であるがすべて我々に任せてくれた。
彼の言うのには我々に任せてくれることで縁故採用を遣らずに済んだと喜んでいた。
数十人の職員採用であったが、倍の応募があり管理部長と我々3名とで選にあたった。
その意味では、我々の思う通りの人選ができた。 
7月21日が、施設オープン日となった。
それまでの3カ月ほどが、施設の準備と採用スタッフの教育研修期間となる。
私のいた那須事業所は20数億円の売上を持つリゾートホテルだったが、その経験から準備室の任を担うことが出来た。接客や料飲関係スタッフの教育、調度品の購入、調理関係や取引業者の選定と見積と毎日が戦場だった。
それでもそれだけの経験と実績を持っていたからだろう、熟(こな)すことができた。 
スタッフの教育は私の担当だった。
全員を3班に分け、2泊3日で研修を組みその中に楽しみも盛り込んだ。
御岩木山の登山、ホテルと満天ハウスのコテージ宿泊体験、プールなどの利用体験だった。
私にはこれらの研修が思い出深いものとなった。
御岩木さんは津軽の霊峰標高625m。
津軽平野に美しく立つ。
初めての御岩木山の登山は都合3回登ることになる。御岩木山のスキー場のリフトを使い残りは歩き昇りつめた。
石ころだらけの頂上の見晴らしは、素晴らしかった。
風が強かったが、天候に恵まれて四方360度のパノラマを見ることができた。
御岩木山は、3方から登ることができ、裾野からのその道も見ることができた。
スタッフの中には、一度も登ったことがない者もいた。
岩山だったが、誰も怪我をせずに済んだ。
白鳥座のホテルでは、調理のつくる1泊2食の朝夕の献立料理を堪能した。
研修でない者たちが、慣れない手つきで接客をした。
満天ハウスのコテージでは、台所で調理しバーベキューとなった。
私達はその頃は村にあるソーラーハウスの村営住宅に住んでおり、私が一坪農園で育てた大根を持参した。 
大根サラダが瑞々しく野菜作りはこんなに簡単なのかと思った。
誰それがどうしたかとかの細かなことは思い出せないが、賑やかな時間を過ごしたと思う。
スタッフの内で村出身のものは半分ほどで、残りは弘前市内からだった。
みな気持ちの良い若者達で指導や扱いに困惑した記憶はない。 
いつも思うのだが、この地区は美男美女の多いところだ。
「相馬男に目屋女」という言葉をよく聞いた。相馬男は、もちろん相馬村の男のことだが、目屋は隣村の村になる。
世界自然遺産白神山地の入口の村になる。
幾度か白神山地の尾根を車で走ったが、緑と渓谷の鬱蒼とする尾根が日本海に続いていた。
スタッフの若い女性たちはみな揃って小顔で目元涼しく美人だった。
林檎畑で見かける女性たちは、皆日焼けしないように鍔広の帽子に頬っかぶりをして目だけをだしていた。
ときおり見かける素顔の彼女たちは、関東では見かけない美人だった。
津軽凧絵があるが、同じ顔立ちに見えた。
ときおり、長谷川和夫ばりのハンサムな男性を見かけることがあった。
今でもテレビで映る顔から津軽人を言い当てることができる。 
津軽でのことは、ひとも、津軽弁も、過ごした時間も、何もかもが芋づる式に、この満天ハウスとともに思い出される。
 
 
 

2020年6月2日火曜日

鉛味の人事

 弘前は、40代の前半に初めて訪れた街だ。
それまで名前を聞いてはいたが、およそ無縁の地名だった。
中学1年の時に担任の先生が弘前を「ひろさき」と読むと教えてくれた。
彼女は、山形の東玉置郡の出身だった。
着任して2年目の色白の若い先生だった。
知らない私達に驚いていたが、関東の中学生には弘前城の桜もねぷたも知らなかった。
那須事業所では、営業会議で弘前に事業部の新規事業があると聞いた。そして、派遣スタッフを募っているとも。幾度もその話を聞いていたので、中々スタッフが決まらないようだった。私は、那須にある老舗ホテルの予約とフロントの課長だった。
 
秋に事業所のGMが入れ替わった。
その年の暮れの人事考課はB査定だった。
私は、その時には営業部の支配人になっていたが、新たにGMが来て初めての査定だった。
私は中途採用だったことから、同年齢の者よりも職制は数段階下からのスタートだった。
負けず嫌いの私は、追いつけ追い越せの気持ちがあり、仕事に一生懸命だった。
そのようなことから常にAかS査定を取り、その頃にはやっと等級も追いついた感があった。
しかし、今回のGMは、その年度の事業所の成績が悪かったことから、支配人クラスの者に一律Bの査定を下した。その年度は、ホテル業界は厳しい年でどちらの営業所も悪かった。
那須事業所の実績は、目標達成率95%程だったが、他事業所は、80%にも届かない年だった。
程ほどの実績だったのは、私の取組んでいた企画の成果が出たことによる。
「ヤッター!」の気持ちから自己評価は高かった。
私は今回の人事考課で次長に昇級できると思っていた。
それが、来たばかりで営業実績の中身も知らずにそんな「一律」の理由でB評価を下す。
私には彼らしいと思えたが、憤怒やる方なかった。
それで、那須担当の役員宛に上申書を書いた。役員は、立志伝中のような方で、炭焼きをやりながら、定時制高校を出てホテルに勤めた人だった。ホテル躍進の伝説の人だった。
上申書の内容は、今回の評価が不当だというものだ。
私は、当時那須に誰それありと言わる程の成果を出していた。他のスタッフからもオベンチャラを言われていた。私は、逆上せていた。
後で聞くと本社の担当役員が、上申書をひらひらと持ち歩き、私の引き受け先を探していたという。
評価の不服を書くようなことは、ご法度の世界。はみ出し者は、許されない。
そんなものなのだろう。
その結果が、弘前の出向だった。
そこはホテル事業部と言い数年契約で人材をプロパーとして派遣し、事業に当たる。
ホテルコンサル業でもあり、新規ホテルの開発会社になる。
上申書を出し暫くしてGMから、話があった。
人のいない煙草臭いドライバー室だった。
上申書の結果が、来たなと思い身構えた。
内容は弘前への出向だった。
彼は、弘前への3年間の出向とその契約が満了すると事業部の籍は無くなること。
那須に戻る籍はないこと。その後は辞めるなり何処に行くなり好きにせよという。
これが、彼の言葉だった。
本社の意向を言わされているように思えた。
上司に逆らうサラリーマンの宿命なのだろう。
このようなことを伝えるGMがいる。
私は彼の下で働かなくて済むことは、幸いだと思った。
彼の仲間内の評価は、聞いていたし、私自身も良く知っていた。
腹がでてだらしなく太り釦が出来ず、およそ背広姿が似合わない。
出世コースとは関係なく長年総務にいて、時間になると定刻で湯本の居酒屋に飲みに行っていた。
それが毎日だった。
仲間内から仙人と言われていた。
私を中途採用した時の総務の係長だった。子飼いの大卒は、皆順番でGMになっていた。
私には老舗ホテルの奢りに思えた。
辞令には逆らえない。
しかし、この時点では、まだ安易に考えていた。
もともと出向を望んでいたので那須を離れることは、これも良しだった。
本当なら、成田か少し日の当たる事業所だったが。
全国区の出向組は、GMにまで昇進できる。
地元勤務から離れらなない者は、部長職までだった。
 
3月末に弘前の赴任地に顔見世に行くことになるが、その前に事業部で出向者の顔合わせがあった。
初めて出向の3人が揃った。
辞令は、調理長、営業部長、支配人の3名になる。
私は、営業部長だった。
支配人は、私よりも5歳下で職制も下で係長だった。
私はその後持ち級からすぐに次長に昇級した。
後になり彼の話を聞くと仕事をしないことで有名な営業マンだった。
彼は、当時有名なGMの事業所にいた。
支配人での赴任は、決まっていたという。
他事業所に出る者に花を持たせる。
GMとしての配慮だった。
私のように「帰る籍がない、野垂れ死にせよ。」とは異なる。
彼のGMにはそれが言える。
彼を長年見てきた私には、彼らしいと思った。
それだけで部下を持つ資格はない。
 
赴任地では、接客の飲食部門、営業、フロント予約とホテルの殆どを経験している自分と営業だけの彼とでは、経験が違う。
ホテル準備の会議では自分中心で物事が進んだ。
企画書は、すべて自分が書いた。
村の人達は、私達を上から来た人と言っていたが、その活動に目を見張っていたと思う。
赴任地での私は水を得た魚のようだった。
 
しかし、この人事が通るのが会社組織と言える。
この人事内容を知って正直面食らった。
ショックだった。
私は下戸だったが強かに飲み二日酔いをした。
事業部の者は、サラリーマンの厳しい掟の中で生きてきた人達だった。
いろいろな事業所から、はみ出して出向して来ていた。
その強かな目で私を見ていたのだろうと思う。
素知らぬ顔をして。
この人事で、彼は腐らずに遣るだろうか。
支配人とうまくやれるだろうか、と。
サラリーマンの悲哀は、人事にある。
出向の人事が出てすぐに辞める人は多かった。
事業部の専務は、社員達から能無しの烙印を押されていた。
ほんとうに驚くほどに何もしない人で、社長のイエスマンだった。
それが、彼の優れた長所と言えるのだろう。
才覚のあるものは、才で生きる。
才のないものは、上司に諂い生きる道を選ぶ。
しかし、ホテルが負債から倒産し民事再生になった時、新しい受皿人事として彼は本社社長となった。
誰しもが驚いた。
主流だった名だたる人達は、倒産の責任から組織に残れなかったが、亜流となる事業部からの彼が、適任だった。
民事再生に関わった銀行団には、社長は操り人形だから、誰でも良かったのだろう。
これ以降、ホテルの質は格段に落ちた。
以前は、社員の目はお客様に向いていたが、これ以来上席に挙げる見た目のデータ、数字だけに拘った。トップは銀行団だけを見ていた。
いく度も滞在した旗艦ホテルの接客は、目を見張るほどに酷く変わっていった。
上も下も心が壊れたのだろう。
これが人事だ。
 
鉛味という言葉は、初めて使った。
私は、この人事でそれまでの自分が壊れたことを後になり知った。
那須の事業所でマネージャーの頃に私の仕事振りを見たお客様から、「社長の息子だ。」と言われたことがある。「あんなに一生懸命に働く社員はいない。」と。
その言葉は、私の勲章だった。
その年、会社の「ヒーロー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。
しかしこの人事で会社への忠誠心は、失せた。
人事は、その時の組織にいる者が為すものだ。
今でもその人事に関わった役員の顔を忘れたことはない。
私の心の底に怨恨が芽生えていた。
私は、当時まだそれを知らなかった。
 
弘前では好きに振舞った。
仕事では、上司の彼は追認するだけだった。
キャリアが違う。
これが私の唯一の鬱憤晴らしになった。
しかし、私はその人事と仕事のストレスから劇太となり80kgの体重となった。
人はこうして壊れてゆくのかと思うほどに眠れない夜を過ごした。
鬱にこそならなかったのは、私には、逃げ道があったからだろう。
住まいの近くにはゴルフの練習所があり、毎朝1時間ほど打ちっぱなしを過ごした後に出社した。施設には、プールとテニスコートがあり毎日のように数キロを泳ぎ、冬にはスキー場でおよそ1Kmのゲレンデを2時間ほど滑った。
身体を動かすには事欠かなかった。
人には単身赴任を満喫していたように見えたと思う。
それでも根っからの仕事人間で、仕事は常に一生懸命だった。
現地採用のスタッフたちもそのことを知っていたのだろう。
何もしない飾り物然の彼が、いつも事務所で新聞を見ている姿が思い出される。
3年で他に出向していった。
表立って対立することはなかったが、生涯気持ちが通うことはないと思う。
人事の悪戯。
それが彼と私との縁だ。
人事は、良い者も悪い者も当事者には気持ちが晴れるものではない。
その後も59歳でホテルを去るまで人事には、苦い思い出が付きまとう。
もうひとつか二つは鉛味の人事が書けそうだ。
当事者には鉛味する人事は、一度で沢山だと思う。